直観物理における物性論 【直観物理と相似象 その5】
本稿では、直観物理の物性論について、「相似象」第3巻に記された楢崎皐月氏の解釈に基づいて、解説して行こうと思います。
冒頭の楢崎皐月氏の言葉によれば、直観物理においては、物質、生命、その他一切の存在を<モノ>と見做しています。ただしここで<モノ>と言っているのは、現象界の物質のみならず、潜象界の<アマ>を始元量として、そこから変遷されたもののすべてを意味しますので、この直観物理は、<モノ>を扱うからと言って、唯物論のような物質のみしか考察の対象としないものとは、論点が全く異なるものであることを、まず最初にお断りしておきたいと思います。
楢崎氏によれば、カタカムナ人は潜象、現象を含めてすべての<モノ>の発生する根元である始元量を、<マ><アマ><イサ>としていると指摘しています。これらは、量子物理学で言うところの、ゼロ・ポイント・フィールドから物質界に注いでいる粒子に相当します。この粒子は、物質や生命質の根元に関する情報を満載しており、スピリチュアルの世界では、根元のアダマンタイン粒子とか、タキオン粒子とも呼ばれています。粒子と言っても、もちろん波動性もあり、いわゆる<アマウツシ>となって、潜象界や現象界の物質と相互作用を起こして、物質変換を生じさせたり、病気を治癒したり、あるいは、精神に影響を与え、アイデアやひらめきを誘発することが出来るのです。
本稿では、「相似象」第3巻の記載から抜粋することによって、<アマ>始元量、及びその微分である<マリ>の物性について、および始元量から現象界に物質が出現する過程を説明しています。現象界には、物質系、生命質系のモノがありますが、ここでは物質系が発生して行く過程を追っていきます。更に、生命質系に発展するマリの物性については、次の投稿「カタカムナ人の直観物理と相似象(6)及び(7)」にて説明して行きます。
<アマ>始元量の物性
カタカムナ人のサトリにおいては、すべてのものには動的な性質(<イザナミ>(波=動))があり、絶対の静止というものはありません。しかし、細かな振動があっても見た目は静止しているような状態、つまり、定常状態というものがあります。これを統計的な静の状態(<イザナギ>(凪=静))といいます。
<イサ>とは、始元(出発、始まり)の意味を持つ言葉であって、時間量(トキ)、空間量(トコロ)の始元量<マ>や、アラゆるものの基礎量としての<アマ>とも同じものです。つまり、<イサ><マ><アマ>はともに始元量であり、現象背後(カム)の基礎量を指しています。
現代物理学では、物質に関わる全ての物理量の元を、時間と空間の関係として扱っているので、考察対象は、時間と空間を二元とする4次元までに限定されます。これに対して直観物理の観方は全く異なり、「時間空間量」は、始元量<マ>の<カサナリカエシ>(重合互換)の特性に基づいて、発生するというものです。
互換とは、状態が交換されることで、時間の状態と空間の状態が交互に交代する交番変化を言います。重合は、目に見える現実の状態に、目に見えない潜象のありさま(潜態)が重なり合わさることです。
潜象の始元量<マ>においては、時空の交番変化は超光速で行われますので、統計的にみれば、時間・空間は共存しているとも考えられます。「時間空間のそれぞれの状態は、<マ>という潜態始元量においては、統合された相量としてある」すなわち、<マ>において時空の交番変化が超光速に行われる結果、統計的な時空が共存する、ことになるのです。つまり、時空量は<マ>の変遷、として捉えられるのです。
また、<マ>には、「微分的粒子性・波動性」があり、それが<マリ>という潜態となります。粒子性の<マリ>は、「時間空間互換の量子的な潜象粒子」です。<マリ>は物理量として極限の単位粒子となります、それは、物理学における物質やエネルギーの素量としての量子、という概念だけでなく、電氣、磁氣、力などの素量でも、物質、生命質の基本粒子でもあり、また位置量に変化転換できる性質の粒子でもあります。
始元量であるアマを対象に微分した場合、そのマリは<アメ>と呼ばれます。また、モノの側から見た場合の微分量は<ココロ>とも呼ばれるのです。そして、<アメ>の集団系(イカツ等)が、いろいろな物理量に転嫁する相が、<アマウツシ>です。これによって、電氣、磁氣、力の素量が生じ、物質や生命質の基本粒子である<モコロ>が生じます。また、電氣、磁氣、力のそれぞれは、正反の配偶の粒子で構成されています。
<アマウツシ>は潜象であって、それは現実の現象と重合しているのです。つまり、すべての現象には。アマの分身が秘められていて、その分身は潜象と現象とに共有される境界であるとすることが出来ます。
そしてその見えない境界が<アマナ>であり、それはアマの分身であるアメ(マリ)の高密度の集団ということになります。アマナの役割は、<アマウツシ>を受けた潜象を現象に分化させ、また、現象を潜象に還元させることでもあります。
次なるは、直観物理と現代科学との関連性・違いに関しての若干の説明です。
現代物理学では物質原子の構成主体は原子核ですが、原子核はいかなる実験からも検証され得ません。しかし、陽子、中性子、電子等の微粒子現象は検出され、それは原子核から作られると考えられています。実は、原子核は現象ではなくて、<アマナ>という潜象なのですが、このことは今だに誰も悟り得ません。
次に、現代の素粒子論で扱われている陽子や中性子等のハドロンは、それぞれが3個ずつのクォークから構成されるとされています。ところが、陽子や中性子については実際に検出が可能ですが、クォークに関しては、未だ検出されているわけではなく、仮想的な粒子として扱われているにすぎません。
これを直観物理的に解釈すれば、クォークは現象ではなく、アマからアマウツシによって発生した潜象の過渡の粒子で、現象としての粒子である陽子や中性子と重合互換性を持つ、というようにスッキリと解釈できます。
また、生命質についての研究は、現代の量子生物学で精力的に行われていますが、やはり現象面のみを捉えているので、生命の本質の追及までは到達できていません。
しかし直観物理では、生命質のモトは、潜象の<モコロ>であり、<モコロ>を統合するような<アマナ>の潜態が集合し、構造性を持った生命質が発生するとされています。
また、<モコロ>の段階から、物質系と生命質系は区別されています。
次なる<アマ>の物性として、<ソコタチ>(膨張性)と、<ソギタチ>(収縮性)(タチは性質の意)の二つの性質があります。このソコタチ、ソギタチは、イザナミ・イザナギを原理的に表示したものです。この二つの性質は重合していますが、潜象において一定の周期で入れ替わるのではなく、部分的偏りがあって多重周期を持った象で入れ替わりが行われるのです。これを<アマノウズメ>と言い、その微分を<アメノウズメ>と言います。
時空交換粒子<マリ>の物性
目に見えない始元量である<マ>は、時空量の全容的「無限の広がり」を持った「位置量」です。また<マリ>はその「有限微分」された「位置量」です。<マリ>は潜象ですが、「微粒子の相似象」(粒子性)と、「時空互換量子」(時間空間に換わるモノ)という概念を持っています。
アマのカタヨリから、旋転循環の動きが生じて、結球するとマリになります。<マ>の立場から、マリの中身は容積量の<マ>であり、<マリ>の立場からは、それは体積量となります。この場合、マリが重合して内部のマが濃密になれば、体積は小さくなりますが、容積量は重くなってきます。
<マリ>は、以下にのような物性を示しますが、これは現代科学的に言えば、物理学(physics)というよりは、形而上学(metaphysics)の範疇に入ります。
(第1の物性)<マリ>の<イマタチ>
<イマタチ>とは、「今の性」の意味で、「今」のような物理量を言います。それは固有の存在ではなく、言うとすれば「時間空間的な統計的存在」のことです。<マリ>にはここに区別できるような定着した状態は存在せず、<マリ>同士の相互の間で力が交換され、その交換力によって統計的に同相が保持される状態にあります。
<イ>は細かいもの、小さく微分されたものという思念であり、
<イマ>は<マ>の時間空間を微分した粒子と同じものを指します。
「今」の瞬間は、過去からみれば「結果」ですが、同じ瞬間を未来から見た場合には、過去から未来への「過渡」になります。あらゆる現象の相は、すべてがアマの個々の変遷の相に他ならず、そのために、固定静止の観念では捉えることはできず、常に「変遷の統計的存在」として見るべきなのです。これを仏教では「無常」と言いました。この無常の相、すなわち「変遷していること」こそが「常」なのです。イノチのイは、イマのイであり、イはマの微分であるから、そのイマの持続が、生命であり、生活であると、カタカムナ人は観ていました。
(第2の物性)<ヒダリミギリノマワリタチ>
<マリ>には、「左旋、右旋の旋回性」があります。そして、互いに逆向く旋回の仕方に基づいて、正反対称の<マリ>が存在します。現象に正反(男女、昼夜、寒暖、陰陽等)の区別があるのは、<マリ>の物性が基礎となって顕れる現象であって、その物性の相似象なのです。
(第3の物性)<マリ>の<タバネタチ>
<マリ>の体積や容積は「加算されて集合する性質」を持っています。この性質を<タバネタチ>といいます。<マ>の球形の容積に対して、その容積壁から力の積量が加わると、個々の<マリ>が集中し始めます。
(第4の特性)<マリ>の<カサナリタチ>
<マリ>には重合の性質があり、これを<カサナリタチ>といいます。そして重合しながら収縮し、そのとき濃密度が増大しますが、逆に体積量は減少して小さくなる性質(ソギタチ)もあります。したがって、小さい粒子ほど重く、エネルギーも力も大きいと言えますが、大きさには最小の極限があり、同じ容積中の<マリ>集団の個々のマリは、ある段階以上は同等の大きさでも、同容積中の個々の<マリ>の力・エネルギー・質量には潜象の差異が生じます。
その相似象と言える現象として、原子構造内で<アマナ>に近接する粒子(陽子、中性子等)と、<アマナ>の外側にある粒子(電子等)では、大きさは同じでもポテンシャル、力、質量等には大差がある、ということが検証されています。実際のところ、電子も陽子も大きさに変わりはありませんが、陽子の質量は電子の質量の1000倍以上になっています。
(第5の特性)<マリ>の<オホマノワ>
<マリ>という単独の<マ>に対して、集団として大きくなったマの全体を<オホマ>と言います。マの中にある個々の<マリ>はそれぞれ異なる相や状態にありますが、それぞれのマリの状況が加算的に和合して、集団としての<マ>を作っている状態を<オホマノワ>と言います。
個々の<マリ>に対しては、集団としての<オホマノワ>から光速以上の指令が行き届いています。この作用は<マリ>全般に波及します。この作用は物理学でいう「場」のように、作用空間が限定されたものではありません。生命体や宇宙は、このような全宇宙空間に対する作用によって成り立っています。「一念千里を走る」と言いますが、念じたことは<オホマ>が仲介して、一瞬のうちに宇宙のどこへも通じる、ということなのです。
(第6の物性)<マトマリタチ>
<マトマリ>とは、<アマウツシ>の作用、つまり(オホマ)の重合によって、<マリ>の集団体積の内容が、電氣・磁氣・力等の様々な物理量に拡充しながら転換することです。<マリ>のこのような性質を<マトマリタチ>と言います。すなわち、潜象の<マリ>の集団が、逐次現象に移転して行くような傾向を持っている、という性質のことを言います。
そして、この<マトマリ>が重合度を増してある極限を超えると、再び<アマ>に還元されるというわけです。
すなわち、マはマリに、オホマ(マリ集団)のワに、現象粒子である電氣、磁氣、力に、それぞれ順にマトマリ、様々に転移し、極限に達すれば、また還元してアマにマトマルということです。
<マリ>の<マトマリ>における第一段階は、電氣、磁氣、力の正反素量に転換する変化であり、いずれも眼に見えない潜象です。そして、これら素量の組み合わせによって、物質系と生命質系の<モコロ>に進展し、現象に移ってゆくのです。
∞ ∞ ∞
マリの第3の特性っである、タバネタチによって集合したマリは、やがて第4の特性である、カサナリタチによる重合マリとなり、集合するようになります。すると、体積は増加せずに、内部の<マ>の密度のみが増加します。
その後、第6の特性マトマリタチによって、更に凝縮して、ココロに移行し、物質系あるいは生命質系のモコロを構成し、現象物となって行きます。このとき、粒子の容積は、マを集合させ、濃縮させる「力」を、「マの容積壁」から非常に高速度で、何回にもわたって、積量として受けることになります。容積壁は、物質の壁とは異なり、周辺の恒常のマ(マリ)に対して、内部は集合して濃密になったマ(マリ)で、界面の壁に当たるものはすなわちマであり、マが力であって、イノチの元でもあるのです。力はマから与えられ、マはマリとなり、この壁を自由に出入りが可能となります。
これは潜象ですが、現象においてもその相似象があります。生体膜や皮膚等の物質のマクも、画然とした壁があるわけではなくて、実は個々の細胞からなり、細胞はこのような関係をもって、常にアマに通じています。それ故にこそ、マは自由に出没し、マクである腸壁や肺細胞を通じて、吸収・消化・同化・排泄等の作用も行われるのです。また、すべての物質の浸透・発生・崩壊等の現象も起こり得るのです。
このように、目に見える<カタ>の世界での現象が生じるまでには、<カム>の潜象界でこれだけのステップが踏まれるわけです。
現代の自然科学は現象界における原理や法則を出発点としていますが、これらの自然科学の出発点のものも、直感物理的には、実は<アマ>に始まって上に述べたような、潜象界でのステップを経て得られる構成物に過ぎないのです。
「後光」というのも、真の美や真の愛の心(ココロ)が内からにじみ出て、アマと交流する相が現象となって顕れたものです。
マリの凝縮が極限に達すると、マリは飛び出してカラミを持ちます。この飛び出したものがイカツ(サヌキ=電子、アワ=正孔)で、マクミ(磁氣)を伴うのです。
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