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AIと紡ぐ現代架空魔術目録 本編第9章第3節『異変』

「はぁ、はぁ…。」
 7月に入った頃からだろうか。身体に異様な疼きを覚えることがたびたびある。体の中を何かがうごめいているというか、自分の生命力とは異なる力が駆け巡っていくというべきか、とにかく、本来あるべき体の自然な具合とは明らかに違う異様を感じるのだ。
 シーファはベッドの上で上体を起こして右手を胸元にあて、口を開いて大きく息をついた。あのニーアの衝撃的な最期を目の当たりにした精神的なショックの後遺症なのかもしれない。しかし、異変の始まりは、その出来事よりももう少し前からだったような気もする。リアンとカレンに訊ねてみると、ふたりもまた、程度の差こそあれ同じような体の異常を感じることがあるのだそうだ。
 とにかく、自分の体の中に自分とは別の存在が息づいているような強烈な違和感が居心地悪い。体中のバランスというバランスが崩れているようで、気持ちが悪くて仕方がないのだ。
 彼女は体を前方に小さく丸め、うつむいてなおも息を荒げながら、それが正確にいつ頃始まったのかを思い出していた。

 アカデミーは教育機関であるとともに実務機関でもあり、同時に、魔法社会における福祉機関としての顔も持ち合わせていた。魔法社会は北方騎士団との間に領土問題を抱えており、軍事的な緊張と小競り合いが絶えなかった。また少し前には、奇死団による辺境集落の損壊が相次いだこともあって、戦災・災害孤児となる子ども達が後を絶たなかった。アカデミーはこうした孤児たちを『アカデミー特務班』の活動を通じて学内に呼び集めて保護し、看護学部を中核とする福祉部門において、何人かの子どものグループごとに専任の担当者を割りあてて、親兄弟のようにしてその孤児たちの面倒をみさせては、必要な教育を施すという社会的な福祉事業に取り組んでいた。
 そして、そうした孤児たちの栄養状態と健康不良の問題を改善し、将来にわたる傷病の懸念を払拭するためとして始まったのが『天使の秘薬』と呼ばれる特別薬の投与であった。アカデミーの説明では、同薬は一般的な病気の予防成分と、質の高い回復・治癒機能を有した水薬、そして万能薬と同等成分からなる総合的ないわゆる予防薬(異国でいうところのワクチン)であり、孤児たちが現在直面している困難を克服すると同時に、将来の健康の安定化を図るという代物であった。事実、それには確かな効果があるようで、アカデミーに移送された孤児たちは、病気や怪我を脱して、その多くが健やかに学内での新しい生活に順応していた。
 効果を確信した保険部局は、その年の7月、つまりごく最近になって、初等部と中等部に在籍する全ての学徒にも『天使の秘薬』の摂取を義務付け、高等部生については、希望者にのみ提供するという体制を敷いた。シーファ、リアン、カレン、そして壮絶な最期を遂げたニーアもまた、7月の上旬に行われた中等部の集団接種の際に、同薬を投与されていた。

 シーファは、その薬の名前が冠する『天使』という文言が気になっていた。あの時にニーアが変容した姿が、まさしくその『天使』だったからだ。頭上に輝くあの天使の輪、背中に広がる翼、魔法光で輝く瞳、それは神話などを通して伝わる、まごうことなき天使の姿であった。
「まさか、あの薬になにか秘密があるのでは?」
 そう考えながら、ベッドを起き出し、全身を濡らす冷や汗をぬぐうために熱いシャワーを浴びた。そうこうしているうちに、幾分その不快感はおさまり、身体が本来あるべき自然な収まりを取り戻してきた。タオルに身を包みながら、ふぅと大きく息を吐いて、シーファは着替えをし、ふたたびベッドに身を横たえた。そういえば、悪夢を見た時や感情が高まった時など、精神的な動揺や高ぶりを覚えた時、あるいは肉体的な疲労感の強い時に、あの異変を強く感じるような気がする。

 時刻は、深夜帯をまわって、そろそろ早朝という頃に差し掛かろうとしてたが、まだ外は真っ暗で、夜が白むにはいくぶんの間があるようだった。もう少し休もう、そう思ってシーファは目を閉じた。夏の夜の静けさがあたりを覆っている。

* * *

 アカデミーの福祉部門を実際に動かしているのは、主に看護学部の教職員とそこに所属する学徒達であった。孤児たちと年齢が近いこともあって、初等科後期過程以降の学徒は、中等部、高等部の高学年生を中心として、それぞれに一団の孤児たちがあてがわれ、その面倒をみながらさながら家族のようにして過ごす仕事が与えられていた。その役割は、身上監護のみならず、学業の支援から法定代理人としての務めまで、多岐にわたっている。同学部の教職員と高学年の学徒にとっては、担当する孤児たちに医療的な措置を施すこともまた、その福祉活動に含まれていた。
 今日も看護学部では、担当の職員たちが、それを手伝う学徒とともに、『天使の秘薬』を孤児たちに投与する任務にあたっていた。

「はい、みんないい子だから一列に並んでくださいね。」
 ネクロマンサーもその仕事に駆り出されているようだ。列をなす孤児たちに、順に『天使の秘薬』を投与していく。それは飲み薬ではなく注射用のアンプルで、担当者はそのアンプルからシリンジに薬液を移し、それを孤児たちの腕に注射していく。ネクロマンサーも同様のことをしていた。

『天使の秘薬』のアンプル。古い魔法の物語に登場する秘術の万能薬『天使の卵』を模したデザインとなっている。

 そのアンプルは、魔法社会の住人ならば誰もが知る古い物語に登場する神秘の万能薬『天使の卵』を模したデザインとなっていて、その卵型のアンプルの中に、薄く魔法光を放つ薬液が注入されている。ネクロマンサーは、アカデミーが着手している『人為の天使の卵計画』の事実を、『アーカム』を通して知る数少ない人物のひとりであったから、薬剤の名称と、その意匠の不自然な一致に強い違和感を感じていた。

「ごめんなさい。だれか2班を手伝ってちょうだいな!」
 奥から支援の手を求める声が聞こえてくる。
「ここを任せていいかしら。手伝ってくるわね。すぐに戻るから。」

 そう言って、同僚が席を外した。期せずして、ネクロマンサーはその場に独りになったわけである。周りには年端のいかない子どもたちしかいない。今しかない!そう思って彼女は、ケージに並べられた『天使の秘薬』のアンプルの群れから1つとって、それをローブの裾に隠した。アカデミーはこの秘薬の管理を徹底していて、外部への持ち出しを固く禁止しており、またその製造レシピについても、担当する錬金学部の担当部署には厳しい緘口令が敷かれていた。それを投与する実務班にもまた、その数について厳しい管理が課せられており、基本的に複数人で処置にあたることとされていた。平たく言えば不正ができないように相互監視の目が置かれていたわけである。そのため、その成分について外部の者が調べる機会を得ることはほとんど不可能であった。その機会を、彼女は偶然にも手にすることができたのである。

 彼女は機転を利かせて、汚損廃棄の書類に損失数を1と記入し、その理由欄に、「職務上の過失によるアンプル破損を原因とする廃棄」と書き記して報告書入れに置いた。そして、その後は何事もなかったかのように、子どもたちへの投与を続けていったのである。
 しばらくして、2班を手伝っていた同僚が戻ってきた。
「順調?」
 そう訊く同僚に、
「すみません、うっかりアンプルを一つ割ってしまいました。汚損の報告書はすでに作成済みです。申し訳ないことをしました。」
 と答えた。それを聞いた同僚は報告書入れに入れられたその書類を手に取って内容を確認し、
「まあ、総数が合っていれば大丈夫でしょ。たまにあることよ。」
 そう言って、書類をもとに戻した。
「さぁ、まだまだ仕事は多いわよ頑張りましょ!」
「はい。」
 そう返事をして、業務を続けた。接種を受ける子どもたちは、注射の針を見た瞬間、俄かに不安と恐怖でその無垢な瞳をくもらせる。その表情がなんともいえず愛らしい。アカデミーでは今、この幼く何も事のわからない子どもたちを狙った、『人為的な人の天使化』という悪辣が秘密裏に行われているのだ。そう考えると、ネクロマンサーの心中は穏やかでなく、怒りに似た感情が込み上げてくる。もしかすると、今この瞬間も、職務を通して間接的にその悪事の片棒を担がされているのかもしれない、そう考えると耐えられない思いになったが、そうした雑念を振り払って目の前の職務に集中した。サンプルは手に入った。あとはこれをアッキーナと貴婦人に調べてもらうだけだ。そうすれば全容の解明に大きく近づく。その期待感が彼女の気持ちを支えていた。
 その後も職務は続いていった。もうすぐ時刻は昼を迎える。

* * *

 その日の昼休憩、ウィザードはシーファとともに練習フィールドに繰り出して個人レッスンを行っていた。秋の『全学魔法模擬戦大会』に向けた特訓の一環である。真昼の陽は天上高く、ぎらぎらと学内全体を焦がすように照り付けていた。ふたりのいる練習フィールドもまた例外ではなく、ろの顔と首筋に汗が噴き出している。
「いいか、お前はいい腕をしているが、力と強さに傾きすぎた。」
 ウィザードが檄を飛ばす。
「魔法は威力だけじゃねぇ。速度と手数、そして狙いの正確さもまた重要な意味を持つ。重い一撃や捨て身の攻撃は、当たればそれで勝負が決まるが、外した時のリスクが高い。術式を引き出す際は、威力だけでなく制御と速度にも意識を払え。」
 具体的に指導するウィザード。
「はい、先生。」
 シーファはそう言って『砲弾火球:Flaming Cannon Balls』の術式を繰り出して見せた。その火球は中等部の1年生によるものとは思えないほど大きく、燃え方にも勢いがあって速度も速い。ただ、弾数が少なく、軌道が単調だ。
「意識をもっとコントロールに割け!複雑な軌道を描かせるんだ。また、輻輳は威力にではなく積極的に弾数に回せ。」
 厳しい指導の声が飛ぶ。
「はい、先生。もう一度やってみます!」
 再度『砲弾火球:Flaminig Cannon Balls』の術式を繰り出すシーファ。今度は弾数が増え、軌道がより立体的になったが、代わりにに威力と速度が犠牲になってしまっている。
「威力と速度をできるだけ落とすな。コントロールと引き換えるんじゃなくて、お前の持ち味に、コントロールの良さを重ねるイメージを持て!」
 ウィザードは難しいことを要求する。
「今度は、『氷礫:Ice Balls』の術式だ。できるだけ、速度を落とさないようにしてありったけ数を増やしてみろ。」
「はい、先生!」
 そう言って、シーファが『氷礫:Ice Balls』の術式を繰り出して見せる。大きな礫が8個形成され、小さな破片がそれらの周りを取り巻きながら撃ち出された。速度は十分だ。
「その感じだ。速度は悪くない。だがもっと早く、もっと多くできるはずだ。術式を放つときにコントロールを意識しろ。輻輳は数に回すんだ。もう一度!」
「はい!」
 さらに『氷礫:Ice Balls』を繰り出す。今度は数が増えた。12個程度の主要な塊が小さな氷片を伴って飛んでいく。速度も先ほどとほぼ同じ速さを保っているが、威力は低下してしまったようだ。
「いいか。意識を割くというのは、威力のことを忘れろという意味じゃない。お前の得意分野を生かしながら、そこにコントロールを上乗せするんだ。お前ならやれる!」
 妥協を見せないウィザード。シーファの肩と胸が大きく上下し、口が開いて息が上がる。その額には大粒の汗がにじんでいた。夏の昼間の暑さも容赦なく、彼女の精神力と体力を追い込んでいった。
 次第に体が熱くなり、今朝方感じたような嫌な不快感が全身を覆う。気持ちが悪くて立っていられない。思わず、シーファはその場に膝をついてしまった。
「おい、どうした?」
 声をかけるウィザードに、
「なんでもありません、ちょっと気分が…。」
 ぽたぽたと流れ落ちる額の汗を腕でぬぐいながら、そう答えてはみたものの体の具合はいよいよおかしくなる。鋭い耳鳴りがして周囲の音がよく聞こえなくなり、目はぐらぐらとした眩暈を起こす。頭が軽くなるような気持ち悪さとともに、吐き気のような不快感が腹部から胸部に駆け上がり、胸が締め付けられるように痛む。シーファは身体を二つ折りにして、両手で胸を押さえたままその場にうずくまった。その身体を怪しい魔法光が覆っていく。明らかに様子がおかしい!
「どうした?どうしたんだ?」
 異変に気付いたウィザードがその傍にかけよりその身体を抱きとめようとする。シーファの身体は異常に熱い。
「おい、大丈夫か?」
 そう問うも、彼女は弱弱しくうなづいて見せるだけで、もう声をだせなくなっていた。そうしている瞬間にもその身体を包んでいる魔法光はいよいよ強くなり、シーファの全身を光り輝く透明なエーテル状に変化させていった。それはまさしく、先日の選抜試合でニーアが見せた『天使化』の過程そのものだった。

全身がエーテル化し、魔法光を放つシーファ。背中には光の翼のようなものが形成されつつある。

「こりゃまずい。」
 そういって、あたりを見回すウィザード。何とかしなければ!しかし、原因も対処法もわからず、ただおろおろするしかない。せめて誰か医療関係者が近くにいないか?そう思って、周囲を隈なく見回す。アカデミーの中庭沿いの回廊に目をやったその時だった。偶然にしてパンツェ・ロッティ教授と並んで回廊を歩くリセーナ・ハルトマンの姿が目に入った!。リセーナは何用かあってパンツェ・ロッティを訪ねていたのであろう。その堂々としたふるまいから察するに公式の訪問であるようだ。彼女なら!そう思って、ウィザードは大きく手を振って呼びかけた。
「リセーナさん!」
 その声に気づいたリセーナがこちらを振り向く。その目にウィザードの姿が映った。
「大変なんだ。とにかく早く来てくれ。頼む、あんたの助けが要るんだ!」
 ウィザードのその悲痛な声を聞いて、リセーナは駆けてきた。教授はその後をゆっくりとついてくる。
「お願いだ。これを見てくれ。」
 ウィザードがシーファの様子をリセーナに見せる。
「これは例の現象だろう?なんとかこの子を救えねぇか?」
 ウィザードがそういうが早いか、リセーナは、シーファの胸元を見やって言った。
「卵が形成されているんだわ。今ならまだ間に合う。摘出しましょう。」
「摘出ったって、どうやるんだよ?」
「大丈夫よ。『人為の天使の卵』による天使化は魔法的な作用だから、魔法によって止めることができるわ。またその原因は、彼女の中に何らかの方法で注入された因子が資質と反応して体内に卵を形成していることよ。それを取り出せば彼女を救うことができるわ。任せておいて。」
 そういうと、彼女は先日の『竜の瞳』を取り出し、シーファの胸元にかざして術式の詠唱を始めた。竜の目を介して術式が魔法効果を展開していく。シーファの首元、鎖骨のやや下側に、光り輝く魔法陣が広がって、そこから卵状の物体が浮かび上がってきた。

胸元に広がる魔法陣の中心から卵様のものが浮かび出てきた。

 リセーナが魔法陣の上に静止したそれを静かに両手に収めると、魔法陣は閉じ、シーファから放たれていた魔法光はなりを潜めて、身体のエーテル化も止んで、元に戻った。シーファはウィザードの腕の中で、上体を仰向けにし、目を閉じたまま口を開いて荒く息をしている。顔にはひどい汗で、非常に苦しそうであったが、少なくとも、身体的な異変の兆候だけは完全に消え去っている。どうやら助かったと思っていいようだ。
 リセーナの手には、なんとも不思議な卵様の物体があり、それはまるで生きているかのようであった。

シーファの身体から取り出された卵様の物体。これは一体何に用いるのか?

「大丈夫なのか?」
 おそるおそる訊ねるウィザードの顔を見て、
「ええ、これを取り出してしまえば天使化することはないわ。」
 リセーナは微笑んで見せた。
「でもなんでこんなものがこの子の身体で形成されるんだ。意味が分からねぇぜ。」
「それは…。」
 リセーナがそう言いかけた時、彼女の言葉を遮るようにして、
「何事かね?」
 という声がして、パンツェ・ロッティが様子を覗き込んでいる。
「何でもありませんわ。この子が具合を悪くして倒れたので、介抱していただけです。この暑い季節に激しいトレーニングをしたので熱にやられたのでしょう。」
 そう言って、リセーナは教授の方を向いて立ち上がり、後ろ手に卵をウィザードに渡した。ウィザードは教授に気取られぬように、そっとそれを手に取ってローブの裾に隠した。
「君の教育熱心には大いに関心するが、時節のことを考えて、指導はほどほどにしたまえよ。」
 教授がウィザードにくぎを刺す。
「すまねぇ。今後は十分に配慮するよ。」
 ウィザードは素直にその指示に従ってみせた。
「よろしい、では行こう。君は彼女を医務室に連れて行きたまえ!」
 そう言うと、教授はリセーナを伴って回廊の方へ戻っていった。

* * *

 ふたりは何事か言葉を交わしているようであったが、その内容を聞き取ることはできなかった。それよりもシーファだ!ウィザードは急いで彼女を医務室に連れて行く。ちょうどそこには、先ほどまで『天使の秘薬』の投与作業をしていたネクロマンサーがいて、午前の職務の後片付けをしているところだった。
「ちょうどよかった。」
「どうしたのですか?まぁ…。」
 ウィザードが背負っているシーファを見てネクロマンサーが驚いた顔を見せる。
「例の『天使化』だ。すんでのところで偶然居合わせたリセーナさんが助けてくれた。とにかく、こいつを休ませてやりてぇ。ベッドを借りられるか?」
「もちろんよ。さあ、こっちへ。」
 そう言ってネクロマンサーは寝台へ案内し、ウィザードがシーファをそこに寝かせた。その表情はまだ苦しそうであったが、息はずいぶんと落ち着きを取り戻していた。意識はまだ戻っていないようである。
「こいつの身体から、こんなものが出てきた。」
 そう言って、先ほどの卵様のものを見せだ。
「これは、『天使の卵』みたいですね。」
「『天使の卵』ってあのおとぎ話のか?」
 思わず大きくなりそうな声を押し殺してウィザードが言う。
「私にもわかりませんが、似ていませんか?」
 そう言って、ネクロマンサーは自分のローブの裾から、先ほど失敬した『天使の秘薬』のアンプルを取り出して見せた。
「確かにな。この薬がおとぎ話を下書きに、『天使の卵』を模して造られたとは聞いていたが、こうもそっくりとはな。無関係ってことはなさそうだぜ。」
 ふたりはお互いの持ち物を見やる。
「とにかく、これらを『アーカム』に持っていって、調べてもらおう。」
 大きくうなづいた後、ふたりはそれぞれその持ち物をローブの裾に仕舞った。シーファの目がかすかに動く。どうやら意識を取り戻したようだ。やがてその瞳が姿を現す。
「ここは…。」
 医務室の天井を眺めるシーファ。
「気が付いたか?」
 彼女の顔を覗き込んでウィザードが訊いた。
「先生、私は…?」
「心配いらねぇ。もう大丈夫だ。悪い夢を見たと思って今は眠るといい。」
「でも、私、あのときのニーアと…。」
 そう言いかけるシーファの唇に人差し指を縦において、
「大丈夫。あたしを信じろ。全部解決した。だから何も心配しないで今はとにかく安め。怖いことはもうすんだ。」
 そう言ってきかせた。
「はい、わかりました。」
 そういってシーファは再び目を閉じた。その横で、ネクロマンサーが眠りへと誘う術式を詠唱している。シーファはすぐに静かな寝息を立て始めた。
「とりあえず、急迫の危機は去ったな。」
「そうですね。でもすべてはこれからです。」
「まったくだ。」
 ふたりの先生はそう言葉を交わすと、終業後にソーサラーを誘ってアーカムに行く約束を取り付けた。
「すまねぇが、シーファのことを頼むぜ。」
「わかりました。任せてください。」
 そうしてそれぞれの仕事に戻っていった。

* * *

 放課後、ウィザード、ソーサラー、ネクロマンサーの3人は、『天使の卵』と『天使の秘薬』のアンプルをもって、M.A.R.C.S. の暗号をたどって行った。今、いつものカウンターにいる。今日のドアは押し開きであった。

「なるほど、そんなことがあったのですね。」
 そう言うと、少年アッキーナはカウンターに置かれた『天使の卵』を手に取って、それをまじまじと眺めた。
「確かにこれは本物の天使の卵のようです。人為的に生成されたものではありますが、本当に人間を天使化させる力を持っているようですね。ちなみにこれは『ミカエルの卵』です。」
 そういって、その卵をウィザードの前に置いた。
「人間を天使に、ってそんなことが現実にあるのか!?」
 ウィザードが茜色の瞳を丸くする。
「はい。『天使の卵』は本当に存在し、おとぎ話の通りに人間を天使化して、使用者に『天位:Angel』の位階を授けます。その力は肉体的にも精神的にも大きく拡張され、神秘に直接アクセスして特別な術式を引き出せるようになるんです。ただ、人間をやめないといけなくなりますが…。」
 いつものように冗談ぽく語るが、その瞳は笑っていなかった。
「完成していたんですね…。僕の身体に埋め込まれているのはこれの試作品で、天使になれない代わりに、おかしな変身能力が身につきました。以前、マークスがここを襲撃したとき、僕に向かって『失敗作』と言ったのを覚えていますか?」
 3人には確かにその記憶があった。
「姿形だけは、僕でも天使に似せることはできるんです。でも、これとは違って、僕の身体の中のは、身体や魔法力には特段の変化を与えません。文字通り失敗作というわけです。」
 そう言って彼は自虐的な笑みを浮かべた。ネクロマンサーがそんな彼を気遣う視線を送ったが、
「ありがとう。大丈夫ですよ、気にしないで。僕はあの方に救われましたし、またこの卵による力は結構いろいろなことに役に立ってもいるので、これはこれで僕の人生なんだと受け入れています。」
 そう言って微笑んだ。
「しかしよぅ、アッキーナの場合はそれを『埋め込まれた』って話だったが、シーファの場合、そんな兆候は全くないぜ。いったいどうやって、そんなけったいなものが、あいつの体の中で生成されたっていうんだ?」
 その指摘はもっともだった。その美しいエメラルドの瞳を中空に泳がせてしばし考えてからアッキーナが言った。
「おそらく、なんらかの魔法薬でしょうね。これまで天使化した学徒さんというのは、それなりに強い魔法力をもった優秀な方だったのではありませんか?」
 そう訊くアッキーナに、ウィザードは思い当たる節があった。
「確かにそうだ。これまでにあたしの目の前で天使化した教え子はふたりだけだが、どちらも今年の中等部1年のウィザード科を代表する秀才だ。」
「やはりそうでしたか。おそらくふたりは何らかの因子を事前に注入されていて、それが彼女たちの内側に備わる強い魔法の資質と反応した後、なんらかの契機をひきがねとして発動したんでしょうね。おそらく、これからもそういった事態が散見されると思いますよ。」
 アッキーナは3人の顔を見やった。
「因子、というのはこれに関係がありそうですか?」
 そう言ってネクロマンサーがローブの裾から『天使の卵』のアンプルを取り出した。それを手に取って、まじまじと眺めるアッキーナ。
「調べてみないと何ともいえませんが、お話をうかがうに、いまアカデミーはこの薬を初等部、中等部の学徒さんを中心にして無差別に投与しているのですよね?特定の素質にしか反応しないことを考えると、サンプルは多ければ多いほどいいわけです。この薬が因子の投与にかかわっている可能性は高いですね。これを預かってもいいですか?」
 アッキーナはネクロマンサーの同意を求めた。彼女は頷いて応える。アッキーナが続けた。
「でも、そのシーファさんはどうして天使化せずにこの卵を取り出せたのですか?僕の知る限りでは、卵の摘出は基本的にそれを内包した人物が死亡してからでなければできないはずです。僕自身、この卵を取り外したら死んでしまいますので。」
「それが…。」
 ウィザードが説明を始めた。
「リセーナ・ハルトマンって人がいてよ。その人が助けてくれたんだ。『竜の瞳』をシーファの身体にかざして術式を展開すると、その身体に魔法陣が広がって、そこから卵が浮き出てきたんだ。それを回収したんだよ。」
 かいつまんで状況を説明する。
「そうでしたか。おそらくですが、『竜の瞳』に特別な魔法効果があるというよりは、リセーナさんでしたか、その方が行使した術式に秘密があるのだと思います。学徒の皆さんを救出するには、完全に天使化をしてしまう前に、その体内から『天使の卵』を摘出するしかありません。」
「でもよ、どうやって因子との素質の反応を確かめるんだ?転身が始まってからっていうんじゃあリスクが高すぎるぜ。今日は偶然うまくいったけどよ。」
 ウィザードが懸念を表明する。
「その通りです。残念ながら因子が作用したかどうかを確かめるには、その術式を行使して、卵が現れるかどうかを調べるしかないでしょうね。ですから、保険部局の方々にあらかじめその術式を伝えておいて、健康診断などの折にしらみつぶしに調べていくよりほかないでしょう。」
 アッキーナはそう答えた。
「わかりました。事が事だけに、今の段階で保険部局の全体にそれを周知することはできません。何よりその術式がまだわかりませんから、当面は可能な限り多くの健康診断に出向くようにして、その場で私が対処します。自分で蒔いた種を自分で刈り取るようで気持ち悪いですが、現時点ではそれしか手がないのは事実です。」
 ネクロマンサーは覚悟を決めたようだった。
「でもそんなことをしていたら、あんたの身体がもたねえぜ。」
「大丈夫ですよ。伊達に鍛えていませんから。おふたりも、学徒達に異変を感じたらすぐに私を呼んでください。また念のためその術式を身につけておいてください。」
「そうね。私たちだけで事態打開にあたるしかないわね。で、その術式についてはどうするの?」
 ソーサラーが訊く。
「インディゴ・モースのリセーナさんを訪ねるよりないでしょうね。」
「そうだな。」
 どうやら意見がまとまったようである。3人の議論の行く末をエメラルドの瞳が見守っていた。
「それじゃあ、お話が決まったところでお茶にしませんか?今日は『神秘のしずく』です。淹れてきますからちょっと待っててくださいね。」
 そう言っていつものように奥の台所らしきところに消えていった。

 しばらくして、お茶を携えたアッキーナが戻って来る。
「お待ちどう様でした。『神秘のしずく』です。」
 そう言って彼が差し出すそのお茶は、青白い不思議な魔法光をたたえてカップの中を揺蕩っており、どこなくべランドリムに似た面持ちであった。

アッキーナが淹れてくれた『神秘のしずく』のお茶。

 それは甘酸っぱく、すこし苦みのある不思議な味覚のお茶で、4人はそれを囲んでしばし歓談した。

 今、アカデミーで、組織的な恐るべき暴挙が繰り広げられようとしていることは間違いなかった。否、それはすでに牙を剥き始めている。事を急がなければ、全学徒がその毒牙にかかることになってしまうだろう。そんな悪辣を許すことは断じてできない。何より、愛すべき教え子たちの身をこれ以上の危険にさらすことはできないのだ!

 アーカムからの帰り道、3人は今後について綿密に打ち合わせ、まずは早急にインディゴ・モースにあるハルトマン・マギックスのリセーナ・ハルトマンを訪ねることにした。

 夏の陽が大きく西に傾き、大地に近い地平線あたりの空が赤く焼け、それとは対照的に天上の近くは濃紺の闇に覆われている。紺と橙色が美しいコントラストを奏でていた。夏の星座がそのキャンバスを彩り始め、生暖かい風が通りを吹き抜けていく。暑さは一層厳しくなるばかりで、先が思いやられた。8月はもうじきである。

to be continued.

AIと紡ぐ現代架空魔術目録 本編第9章第3節『異変』完


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