ココロの物性 【直観物理と相似象 その6】
ココロの物性
人の心が身体の生理に影響を及ぼすのは、よく体験することです。
明るい心、楽しい心、喜びに満ちた心、希望に溢れた心、自信たっぷりの心、愛情を十分に受けた心、落ち着いた雰囲気での穏やかな心、等の状態を保っているときは、身体の動きや反応もスムーズで生き生きしたものとなり、目線も上に挙げて明るい表情になります。また、このような心の状態を常に保つことが出来れば、癌などの慢性病も直してしまうほどの威力を持つと言われます。
一方で、暗い、悲しい、寂しい、つらい、怒り・恨み・嫉み等の心を持っている時の身体は、少なからず委縮しますし、顔つきも悪く、目線も下がり気味です。それだけでなく、そのような意識はストレスとなって、消化器系、循環器系、神経系の病氣、癌などの慢性病をも作り出すと言われています。まさに病氣とは「氣が病まう」ものです。
このような現象の原因を掘り下げて行っても、現代科学では、身体を物質として捉える一方で、心や意識は物質以外の目に見えぬ別物として捉えているために、心と体の密接なる関係の本質を捉えることは難しいようです。
最近の量子力学では、意識も含めてすべてのものは、目に見えないエネルギーを起源として説明するようになって来ていて、ゼロ・ポイント・フィールドなどに存在する極微小のエネルギー振動や粒子等がすべての物質、意識、運動等の発生原因であると考えられるようになって来ています。
しかし、それは、現象面に現れる結果を説明するのに都合の良いように、見えない世界のことをモデル化しているだけでのようであり、ゼロ・ポイント・フィールドの振動や粒子等の物性や、そこから物質や意識等が得られるまでの発展過程ついては、直観物理で扱われるような秩序立った考察はまだできていないように感じます。
以上のように、現象面のみに注目している現代自然科学は、森羅万象を生み出す出発点としている部分の深堀がされずに、あいまいにされたままの状態なのです。
ところが、カタカムナ人は、そこのところのサトリを得ているのか、<アマ>を始元量として潜象界における<モノ>である<ココロ>が基になって、その後の様々な変遷を経て、現象界において物質と生命質が出来てゆく過程を直観し、サトリを得ているのです。
また、どのような物質も生命質も、それが発生する始元量<アマ>から引き継がれた物性として、<ココロ>を内に持っているとしています。
ここでは、そのあたりを楢崎皐月の直観物理の解説から抜粋して紹介して行きたいと思います。
以下は、相似象学会誌「相似象」第3号の中で、楢崎皐月によって説明されている、ココロの本質の抜粋です。
ココロの本質
「物心一如」という四字熟語があります。これは、「物質と精神とは一体である。」という意味です。これを直観物理によって掘り下げると、
<アマココロ> の <ウツシツミ>
という<サトリ>と解釈することが出来ます。
このサトリについて述べます。<アマ>についてはこれまで既に解説して来ましたが、ここでは<ココロ>についての説明を試みます。
コ は縮小の思念
コロ は<カタマリ> (石コロ等)の思念です。
<アマココロ>とは、「アマの始元量の微分された小さなカタマリ」となり、それの<ウツシツミ>とは、「アマウツシと総体される個々(ツ)の実(ミ)」という意味になり、その内容は、以下の<ココロ>の種類を表しています。
<イカツミ>は電氣素量(サヌキ=男電氣、電子、アワ=女電氣、正孔)
<マクミ>は磁氣の素量
<カラミ>はチカラの素量
<モコロ>は。以上3つの素量で構成される潜象粒子で、
物質・生命質の基礎となる。
心とは、「網と網目」のような構造の関連で捉えられるようなものだと考えられます。
網全体が<アマ>であり、網目を形作る網もまた<アマ>です。
網に囲まれた網目の中にあるのは<アマ>の微粒子(マリ)であり、これは周辺のアマ(マ)の集合・凝縮したものですから、ココロの入っているアナであると言えます。
つまり、<アマ>の微粒子の容孔(カラ)は、容孔壁(網)によってアマ(マ)を共有し、<アマ>に疎通し、交流する相である、と捉えられます。
そして、<アマ>の潜態に起こる変化によって、アマの<ココロ>(容孔を占める<ココロ>)の種類が変化するのです。
小粒子の変遷、チカラ(遠達力)とカラミ(近接力)の素量
<アマ>の<ココロ>は、<アマ>始元量の<カタマリ>であり、<マリ>の圧縮された「重合マリ」です。<マリ>とは、アマ全体に密に充填された状態にあるマが、カタヨリによって正反・旋回運動を行い、その結果、球状になっものですが、更に膨張収縮の過程を経る中で<タバネタチ>や<カサナリタチ>によって重合マリに変わります。
その重合マリの変遷の相は以下のようになります。
例えば、<アマ>の膨張性(ソコタチ)によって<アマ>が拡がれば、
網目の囲いとなっている網はアマだから、それが拡がれば容孔自体も拡がり、したがって容孔壁(網の囲ひ)が、内の重合マリを圧縮していた圧力も減退し、そこで、容孔を占めていた重合マリは、解離的に拡散し、単一のマリに分解して、<アマ>に還元し、容孔(網目)自体も消失します。
次に、<アマ>の収縮性(ソギタチ)によって<アマ>が縮まれば、容孔壁(網の囲ひ)は、内の重合マリを一層強く加圧し、高圧を受けた重合マリは、正反性の<イカツミ>すなわち正反の電氣素量(電子正孔)に転移します。
その際に、<イカツミ>は重合マリの旋転力を受け継いで旋転を続けます。その旋転はイカツミの正反の向きに働く偶力によりますが、それにともなう偶力回転力が<マクミ>(磁氣素量)となります。これが電子の旋転による磁氣の発生原理です。
また、<カラミ>の力の素量は<アマ>におけるココロの容孔の実の思念を表し、容孔壁からココロに「近接している圧力」の思念を表します。つまり、ココロの容孔(カラ)には常に力の素量(アマ)が潜在し、ココロに対して圧力や旋回力を与えているのです。カラミの実態は<アマ>の<ソコタチ><ソギタチ>による膨張収縮の運動に基づいています。
<チカラ>の
<チ> は、関連接続とか、連続接続の思念を表す音声であり、
<チカラ> は、<アマココロ>の容孔が、<アマ>に連なる象、
すなわち接続の関連があるのと共に、容孔が
多数連続して発生することを表します。
したがって、<カラミ>の素量は「アマの運動力の微分量」であり、「アマの収縮性によって生じる近接性の力(チカラ)の素量」です。
また、これに対して、<チカラ>とは「<アマ>全般の運動力」を意味し、「遠距離に到達する連続性の力(チカラ)がアマの膨張性によって生じる」ということなのです。
「チカラとカラミは、引力と重力のようなものであると考えればわかりやすい。」
と楢崎皐月は言いました。
引力とは、すべてのものが持っている万有引力ですが、重力とは個々のものの引力の差として与えられるものです。
また、大地(イヤシロチ)に接触することによって直接に受ける<アマウツシ>は、近達性の力の素量です。
また、電線によって遠距離に電氣が達する現象は、電子そのものの流れではなく、アマの膨張性に基づいた遠達の力によるものです。
その他、太陽の輻射や宇宙線も、遠達性の力によります。
近達、遠達の原理も、現代科学は未解決です。
また<オホマ>のアマは<ココロ>に対する遠達性の関連を持ち、<ワレマ>というときのアマは、<ココロ>に対して近達性の関連を持ちます。
<オホマ>はアマの広域関連であり、<ワレマ>は<アマ>から分かれて<ココロ>に直接の関連を表します。(例:現象における<アマナ>)
つまり、生体の<心>とは、<オホマ>と<ワレマ>の共同の性質で成り立つ性質の<モノ>であり、いろいろな<アマココロ>の<クラドハニヤスココロ>、すなわち「可能性の共同体的小粒子」です。あるいは、「融通無碩な変化をする<アマ>の<ココロ>の<マトマリ>」なのです。
小粒子の基礎素粒子、物質系モコロと生命質系モコロ
<モコロ>は潜象の基礎粒子で、物質系と生命質系の二種類があります。どちらの系統も、イカツミ、マクミ、カラミ(それぞれ電氣、磁氣、力の素量)の<ミツハノメ>あるいは<ミツハメ>、すなわち三種類の正反配偶が結びついた、単位の<ココロ>で成り立っています。
楢崎は、「カタカムナ人は<モコロ>の内部が、<オキミツゴ><オキツヤヘマリ>の構造をしていることを直感している。」と述べています。
モコロの性状変化、形状保全の疑問、アマに秘められた二つの抵抗性
モコロという微球(マリ)は、いつまでも球状であり続けているわけではありません。微球(マリ)容孔内の8軸が分裂・統合を繰り返して、時に線状流体(シマ)の相となり、また、<アマ>の分離統合に反抗する力が相乗的に掛った均衡力と渦流に従って、分化変遷して行く相があります。このような物理のサトリとして、<モコロ>の<イワクスアマノトリフネ><アマノオホゲツヒメ>等の、直観による示しがあります。この二つの言葉については、以下で説明します。
形状保全の疑問
原子核は陽電気を帯び、外郭電子は陰電気を帯びているが、
どうして原子内部で放電中和が発生しないのか?
どうして原子内部の陰陽の電子が作用し合わずに、原子の構造形態が保全されるのか?どうして雷雲の+とーのサイドが、同じ雲の中で中和放電を起こさないのか?
宇宙の恒星空間に浮かぶ多くの天体が、なぜ半永久的にその形状を保持し得るのか?
天体望遠鏡の観測によれば、宇宙は膨張し続けている面と、収縮を続けている面があるが、その膨張収縮のバランスは何が原因となって生じるのか?
私たちの身体も、新陳代謝により、細胞は新しくつくられたり、適度に壊されて垢などになったりするが、常に同じカタチが保たれている。それは何によってコントロールされるのか?
以上のような形状保全の疑問に対して、楢崎皐月が突き止めたのは、以下のことでした。
カタカムナ人は彼らのサトリを持っており、それを、本節冒頭に示した次の言葉のように表しました。
<イワクスアマノトリフネ>
<アマノオホゲッヒメ>
意味
「微分・統合が自由に行われる始元量の二つの本来性には、<アマ>における正反の掛け合わせられた、抗分性と抗合成が秘められている」
そして後代の人々は勝手に、それを神の名(古事記に記載されている)としたのでした。
言い換えると、<アマ>の物性である二つの性質に対して
(1)微分の物性(微小に分化して拡散する性質=膨張性)には、それに抵抗する抗分性(抗張制)がある。
(2)統合の物性(集合し、重なり、収縮し結合する性質=凝縮性)には、それに反抗する抗合性(抗縮性)がある。
これら二つの抵抗性は掛け合わせられた積量として、<アマ>に秘められているために、形状保全が維持できる。したがって、現象における象の保全は、現象背後の<アマ>の持つこの抵抗性に由来するのです。「この二つの抵抗性の積量」という直観は、「均合い」「平衡」「中和」の物理を生み出す要因となる重要なサトリで、カタカムナ人はこれを<トヨ>(正、反、四相)のサトリとして示しています。
膨張性に対する抗張制は、膨張に付随して、膨張性の内にあって、膨張性に抵抗する抵抗力であり、収縮性とは異なる。
収縮性に対する抗縮性は、収縮に付随して、収縮性の内にあって、収縮性に抵抗する抵抗力であり、膨張性とは異なる。
もし、このような抵抗力が発生していなかったら、理論上膨張系、収縮系はそれぞれ無限に膨張、収縮を続けてしまい、ものごとが成り立ちません。ここに「極限」という直観が得られます。膨張や収縮が極限に達すれば、「還元」ということになります。
例えば、ものをそこに置けば、そのままを保とうとし、運動しているものはその運動を続けようとする。
この物性は、伸縮自在で、慣性や復元力等の概念とは根本的に異なり、調和的な要素があります。慣性や復元力ならば、相殺されればバランスを失ってオシマヒとなりますが、アマの抗張性、抗縮性の力は、つねに繰り返し発生します。その強さは、正、反の動きが、膨張や収縮にカタヨったりに応じて、全体的バランスを維持するための調整力として自発的に働き、つねに持続的です。この性質によって、ものは無限に拡がったり、無限に加速されるということはありません。カタヨリが現われると常に相反する力が働き合って、方向の転換が起こるのです。また、どんな場合にも、極限まで行けば還元するのです。
私たちが生態系のバランスを論じる場合などに使う、「ホメオスタシスの原理」という言葉も、以上の考察を考慮すればよく呑み込めるのではないかと思います。
また、楢崎皐月は、実例を挙げて、以下のように説明しています。
モコロの内部構造―-微球態と流線態
<モコロ>の相には、<モコロマリ>ーー微球態ーーの他に、<モコロシマ>ーー流軸態(縞)ーーがあります。<モコロマリ>が<モコロシマ>に変わるには、<アマ>の膨張と、反抗積(抗脹力と掛け合わされた積量)に基づいて、<モコロマリ>内部に構成されていた、六方8軸(立体的に八方に向かう軸線)が、バラバラになり、単軸双軸に分離され、更に統合するという経過があって、流軸態(縞)に変わります。このとき、モコロ内の3個ずつ単位となっている<ミツゴ>は、それらの軸線上に配列を保持しています。この<ミツゴ>の保持は、<アマ>の収縮性と反抗積(抗縮力と掛け合わされた積量)に基づく潜態変化です。
イカツミ、マクミ、カラミの配列した相を指す<モコロ>は、重合マリである単独の<ココロ>とは異なり、<アマ>の膨張収縮に際し、反抗積が作用して、拡散消滅の度合いが少ないのです。
つまり、単位ココロマリの場合は、その容孔が膨張すれば拡散してアマへ還元消失しますが、モコロ内に配列してミツゴになっていれば、8軸の構造はバラバラになって、単軸になり、更に双軸になり流線に変わっても、やはりミツゴの形状を保っています。 このことは、<モコロ>の発展した物質現象粒子(基礎粒子)、並びに生命現象体(基礎生命質粒子)の場合も同然であることが直観されています。
次に、<モコロ>から、現象単位の<モノ>に発展する過程には、いわゆる「心」となる潜態の過程がある事を観じ、次のような言葉でその過程が示されています。すなわち、
< ヤヘヒトカサネ モコロシマ
アマノサカマキ ヤヘネサク
クラオタケフツ ミツハメノ
クラミツハヤビ イキココロ
クラヤマツミノ ヤクササネ >
「物質系モコロの単軸と、生命質モコロの8軸とが重なりあった<モコロシマ>は、<アマ>における逆向の渦流によって、<ミツゴ>の列ぶ8軸が分裂する。そして、軸から分離した<ミツゴ>は、<アマ>における正反配偶の素粒子集団となる。自由に接続された接続子によって、多量の螺旋体に転移する。それが自己増殖能力を持つ基礎生命質であり、「心」のもとの相である。したがって、「心」は、物質系モコロと生命質系モコロの、多数の小塊が自由に積み重なり合った<モノ>であり、万物象のサネである。」
これが、カタカムナ人の観じている、「物心一如」の真相、実相のサトリなのです。また、「心」は現象ではなく、目に見えぬ現象背後の基礎量における一形態であり、本質的には、電氣、磁氣、力の三素量が集団的に親和重合した、「重アマウツシ=イキココロ」であるという直観なのです。
「物質の中」(客観背後)にも、「生物」と同じ生命、すなわち「心」が潜在するという直観は、納得できる観方でありましょう。
「どの民族にも共通した古くからの表現、例えば、お日様、花の微笑み、風のささやき、怒れる濤、眠れる大地...等の形容は、太古の人々にとっては、単なる文学的な言葉ではなく、すべてが「生き物」としてうつって居たことがしのばれます。」
ところが、カタカムナ人においては、それが単に情緒的な発動に留まらず、他の古代人には全く類の無い、直観物理というべきサトリを持つに至ったのです。
現代人が自然科学の洗脳を受け、「お日様の微笑みや風のささやき」等を単なる形容詞としてしか思わなくなっても、依然としてそのような言葉に魅力や郷愁を感じるということは、今の我々の中にも古代人と同じ心が宿っているということです。ただ、それらを感受する人間の直観性能が衰えたということです。古代人の世界をスナホに見直すことが大切でありますが、その古代人の中にあって、真に直観知性の優れた民族が存在し、お日様のほほ笑みや風のささやきに戻って暮らすのみならず、その「お日様や風」の性質(本質本性)を、自然にサトっていたら、我々は謙虚にそれに関心を寄せるべきではないか。
「生命」と心とを一致せしめたカタカムナ人のサトリは、将来の科学で脚光を浴びるでしょう。それは「心」とは<アマ>の重アマウツシであって、<アマココロ>の集団であって、それはすべての生物無生物の現象に潜在するアマナが受け入れ口(アマノカケハシ)となって、刻々にアマから現象に転移するものである、という直観です。「心」が出来たということは、「生命」が発生したことであり、生命=心は、生物のみならず物質にも存在するのです。生物が生物や無生物の摂取によって生き、また生物が死ねば崩壊として無生物になるのも、動物の排泄物が植物を養うのも、皆、すべての<モノ>に共通な<アマ>の<ココロ>に原因があります。
この直観によれば、生体内の元素転換の理、物心一如、依心伝心や、言霊、遠隔治療、虫の知らせ、等と、神秘的に解されていた事柄も、物理的な解明が為されるのです。