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「あきらめエンジン」 オン! 〜未来を、今を生きるため〜
ブルンブルン。まさにこんな音がわたしの胸の中で鳴っていた気がする。
「死ぬまで治らないんだ」主治医が言った。
え? とわたし、一瞬思いましたよ。
「でも薬で発作を抑えることはできる。がんばろう。何か辛い時は言って」
この主治医とは相性がいい。相性のいい医者と巡り会うのは難しいこと。運がよかったと思わねばいけない。その医者に言われたひと言が、「死ぬまで治らない」とは。
それをどう受け止めたのか。当時の25歳のわたしは、普段と変わらない声色で診察を終えたように思う。ただ、この時から10年間も変わらず飲んでいる薬は「出産」には向いていない薬である。まあ、どうせパートナーいないから、関係ないか。今の病気になって、「何かをあきらめること」ということに慣れてしまった。当時もそこにエンジンがかかった瞬間だった。乗り越えよう。あきらめることを乗り越えよう。あー、とは言ってもな。なかなか踏ん切りのつく問題ではない。
世界の中にわたしはいて、わたしの中に世界はあるから、よろこびの中に紛れ込んだり、しあわせの上を舞い踊ったりする人たちのことが、いつも嫌だったんだよなー。なんていうか、空を舞いたくなる。意味わからないか。自分でもよくわからない。
わたしの持病はいつ倒れるかわからない。これは恐怖でもある。でも薬をちゃんと飲んでいれば、わたしの場合は、発作はほぼ起こらなかった。その薬が自分には合っているということなのだけど、しかしまたその薬が胎児に影響を与えてしまうものであることが問題だ。薬を変えるということはまた薬調整で入院しなくてはならない。メインの薬を変えるということは長い入院になるだろう。でも、で、も! 今彼氏いないし。結婚相手いないし。薬調整する必要もないか。年齢的なことを考えると、いろいろとあきらめモードになる。ということは、あきらめエンジンかけなきゃな。うん、かかった。よし! わたし、何も怖くないよ。
それから5年、ふたりくらい彼氏は付き合ったけど、結婚って感じじゃなかったわけで。
で、彼氏いない期間が5年もあったから、いつの間にやら35歳だ。いや、もうすぐ36歳だ。こんな、持病ありの36歳の女をもらってくれる人なんて、いるのでしょうか。謎です。ていうか、いたら、胴上げですよ。もう半分あきらめモード。エンジン、オン。よっしゃ。
両親に孫の顔は見せてあげられないだろうけど、申し訳ない。弟の子どもがふたりいてくれてよかった、と思ってしまう。
これから仕事、結婚、出産、いろいろ我慢しなくてはならないことがたくさん出てくることだろう。その度に「あきらめエンジン」オン! にしなければならない。でも、わたしは負けない。負けてなんか、いられない。悔しいから。
ほんの少しの、些細な、いいことに目を向けるんだ。部屋に置いてあるサボテンのスイちゃんが順調に育っているなあ、とか。今日は天気が穏やかでいいなあ、とか。可愛いセーター買ったぞ、とか。餃子うまく焼けたぞ、とか。両手上げて喜ぶんだ。平和な証を喜ぶんだ。
で、こたつでぬくぬく(我が家にこたつはないが)過ごしてみたり、真冬に暖かいところでアイスクリーム食べてみたり、真夏にわざわざ暑いところでかき氷食べてみたり、そういうことして涙なんて見せない、ってわけ。
言い換えれば、毎日が闘いだ。
今日は? さあ、「あきらめエンジン」オン!
ああ、悲しい。それが本音、だったりして。
でも、生きてるだけマシだ。生きてるあいだはいつ死んだっておかしくないけれど。
「生まれる」の反対が「死ぬ」ならば、「生きる」の対になるのは何だろうかと考える。でもとりあえず、今日も生きてるから。エンジン、オンにしながら。
でもね、限られた時間しか生きられないことがうれしかった。いつかこの体から抜け出せると思うと、なぜか穏やかな気分になった。変でしょう?
けれど生きている者の特権は、未来を創れること。それに賭けてみようかな、と思ったりもする。なんだか心の中がぐちゃぐちゃだ。あきらめたり、未来に賭けてみたり。結局何が言いたいのかというと、わたしの中にはふたつスイッチがあって、「あきらめエンジン」と「未来に賭けるエンジン」だ。毎日どちらかをかける。
未来や過去は感覚として捉えやすいのに、「今、現在、この瞬間」は認識しにくい。さっきまで未来だったはずのものがすぐに過去になってしまって、そのあいだにある一瞬だけが「今」だとすれば、未来と過去を繋いでいる小さな小さな橋のような「今」に立っているのが自分だろう。その橋は、生き物みんなに与えられるギフトだ。自分が未来の方向を向いていれば新しい未来がどんどん自分の中に入ってくるし、過去のほうだけ向いていれば何も入ってこない。でも、橋自体からは何も生まれない。未来と過去がなければ橋は何の意味も持たないから。砂時計の真ん中の細いところだけあっても何の意味もないのと同じ。でもそれを嘆いているんじゃなくて、自分の意識次第で砂は何色にもなり得るってこと。
さあ、わたしの砂は何色だろう。
これから、何色になっていくのだろうか。
楽しみでもあり、不安でもある。橋の上に立って、未来の方向を向くことにする。それしかできないから。
ではまた、どこかで会いましょう。
わたしが生きているうちに。
(了)