電波戦隊スイハンジャー#145 統率者「M」
第八章 Overjoyed、榎本葉子の旋律
統率者「M」
諸君、静粛に。
今からクラウス・フォン・ミュラーがベートーベンの第七番を振るのだよ。
この宝石のような40分間を一緒に愉しもうではないか。
はい「マスター」。
白タイを付けた燕尾服のミュラーがゆったり両腕を上下、そして左右に振ると
ぱあん!と最初の一音で完璧なオーケストラの調和で聴衆を圧倒させ心を鷲掴みにする。
見事だよ、クラウス!
ベートーベンを振らせたら君の右に出る者はまず居ない。
オーボエによるソロの後で天上まで駆け上げる勢いの16部音階。
次に、愉快なフルートのソロが私を「楽園での舞踏」に連れて行ってくれる…
寸分の違いも無いリズムの刻み方は、さながら夜の神が星座の位置に惑星を配置しているようではないか。
ふ、無神論者の私が「神」とはね…
クラウスよ、私も君が楽団を操るように「新世界」を統率してみせるよ。
そして第二楽章…天上から一気に地上の荒野まで突き落とし、彷徨させる重苦しい曲調なのだが、
なぜかこの第二楽章が聴衆受けが一番いいのだよ…
2013年の9月初め、イギリスの音楽の祭典、通称「BBCプロムス」。
ロイヤルアルバートホールでベートベンの交響曲第7番の指揮を終えたクラウス・フォン・ミュラーは、この夜1番の拍手喝采を指揮台で浴びていた。
最前列で聴いている常連客、「プロマー」と呼ばれる聴衆は、拍手代わりに足踏みで指揮者と楽団に賛辞を送るのだ。
「…さて、我々の将来について話そうじゃないか」ボックス席で「マスター」は蕩けるようなバリトンボイスで呟いた。
あ、今からお喋りOKなのだな、と「プラトンの嘆き」の幹部たちはようやく緊張を解いた。
「70億人にまで膨れ上がった人類を、どうやって効率的に減らすか?でしょう。
手っ取り早いのは核ですが、それでは我々の居住可能な地域が狭められてしまいますわ」
年若いが理知的な女性の声がマスターのすぐ隣から聞こえた。
「そうだね、『プライム』、一番大事な事は我々が選別した人類だけが生き残ることだ」
しかし、と甲高い若い男の声がマスターの左後方からした。
「祖国では今この時も豚の子の様に人間が生まれ続けるのです。さっさと柳博士に持たせたウイルス爆弾を、遠隔操作で起動させればいいだけのこと」
「ほう『タオ』、君はその豚と称するお客から代金を貰っていまの財を築いたのだろう?」
タオ、と呼ばれる男は短い間口をつぐみ「私は祖国に生まれた事を誇りと思った事は一度もありませんし、
顧客なんて『紙幣』と思ってなければビジネスを成功させられませんよ」
「君の清々しいほどの非情なビジネス論には私も同意だよ…
しかし今あのウイルスを広げれば、私達だって遠くない先に感染してしまうではないか?
だからシェルターが完成している頃に日時設定したのだ。…完成はまだかね?」
「は、急がせております」とタオは畏まって言った。
「マスター、次の曲が始まってしまいましたわよ。お喋りしてていいの?」
とプライムがからかうように言った。
「私はクラウスの指揮する音楽以外、なんの興味もない…ここのボックス席で彼の指揮を眺めていられただけで僥倖だよ。
アジア人の私達にこの席を都合するのは随分骨が折れたのではないか?『サー』」
「私の社会的立場を存分に利用しましたが、マスターのために使えて光栄ですよ」
とサーと呼ばれる中年男は、ボックス席の暗がりの中できれいに並んだ歯を見せて笑った。
「マエストロミュラーだけでなく、この光景もマスターに見てもらいたかったのです。
ご覧ください…仕事帰りそのままの服装でやって来て拍手の代わりに足踏みをする聴衆。
品の無い労働者階級ども。大英帝国の現実は、一部の選ばれし者と大多数のならず者で成り立っているんです!」
とサーは階下の聴衆を蔑視して言った後、再びマスターに目を向けた。
「それでマスター、選ばれた高尚な人類を残して残りは20億人にまで粛清して支配するという計画なんですが…
人間は案外減らないものですよ」
なに簡単だよ、と席に座ったままマスターは右後ろのサーを振り返って、言った。
「人類を自発的に減らすのは簡単だ、まずは、絶望させればよいのだ」
プライムは幼い頃から聞かされてきたマスターの持論を聞き流して、
お気に入りの奏者が奏でるベートーベンのバイオリン協奏曲の音色に意識を集中させた…
音声に驚かない獅子のように
網にとらえらえない風のように
水に汚されない蓮のように
犀の角のようにただ独り歩め
(スッタニパーター第1、蛇の章3犀の角より)
金星、須弥山。
庭園に続くお花畑の間の小道を、ひとりの少年僧が歩いている。褐色の肌に150センチ位の小柄な体躯。
剃髪しているのが惜しいくらい秀麗な眉目をしている。
両手にはマスカットやマンゴーなどのフルーツと銀の水差しを載せたトレイを持っている。
んもう、まったくあのお方ったら…!
少年は息を整えて歩調を乱さずに歩いているが、内心は目指す主人の所へ一刻も駆けだしたく逸る気持ちを抑えているのだ。
少年の姿を見かけた天女や僧たちが仕事の手を止めて彼に向かって合掌した。
少年は彼らに目礼を返しつつも蓮池のほとりでひとり蓮華座で瞑想を続けている青年の傍のテーブルにトレイを置くと、
ふところからティンシャ(チベット仏教の法具)を取り出し、2つの小さなシンバルを糸で結んだ形をしたその鈴を繋ぐ糸の中央部分を指でつまんでちょうど目線の高さで吊り下げると、2つのシンバルを勢いよく叩きつけた。
ちーん、…と庭園全体に澄んだ音色が響き渡る。
同時に青年が、ゆっくりとまぶたを開けて瞑想から目覚めた。
褐色の肌にオレンジ色の法衣をまとい、腰まで伸びた長髪を無造作に二髷に束ねたこの青年こそ、
地球ではブッダと呼ばれているゴータマ・シッダールタ王子である。
「ブッダさま…地球時間でまる3日間、瞑想状態に入っておいででしたよっ!」
ブッダの弟子、アナンダは呆れきったため息をついてティンシャをふところにしまいながら言った。
ブッダの眼前の池中に浮かぶ蓮の蕾が一斉にぽん!と音を立てて開花する。
薄水色の繊細な色合いの蓮花に「美しいですねえ…」と言ってブッダは立ち上がり、池に向かって2、3歩歩んだところで急に目まいがし、蓮池の手入れをしていたマハーカッサパとアナンダに倒れそうな体を支えられる破目となった。
「3日間も飲まず食わずだったらそうなりますって」
「全くねえ、どうして入滅してもお腹が減るんだろうねえ」
空腹感と脱力感の中でブッダは苦笑した。
酵素とミネラルたっぷりの果物だけの軽食で一息ついたあと、ブッダは改めて蓮池じゅうに広がる花の薄水色をしばし堪能した。
「マハーカッサパよ、この花の名は何と言いますか?」
と傍らに控える無口な弟子に尋ねるとマハーカッサパは優し気な顔に笑みを浮かべて
「日本で作られた新種『オーバージョイド』です」とだけ答えた。
overjoyed、直訳すると大喜びする、とか狂喜するいう意味である。
「見てごらんなさい、この幽かな青色…まるで日本の秋の青空みたいじゃないですか…」
と言ったところでブッダはある重要な事項に気が付いた。
「アナンダよ、日本ではもう10月に入りましたね?」
「はい、神無月です。出雲大社では神々たちが続々と集まっている模様」
「八百万の神々たちがバカンスに入った、ということですね…」
ふっふっふ、とブッダが何か企んでいる笑い声を漏らした。
あの図々しい八百万の神たちが休んでいる間に、我々仏族が出しゃばらせていただきますよ…
「それはそうと」と傍らで師の瞑想を見守っていたマハーカッサパが珍しく自ら口を開いた。
「ブッダさまご瞑想中に、私はある音楽を聴きました。まるで孤独の荒野をさまよっているような…とても重苦しい旋律でした」
「不滅のアレグレット…ベートーベン交響曲第7番、第二楽章ですね。どこかで強力な力を持った者の思念を拾ったのでしょう」
ただ犀の角のように独り歩め、か…大昔私が言ったたとえ話のBGMにぴったりだな、とブッダは思ってくすり、と笑った。
「よろしいのでしょうか?その者を放っておいて」
心配顔の弟子二人を前に、ブッダは穏やかに言った。
「今は、いいのです。その者は救いを求めていないから」
後記
やっと敵組織「プラトンの嘆き」メンバー登場。会話だけだけど。
選民主義という悪を人間は息吸って吐くように行う。