気がついたら明日香村にいた話
どこかに行くというのは、目的地を決めてから、重い腰をあげる(よっこいしょ)のが普通だと思う。
私も今まではそう思っていた。
だが、先日、気がついたら明日香村にいた。
全く予定のなかったバスに乗ることになり、(せっかくだから石舞台古墳でも見るか…)と思っていたのに、なんとなく途中下車して、バスの窓から見えた「飛鳥坐(あすかいます)神社」に行ってみた。
明日香村では飛鳥寺にも行ってみたんだけど、この「飛鳥坐神社」がものすごく気持ち良かった。
そのあとせっかくなので、石舞台古墳と高松塚古墳にも行ったんだけど、個人的には、名前も知らない、ふと降りた明日香村と飛鳥坐神社に来るためにこのバス乗ったのか?という気になるほど印象的な場所だった。
よくよく考えたら、旅も人生も「目的地を決めてそこに進む」というのは当たり前だし、「正しいこと」だと思っている。
「なんとなく、よくわからないけど気がついたらバスに乗っていて」「なんとなく、よくわからないけど途中で降りて」「気がついたら神社にいた」って、あんまりないような気がする。
こういう話でよくありがちな、「ここで降りたため今後の人生を大きく変えるキーパーソンに出逢う」とか「何かインスピレーションが降りてくる」という派手な出来事が起きたわけでもなく、ただ小一時間村をぷらぷら歩いてきただけ。
でも、「流れに任せる生き方」ってこういうので、別にこの神社に行ったから人生が変わったというわけでもなく、ただ「なんとなく気持ち良かった」という想い出ができるだけ、というのも、旅(人生)の醍醐味なのかも、と思った。
明日香村歩いているとき(なんで私はここにいるんだろう?)(なんでここを歩いているんだろう?)と何度も自問しつつ不思議な気持ちに包まれ、帰ってきてから父親に話したら「お前、あぶないな~」「大丈夫かー」と笑いながら、「そもそも石舞台古墳なんて、自転車借りて、あのなだらかな坂をサイクリング楽しむ場所で…」と「石舞台古墳周辺の楽しみ方」についてレクチャーされた。
いや、おっさん、石舞台古墳行ったことあるんか?!
あの周辺サイクリングしたことあるんか?!
もしも、行ったこともないのに(なさそうだ)、あの空気感がわかっていそうなのはなんなんだろう。(うちの父親にはそういうところがある)
「高松塚古墳は特に見るもの無かった」という話にも「そうやろう」と同意していたが、高松塚古墳行ったことあるんか?(なさそうなんだけど)
確かに石舞台古墳周辺はサイクリングが楽しそうな場所ではあった。
自転車に乗らないのでその選択肢はなかったが。
しかし、強制終了かかってから、これからどうしよう?と不安に思うことももちろんあるが(当たり前だ)
目的地を決めず、自分の感覚や違和感と向き合って、焦らず、きちんと流れに乗ってみよう、と思えるのは、ひょっとしたらこの体験ができたからかもしれない。