電波戦隊スイハンジャー#110
第六章・豊葦原瑞穂国、ヒーローだって慰安旅行
野上の姓3
和歌山県伊都郡九度山町という所に、九度寺と呼ばれる慈尊院がある。
九度寺の謂れは、空海の母、玉依御前が「息子空海が開いた高野山を見たい」との一心で老いた身ながらはるばる讃岐から出てきたものの…
空海自身が高野山より七里四方は女人禁制の聖地、としてしまった為、御前はこの場所より先まで行けなくなった。
御前はこの寺に逗留し、ご本尊の弥勒菩薩を篤く崇拝した。
「え、母上が慈尊院で足止めされておられる?なんでもっと早く知らせなかった!?」
と空海は大人げなく、弟子の実慧を叱りつけてしまった。
もうこの人は、母親のことのなると理性を無くす。
実慧は又従兄弟の性格を知り抜いているので空海の怒声を右から左へ聞き流し、実情だけを正確に報告した。
「は。慈尊院より文が届きましたのは先程のことでしたので…疾く、お会いに行かれたほうがよろしいかと」
「うむ」
それから空海は、20数キロの行程をかけて慈尊院にたどり着き久方ぶりの母との面会を果たした。
「ようございました」と実慧は高野に帰って来た空海の満面どころかでれでれした笑顔にこほん、とひとつ咳払いした。
「しかし阿闍梨、御身はこの高野山の開祖で真言密教の最初の師となられる訳ですから…『軽々に』面会に出られるのはどうかと」
しかし空海は、月に九度(あるいはそれ以上)母親に会いに、慈尊院を訪問した。
やはりこのお方は、御母堂のことになると理性のたがが外れる…これも、実慧の想定内の出来事だったから仕方がないが、ひとり隠れて、ため息を吐いた。
ここは泰範はんと自分でしっかりしないと、と実慧は一層気を引き締めた。
高野は帝(嵯峨天皇)のお許しを得て開山したばかり。
いくら今の帝の寵愛を得ても、「次」の帝はそうしてくれるとは限らない。
とかく、貴族というのは情勢次第で平気で手のひらを返す卑怯者だという事を、実慧も京の都でいやというほど思い知った。
先年泰範を引き取った一件で最澄さまと叔父は完全に袂を別ってしまった。
それに…ここが叔父空海とは違う点だが、最澄さまには、野心がある。危うし。
実は空海の野心の方が上だったという事に実慧は気づいてなかったし、法相宗の僧たちの不平を最澄自身に向けさせる事で、
現代的に言えば空海は仕事を進めやすくなった。それも空海の想定内だった。自分が生きている内に、お上に潰されんよう高野山の信仰を広げるのだ、
聖域化して、土地に、付加価値を付ける。
後世武力で攻める者あれば、世間からきつく咎められる程に。
それが、空海の真の目的であった。
お上の心ひとつでどうにでもなる。平安初期、僧侶の立場などはそんなものであった。
話が大昔に飛んだが、だからこの寺を、九度寺という。
21年に1度御開帳される秘仏、弥勒菩薩像の前で瞑想している僧があった。
佐伯真魚こと空海である。彼の心の中は、星の海の中にいた。宇宙の中の自分を意識する。
自我も無く、自分が在るという意識もなく…しかし、彼の胸中にさざ波のような後悔が浮かんだ。
聡介の中の「荒魂の記憶」を揺さぶったのは、果たして正しいことだったのか…
もちろんその時、彼はこの方法しかない、と思って実行したのだが。
「何を今更思ってるんですか?」と背後で柔らかな青年の声がした。
空海はぎょっとした。自分に全然気配を感じさせない者は、一人しかいない。
「シッダールタ王子、わざわざここまで…」
ブッダは相変わらずオレンジ色の衣を袈裟がけにした軽装。長い髪を二髷にまとめている。
空海が立ち上がろうとするのを制して、ブッダも空海と同じ目線になるように狭いお堂の中であぐらをかいた。
「スリランカに茶葉の買い付けに来たついでです。
真魚、あなたはやってくれましたね…魔器玄象で謳い、あの荒ぶる神を泣かせるとは…あなた以外の者なら魂ごと喰われてしまうところでしたよ」
「私も、取るか、取られるかの遣り取りでした。でも疲れましたな…相手が強すぎる」
聡介の口づてに荒魂から「頼む」と言われた時はぎりぎり勝った…
とは思ったが、その後虚脱感に襲われて、仕方なく母の在所であるここ九度寺に空海は静養する破目になったのだから。もうあんなこと、二度とやりたくない、と空海は思うのだった。
「いまこの時刻、野上聡介に真実が告げられようとしています」
ブッダは来る時がきたことを、「ハマチは成長したらブリになるのです」と語る理科教師のような淡々とした口ぶりで伝えた。
「あの手紙が、開封されたのですね?」
「日本最古の諜報組織、隠(オニ)の者たちは、業務上知り得た秘密を墓場まで持っていく程口の堅い者たちです」
「まあそれでなくては諜報員失格ですが」
「そう。野上鉄太郎は口では墓場まで持って行った。しかしあの手紙の内容は…諜報員失格でした」
「それだけ、孫の聡介を愛していたということなんではないですか?孫の中で、全てが腑に落ちるよう」
空海の口から愛、という言葉を聞いたブッダは、ひらりと口元に笑みを浮かべた。
「やはり真魚に会いに来てよかった。須弥山という浮世離れした所にいると、私は人間性までも薄れてきそうになるのです」
愛か…とブッダは、遥か昔自分にあった感情を懐かしそうに呟いた。
阿蘇の古びた農家の奥の間から、謎のラップ音が鳴って1時間が過ぎようとしている…
聡介を残した6人の若者たちは、いちおう居間で茶をすすりながら控えていたが、室内の聡介はどうなっているのか、気が気でならなかった。
手紙の内容によってはまさか…といういらん想像までしてしまう。
正嗣も思念波の触手を伸ばして部屋の様子を探ろうとした、が、鉄太郎自身が行った封印で6度弾かれ、
おめぇ諦めが悪いぞ。と鉄太郎の幽霊からデコピンを喰らって正嗣は完全に諦めた。廊下でもんどり打つ正嗣を、隆文は魔法のキノコでもキメてるのか、と思って訝しんだ。
6人全員が、それぞれの心配で足ったり座ったりしている。そんな時に、奥の間からうおぉぉぉ!と聡介の絞り出すような悲鳴が聞こえた。
襖がやっと開かれ、聡介は顔を伏せたまま、肩で息をしている…
瞳の奥に、理性とはほど遠い光が宿っていた。
まずい、と悟は思った。
「みんな変身して先生を確保するんだ!」とは言ったがその時は聡介が駿馬のように廊下を抜け、玄関から外へ走り出していた。姿はすでに、夜の闇に消えている。
なんて脚の速さなんだ…と硬直している場合ではない!
全員、各色のしゃもじを出し、「変身、いただきまーす!」と叫んだ。8月の夜、阿蘇地方から虹色の光が上る、と言う怪現象が起こった。
聡介だけはそのままの姿で、物心ついてからの記憶すべてを払いのけたいのか、前屈みになって阿蘇の原野を走り続ける。
しかし、聡介は決してやけになっているのではない、目的地を目指して走り続けているのだ。
その証拠にさっきまで読んでいた手紙の入った封筒と、白鞘の懐剣だけはしっかり離さずにいた。
「そこ」は、決して素人が辿りつける所ではない。
そこに入ると磁場が狂い、コンパスが使い物にならなくなって行けたとしても帰りは遭難必死の場所である。
なぜか聡介は、暗闇の中「そこ」への行き先が分かるのであった…
これが、俺の中に流れる「野上」の血なのか?じいちゃんもこうやって、「真実」を求めて走り回っていたのか…
じいちゃんも、自分の力の秘密を墓場まで持っていこうとした人かもしれない。
だけどあの人が年を取って民俗学者になったのは「自分の正体」を知りたかったからだ!
いけずな天狗はんなもんてめぇで調べやがれ、と聞いても答えてくれなかったのだろう。
猿田彦はそんな奴だ。
そして、阿蘇の原野まであの人を駆り立てたのは、俺の怪力が発現したからだ。
走って、走って…
目の前に巨人が手慰みにならべたような巨石の群れがあった。
熊本県阿蘇郡南小国町、押戸石と呼ばれる巨石群の丘の上に聡介は辿りついていた。
結局、黒川温泉の近くにこれはあったのだ…。なに俺、産山まで帰っちゃってるの?
聡介は笑いたくなり、衝動のままに、笑った。
「先生、大丈夫ですか?」
正嗣の声に聡介は驚いた。振り向くと変身したスイハンジャー6人が野風にスカートをたなびかせて立っている。
ああ、こいつら変身したら時速150キロで走れるんだった…変身もせずにここまで走った俺に、ついてきてくれたんだ…
聡介の表情が笑いから、涙腺崩壊寸前になった。そうか、ついてきて、ついてきて…
泣いているのだろう、と仲間たちは思った。しばらくの間、聡介はグリーン正嗣の肩にすがって洟をすすって、泣いた。
「泣きまくったもん勝ちですよ」グリーンは聡介を抱擁した。
泣きつくした聡介は、正嗣の腕の中で立ち直っていた。
「俺にはやらなきゃいけねえ事がある、みんな、見ててくれ」
おもむろに、聡介は握っていた懐剣を鞘から抜き自分の二に腕に突き立てた。
「なっ…!」
刃先が皮膚から抜かれ、鮮血が滴り落ちる。血はやがて、地面に吸い込まれていった。
「大丈夫、血管は切ってねえ、外科医なめんな」
けっこう痛いであろうに、聡介の声は平然としていた。
「みんな、気持ち10メートルほど下がってくれないか?」
もうみんな聡介の指示に従うしかなかった。
「言霊奏上奉る。蘇の始まり阿蘇の地霊よ、この高天原族、野上聡介の血を持ってお迎えする、参られよ」
腰椎から頸椎までシェイクされる程の激しい地響きが、辺りを襲った。聡介以外の者は恐ろしくて地面に伏せてしまった。
気づかない内に皆、変身を解かれていた。正嗣だけが顔を上げて見た。ちょうど一番背丈の高い岩の頂上から空に向けて、一筋の雷光が上がるのを…
岩の上に柔らかい光に包まれた男が立っていた。神社の神職みたく白い直衣をまとっている。
年の頃はは40がらみか、口ひげをたくわえているので正確な年齢は分からない。白髪交じりの長髪は、臀部のあたりまで垂れている。
細面で少し頬の肉がそげているが、威厳を持った、優しい眼差しで7人の若者たちを見ている。
蓮太郎は幼い頃、お能の師匠から聞いた話を思い出した。
人でないもので、長髪を垂らしたものは、神か、魔や。
あの御方の佇まいからして、まさか、阿蘇の神!?
「…久しぶりだな、野上一族よ、お主は鉄太郎の子孫か?」
言ってからひらり、と男は岩から飛び降り、聡介の目の前に立った。聡介は片膝を付いて男にひざまずいた。
「お初にお目に掛かります、健磐龍命さま。鉄太郎の末孫、野上聡介です」
阿蘇山の神、健磐龍命はかしこまらんでもよい、と聡介を立たせた。
「まあよい、そこな若者たちよ、車座になって話そう、私も人型になるのは何十年ぶりか…」
そういって阿蘇山の神は愉しげに手招きしたくれた。
古来、「さん」と呼ばれる山は、信仰の対象であった。
健磐龍、とは「巨大な磐」という意味で「阿蘇山そのもの」なのである。
こうして齢およそ9万年。世界有数の地霊で事実上の国つ神の総ボスと、平成の若者たちの邂逅が、始まった。