第10話 長岡静子
学校の図書室にいるのは大抵、自分ひとりだった。
本を読むという行為は、SIDを使った学習に比べ効率が悪い。本を読むという習慣をもつ生徒は今ではあまりいない。インタラクティブなSIDのAIによる学習プログラムは、本を読むというという行為の意味の重要性を低くしてしまった。日常生活を営みながら学んでいくという、学習の本質を考えたときに、過去の出来事を蓄積した知識を吸収するという、勉強の本来の意味は、ほぼ瞬時に、ネットワークにある全ての情報をまるでもとから自分が持っていたかのように利用することのできるSIDというデバイスによって失われていた。しかも、まだ夏休み、学校生活が始まる前なので、図書室に自分以外の生徒がいることはまずない。
この場所で誰かと会話をする心構えはまったくできていなかったし、これまでも、そうする必要は一度もなかった。
静子の前に現れた青年は、薄っぺらいヨレヨレのシャツを着ていて、穴の空いたジーンズの細い足が見て取れた。およそ図書室にいるような、もっと言えば本を読むようなタイプには見えなかった。
「結婚したいの?」その男は静子に向かって問いかけた。突然のことに静子は驚く。さっきの独り言が聞こえたのかもしれない。誰かに聞こえるような声の大きさだったのかしら、と静子は思った。
「やぁ、僕はフロイド、はじめまして」
そう言うと彼は静子の腰掛けた前に伏せている本を見つけて聞いてきた。
「難しそうな本を読んでるんだね。」馬鹿にしているような言い方ではない。感心するような言葉の響きがあった。
(いや、結婚したいとか、そういうことではなく。)
静子は、その言葉には気が付かなくて、心を落ち着かせるように自分に言い聞かせていた。(何を考えているんだ、今は結婚についての質問でなく、本について聞かれているんだよ。)
静子は、さっき読みかけていた本を持ち上げて開いたところを閉じた。閉じるとき手が滑って本が床に落ちる。
床の上で開いた本のページにある一文が、目に止まる。
「霊子物理学とクォンタム・エンタングルメント(量子もつれ)。
霊子物理学では、霊子が素粒子間の相互作用に関与すると考えられています。クォンタム・エンタングルメント、つまり量子は、2つ以上の粒子が密接に関連し合う現象で、これらの粒子の状態が相互に依存する特性を持っています。量子は・・・」
難しそうなことが書いている。内容の意味は飲み込めていない。
「ちょっと量子物理学に興味があって、」
照れ笑いしながら、静子は答えた。
「君って頭がいいんだね。」フロイドは静子に近づいて言う。
「いや、そんなことないです」静子は苦笑いをしながら照れた表情を浮かべる。
静子は改めて目の前にいる男性(自分をフロイドと言った)男性に目をやった。
ブロンドの短く切った髪は、少し無造作に後ろに流れるようになっている。深く青い瞳、眼下の高く張った頬骨と、しっかりとしたあごのラインが、丹精な顔立ちを際立たせていた。一通り全体を見てから、足元に目を動かす。
なぜか靴を履いていない。校中では靴を履くのが普通のはずなのに、どうしてか彼は裸足だった。そして、きれいな足の爪をしている。
冷静になって気がついたのだが、この男性がこの学校の人間ではないことが静子にはわかった。初めて見る顔だし、年齢も30歳手前という感じだ、理屈ではなく印象として、この人は違うと感じさせるところがあった。
年齢的にも学生には見えない、もしかしたら教師だろうかと静子は一瞬思ったけれど、見た目はぜんぜん教師には見えない。
桜花学院の先生たちはみな、品行方正でお硬い、堅苦しい真面目な人ばかりだ。そして先生たちはいつもスーツを来ているしネクタイもしている。
昭和と呼ばれた時代の、生真面目な先生というイメージがあるとしたら、まさしく、その通りなのではないか、と十人が十人思い浮かべるようなタイプばかりだ。
目の前にいるフロイドという男の服装は、あまりにもラフ過ぎる。教師とは到底思えなかった。静子は思う、
(先生ではなく、卒業生なのかも。卒業生が、なにか用事があって学校に訪ねてきたのかもしれない。)
フロイドは、周りを見回している。その様子はまるで誰かを探しているような、他に教師や生徒がいないかどうか確認しているようにも見えた。
他に誰もいないことを確認し、フロイドは一歩、また一歩と静子に近づいてくる。
静子は、少し身構える。
自分には多少なりとも武道の心得がある。大抵の男性ならば、勝てる自信もある。
けれども、今目の前にいる男は身長が180センチ以上ある。静子もどちらかといえば背が高いほうだが、彼に比べると体重もなにもかもかなわないくらい華奢だ。
あと一歩近づけば、彼が手を伸ばすと自分に届くくらいの距離になるとき、静子は違和感に気づく。
「ファミリアだ。」
重さを感じさせない、視野感覚だけに表示されるキャラクターの薄っぺらさが彼にはある。とても良くできているし、よく観察しなければ人間と区別がつかないくらいのリアル寄りのファミリアだ。
眼の前のファミリアは、人間のふりをしていた。明らかに人間を演じていた。人間を演じるのは、そのユーザーがそのようにファミリに指示を出したからだ。
静子はあたりを見回す。近くにユーザーが居るはずだ。これはその人のいたずらなんだろうか、ファミリアを使って驚かせようとしているのか、それともからかおうとしているのだろうか。静子は、ここにきて、勉強の時間を邪魔されたことにしだいに不快感を覚え始めていた。
ファミリアはSIDの共有空間内に表されるただの映像にすぎない。それは物理的な干渉はできないけれど、見えたり音を伝えたりすることはできる。
静子は少し後悔した。SIDは共有空間へのARアクセスをオープンにするのがデフォルト設定になっている。同じプラグド同士であれば、AR画像の共有プロトコルと互いに公開していたほうが便利だったし、コミュニケーションのいろいろな手間を省くことができたからだ。
それに学校のような閉じたフィールドであれば、共有しない設定にするメリットはあまりない。これが街の駅や、ショッピングモールのような共有空間であれば、他人や知らない人間との不要な交換を防ぐために共感しないように設定を変える。不必要な共感はストレスに繋がるし、なによりもめんどくさい。
「誰かいるの?」と静子は声をあげる。だが返事はない。
静子は自分のSIDの共感設定を無効にする。その瞬間、ファミリアにすぎないフロイドの姿が消えて無くなる。
こうしておけば、過剰なファミリアの介入に惑わされることもないだろう。
「誰かいるの?」もう一度大きめの声で聞くと、書架の影から中等部の男子生徒が顔を出した。
見たことのない、知らない生徒だけれども制服はこの学校のものだ。
「あなた誰?」と静子は少年に質問した。
「長岡静子さんだよね?」男の子は静子に向かって、そう聞き返してきた。真剣な眼差しは、その少年の見た目よりもずっと大人びている。
「そう だけど、何?」戸惑いがちに静子は返事をした。
その瞬間、フロイドの姿が、静子のすぐ目の前に現れる。
「きゃっ!」静子は思わず言葉にならない声をあげた。
「いったい何なの?」静子は少年とフロイドというファミリアを交互に見て言った。
少年はなにも言わず黙って立っている。
「エイミー、共感空間内をすべてスキャンして!」静子は叫ぶように言った。
共感設定を切っているはずなのにファミリアの姿が見える、なにかが変だ。
図書室の中を静子のファミリア、金色のウツボ、エイミーが渦を巻くように空中を泳ぐ。そしてエイミーは分裂して散らばっていく、分裂を何度も繰り返し、小指の爪ほどのサイズまで小さくなる。そして部屋の中に金色の魚の群れとなって広がっていく。そうすることで、今この場所でで共有されている情報を、その根幹を、基礎の部分を、スキャンする。
大抵のことは解析できるはずだった。
けれども少年は笑っている。そして少年と同じようにフロイドと名乗ったファミリアも笑っている。十数秒のスキャンを終えてあと、魚の群れは凝縮され小さな卵になる。その玉子が割れて元の姿に戻ったエイミーは口元を静子の耳元に寄せ、ささやく。
「彼の名前はワン・ズーです。学院内ではシャオ・ツーと呼ばれています。中等部二年生です。」と。短い言葉は、それ以上の情報を取り出せなかったことを表していた。
図書室は中等部と高等部の共用になっている。初等部の生徒も、静かに本を読むことというルールを守る限りは、利用することができた。
「中等部のコがなんなの?」怒った口調で少しキツめに静子がシャオ・ツーに聞いた。
「ちょっと、あなたの力について確認したいことがあって」とシャオ・ツーが言いながら右手人差し指をピンと立てて、静子の唇にそっとあてた。
急な出来事に静子は驚く。
その指先から微かな青い光が伝わり、静子は身体全体に広がる感覚を覚える。その光は静子の体内を流れるかのように感じられた。数秒後、光は消え、シャオ・ツーは指を静子の唇から離した。
「何をしたの?」静子が警戒心を露わに問いかけた。
「うん、たしかにあなただ、あなたは特別な力を持ってる。」
「特別な力?なんのこと?」静子は怯むことなくシャオ・ツーの目をじっと見つめ返した。彼女の声には、怒りと混乱が同居していた。
シャオ・ツーは少し視線を落とし、慎重に言葉を選びながら語り始めた。
「たぶん、その本を見つけたのも偶然じゃない。霊子についてなにかのメッセージをあなたが受け取った証拠なんだ」
静子は信じられないという表情でシャオ・ツーを見つめた。
「何の冗談よ。」
シャオ・ツーは静かに頷いた。
「事実は変わらない。あなたはその力を意識していないかもしれないけれど、実際に君に力があることは確かだ。」
「力?」
「ちょっと入らせてもらうね」
そう言うと、シャオ・ツーは唐突に静子の唇にキスをした。
その刹那、図書室の空間が歪む、大きな布に描かれた視野にある全ての背景が引っ張れるように後ろへ流れていく。真っ白な何もない空間に移動したあと、少しずつ風景が滲み出してくる。
足元にアスファルトの道路が広がる。電柱があって、複雑な電線が繋がっていく、空は曇天で、今にも雨が振りそうだ。
「ここは来たことがある場所だ。」と静子は思う、けれどもそれは既視感ではない。自分の記憶の中の景色だ。確かに見覚えのある風景、鮮明なイメージが現実と変わらない風景となって空間に広がっていく。
壁が高い、見える家々の屋根や、窓の位置が高い、街のいろいろな者が大きく見える。
4歳の静子の見ていた風景が目の前にある。
「静子おいで」父親の呼ぶ声がする。「しずちゃん、行くよ」そういって母親が私を抱き上げる。優しそうに私を見る母の笑顔。
母はちいさな私を後部座席のチャイルドシートに座らせシートベルトをしっかりと固定する。助手席に母が座るとモーター音が僅かに聞こえ車が動きはじめる。窓の外にはどこまでも青いそらが広がっている。ロードノイズ、聞こえてくる音楽、高速道路を走る車。
そうだ、あの日私は、曽祖父の家に向かうために家族皆で家を出たのだ。
まぶたが次第に重たくなり、眠りかけたそのとき、大きな音、金属音、衝撃、突然の大きな騒音に、車の中が揺れ動く。車のガラスが砕け飛び、ほんの一瞬のうちに周りの景色が一変する。心拍は速くなり、座席ベルトとチャイルドシートにしっかりと締め付けられている。静子は目を開く。
父と母がいるはずの場所に、自動車のひび割れたテールランプが見える。
「ママ!」叫んだが返事はない。
そして、視野にある全ての背景だ、同じように引っ張られ、自分の後ろへ流れていく。真っ白な何もない空間に移動したあと、また背景が滲み出していく。
次に広がったのは病院の天井だった。ベッドに寝ている私は天井を見ていた。身体のあちこちが痛くてたまらない。ママ、どこにいるの、パパ、早く来て、呼びかけようとするけれど声がでない。
「いやだ、こんなのはいやだ。」
脳内で思考が回り続ける、これは私が思い出しているんじゃない。私の記憶を誰かが見せているんだ。だれかが私の記憶を操っている。操っていることがわかる。私が私の記憶をこんなふうに思い出すはずがない。こんなふうに私はあの瞬間を、あの時間を経験していない。
「自動運転の君の車が、トラックに追突した。これは紛れもない事実だ。」誰かの声が聞こえる。病院のスタッフではない。記憶の中の誰かの声ではない。
自分の外側から聞こえてくる声、さっきの男の子の声だ、シャオツーの声だ。
私に、私の記憶を見せているのは彼だ。
ここは私の記憶の中だ、けれどもそれを私に見せているのは、彼だ。
静子の中に怒りの感情が湧き上がってくる。
「私の記憶をかってに見せるんじゃない!」静子が叫んだ瞬間、彼女の身体が16歳の今の姿に戻る。周りの風景が消え、真っ白い空間に一人静子だけが佇んでいる。
もといた図書室の景色が戻ってくる。
一人佇む静子、もとの図書室の、本の並んだ壁や、書架、窓から漏れてくる夏の太陽の光。
そしてまた空間が歪む、さっきと全く同じように大きな布に描かれた視野にある全ての情景が引っ張れるように後ろへ流れていく。真っ白な何もない空間に移動したあと、少しずつ風景が滲み出してくる。
今度は見たことのない、大きな屋敷の部屋。二人の男女の姿が見える。見たことのない人だ。年の頃は50代くらいの男と20代の女だ。
「早ければ来年には実行できると報告があったよ。」
そう言うと、眼の前の男は、お酒だろうか、なにか飲み物を一口飲む。少しずつ飲んでいるからあれはお酒だろうかと静子は思う。
「本当にそんなことが可能なの?」女が男に向かって質問した。
「可能だ、実際に見た。ジェフ・タイレルを知っているだろう?」
「あぁ、サイバーダイン社の会長でしょう。」
「先月彼に会ったんだ。17歳になっていた。彼の孫という形ではあったけれど、彼に間違いなかったよ。ジェファーソンではなく、ジョナサンという名前になっていた。」
「まさか」と女は驚く。「それってよくできた詐欺じゃなかった?」
「そりゃそういうことも疑ったさ。実際に見ても信じられなかったしね。けれども生前のジェフに間違いなかった。実際に会話をして言葉を交わすことで、それが本物なのかどうかっていうのは、伝わるものだからね」
「けれど、それって違法行為でしょう。それに技術的に可能かもしれないけれど、問題がないのかしら、」
「問題ってどんな?」
女はSIDのネットから問題点を検索してを引っ張って来る。
「SIDを利用した人格転移については、いくつも問題があるみたいね。明確に定義できているだけでも九つの問題点が指摘されているわ。
同一性の問題:
誰が「本物」であり、「コピー」なのか、複数の体に同一の人格が存在することによる混乱や同一性に関する哲学的・倫理的問題が生じる。
権利の所在:
人格が転送された後の著作権、財産権、家族の権利等の所在が不明確となる可能性がある。
情報の悪用:
悪意のある第三者による人格や記憶の盗難・改変のリスクがある。
生命の終焉の定義:
脳内に人格が複数存在する場合、どの人格が「死亡」した場合をもって生命の終焉とするかが曖昧になる可能性がある。
感情や精神の安定:
他人の脳に移された人格が、元の脳の感情や精神のバランスと異なる可能性があり、精神的なトラウマや不安定さを引き起こすリスクがある。
人権侵害:
転移を希望しない人への無理やりの人格転移や、逆に自らの意思での人格転移を禁止されることが人権の侵害となる可能性がある。
意識の永遠性:
一度転移が始まった場合、人格の「終わり」がどこになるのか、またその人格が永遠に続く形になるのか等、意識の持続に関する倫理的問題が浮上する。
社会的な混乱:
家族関係、友人関係など社会的な関係が混乱をきたす可能性がある。誰が実の家族なのか、過去の記憶を共有する者との関係性などが複雑になる。
医療・健康への影響:
人格転移技術が脳や心にどのような影響をもたらすのか、長期的な健康リスクが未知数である。
法的・倫理的な問題は置いといて、人格転移後に脳や心にどんな影響をもたらすかは症例が一つもないわけだし。実際にするのは、あまりにもリスクが大きすぎる気がするわ。それに、私は興味ないわね、したいとも思えないし。」
「君はまだ若いからね、僕のように70を超えると、肉体的な死がリアルに感じられるようになるんだよ。僕だって君の年の頃は人格転移には興味なかった。
けれど、年齢を重ねて、肉体の衰えがあることに目を背けることができなくなると。若い身体が、やはりほしいと思うようになるんだよ。」
男の年齢はその見た目の年齢よりもずっと高かった。若い肉体に対する興味や執着があるからこそ、SIDの人格転移サービスに興味を持ったのかもしれない。
そして動画の停止ボタンがまたクリックされる。
停止した二人の映像が引っ張られて消えていき、白い空間が広がったあと、次のシーンがにじみ出てくる。
桜花学院の学院長の姿が現れる。黒い四角いソファーが置いている天井の高い部屋だ。
桜花学院の院長とその男が話をしている。ヨーゼフ・ホフマンのクープスソファに座り向かい合った二人は互いにリラックスしているように見える。
「この度は、多額の寄付をありがとうございます、王大人。」
《あの男の名前は王偉志 (Wang Weizhi)。僕の養父だ。》どこか違う場所から、隣の建物の壁の向こうから直接鼓膜を刺激するような声が聞こえる。
「あなたは人格転移について興味があるそうで。」
ともう一人が話している。その男の姿は、ノイズが掛かったようになっているし、音声も不自然な合成音に聞こえる。この記憶のログに介入して、場面情報を編集しているのかもしれない。他人の記憶ログに介入し、その情報を改変するのも、技術的には可能だが、実際に行うものはいない。その男の正体はどこの誰なのかわからないが、話の内容はSIDを利用した、人格転移サービスの方法についてだということが場面記憶の視界情報からわかる。
その方法は、多くの実績があるということ、
お金さえ支払えば誰にでも安全に実行可能だということ。
この学校内の出来事であるなら誰にも怪しまれないということ。
ノイズが多い、次第に男の話し声が聞き取れなくなっていく。
そして動画の停止ボタンがまたクリックされる。
停止した二人の映像が引っ張られて消えていき、白い空間が広がったあと、今度は背景が白いまま固定される。一切の情報を遮断されたかのようなプレーンな白い空間。
そこに、もう一人の人物があらわれる。かわいい女の子だ。
この学校の中等部の制服を来ている。顔が小さくて柔らかそうな栗色の髪、小柄で華奢な体型をしている。その少女は言った。
「私のことをを奈美と呼んで欲しい」と。そしてその横にはオランウータンの姿をしたファミリアが腰掛けている。
白い部屋にソファーが現れる。三つの黒いクープスソファだ。コの字型に並んだそのソファに右からシャオ・ツーとフロイド、奈美とオランウータンの形をしてファミリア。
私は空いているソファーに座る。そのあとの彼らの話は、私にはとても信じることのできないことだった。
「まず、順を追って話す必要があると思ってね。」とシャオ・ツーが口を開いた。
「君の辛い思い出を見せたのは、申し訳なかったと思う。ごめんなさい。まず最初に君に意識を集中してもらう必要があったんだ。」
「いくら必要があったからって、やっていいことと悪いことがあるわ」と静子はイライラした口調で返す。
「あぁ、本当に悪いと思っているよ。ただ君にあの場面を見せたのは、君の一番深いところへのアクセスをするために、どうしても必要だったんだ。」
「それってどういう意味?」
「言葉じゃ説明しにくいな。大事なのは、リアルがどこのあるのかっていうことなんだけれど、こうやってアンプラグドトーク(SIDのない環境でのコミュニケーション・対話)していても、伝わらないような気がする。」とシャオ・ツーは答えた。そして不敵な笑みを浮かべる。
「ちょっと、またさっきみたいなのをするつもりなの?」と静子は警戒した。
またキスされるなんてたまったもんじゃない、これまで恋人と呼べる人はもちろん、男女交際だけでなく、友達付き合いするしてこなかった静子にとって口づけはとてつもなく高いハードルだった。
「あぁ、僕たちが(キス)する必要はないよ。」そういうと、シャオ・ツーの横の少女が、微笑んだ。
オランウータンのファミリアが、泳いでいた静子のエイミーを掴んで、その頭をじっと見つめたあと、大きく口を開けて、頭から咥えこんだ。
「ファミリアを介して共感空間に入るようにしよう。」そういったのはシャオ・ツーだった。
「プロトコルの変更はこっちでやっておくよ。君のSIDのポート変更もファミリアを通じて都度こちらから指示するから、エイミーに言ってくれればいい」
静子は、そこまで相手に依存するリスクを抱えていいものか、少し不安になった。シャオ・ツーという、同じ学校に在籍しているという少年についてそこまでの信頼を置いてもいいものだろうか、そういう気持ちはあったのだけれど、エイミーのスキャンや、今、彼女にに流れてきているイメージの状況から、インベンシブダイブされても大丈夫そうだと判断した。
その刹那、奈央のSIDは静子の中へインベンシブダイブを行う処理を始める。同時に彼女の視界が一瞬暗転する。奈央が静子の意識の中へ深く潜っていく、それは潜るというよりは、精神が同調する、あるいは同期するという感覚を彼女にもたらす。
奈央の感情が記憶が感覚が静子の中に生まれる。
この学校で起きていること、行われていること、奈央の身体に起こったこと、奈央の記憶や悩みや葛藤、シャオ・ツーの心の中にあること、言葉にできない感情、言い表すことのできない情景や心の動き、その全てが静子の精神と同期する。
身体を乗っ取られそうだということ
それを一緒に防いでほしいということ
隠し事のない生の「気持ち」が彼女の中に、生まれた。新しく生まれたという感じはしなくて、そこに、静子の中に、ずっと前から存在していた記憶として、それが当然の前提のような情報として、あるのだった。
さっきまで静子の中にあった「そんなことは信じられない。」という気持ちが急速に失われていく。
「たしかに、そういうこともあるのかもしれない」という感情が静子の精神に上書きされた。
そして、いくつかの疑問だけが残る。
静子は真面目な生徒らしく冷静にかつ論理的に考える。その考える手順や論理の組立自体に変化はない。
普通なら警察を頼るはずではないか、という疑問は消えることはなかった。
「そういうことは警察に言ったほうがいいんじゃないの」
と言いそうになった。
が、すぐに別の考えが思い浮かび、それを口にすることはなかった。
「普通ならそうなんだけれども、そんなこと子供が言って信じるとは言えないだろうし。実際に犠牲になった人もいないしそれを証明するのは困難だ。」
「人の記憶や人格が入れ替わっているとか、上書きされてしまっているなんていうことをどうやって証明するのか。」と静子は自分の心の中で考えをめぐらす。
彼女は考える。
「おまわりさん!この子の頭の中は大人に乗っとられているんです。」
そんなことを言いながら警察に駆け込んでも、SF小説の読み過ぎだと一蹴されるのが落ちだ。それにシャオ・ツーは両親を殺してしまってる。本当の両親ではないにしても、それでも育ての親だし、法律的には十分親ということになる。扶養権をもった大人だ。
彼がしたことは、彼の後悔の気持ちと悲しみと怒りとともに、静子の中にもあった。
親の記憶、子供を産み育てるということ、子供を生む目的、育てる目的、静子は自分の人生と、シャオ・ツーの人生と、奈央の人生を通じて見るようになる、そして以前とは違った考え方をするようになった自分に、まだ気がついてはいなかった。
両親との思い出、今という時代は、親と一緒に暮らすということが、当たり前だとは言えない世の中だった。
2039年、日本で児童保護法が開始された。最初の年、一割いかないくらいの人がその法律を利用した。そんな法律の世話になるのはどちらかといえば恥だという意識が強かった。
曰く「こどもは親が育てるのが当然」「だいたい、子供を自分で育てないなんて言うのは、おかしい。子供は親のもとで愛情をたっぷり注がれて養育されるべき」という否定的な意見が多かったのだ。
けれども現実的には世の中には碌でもない大人が増えていた。ネグレクトや幼児虐待で命を失う子供のニュースは毎日のように報道されていた。
保護法の制定は、そんな子供たちを救うためっていうならわからないでもない。
「希望すればどんな子供でもっていうのは明らかにやりすぎだよ。」
「いくら子供の数が減っているからと言って、それじゃあ、国家のために子供をつくってるみたいじゃないか」
「そんなことは不自然だ。」
保守的な価値観が現実の問題点の前に立ちはだかる。
特にエリートや特権階級は強く反対した。
保守的な思考性向を持っていながらも貧乏で情報弱者な層も多かった。
静子の両親は資産はそれなりに残っていたものの、考え方や生き方を時代に合わせて変えていくタイプではなかった。というか変化を好まない考え方をするほうだった。
何事も時代の責任、原因を世の中の仕組みのせいにする傾向が強く、その資産は次第に減っていくようになっていた。曾祖母の代にはそれなりに豊かだった不動産や資産も、ほとんど失われるようになっていた。
失われていたから何か他の方法を取るべきだったのだけれども、彼らにはそういう考えが生まれることはなかった。
けれども子供の養育にはお金がかかることも事実だ、毎日のように減っていく財産、そして子供に対してお金を使うことに躊躇しない親。教育を国に任せるっていうのは、そう悪くない話ではないだろうかとも少し思ったりもした。
静子は思う。
「時代の変化についていけなかったからだ。」
児童保護法の施行から7年が経過していた、一番最初にそうなった子供は7歳になっていた。その子供たちの偏差値が明らかに高く、精神的にも安定した子供が統計的にも多かった。実際、各種の知能テスト学力テスト、国が行ったもの民間企業が行ったものすべてにおい、上位を保護法下の養育を受けた子供の割合が八割を締めていた。
年を重ねるごとに、保護法によって養育された子供の優秀さが際立つようになり、それに比例するように親元を離れる子供の割合も増えていった。
2048年。静子は桜花学院小学部へ入学する。保護法の施工からまだ10年も過ぎていないのに、「子供は親が育てる」という常識は、すっかり薄らいで少数派の立場になっていた。
桜花学院では、保護法下の子供は周りにはいない環境だったけれども全寮制で、実際に育てているのは親ではなかった。彼らは全員、親元を離れていたわけで、実際は保護法下の子供たちと同じような環境にあったわけだ。
単に国の管理下で育成されるか、それとも私的な環境下で育成されるかの違いでしかなかった。成長するのに親の存在が本当に必要なことなのだろうか、静子の両親はもし生きていれば、今の彼女を見て、どんな考えを持つようになるのだろうか。そして思いを託されていた彼女は、ほんとうに親の意思を引き継ぐようなことができたのだろうか。
実際の静子はまだ小さな子どもに過ぎないので、そういうことはよく分からなかった。
判断することはできなかった。
シャオ・ツーと奈央の精神にも静子の記憶が同期する。
彼女は勉強することが好きだったという事実が共有される。
本を読む、静子の母親が絵本を読んでくれていた記憶が二人の中にも残っている。
静子の抱いていたいくつかの疑問も同じようにシャオ・ツーと奈央の中に抱かれる。
「子供を育てる、養育することの本当の正解とはなんだろうか、コミュニケーションの手法が変化するなら、育児の方法も変わっていくのは当たり前だ。この学校に入って、私はなにを手に入れたのだろう。」
そんな静子の思っていることが、シャオ・ツーと奈央の中にも生成される。
インベンシブダイブで、静子に、シャオツーの養父に交感したときのイメージを送る、そのリアルさを説明する。
それでも静子は思うのだ。
「シャオ・ツーの言うことが事実かどうかはわからない。
嘘をついていない、それは確か。本当のことでもあるだろう。けれども事実は違うかもしれない。」
イメージやその時抱いた感情が送られたからといって、それが「事実なのか」は確かめるすべがない。SIDでやりとりされるのは決して事実そのものではないのだから、どうしたって自分以外の第三者が、それぞれの視点で見た、それぞれの解釈にしか過ぎないのだから。
「人格を乗っ取られているんだ、それは確かなことだよ。」自分の中に生まれたシャオ・ツーの声が頭の中で響く。
静子は答える。
「シャオ・ツー、それはあなただけの妄想じゃないの?先生はいい人ばかりだし、私は信じない。信じないからこそ一緒に調べる。」
私が知りたいのは「事実」
本を読むのも勉強が好きなのも、私が「事実」を知りたいといつも思っているからなのだ。
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