嵯峨野の月#137 絶筆
最終章、檀林1
絶筆
その日のことを思い返せば
何かが起こるような不自然な空気があちこちに感じられたのだ。
明け方
市中の見回りを終えた検非違使の武官、賀茂志留辺は詰所に戻り報告を終えると「ご苦労、記録は代わりにやっておくから帰って休め」と先輩の武官に言われ、寄宿している阿保親王邸に戻ると今起きたばかりといった体で半裸に単衣を巻きつけた業平と廊下で出くわした。
「お前がこんなに早く帰ってくるなんて珍しいな」
「はい、記録を代行してくれるのも初めての事で何か我を早く帰したがっているような」
と何か引っ掛かる。という風に首を傾げる志留辺に、
「今日は喪に服す父上をお守りしろ、という事ではないか?今からしっかり仮眠を取れ」
という主の言葉に従い、自室に寝転んですぐに深い眠りに落ちた。
日の出
我が殿がつつがなく本日の大役果たせますように。
と昇ったばかりの朝日に向かって手を合わせる貴婦人は嵯峨帝の皇女、源潔姫。彼女は幼い頃源姓を下賜され、十九の時藤原良房に嫁いだ、皇族から初めて臣下の妻になった女性である。
結婚してから一女の明子(後の文徳帝女御、清和帝を生む)をもうけ、夫も自分を大切にしてくれる。今の暮らしに不満は無い筈なのだが。
「姫様に釣り合う男になってみせます」と夫が口にする度その過ぎた向上心が無理しなくていいのに、とも怖いとも思う。
祈っている間に不意に数珠の糸が切れて辺りに散らばる珠を見ながら、
「まあ、縁起の悪いこと…」
と不安を覚える潔姫だった。
早朝
ここ何年も病で床に付き、薬師からも「この夏を越せぬかと」と言われていた父、逸勢が身支度をして「人生一番の大恩人である上皇さまの葬儀に参列せずしてどうする」
と無理に出立してしまった。
途中でお倒れにならなければいいのだけれど…心配する娘の逸子は妙な胸騒ぎを覚えた。
承和九年七月十七日(842年8月26日)
嵯峨上皇の葬儀は遺言通り行われて長い一日が終わり日が暮れた頃、
夫を弔った皇太后橘嘉智子は連日の疲れが溜まり早めに床に付き、主が寝入ったのを確認した明鏡は、
離宮の周りの空気が変わった!
と長年の宮女の勘で気づいた。
「申します、謀反の疑いで伴健岑どの橘逸勢どの捕縛されたという事です」
と報告する貴命も困惑を隠せない。
「それはどういう事なのです?」
貴命が警護の武官から伝え聞いた話によると、
春宮付きの武官である帯刀舎人、伴健岑と橘逸勢が春宮恒貞親王を東国にさせる計画が露見し、二人とも捕縛されて厳しく詮議中とのこと。
「東国に脱出?謀反?逸勢さまがそんな事画策するだなんてありえない!」
「私もそう思います」
うなずいた貴命は「ですが、武官たちは『我々は太后さまと女御さまがたをお守りするように以外仰せつかっておりませんので』と言うだけで」
「そうでしょうね、彼の者らは本当に何も知らされていないのですから。貴命さま…昔の事ですがこの空気、伊予親王様の変事の時とよく似ていませんか?」
そう、あれは三十五年前謀反の疑いをかけられ伊予親王が身罷られた時もこのように誰にも何も知らせず、機を伺っていきなり標的を捕まえて事を起こし、邪魔な者全てを粛清する…
一部の力を持った者たちによる一方的な暴虐。
それをよりにもよって嵯峨上皇御葬儀の日に事を起こすだなんて!
晴れた日に急に降りかかる大粒の雹のように、変事は突然訪れる。
それは長年の安定の中に暮らしていた人びとを巻き込み、彼らの生活や人生そのものを回復不能なまでに破壊し、そしらぬ顔で去っていくのだ。
願わくば太后さまのお耳には何情報もお入れしたくない。
夫君を亡くされた二日後に従兄弟が捕縛だなんてこの仕打ちはあんまりだ。
そう思いながら今は深く眠る嘉智子の白い寝顔を見守る事しか出来ない明鏡たちであった。
さらに疑義の中に伴健岑、阿保親王に脱出計画を持ちかけ親王これを拒否。仔細を書いた密書を皇太后橘嘉智子に送り、嘉智子、この密書を信任していた藤原良房に見せてこれを大事と判断した良房、直ぐに仁明帝に報告し健岑と逸勢捕縛の勅を出した。
と事の仔細を読み上げた詮議役の参議左大弁、正躬王と右大弁、和気真綱によって、
「申せ!春宮さまを唆し、東国へ逃亡させる企てを起こしたのはそなたか!?阿保親王さまを加担させようとしたのもそなたか!?」
と詰問され、
罪状の仔細にさらに阿保親王と橘の太后さまの名前が加わっている事に…
これは全て謀られた。と健岑は思い、
「そのような事は知りませぬ」と抗弁すると杖で背中を叩かれた。
全く身に覚えのない事で糾弾され暴力を受ける健岑は
側に居るはずのもう一人の人物が居ないのを不審に思い、
「我は逸勢どのと謀った覚えはないし、阿保親王さまのお邸にも行った事もない。ここで共に詮議を受ける筈の逸勢どのは一体どこにおられるのか!?」
と縄打たれた体を揺すって問うと、
「…別室で同じく詮議を受けていなさる」
真綱はつとめて冷静に答えようするが、その声から微かに呻き声が漏れる。
それだけで、普段正義感が強く道理に合わない事を許さない右大弁どのが詮議自体を躊躇っている事に気付いた。
なれど、今の自分はここで抗う事しか出来ない。
「逸勢どのにお会いして潔白を晴らしたい」
と尚も言うと
「くどい」
ともう一人の詮議役、正躬王が骨に響かぬよう太腿を叩いた。
昔、人生で最も緊張した一日を送る貴人が気兼ねなく籠もろうと邸の中の特に奥まった一室に腰を落ち着け、自ら灯火に火を灯した時…
いま最も厳重に探させている人物が部屋の隅に畏っている事に仁明帝は驚きで全身を強張らせた。
「逸勢、どうしてここに?」
「何十年も通っている我はこのお部屋への目立たぬ経路も何処に誰が配置されているかも熟知しております…いけませんなあ正良さま、離れの警備を手薄にしては」
帝、ではなく諱の正良と呼ばれて物心ついたからどの親戚よりも自分を可愛がってくれた逸勢に対して僅かながらに躊躇いの気持ちが浮かんだ。が、
既に決めた事、出した勅なのだ。
「我が身は潔白、と直訴に来たのか?」
いえいえ、と帽子から白髪を覗かせて好々爺の顔した逸勢は、
「長く生きていると政変の臭いには敏感になりましてねえ。上皇様が身罷られたら必ず事が起こる。と本当は皆思ってましたよ。しかしまさかお父上を埋葬なさった直後に行うとは…
皇家はとうとう藤原と心中するお覚悟をなさったのですねえ」
青白い顔でぼそぼそと喋り、時折咳をする逸勢の目と気迫に押されながらも仁明帝は震える手で杯に酒を注ぎ「飲め」と相手に渡した。
微笑みながら優雅な仕草で杯を受け取り、逸勢は中身を飲み干し、
「これはこれは馳走になりました」と言って杯を返した。
「…そこまで勘付いていたなら何故今まで何もしなかった?」
「事の発端が発端ならどう足掻いても無駄。ならば最期にひとつだけお願いに上がったまでのこと」
「申してみよ」
「お母上である橘の太后さまに累が及ぶような真似だけはなにとぞ」
逸勢の自分のためでも家族のためでもないあまりにも無欲な最後の願いに仁明帝はいたく驚き、窮地にありながら既に覚悟を決めてしまっている相手に感銘すら覚えた。
「…当然だ。で、それだけか?」
「は、この逸勢安堵致しました。ありがたきしあわせ」
仁明帝は最後に自分が生まれる前から尽くしてくれた従兄弟伯父に一瞬済まなそうな眼差しを送った、が、すぐに表情を消して
「さらばだ逸勢」
と別離の言葉を贈った。
「は、正良さまもどうかお健やかに」
一礼した逸勢は音も立てずに戸を開けて廊下に滑り出て気配を感じて振り返り、壁を背に立ち止まった処で物陰から滑るように走り出て来た人影が前のめりにどん!と自分の上体にぶつかった。
鳩尾から腰にかけて細身の刀身が逸勢の体を貫き、切先が背後の柱に突き刺さる。
「震えてるな…人を刺すのは初めてか?」
帽子ごと自分の胸に頭を押し付ける相手の両顎を掴んで持ち上げるとそこにはう、う…と呻きながら中納言、藤原良房のかちかちと歯を鳴らして怯える顔があった。
飾太刀の豪奢な金銀の鞘を抜いて自分を刺した相手に対して逸勢は、「藤の冬嗣の息子よ」と哀れみを込めた目で語りかける。
「藤家から三代続いて皇后を出せずに焦ったか?
それとも逆らえない相手に唆されたか?
まあ今更どうでもいい。たかが中納言でしかないお前に朝廷の軍を動かせる訳がない。それが出来るのは」
「黙れ!」
良房が刀身をねじり上げると傷口からさらに血が迸り出て滴り落ち足元の床を濡らす。
「そうだ、上手いぞ!ただ刺すだけでは確実に殺せない」
苦悶ひとつ見せず恨み言すら言わず自分を刺した相手を褒めるこいつは一体何なのだ⁉︎
血を吐きながら笑う逸勢が良房にはただただ不気味でならなかった。
「全てを掴もうとする藤原よ。お前らこれから何をしようが我が身は預かり知らぬ、が…
政変で血を流すのは我の死で最後にしろ。解ったか?」
ああ、
自分は彼の者が望むことを全て叶えてしまっていたのだ。
と良房は逸勢がここに来た真意をこの時やっと理解した。
どうせ冤罪を訴えても無駄なら
縄打たれて拷問されて流罪にされる惨めな目に遭うよりも、
いま、ここで死ぬこと。
を望んでわざと行動を起こしたのだと。
「承知した」
逸勢の目を見ながら良房が答え、逸勢が小さく笑いながら頷くのを確認すると相手が苦しまないように逆手に持った柄を躊躇いもなく自分の頭上に向けて刀身を斜めに引き抜いた。
そして幼き頃より書と楽の手ほどきをしてくれた恩師にして稀代の才人に向けて敬意を込めた目礼をすると血で濡れた佩剣を布にくるみ、その場から立ち去った。
どくどくと流れ出す血で腰から下を濡らして立っていた逸勢は膝を折ってその場に座り込み上体ごと廊下に倒れ込む。
不思議だな、これだけの傷なのに想像していた程の痛み苦しみではない。
そして、足元を濡らす黒みを帯びた赤い液体の溜まりに小さな光が宿るのを見た時、
これだ!
と思ってそこに己が右手を浸してから人差し指を筆に見立てて渾身の力で最後の落書をしたためた。
は、はは、やった…何万もの字を書いてきたこの人生の終わりでやっと私の書が完成したぞ!
点が星となり、払いが風となり、線が雷とも龍ともなる誰にも真似できない私だけの書風。
真っ先にあのひとの元に行って見せてあげたい。
けれども、
困らせてしまうことを書いてしまったかなあ…
ほとんどの体の感覚が無くなり顔を突っ伏した逸勢は瞼の裏にひとかけらの光を見た。
それはある冬の朝、叔父の邸宅で垣間見た光景。自室から珍しく廊下出たひとりの美しい少女が見つめた先の朝の光を集めた雪解けの雫。
思えば生まれて初めて人生に光をくれたのはあなただった。
願わくばあなたがこれ以上悲しまないように。
「嘉智子…」
橘逸勢死去、享年六十。
自ら流した血溜まりの中、最も美しい思い出の中で生を終えた。
しばらくして見回りの内舎人が逸勢の骸を見つけて悲鳴を上げ、駆けつけた他の舎人と外見張りの武官、そして現場をあらためた仁明帝自身までもが、
彼が書き遺した三文字の落書に無限の自由と美しさを覚え、しばらく動くことすら出来なかった…
彼が手向けた血濡れの散華、それは
無咎死
咎無くて死す。
絶筆。
後記
最終十話、檀林のはじまり。それは、突然の政変からだった。