ラ・カンパネラのために

 

 高松からの新幹線が停まる新横浜まで、父方の叔母である葉月とその娘の茉莉が迎えにきてくれたという。彼女たちは喧騒の轟くホームで二人、並んでいた。
「……どもッス、久しぶり……」
 父方の親族と言えど当の父は俺が産まれる前に海難事故で鬼籍に入っていて、俺は無職で、平成のはじめごろ産まれてきて、ついでに精神の病で障害者手帳を持っていた。緊張する。
「あなたのお父さんの三十回忌以来ねえ。あら健ちゃん、金髪にしたの、似合ってる」
叔母はそう言って微笑んだ。茉莉は一歩引いて会釈し、微かな声で、久しぶり、と発した。深紅のマットな唇が目を引く。声はハスキーだ。黒いバケットハットを深く被っていて表情が見えないが、肌の色が、ほぼ半透明と感じるくらいに白い。
灰色と茶色の間みたいな色の生地と透けるレースが二枚重ねになった白い小花柄のワンピースを着ている。
「……うん、久しぶり……」
「お腹減ってる?……大丈夫そうならこのままマンション、行っちゃうけど」
叔母だけが明るい。緊張をほぐしてくれようとする。
「あっ、新幹線の中で弁当食いましたんで、いちお、大丈夫です」
「ほんと?新横浜駅って周りに美味しいお店たくさんあるよ。私たちはさっき軽くカフェ寄っちゃった」
「えっ、あの、茉莉、人混みそんな連続とかだと、辛いでしょうから。きょうは迎えにきてくれてありがとう」
「……どういたしまして。私、とんぷく薬持ってきたし、最近調子いいから、大丈夫」
 茉莉が口元だけで微笑む。彼女は鬱病を患っている。新卒で入った大手企業でパワーハラスメントの被害に遭ったらしい。既に辞職し、それから半年くらい経とうとしていた。
 俺はこの茉莉が大好きだ。可愛らしい。猫のように気まぐれで恣意的で、そのことに関して無自覚だ。しかし、礼儀正しく義理堅いし、言葉遣いも美しい。いつも感情的でない。そして、俺と同じアスペルガー症候群の診断が二十三歳の夏に下りていて、それにくわえて(生まれつきの)脳性麻痺も持っている。歩くと、かくん、かくん、と体が揺れる。背は百四十五センチと、女性にしてもやや小さめ。そんな「外から見た部分」も、一個独立した芸術のようなオーラを放っている。街で他の身体障害者を見ても感じないから、茉莉特有のものだ。
 茉莉と叔母と叔父の住む家は桜木町にあるというので、また電車に乗るのかと思いきや、近くのコインパーキングで自家用車が待っているらしい。
「だって、スーツケースとリュック持って日曜日に電車に乗るなんて疲れちゃうわ。きょうはパパのワーゲン借りてきたの。こっちよ」
 叔母に言われるがままついて行く。茉莉は今年二十五になるが、母親に手を引かれている。
 俺は小豆島の2LDKマンションで母親と二人暮らしだ。高等専門学校を卒業して上京し、入った企業でやはりパワーハラスメントを受け、双極性障害を発症。頭の調子がどうもおかしいのでメンタルクリニックを受診したら、その診断と同時に、産まれ持った軽度のアスペルガー症候群が判明した。職を辞し、障害者手帳を取得。それは等級が一から三まであって、数字が若いとより重態、というシステムになっているらしかった。俺は二級だった。福祉サービスを何種類か経験した。就労移行支援(ビジネススキルを学ぶ教室のようなもの)にて他の利用者とトラブルになり俺側が出入り禁止をくらったのはトラウマで、かつ秘密。茉莉が手帳を持っているかどうかは知らない。俺はこの度母に、「ゴロゴロしているならお中元を持って叔母家族に会いにいけ」と発された。引きこもりがちで、出かけるといえば近所の居酒屋オンリーの息子(オッサンの坂に片足がとどきそうな年頃)がいてはむさくるしい、閉塞的だ、ということだろう。本島滞在は一週間の予定になっていた。その間は禁酒、とも命ぜられている。叔母も叔父も職を持っているので、平日昼間は茉莉とふたりで過ごすことになる。
 叔父から借りてきたというフォルクスワーゲンは漆黒で、威厳の塊。車体に傷をつけないようにそっとトランクを開け、俺の白いスーツケースを入れる。ヤのつくダークヒーローが主人公の映画なんかだと、布でグルグル巻きにされた人が転がり出てくるところだが、さすがにいま、それはない。叔父は眼科医だ。叔母は丁寧にも、茉莉に助手席の戸を開いてあげていた。俺は横にこすらないように細心の注意を払いながら後部座席に乗り込む。麝香が、薄く漂っていた。ベルトを締める。シートに凭れる。まだ緊張している自分がいた。
「ベルトした?音楽かける?」叔母が運転席から問う。
「……サティのジムノペディ」茉莉。
「クラシック、ないわよ。古いジャズかサザンオールスターズしかない」
「……アマゾンミュージックでいい」
 茉莉は斜め掛けの小さな白いバッグから、白いグーグルピクセルを出した。音楽を設定する手は小さくて細い。やがて聞きなれないピアノの旋律が流れる。

 玄関でスーツケースの足を拭いて、健ちゃんのお部屋、と通された四畳半は、すっきりとしていた。中型のスチールロフトベッドがあり、下のスペースが服掛けになっている。ベッドから見やすい位置に小型のテレビがあり、壁に向かって小さなデスクが鎮座していた。足元には毛足の短いラグが敷いてある。
 「あ、いろいろ支度してくれて、ありがとう、ございます……。一週間お世話になります」俺は部屋と叔母と茉莉に、一遍に言った。カーテンの隙間から外を見ると、遠くに大観覧車が見える。叔母は台所に入り、なにごとか調理している。バターの焦げる香りが漂ってくる。茉莉は洗面室で手を洗ってうがいをし、ダイニングでハットを脱いだ。アイシャドウの紫が映える。顔のつくりは可愛い系ではなく、端正、というか、凛々しい、というか、女性に使うのは妙な表現だが精悍、というか、そんな具合である。やや紫がかった濃い紺色の瞳をしている。カラーコンタクトではない。地の色。これは隔世遺伝で、うちの血筋にはたまに現れる(我が亡父はもっと鮮やかな紫だったらしい)。
「あっやべ、お中元。葉月さん、これ、うちからです」俺は部屋に戻ってからダイニングまでまた行って、母から持たされた品物を広げた。小豆島産オリーブオイルの大瓶と魚のオイル漬けの缶。
「あらあら、ありがとう、重かったでしょう。嬉しいわ。与利子さんがくれるオイル、この辺りのスーパーだと高いの。気を使ってもらって悪いわ。あとでお礼のメールするわね」
「いえ、お気づかいなく……」俺は縮こまった。女性陣がありがたがって贈ったり貰ったりするに値すると考えるオイルの価値が分からないからだ。
「茉莉。ボーッと座ってないでお礼言いなさい。あなたが好きなオリーブオイル、こんな大きな瓶を暑い中持ってきてくれたのよ」
促されて、茉莉は渋々といった様子でもなく、礼を述べた。可愛い。こいつのためならどんなに重かろうと持ってくる。
 茉莉が不意に立ち、冷蔵庫を開けた。背伸びして食器棚から背の高いコップを取り、何かをトプトプと注ぐ。
 「……健ちゃん、汗かいてる、これ」
カウンターキッチン越しに渡される。
「ありがとう。コーヒー?」
「……そう、召し上がれ」
「いただきます」
 香り豊かなそれは雑味がなくスッキリした味わいだった。まるで、オシャレなカフェのメニューだ。茉莉と差し向かいになって座る。動作が一々、ちょこまかして可愛らしい。叔母が俺たちの前にひと皿ずつ、温めたハンドタオルと共に置いた。続いてナイフとフォーク。ラピスラズリ色の皿に盛られたフレンチトーストだった。パンが食パンでなくバゲットなのと、粉砂糖がかかっているのと、リンゴの煮たのが添えられているところが実家と違う。
 「午後休憩よ」叔母自身はいらないらしく、茉莉にコップを用意しコーヒーを注いでやって、満足そうに俺たちを眺めている。「健ちゃんが素敵なものを持ってきてくれたから、夕飯はパスタとサラダでいいかな、どう?」
「あ、うん、作っていただけるだけで、そりゃもう」
「腰が低いのね」
「いちおう、家事、だいたい仕込まれて来てるので、言ってくれたら手伝うよ」
「あら、心強いわ」
「この一週間は男手が増えたと思って、俺のこと、こき使って」
叔母はくすくす笑った。優しいのね、と言う。
 叔母も茉莉も(そして叔父も)、俺の疾患を知っている。
 俺の亡父と、この、にこやかな叔母がきょうだいで、物理的な距離の問題もあって付き合いはさほど濃くないが、会えば堅苦しくなく親切にしてくれる。俺が会社員だった時代、東京に暮らしていた頃はたまに会って、当時学生だった茉莉と原宿や渋谷や新宿の美術展に行ったりした。彼女は当時からいまもなお醜形恐怖で、いつも化粧が濃く派手。持ち歩き化粧ポーチも、でかかった。美容系の専門学校生のようだった。
 茉莉の経歴はこうだ。近所の公立中学校でいじめに遭って不登校になり、芸術系高等専修学校を経て通信制大学の社会福祉学部に入り、精神保健福祉士の資格を取って卒業した。他にも、茉莉は努力家で、三歳でピアノをはじめ、十六歳で全日本ピアノ競技会にて金賞を獲った。俺は楽器に詳しくないが、当時のクラシック音楽界などはざわめいたそうだ。若き天才、として彼女を盛り立てた。彼女自身が極度の人見知り故メディアに出るには積極的でなかったものの、数件の、どうしても、というインタビューには真摯に応じたという。福祉コンサートの出演依頼もあったが、それは丁重に断ったらしい。
 さて、フレンチトーストは美味い。口に入れるとふわっとほどけて、たいして噛まないでも消える。じゅわ、と香ばしい、甘い卵液がしみでる。
「美味いッス、コーヒーといい、カフェみたい。実家じゃ出ないな」俺は正直に感想を述べた。茉莉が、フフ、と微笑む。
「……与利子さん、おやつ、どんなの作るの」
「子が野郎で成人で、自分がフルタイムで働いてると、おやつを作る、っていう発想がなかなか薄れる、って感じ。たまにフルーチェ作ってくれるくらいかな。でもこんな、リンゴの煮たのとかは添えない。どんぶりにデン、とやってある」
「……ふうん。ご馳走様でした」
茉莉は小さな口で、フレンチトーストを完食していた。残ったコーヒーをくい、くい、と飲む。小さな体躯に濃い化粧とアイスコーヒーの組み合わせは映える。コップの飲み口と茉莉の顔のサイズが同じくらいだ。彼女は空いた器とカップをシンクに置き、お先に失礼、と言って自分の部屋に入った。しばらく間をおいて、ピアノの音色。リストの「ラ・カンパネラ」だった。
叔母がひそやかに言う。「金賞を受けたときの課題曲を弾くのが、茉莉の日課なの。1回でもミスタッチがあったら、最初からやり直し。調子のいい日も悪い日も、起き上がれないくらいではない限り、必ず。自分が社会に適応していた美しい過去のシンボルなんでしょうね」
やがて曲が終わる。茉莉が部屋から出てきた。
「……どうだった、ママ」表情から緊張が読み取れる。
「ちょっと固いかな、けど、とっても上手いわよ」
「……健ちゃんは」飛んでくるとは予想していたがドキリとする。
「俺にはピアノの評価は難しいな。公文式と水泳……と書道か、そのくらいしか習い事してなかったから。でも、なんつーか、聞いてるとおやつがより一層美味くなった」
「……よかった」緊張した顔のまま、部屋に引っ込んだ。「……元気があるうちにシャワーを浴びる」部屋着を抱えている。叔母の頷きを確かめてから、洗面室に入った。
 シャワーの水音、やがて髪や体を洗う音が混じる。
 叔母がまた低く言う。「あしたから、お昼と午後のお茶、茉莉が用意するから。手の届かないところがもしあれば、ちょっと助けてやって」
「あ、はい、うん、もちろん」
「甘やかして育てたから、ワガママ︎︎なところもあるけど、万が一度が過ぎたら叱って平気だからね。よろしく」
「あ、俺も結構ワガママなんで、その辺は相談して折り合いをつけるよ」
「わかった。ありがとう。健ちゃん、頼もしい」
「えっ、俺ほど頼りない金髪モヤシマンもいないと思うけど」
「いやいや、『障害のある歳下の子の面倒を見る』じゃないスタンスでいてくれてありがたいなって。相談して折り合いをつける、なんて、対等に思ってないと出ないから」
 
 叔父は七時過ぎに帰宅した。俺を見て、「おっ、金髪。バンドかなんかやるのか。眼鏡も外したんだ。それにしても健翔くん、久しぶりだなぁ。痩せた?」と感慨にふけった。
「こちらこそお久しぶりです。お世話になります。体重は変わってないスけど、ちょっと筋トレをかじって、多少引き締まったかなと、あとコンタクトにしました」これは本当だった。今回の本島上陸が決定してから二ヶ月半、朝晩五キロずつ、ゆるやかに走った。ほかに、スクワットと腹筋、背筋もかなりの回数やった。コンタクトレンズは外すと左目だけ内斜視になる。「本島の、お洒落な家にお邪魔するのだからそれなりにこざっぱりしていないといけない」という田舎者の憧れからくるこだわりだった。髪も普段はセルフブリーチにセルフカットなのを昨日、中学の同級生の実家の美容院で、東京での修行を終えたばかりだというそこの妹にカットとブリーチ、聞きなれない種類のトリートメントと縮毛矯正までお願いした。全部で一万五千円もかかった。
「ねえ、似合ってるわよね、金髪」叔母が調子を合わせてくれる。「ミニシアター映画に出てくる不思議な青年みたい」
褒められて……いる、の、だよな。お洒落な人達が言うのだから間違いない。叔母と茉莉が台所に立ち、パスタを茹で、青紫蘇を刻む。鷹の爪とニンニクを、これまた刻んで熱したオリーブオイルの中に入れる。俺が持ってきた魚のオイル漬けを、パスタに絡めながら炒めて醤油を垂らし胡椒を振る。何か手伝おうか、と数回席を立ったが、大丈夫よ、と言われているうちに完成してしまった。
 夕飯の席での話題は、それぞれの近況や、俺の父の三十回忌の思い出話だった。
「あの宴席では驚いた。本家のご邸宅も立派だし、何より健翔くん、酒が強い。ドイツ人みたいにビールをグビグビ飲んで涼しい顔している、今でもお酒はやるの」と叔父。
「あの時よりは量を減らしてますが、それなりに。ちなみにこの一週間は禁酒の令が出てます」
「ほう、だんだん健康志向にシフトチェンジか。あの頃より顔色もいいし、こうして遠出して会いに来てくれるし、うれしいよ。無理はするなよ、何事も」
「はい。この頃は持病もまあまあ落ち着いてきてまして、担当医に、横浜の親戚の家に一週間行くと言ったら、是非行って感想を聞かせてくれと。大観覧車は本当にでかいのかと。診察も最近は世間話みたいな感じで」
「それは何よりだ。今度の金曜日、夫婦で合わせて有給を取ったから、みんなでみなとみらいに行こうか。もちろん体調次第だが。茉莉も行くだろ。平日だし、空いているさ」
「……うん、行く」
 茉莉は化粧を取ると、より精悍に見える。大河ドラマで何年か前に主役をやったあの俳優の若いときに似ている。彼の名前が思い出せない。灰皿を投げる有名舞台監督に白アスパラガスと呼ばれていた、あの細身の俳優。
 それは一旦置いといて、茉莉の部屋着姿は、これまた色っぽかった。シンプルな濃灰に黒の組み合わせのルームウェアセットだが、「秘められた姿」を見ている感じがしてドキドキする。小さな唇がパスタの油分で光っていた。
 夕飯を終えると茉莉は洗い物をはじめ、叔母と叔父は明日の仕事の支度、俺は風呂を借りた。タオル地の、濃紺の半袖パジャマと下着、歯ブラシセットを持っていく。洗面室が広い。洗面台がふた口ある。
脱いだものを畳んで脱衣カゴに入れる。ナイロンと綿のカーゴパンツにポロシャツと下着だから、色移りするようなものはない。ポケットにティッシュやレシートは入れていない。三回確かめたから間違いない。浴室に入る。さらさらの湯が浴槽で光っていた。「おいでよ」と呼びかけられているようだ。飛び込みたいのを堪えてかけ湯をし、茉莉のものと思われるシャンプーをそっと手に取った。プッシュすると桜の香りがした。金髪を丁寧に洗う。からだの全てが「茉莉」という存在に染まっていくような感じがした。俺はいま、茉莉の情報を組み込まれた「茉莉二号」だ。目を開いたら鏡で、そこには茉莉がいる、……わけがなかった。何度見ても、俺が映っていた。
 丁寧にコンディショナーをし、少し時間をおいて浸透させる。その間に広い洗い場を使って腹筋をした。荒い息遣いが浴室から漏れると、場所が場所なだけに下品なのでシャワーはMAXにした。コンディショナーと汗を流して、ボディソープで体を洗う。無香料だった。全身、手で、これでもか、とばかりに擦った。体の泡を流し、床に散らかした皮脂などもシャワーで清める。ようやく浴槽に入れた。
 浴室を出て換気扇のスイッチをオンにする。洗濯機に付箋が貼ってあった。
「健ちゃんへ タオルのこと。白いバスタオルが体用、黒いフェイスタオルが髪用、紺色のフェイスタオルが顔用です 茉莉より」
 美しいペン字だった。ボールペンでの走り書きでもよかったのに、わざわざ万年筆を使っている。
メモに従って髪を拭き体の水気を取り、パジャマを着て歯を磨いた。歯ブラシセットは、ホテルのアメニティのごとく新品一式がプラスチックのコップと共に揃えられていたがそっちは使わなかった。持参品で歯を磨き、いつも通り手で水を受けて、口に含んでうがいをした。顔用タオルは、きちんと洗濯された、穏やかな家庭の匂いがした。しかし、人の暮らしの真っ只中にあるのに、まるで洗剤の広告のように、不自然な具合に生活感がなかった。
 髪にドライヤーをかけ、リビングに戻ると、叔母だけがいた。
「お風呂、長湯してごめん」
「いえいえ、デザート食べる?あっもう歯磨きしちゃったか」
「うん、明日の朝、目覚ましにいただく。叔父さんは?」
「ここの二階の、住人用ジムでバイク漕いでシャワー浴びてくるって。……健ちゃんは、夕飯後の薬、ないの?」
「ある。ここで飲んでいい?取ってくる」
 俺は四畳半に戻って、リュックから「夕食後」の薬袋を出した。サインバルタとラツーダと炭酸リチウムの一包化が入っている。それから、俺の場合食前に飲むのが正しいのだが忘れていた抑肝散加陳皮半夏。
一回ぶんにちぎり、リビングに行くと、叔母が水を用意してくれていた。
「一包化なんだ、調剤薬局、待ち時間長いでしょ」
「うん、まあ、慣れたけど」
「そっか、私は茉莉の付き添いでたまに行くけど慣れないな」
「茉莉、何飲んでるの?……あ、言える範囲で」
「私から聞いたって言わないでね」
「うん」
「まず朝がエビリファイ二ミリグラムと抑肝散加陳皮半夏一包、昼がサインバルタ三十ミリグラム、夜が抑肝散加陳皮半夏一包にサインバルタ三十ミリグラムとリフレックス三十ミリグラム、パキシル十ミリグラム、そして寝る前にデエビゴ五ミリグラム」
「わ、なかなかの数。でも夜だけ一包化か。俺は朝、抑肝散加陳皮半夏、エビリファイ三ミリ、炭酸リチウム四百ミリ、サインバルタ三十ミリ、昼サインバルタ三十ミリ、夜、炭酸リチウム二百ミリとラツーダ四十ミリにサインバルタ三十ミリ、食前にやっぱ抑肝散加陳皮半夏。寝る前にデエビゴ五ミリ、色々ありすぎて、『これはどこに効くんだっけ』と思いながら飲んでる」
「大変。そりゃ禁酒だわ」
「でも酒が一番効くよ。水ありがとう」
俺は一包化と抑肝散加陳皮半夏をざらりと飲んだ。叔母は苦笑して、
「酒が一番効く、か。そんなものよね」と言った。
「あ、あと、歯ブラシありがとう」
「ああ、茉莉が置こうって言ったの」
 十時に近かった。叔父の帰りを待ってお湯いただきました、おやすみなさい、と挨拶をし、俺は四畳半に引っ込んだ。茉莉はもう休んでいるらしかった。あした、付箋と歯ブラシのお礼を言おう。スマホのアラームを六時半にセットした。

 翌朝、六時にシャワーの音で目が覚めた。スマホを見ると母からLINEが入っていた。
『着いたら着いたと連絡して!』
 茉莉家族に会う緊張ですっかり忘れていた。おはよう、の次に素直に詫びを入れ、お中元を渡したと伝える。
『お中元の件、葉月さんから連絡あり。カラダ締めて行ったんだから、心も引き締めること!』と返信があった。ぐうの音も出ない。母は強い。
朝の抑肝散加陳皮半夏を、昨日高松駅で買った「おーいお茶」で飲み下し、スマホのインカメラを鏡の代わりにして手櫛で髪を整えた。癖はあまり付いていなかった。茉莉のシャンプー、さすが。
 布団を軽く整え、部屋を出る。すぐ突き当たりに洗面室があって、そこからバスローブ姿で出てきた叔父とばったり会った。
 「あ、おはようございます」
「いや、起こしちゃったかな?目覚め一発おじさんのセクシーショットで申し訳ないね。すぐ着替える」
 朝の六時にバスローブ。
 上流階級ぶりに圧倒される。叔父はパタパタと、リビングダイニングの右側の自室に消えた。
すぐに黒いスラックスとカッターシャツ姿で出てくる。ダイニングでは、叔母が朝食を作っていた。鮭を焼き、豆腐の味噌汁をよそっている。
「あらおはよう、健ちゃん早いわね」既に薄化粧が済んだ顔に、少し驚きを含ませる。
ダイニングについた叔父が、
「俺が起こしたみたいだ。シャワーでこう、音を立ててしまって」
「あ、いえいえ、ちょっと旅のワクワクで眠りが浅かったので」
「じゃ、寝てるのは茉莉だけ?」
「いや、俺がシャワー浴びに行ったら歯磨いてたぞ、いま、部屋で化粧してるくらいかな」
 茉莉がそのとき、にゅっと俺の腰の後ろから顔を出した。
「……おはよう」
「あ、おはよう」三人でハモる。
きょうの茉莉は予定がないからか、きのうのような派手な化粧ではなかった。ほんのりピンクがかったベージュのアイシャドウに、血色を意識した、「透け感」のある口紅。いわゆるナチュラルメイクだ。服も、きのうより数段落ち着いたデザインだった。カーキの綿のワンピースにデニム素材の胸ポケットがついている。
 ……というより、二十代の女性って、いや茉莉だけかもしれないが、予定のない一日の朝の六時に、着替えて化粧をするものなのか。もし俺が女で、茉莉と同じ立場だったら二度寝するし、部屋着で一日じゅうゴロゴロする。俺は茉莉に尊敬の眼差しを向けた。
茉莉は俺をかわすようにしてダイニングにつくと、「……ママ、コーヒーお願い」と呟いた。叔母が昨日と同じコップにアイスコーヒーをなみなみと注いで渡す。
「……ありがとう」両手で受け取り、美味そうに飲む。俺は茉莉の横に座り、美しい顔貌を眺めた。
「きょうみたいな早出の日に、家族揃って朝食なんて久々だな」叔父が言う。
「……そうね。私が勤めに出ていた頃以来……かしら」茉莉が抑肝散加陳皮半夏の小袋を出したのを見逃さなかった叔母が、何も言わずに冷蔵庫からBRITAの浄水を出して、新しいコップに注ぐ。
「……ありがとう、ママ」茉莉は漢方の粉を冷水で流し込む。

朝食が済むと、片付けは茉莉に一任され、叔母夫婦は出勤となる。まだ七時半だが、それでも慌ただしく二人は出ていった。茉莉によって洗濯機が回る。
 二人、取り残されたダイニングで服薬し、彼女がテーブルを拭きながら言う。
「……普段はね、忙しい二人の邪魔をしないように、いまくらいまで自分の部屋にいて、用意されて時間が経って、冷えたご飯を食べる。でもきょうは、眠りづらくて四時に起きたから、シャワーを浴びて着替えてメイクして、みんなの前に出てみたの。恥ずかしながら、ナチュラルハイ、……という感じ」
「そっか、……そういうときってあるよな。法事で本家に行ったりしたら、眠れないもんな」
「……そう。カーテン、少し開けると、部屋が紫になる。それが晴れてくるのをじっと見たりして」
「わかる。体キツイけど、あの時間はいい。……ああそうだ、昨日、付箋と歯ブラシありがとう、嬉しかった」
「……どういたしまして」

 ドラム式洗濯機が乾燥まで終え、俺たちを呼ぶ。茉莉は女物の服とタオル類、俺は男物の服を畳むことにした。
「……ありがとう、手伝ってくれて」
「一週間、下宿してるのと変わらないから、洗濯くらいはやるよ。水道光熱費だってタダで使わせてもらってるし」
 茉莉は言葉も、手際も丁寧だ。ホテルか病院の洗濯係のように、布類を扱う。この家の洗剤は何なのかわからないが、ほのかにいい香りが漂う。茉莉は自分が昨日着ていたワンピースと下着をクロゼットに入れてくると言って、片手に持ってひょいと立ち、自室に入った。俺も自分の服を畳んで、四畳半のベッドの上に置いた。ついでにタオル類を、洗面室の棚に仕分けてしまった。

 お互いあまり眠っていないのでお昼はラクをしようということになった。トースターでロールパンを焼いて切れ目を入れ、間に生ハムやウインナーを挟んで食べた。茉莉は俺の前で服薬するのを恥じたが、俺が自分のサインバルタを飲むところを見せると納得して真似た。午後のお茶に関してはもっとラクをしようということになり、KELOLOのアイスクリームメーカーに牛乳と卵と砂糖を入れ「攪拌」のスイッチを押して電気コードを繋いでしばらく置き、出来上がったものをめいめいがおたまで掬って器に盛り、食べた。丸くよそい、ネスカフェのマシンでいれたカプチーノをかけてアレンジしたりした。美味かった。
 「……ママに使った食材、LINEしなきゃ」
「ロールパンに生ハム、ウインナー、卵、牛乳、砂糖。葉月さん何時に帰ってくる?」
「……きょうは早出だったから、……四時かな」
「おっと、じゃあそろそろ片付けないとやばいか」
 洗えるものは洗い、機械類はコンセントを抜いて元あった場所に戻した。
「……健ちゃん、すごい」
「何が」
「……時間の逆算をして動けるところ」
 母と暮らし、アルコールの家飲みを隠すにあたり磨かれたスキルなのだが正直には言えない。俺は、「年の功だよ」とだけ伝えた。
 叔母が帰宅すると、茉莉はやはり部屋で「ラ・カンパネラ」を弾き、感想を求め、そのあとシャワーを浴びた。ノーメイクの彼女は、やはり一段と冴えて見える。
 やがて叔父が帰ってきた。
 夕飯はカツとじと白飯とわかめの味噌汁、きゅうりの白出汁漬けだった。茉莉は手際がいい。俺たちは二人とも、漢方を飲んで食事をし、また服薬した。俺は一番風呂を勧められたから、サッと入って、なるべく散らかさないように出た。二日目のパジャマはGUで九百九十円だった、黄色いシャツと濃紺のハーフパンツだ。俺は洗面室で着替えるときに、自分が一日パジャマ姿であったことに気がついた。叔父は書斎で何事か書いているか、Web会議に出ているとのこと。卒業した医学部と共同で専門書を作っているそうだ。
 
 三日目の茉莉は、午前七時に身支度をして部屋から出てきた。灰色に近いベージュのアイシャドウに、落ち着いた薄いピンクベージュの口紅。モンステラ柄の黒地に白い影の走る開襟シャツ。デニムはウォッシュがかかったスキニー。白すぎて半透明な肌が引き立つ。叔父はもう出発していたが叔母は十時頃までいて、前倒しで「ラ・カンパネラ」を聴いた。茉莉は俺が来てから三度弾いた。つまり一度もミスタッチをしなかったということだ。
「……どう」
「うん、のびのびして穏やかになった」
「……健ちゃんは」
「昨日より柔らかくなったかな」
「……よかった」
叔母が出勤すると、茉莉は、
「……健ちゃん、お昼に食べたいものは」
「何が得意?」
「……いま冷蔵庫にあるものだと、ペペロンチーノかカルボナーラ」
「じゃ、カルボナーラで。なにか手伝えることがあれば言って」
「……ありがとう」少し微笑んだ。
「ねえ茉莉」
「……なあに」
「ふだん、ひとりのときはどう過ごしてるの。俺はテレビや衛星放送の映画を観たりしてる」
「……ひとりのとき、……ピアノを弾いて読書をして、アマゾンプライムビデオで映画を観て、……元気があれば電車に乗ってクラシックやジャズのコンサートに行ったり……、ミュージカルやバレエやオペラを観たり……、あるいは、インターネットで本や洋服をチェックしたり……、図書館にも行くし……まるで高等遊民ね」くす、と笑った。
「午後のお茶はいつも自分で用意するの?UberEATSとか使う?」
「……自分でやるわ。……時間があるから」
「外食したくならない?」
「……自分で作るのに慣れているの。……コンサートや舞台の帰りに喫茶店に寄ることはある」
「どんな喫茶店?」
「……チェーンのお店だと、ルノアールとか、……椿屋、とか、……アフタヌーンティーも」
 齢二十五にしてルノアールがお気に入りとは。
「マ、マックとかは?」
「……PC?Apple製品には明るくない」
「じゃなくて、ファストフードの」
「……ああ……!十七のとき、ルイコちゃんという友人に誘われて一度行った。ミルクセーキに氷が混ざったドリンクを頂いた」
「ああ、バニラシェイクかな、美味しかった?」
「……ええ、それなりに。店内に空調が効きすぎていて寒かったけど」
「たまには安い店に行くといいよ、発見がある」
「……そうね、今度色々教えて」
「日用品の買い出しはどうしてるの」
「……ママがインターネットスーパーや生協やアマゾンで買って、家まで配達してもらうわ」
「ナマで品物は見ないのか」
「……あんまりね」
「家具は」
「……サイズを確認して通信販売で買う」
「化粧品は」
「……大抵、通院の帰りがけに駅に寄って買うか、やっぱり通信販売で。……そろそろパスタを茹でましょうか」
茉莉が大鍋に水を張りIHクッキングヒーターの上に置く。熱して塩を投入する。
「すると茉莉は、ふだん、通院と図書館くらいしか出かけないの?」
「……ママにお願いして郊外の書店に行くことはある。楽譜を買いに」
「へえ、やっぱりクラシック?」
「……日本歌謡も弾くわよ。YOASOBIさんの『アイドル』とか、電気グルーヴさんの『シャングリラ』とか」
「電気グルーヴに『さん』つける人、はじめて見たよ。どんなバンドか知ってる?」
「……あまり詳しくないけど、Wikipediaと『メロン牧場』は一通り読んだわ」
「へぇ、メロン牧場。面白かった?」意外すぎた。
「……ええ。ユーモラスで好きよ」
「キツい下ネタ、引かないの」
「……社交なんでしょう?」
なるほど、文化のひとつとして捉えたか。茉莉は沸騰した鍋に、硬いスパゲティを花びらの如く丸く散らす。
「茉莉の友達って、どんな子?」
十六から十八にかけては、本好きが多かったわ。高等専修学校の文芸科にいたから。今でも年賀状のやり取りをする相手が六人いる。大学はいまでいうオンライン授業が多くて、対面指導は月に二回くらい。みんな、友達づきあいをしにきてる感じじゃなかった」
「へえ。友達の前での茉莉、見てみたいな。はしゃいだりするの」
「……あまり騒がないほうだけど、どうでしょうね、十六歳から二十五歳くらいの子って、声が大きいじゃない?……評価、ってことなら、『茉莉ちゃんは本物のお嬢様だから、私たちが触れて下手に俗世に染めちゃダメね』と言われていた」
「ほう、なんて返すの」
「……『浅学で恥ずかしいわ、色々教えてね』とか」
「お、お育ちがよろしいな……」
 茉莉はトングで鍋をかき回した。「……そうかしら。無知は罪であり孤独よ」
「そういう利発な従姉妹がいると鼻が高いよ」
「……ありがとう。健ちゃんのお友達はどんな方?」
 俺は少し考えた。
「学生時代の友達は、低俗で虚無的であることに価値を見出して酔っているヤツが多かった。俺も例外じゃない。茉莉が見たらびっくりするような、不潔っぽい世界。……変な言い方だけど、それでも何も軽蔑はしていないよ。いまも。若さだなぁ、と懐かしむ感じ。基本、他人に害をなすことはなかったし、多分。工業高専に通ってるヤツって、ほんとに地味で機械以外なにも触れないか、なにも出来ないからこそ手に職が欲しい日陰者か、その分野に特化した天才しかいないから。あ、もちろん俺の観測した限りね。俺と、俺のつるんでたヤツらは日陰者チーム」
「……涼しそうね」茉莉のユーモアだろう。彼女はくすくす笑った。「謙遜なさって、クールな人が多いかしら?現実主義でしっかりした人」
「ものは言いようだな。さすが」
「……きっと現実的だから、ときに虚無的にも低俗にもなるんでしょ。おかしなことじゃないわ。現実って大わらわだもの」急に真面目な顔になる。「……昔、本で読んだ説なんだけど。現実って言えばね、鬱病などの精神疾患にかかっている人の目に映る悲愴な世界が本物で、健常者は自動で分泌される様々な脳内快楽物質で夢を見ているというの。現実的な人や考えって、私、好きよ。だって、本物だから」

 そんな茉莉の「悲愴現実カルボナーラ」と付け合わせのトマトとアボカドのサラダは絶品だった。チーズが高級品とみえて、独特のねばつく臭みがない。
「……胡椒の量はお好みで」と出されたのがS&Bの「テーブルコショー」ではなく、GABANの缶でもなく、本式のペッパーミルだった。捻じるとゴリゴリと音がして、降り注ぐ黒胡椒が香り立つ。
「……めちゃくちゃ美味い。高いレストランで食うやつみたい」
「……よかった。これはパパに教わったの」
「料理もするんだ、意外」
「……気が向けばね。他にも、牛テールのワイン煮とか、豚肉のコンフィとか」
「時間かかりそ」
「……ふふ、たまの連休にしかやらない」
「そうだろうな。ササッとできないもんな」
「……豚と言えば、パパが、私が中学生のある日、どこからか小さい豚のしめたのを一頭買ってきて、頭を切るところからはじめて、解剖について説明してくれたのよ。変わってるでしょう」
「……なかなか家庭でやろうと思わないな」
「……お風呂で解体したから、ママが怒ってたわ。解剖ならちょっとした魚で充分なのに、わざわざグロテスクなことして、って」
「……まあ、普通は怒るわな」
「……その豚ちゃんの毛は剥いて洗って、業者さんに預けてヘアブラシにしたの。何本も来たわ。脂のところはラードとして使ったし、内臓はパパが直々に調理してみんなで食べた。骨は出汁をとるのにしばらく使った。お肉は私やママが自由にお料理させてもらった。……パパの実家、牧場なの。乳牛と豚と鶏と鴨くらいしかいないけど。観光牧場じゃなくて、完全な畜産。年の離れたパパのお兄ちゃんがいま指揮をとってやっている」
「ほう。小さな豚ちゃんはそこから来たのかな」
「……ううん、きっと違う。そうだったら、しめるところから見学させてくれる」
「さすがにおっかないと思ったんじゃないか?……アメ横の地下の方がここから近いとか?あの辺なら豚ちゃんくらいなら売ってそうだし」
 そんな話をしながら、俺たちはカルボナーラとサラダを完食した。
「俺、保育園時代から、変だよって言われて生きてきたんだけど」服薬用の水を二人前、コップに注ぎながら言う。「こういうところかなぁ、メシ食いながら解剖の話」
「……それなら私がはじまりじゃない?アスペルガー症候群ってこういう傾向があるのかしら、……場にそぐわない話をする、空気が読めない、って、もしかしてこういうこと?」
「かもな、はい、水。サインバルタ用」
「……ありがとう。私はできてよかったな、解剖の話」
「俺も興味深いと思ったし、嫌悪感はなかった」
「……将来、二人で住む?」
「そりゃ、そうできたらいい。そこらの女性より、茉莉のほうが気心知れてるし。でも二人っきりで住むと、玄関の外との意思疎通が難しい家庭ができそうだ」
「……ああ、そうか、そうね」

昼食の片付けを済ませ洗濯機を回し衣服に乾燥をかけている間、俺は淡い頭痛と不安を感じた。リビングのテレビをつけると日本の西側で低気圧が発達し、こちらに向かっているとのことだった。窓の外は鈍い銀色の雲に照らされて光っている。茉莉も調子が悪くなったようで、二人揃ってカロナールという頭痛薬とレキソタン五ミリグラムを水で飲んだ。茉莉がティファールを使い湯を沸かし、お茶をいれた。
「カモミールティーよ、気休めにはなるかしら」
『不思議の国のアリス』に出てくるような、『本物』のティーカップとソーサーを使って、しばらくのんびりすることにした。
「こういう、具合が悪いときだけ、無職でよかったなって思ったり、する」俺は言った。何故か恐る恐るという調子になってしまったが、『自分が無職』という現実に対する茉莉の見方を伺っていたからだろう。
「……そうね。私は高等遊民でも引きこもりでもなくただ、まったいらに病人なんだわ、と実感する。……働ける人を羨ましいと思う?」
「いや、働いて頭壊したから、あまり思わないな」
「私もよ。変な言い方だけど、できればずっと病という大義名分のもと、マイペースに過ごしたい。でもそう思うのは、またそれも病気で色々不便だから、よね。……ああ、しかしとにかくいまの暮らしが気に入ってる。お仕事はもう……怖いわ。意地悪な人が多いから」
 茉莉はちょっとだけ、声を震わせた。
「悲しいことは思い出さないで。お、俺がいるから、いまは、隣に」
俺は彼女を泣かすまいと必死だった。「茉莉はもう、齢二十五にして、一生分の辛さに耐えたさ。俺が知ってる。あとは幸せでうれしいことばかりに決まってる」
「……ありがとう。優しいのね」
「茉莉の優しさを真似ているんだ。三十回忌のとき、ほかのいとこやおばさんおじさんは、俺に、就職しないの?とか、お仕事は?とか将来は?とか、しきりに聞いたさ。茉莉はあるおじさんに、『茉莉ちゃん、健翔くんみたいになっちゃだめだよ』と言われたね。茉莉は、それを聞いて、蒼白になって、見たことない剣幕で怒った。『それは謙遜の言葉で、本人以外が使ったらいけないのよ、ひどいわ』って。俺を、『無職』のただのお茶請けじゃなくて、『精神病』のおもちゃでもなくて、『個人』として見ている人がいるんだって、すごく、助かったんだ。茉莉はまだあの時大学生か、親戚じゅうでいちばんの大手企業勤めの一年目だった。無職で酒浸りの俺なんて、ゴミみたいに感じてもおかしくない。それなのに優しく扱ってくれたんだ、だから……」俺の目から、はらはらと水滴が落ちた。
「……私、人として、健ちゃんが大切なの。いとこの中でいちばん上のあなたは、いつでも周りに気を配っていた。お正月なんか、みんなで本家に集まって、健脚の子たちは広い庭でバドミントンやバレーボールを打ったり、走りくらべしたり、お手伝いの手際がいいの悪いのって競ったりしてた。私を置いて。ほかにも、私は輪に入れない、学校の話なんかで盛り上がったり。……それはね、ただ私と住む世界が違うだけ。私が馴染めないからって、それが良い悪いの話じゃない。……健ちゃんは、私の将棋やチェスに何時間も付き合ってくれた。みんなに、百人一首か花札をやらないかと呼びかけてくれたこともある。健ちゃんだけが、世界の擦り合わせをしてくれたの、健ちゃんは優しい。それで気配り屋さん。そんな健ちゃんだからこそ、擦り切れてくたくたになるまでお仕事を頑張った。それをどうして馬鹿にできるっていうの。……私、健ちゃんをいじめた会社とか、あなたが苦しんでる中で放り出していなくなって知らん顔している元フィアンセの人とかを、憎んでる、……いつも心の奥で非難してる。泣きたいくらいに。泣いてわめいて、熱い火鉢でもぶつけてやりたい!」
俺はテーブル越しに、茉莉と手を繋いだ。指を絡めた。熱い小さい柔らかい、細長い白い手だった。茉莉は泣かなかった。俺ばかりめそめそしていた。顔の皮膚の内側に熱い海があった。水が目や鼻や口に流れてきた。必死に飲み下した。茉莉はしなやかで、折れない。その格好のまま、落ち着きたくてカモミールティーを一口飲んだ。いい塩梅の温度になっていた。

洗濯機が乾燥を終えたので、俺たちは昨日と同じように布類を仕分けて畳んだ。洗面室でタオルを並べ、四畳半に行ってシェーバーを取り、鏡を見ながら顔を剃る。眉が伸びかけていたので、眉バサミで無駄な毛を切って、使い捨て剃刀を一本もらって眉間をやはり剃った。高専に上がった頃はよく失敗して流血したものだ。茉莉は叔母の服、叔父の服を各部屋に置き、自分のは自室のクロゼットにしまって、ピアノを弾きはじめた。「人生のメリーゴーランド」(久石譲)をジャズ調にアレンジしている。あの美しい指が鍵盤の上を転がるみたいに踊っているのが見える。
やがて曲が終わり、彼女が洗面室を覗いた。
「お洒落さん、眉の具合はどうでしょう」くす、と笑う。「メリーゴーランドってどこにも行けないけど刺激的で、でもそろそろ飽きたなって思ってもなかなか止まらないわよね、まさに、人生。ロココ調なところも……嫌いじゃないわ。午後のお茶は、頂き物の赤肉メロンと冷たいウバ茶にしましょうか」
「……ありがとう。赤肉メロンなんざ、ふだん食わないからどんな味か忘れちゃったよ」
「……メロン味よ?」
「そうだけどさ」

 富良野からはるばる桜木町までやってきた桐箱入りメロンは、八等分にされて天気の悪い午後の供物となった。冷たいウバ茶とは何ぞやと思っていたが、ストレートの香り高いアイスティーだった。
「富良野に知り合いがいるの?」
「……パパのお友達。精神科医。私はその人にアスペルガー症候群の診断書を作ってもらった。彼の知り合いの方が横浜駅前でクリニックをやっていて、そこへの紹介状も」
「ほう。色んなネットワークがあるんだな」
「……お医者さんって、一部の天才を除けば、人と人との付き合いが重要な世界みたい。……どこでもそうか。でもとにかく、私には無理だわ」
「俺も無理だな。仮にIQが百五十あっても。……大体、そんなにあったら大変そうだし」
「……そう?私はIQ、百五十、欲しいな。暇しないでしょう?ずっと考えごとができそうだもの」
「何をそんなに考えるの」
「……世界のすべてについて」

 低気圧はフィリピン側にずれて消えた。快晴だ。四日目、水曜日の茉莉は、レッドブラウンのアイシャドウに透けるような赤い口紅を引き、腰部分にリボンのある黒無地の綿ワンピースを着ている。七時に部屋から出てきた。叔母の十時の出勤に間に合うよう「ラ・カンパネラ」を一回弾いた。叔母は聞き心地がよいと褒め、俺も同意した。満足した様子の茉莉は台所にこもった。昼に出てきたのは鶏ももの骨付きトマト煮込みとライ麦の丸パンとコンソメスープとコブサラダ。肉にはローズマリーが添えてあった。
「なんか、一段とご馳走だな。昨日までも豪華だったけど」
「鶏肉の消費期限が来ちゃうから」
「そんな理由?客人をもてなそう、とか思わなくていいんだぜ。一週間、俺は居候なんだから。もっとこう、カップ麺とかでも」
「……うちにそういうものはないわ。食べたいなら買ってきてあげる」
「そういう意味じゃないよ。……ところで茉莉、カップ麺食ったこと、ある?」
「……ない。真夜中に食べると美味しいとは聞いているけど」
 俺は茉莉に、「俗世」を案内してみたい気持ちと、この優雅かつ上質な暮らしをまだ体験し続けたい気持ちとを同時に内包していた。
「茉莉、今後出掛ける予定は?」
「金曜日に大観覧車に」
「その他にさ」
「……ないわ。でもずっと家にいると、健ちゃんは退屈かしら……明日、すぐそこの映画館にでも行きましょうか」
 午後のお茶はレモンの皮の甘煮が乗ったレアチーズケーキと、水出しアイスコーヒーだった。
「これも作ったの?」
「……ええ。レモンは広島の伯母さんからの頂き物。クリームチーズはパパのお兄ちゃんから」
「ここに来てからご馳走攻めだな。うちの母がビミョーな顔をしそうだ。お礼に玄関の雑巾がけでもやらせてくれ」
「……高圧洗浄機があるから、雑巾がけはいらないわ。……靴を全部ポーチに出したりしないといけないの」
 茉莉はお茶が済むと後片付けをして洗濯機を回し、浴槽を洗い、湯を張って入浴した。部屋着はガーゼのワンピースだった。紺色が血色のない肌に映える。
「……健ちゃんもお風呂いかが?」
「入ろうかな。あの、明日の映画、『トラペジウム』がいいかな。俺の障害者手帳使って割引にしとくよ」
「……あら、ありがとう」
 映画愛好家の茉莉に、邦画や洋画の選択センスでがっかりされたくなかったから、二人ともが「経験」の浅い、アニメを選んだ。予約サイトから席をとる。
 風呂を借りて、俺も湯に浸かった。よく考えてみると、茉莉だけが入った湯を使うのは初めてだった。誰もいないのにきょろきょろし、顔を洗うふりして、ひと口飲んだ。生涯のお守りになる気がした。
 風呂を出ると何も知らない茉莉が乾燥の済んだ洗濯物を畳んでいた。既に叔母夫婦のものは各部屋に運ばれているらしかった。タオルを色毎に分け、長方形にする。俺の衣類(といっても、部屋着)もシワなく畳まれていた。俺は部屋着を三着、外出着を四セット持ってきていた。毎日洗濯機が(乾燥付きで)回るので、充分だった。俺は髪を乾かしてから、明日の服を考えるべく四畳半に入った。スーツケースを開けると、実家の匂いがした。二日目に畳んでベッドに置いた、実家から着て出てきた服は畳んだまま隅に寄せていた。カーキのチノパンツに、柔らかいデニム地の開襟シャツ、その中に黒いTシャツを着ることにした。

『トラペジウム』は午後だったため、ピアノチェックと昼食(餃子の皮にチーズとドライトマトやバジルをのせたミニピザと水出しコーヒー)を済ませてから出かけた。茉莉はピンクベージュのアイシャドウに、柔らかいミルクピンクの口紅を引いていた。服は昨日の色違いとみえる、モスグリーンのワンピース。それに新横浜駅で見た、黒いバケットハットを被っていた。日焼け止めミルクを貸してくれた。日差しの強い日だった。歩いて「コレットマーレ」なる映画館入りの商業施設に行った。徒歩十分もかからなかった。道中、日傘を相合にして、腕を組んで歩いた。涼しい施設内にてチケットを発券し、映画館の待合椅子に並んで座る。
「ポップコーンとか、食べる?」
「……ええ、健ちゃんがそうするなら」
キャラメルと塩のハーフポップコーンを買った。飲み物は茉莉がアイスティーで、俺はジンジャーエール。
 映画の内容は忘れた。隣の反応が気になって、仕方なかったのだ。茉莉は真面目に画面を見て、時々アイスティーを飲んだ。
 映画が終わっても、俺の手元にポップコーンが山のまま残った。カウンターでビニール袋を十円で買い持ち帰る他はない。
「午後のおやつ、これでいいな」
「……ええ、そうね」茉莉は頷いた。「お茶でなくてカルピスのミルク割りでもいれましょうか」
 俺は自分のジンジャーエールを飲み干し、茉莉の、半分ほど残したアイスティーを持って席を立った。茉莉は体幹が弱いし非健脚なので、自分で飲み物を運べない。
 両手が塞がったまま「コレットマーレ」を出る。十分かけてややゆっくり歩き、マンションに着く。茉莉がエレベーターのボタンを押してくれる。三基あるうちのひとつがすぐ来た。茉莉が二十八階を押す。ふたりきりのまま扉が閉じて、高速で箱が上昇する。共用廊下の真ん中でドアが開く。右と左の隅に玄関がある。来たときは気づかなかったが、このフロアには二部屋しかないのだな、と思う。共用廊下はホテルのごとき、大きな窓付きの室内だ。涼しい。茉莉について行く。彼女はカードキーを差し込んで暗証番号をタッチし、玄関を開けて押さえていてくれた。ダイニングにポップコーンとアイスティーを置き、二つある洗面台で並んで手洗いうがいをした。
「……映画」
「あっ、うん」
「……面白かった。夢を追いかける話ってお説教みたいで苦手だったけれど、きょうのはそんなことなかった」
「よかった」
「……映画代とおやつ代、返すわね、いくら」
「ああ、気にしなくていいよ。俺、たまに単発でアルバイトしてて、貧乏なりに小遣いはあるから」これも筋トレ同様、嘘でなかった。今回の旅費として、交通費とはまたべつに八万円ほど持っていた。美容院代を差し引いても六万円以上あった。もっとも、スマホにつないだデビットカードの中に、だから手元に現金としてあるわけではなかったが。「障害者割引で映画なんて、いいカッコのうちに入らないけど、気持ちだけ、な。本当なら定職について、茉莉にまとまった小遣いを渡す立場なんだ、俺は。そういう年頃なんだよ」
「……世間一般はどうでもいいわ。……ありがとう。いとこのお兄ちゃんと映画デートしたって、知り合いじゅうに自慢しちゃう」
「おう、よろしく」

 牛乳で割ったカルピスと共にポップコーンを食った。ここのところ、一級品ばかりを食べていたためギルティ(罪)な味がした。
「……単発バイト、ってどんなことするの」
「魚市場で魚や貝を右から左に運んだり、工場でサバ缶に骨や内臓が混ざっちゃわないかチェックしたり。立ち仕事が多いな。バイトの管理してる会社通さなくても、近所の子供会の祭りでイカ焼いて町内会長から小遣いもらったり。いろいろ。俺がフラフラしてて病人で母子家庭でまあまあ貧乏なの、町内会に知れ渡ってるからな」
「……病人でも敬遠しないでお仕事とお給料くれるなんて、素敵な町内」
「ガキの頃から全員知り合いだから。俺がトチ狂ってナタ振り回すタイプの精神病人じゃないこと、みんな分かってくれてるし」
「……皆さん聡明ね。健ちゃん、自分のこと無職って言ってたけど、フリーランスの間違いじゃないの。労働の対価がちゃんとあるわけでしょう?」俺はそれを聞いて、くすぐったかった。
「いや、子供が小遣いもらいに走り回っているというか」
「……ほかには?皆さんに喜ばれたこと」
「うーん」俺は腕を組んだ。「農道を歩いてたら、遠くの方で知ってる婆ちゃんが大声出してるから、何だ何だって近寄っていったら、『元気と時間があれば土触ってかないか』と言われて軍手と鎌持たされて、暑い中二時間草むしり。お礼にって、規格外品のでかいトマトをスーパーの大袋いっぱいと、キンキンに冷えたリポビタンDを二本もらった、……り、知ってる民宿の女将さんがうちにきて、『健ちゃん、中学のとき、英語の成績はずっと五だったって言ってたね?ちょっとうちに外国人の新婚さんが泊まりに来てるんで、通訳してくれ』って日曜日に引っ張り出されて、なんとか一日、通訳して、ありがとうねってけっこうな値段の万年筆をもらったり、……」
「……やっぱり、『東京から戻ってきたフリーランスの男性』よ、それは。無職じゃないわ」
「そうかな」
「……ええ」
「契約書もなければ保険証も親の扶養だし、あんまりピンとこないな。でもかっこいいからそう思っとく」
「……是非そうして。取引先に恵まれたフリーランスワーカーさん」
 そのとき、
「ただいまー。あー、外暑いわねー」
叔母が帰宅した。「……って、あら?二人とも、きょうは映画で遠出って、昨日夕ご飯のとき言ってなかった?」
「……ああ、映画はコレットマーレで観てきたの。素敵なフリーランスワーカーさんのおごりで」
「えっ、茉莉、あなた、こんなすごいポップコーンもチケットも買ってもらったの?……いけないわよ、大変、健ちゃん、お金返すわ」叔母が慌てて、長財布から一万円札を出す。こちらに差し出してくるので、
「葉月さん、ほんと、一万円もかかってないッスし、俺の観たいのに付き合ってもらったんで、一回それは引っ込めてください、落ち着いてください、マジで」
「……健ちゃん、フリーランスでシッターしたんだからもらっちゃいなよ、対価よ対価」と茉莉。
「た、単価が高すぎる……」
叔母を説得し、茉莉の分のチケット代とポップコーン代とおまけに世話代という名目で、これよりはもう値下げできないと粘る叔母から五千円、頂戴した。高い世話代だ。
「ありがとう、帰りの新幹線はグリーン車にします……」
「そう、素直に受け取ればいいのに。与利子さんたら厳しくするから萎縮しちゃうじゃないのねぇ」叔母が誰にともなく言う。「さて、夕ご飯何がいい?あ、私もカルピスもらおうっと」
「お、俺やりますよ、焼きそばとかでよかったら……」俺はコップに牛乳とカルピスを注ぎ、ストローを挿して混ぜながら言った。「それか、あの、冷蔵庫の甘鯛の西京漬、焼いちゃってよければそれもできますよ」
「健ちゃん偉いわ。やりますよ、ってサッと立つあたり、普段から家事をやってるのが見えるようよ」
「うちの母も葉月さんも、仕事してますし、看護師ですし、神経使うでしょうし、その。俺、東京で当時の彼女と別れて二ヶ月……か、そのくらいの期間、家賃とか更新とか仕事辞める手続きとかの都合が重なってひとりで生活回してましたし、弁当も高松の高専の頃から毎日作ってましたし」
「健ちゃんと結婚する女の子は幸せよね、ねえ茉莉」
「……ええ、ほんと」
「最近の子で、西京漬を焼くものだって知ってるのがすごいわ。うちの職場の健ちゃんくらいの看護士くん、ぬか漬けみたいに味噌だけ流してお刺身のまま食べてたらしいから」
「魚の種類によっては美味い可能性もありますね」
茉莉がふっ、と吹き出した。くすくす笑う。

 叔父の帰宅は八時だったが、彼は帰るなりシャワーを浴びて書斎に入ってしまった。共同著作の執筆が忙しいらしい。しかし夕飯は要るというので、俺は炊けた米を俵型のおむすびにして、甘鯛の焼いたのと一緒に叔母に預けた。
「明日、みなとみらいでうんと遊べるように、きょう頑張る、って。あの人、夏休みの宿題は終業式のあとに図書室で全部済ますタイプよね。茉莉もそう。私はお盆を過ぎてから慌てる感じ。健ちゃんは?」
「ハナから何にもやらないで、九月一日に校長室で正座する派です。で、痺れた足を引きずって帰ったら、学校から電話を受けた母にはたかれる、までがセット」
 茉莉がまた、ふっ、と笑った。叔母も苦笑している。
 「でも高専に入ったくらいだから、理系に強かったんでしょう」
「義務教育中はそれなりになんとかなりました、主要五教科も、通信簿、五か四しかなかったです。高専に入ってから毎日我妻善逸みたいなカオしてましたけど」
「……あがつま……?」
「あ、これです」俺はスマホで画像検索をかける。「『鬼滅の刃』のキャラクター。最初は臆病で弱いんですが、最後には鬼になった兄弟子に勝ちます」
「へぇ、健ちゃん、漫画も詳しいのね。茉莉、知ってる?」
「……私の部屋に全巻あるよ。これはいつか娯楽じゃなくて教養としての価値が出る、と思って読んだ。ママは苦手ね。人がいっぱい死んだりするから」
茉莉と『鬼滅の刃』。意外な組み合わせに驚く。
「へぇ、葉月さん、知らない話題で盛り上がってごめんなさい、茉莉は誰が好き?」
「……継国縁壱と、産屋敷輝利哉。健ちゃんは?」
「……胡蝶しのぶと、累」
「……分かる。あなたはああいう、教養豊かで恣意的で強い人を好む、気がする。……『名探偵コナン』だとシェリーが好き?」
「うん、当たってる」
「『呪術廻戦』だと伏黒甚爾か、禪院真希……冥冥も?」
「さすが。……『進撃の巨人』は?」
「……映画版は酷評されていたけど、私はクバルとシキシマが好き……」
「へぇ、タイプ?」
「……どっちかと言うと憧れよ」
茉莉は片頬だけで笑んだ。

 翌日は快晴だった。みなとみらいまで電車で行くと思いきや、叔父が車を出すという。コインパーキング代など、この家庭にはまさに、ほんのコインなのだ。茉莉は赤みがかったベージュのアイシャドウに黒いアイラインとマスカラ、鮮血かと思う赤の口紅を引いて、やはり紅の花が散りばめられた黒いワンピースを着た。珍しく、ボディラインが分かりにくいダボッとした形だった。靴下ではなくストッキングを履いていた。それでも靴は、ムーンスターの黒いハイカットスニーカーだ。
 女性のお洒落に言及すると悪いが、茉莉はつり目だから、目尻にアイラインを引くとより強調されてキツく見える。そこにきょうは唇が深紅ときているゆえ、ちょっとした魔女のようだった。アイシャドウが、赤みがあるとはいえベージュ系なのが恐らく「引き算」的な部分だろう。でも彼女はナチュラルメイクより、こういう、いかにもな化粧が好きなのだ。本当は黒とか赤とか灰色とか金のシャドウを付けたかったかもしれない。きっとそれでは派手すぎると考えたのだ。彼女は黒い革のミニバッグを斜めがけにした。「……音楽、どうする?」誰にともなく赤い唇が動いた。「任せる」と俺が答えると、前席の夫妻が頷いた。
 茉莉はアマゾンミュージックから石野卓球の「Polynesia」を引っ張り出した。茉莉は身長の割に長い脚を組んで、すぐ解いた。醜形恐怖の彼女にとって化粧は武装であり祈りだ。耳たぶで銀の華奢なフープピアスが輝いている。努力家で醜形恐怖で鬱病でアスペルガー症候群で脳性麻痺の、お嬢様。
 車内での話題の指揮は俺がとった。茉莉に色々質問してみるのだ。
 「好きな芸能人は」
「テレビには明るくないの……ごめんなさい、でも、そうね……オードリーの若林さんとか好きよ。著作を読んだの。『ナナメの夕暮れ』興味深かった。それ以来、夜中にやってるラジオもradikoで聴いてる。あと、てんちむ……、橋本甜歌さん。やっぱり著作を読んだの。苦労されているようだけど、色気があって好き」
 茉莉の本棚が猛烈に気になる。
「容姿のタイプは?」
「……ミスター・ニコラス・ケイジ。日本人なら、そうね、菊池風磨さんと鈴木亮平さん」
「男前の種類が違いすぎてよくわからない」
「……セクシーな人が好き。色気って経験のことだと思うの。経験豊富な人が好き。大抵、教養も持ち合わせているから。あなたは?好きな著名人は?」
「……うーん、難しいな、あっさりした顔に色気を感じるんだ。吉高由里子かな、あるいは、新垣結衣」
「……定番ね。でも、わかる。新垣結衣さんは、美女だと言われ続けた苦悩がオーラになっていて私も好きよ。吉高由里子さんもセクシー。『蛇にピアス』はご覧になった?」
「おう、見た。衛星放送でやってたのを録画してDVDに焼いたよ。今年は大河ドラマもチェックしてる。伊藤沙莉もけっこう好きだから、今期の朝ドラも」
「……明るくてさっぱりしたキャラクターの方がお好きなのね」
「ああ、そうだな。……ちょっと苦労してそうな感じも」
「……私たち、好みが合うわね」
「そうだな。血は争えん」
 話し込んでいるうちに、大観覧車の前に着いた。叔父が、「駐車場を探してくるから、列に並んでいて」と言って俺たち三人を下ろし、車で去った。
 観覧車の順番はすぐに回ってきそうだったので、ランドマークプラザで待つことにした。叔母が、「健ちゃん、与利子さんにお土産買わなきゃ」と促した。
「何がいいかな」
「……アロマはお好き?」と茉莉。
「ああ、精油。たまにラベンダーとか、イランイラン?を風呂に入れてる」
「……Aesopなんてどうかしら」
 石の水道がついた石鹸屋に案内された。店内は暗く、ナチュラルないい香りがし、解放的で、いかにも高級そうだ。茶色の小瓶や、英語の印刷された箱が並んでいる。
 俺は店員さんに話しかけられるのが苦手なので、手早く選んだ。
「茉莉。ハンドジェルって何だか分かる?」
「……香り付きの、消毒ジェル」
「じゃあこれにする。ゼラニウム」
俺はレジ付近にいた店員さんにラッピングをお願いし、紙袋を二枚つけてもらった。
『Aesop』を出て「現世」に帰ってき、適当なベンチに三人で座った。
「ここら辺にいる、ってパパにLINEしちゃお」葉月さんがスマホに打ち込む。
「母ちゃんびっくりするかな、息子が凝ったもの買ってきて」
「そりゃ驚くし、嬉しいはずよ。私も茉莉が学校の行事でディズニーシーへ行って、ママの分、と言ってお菓子とキーチェーンマスコットをくれたとき、嬉しかったもの。……あとはあれも嬉しかった。私が熱を出したとき、茉莉が氷嚢とポカリとリポビタンDとセデスを買ってきて、一人用の小鍋で梅粥を煮てくれたとき」
「……何年前よ」
「茉莉が十五か十六のときかしら。……親は子にしてもらった嬉しいこと、ずっと溶けない飴玉みたいに、転がしていられるのよ。茉莉、あなた九百グラムで産まれたのに、こんなに、って。……もちろんグラムはうちの例よ。仮に五千グラムでも嬉しいものは変わらないわ」
「……そッスか、俺は早産なのに三千九百グラムだったから、デカくて大変だったらしいっス」
「立派に大人になってすごいじゃないの。絶対、与利子さん、誇らしいわよ」
「そうッスかね、俺、身長百八十センチあるので、『一緒に茶の間にいると圧迫感があってむさ苦しい、はやく貯金してアパート借りて』って言われますが」
「あら、そう。肝っ玉母さんの愛の裏返しよ。本当に健ちゃんが独立したら、寂しくっていられないはずよ。あなたが東京に住んでいる間、心配だ心配だって、よく言ってたもの」
「へぇ、意外。女の子が欲しかった、とは聞いたことありますが」
「いやだわ与利子さんったら。ツンデレ?っていうのかしら。私との電話では、『ドラ息子だけど家に男手があると安心だわ』って言ってたな。ドラ息子は余計よねぇ。こんなに凛々しく男前に育ったのに」
「ふふ」俺は少し笑ってしまった。母、どっちが本心だか。
「健ちゃんも、もちろん茉莉も、とってもいい子よ、あ、パパ来た、こっちこっち!」
「お待たせしちゃったね。結局ランドマークプラザの駐車場がいちばん空いてた。みんな、腹、減らないか」
「ええ、どこか入る?」
「……うん」
「私、スープストックがいいな」
「そうか、健翔くんは」
「おまかせします」

四人で、『スープストックトーキョー』に入った。高松でも見ない洒落た店だった。叔母に作法を教えてもらう。スープ二品かカレーを選び、米の種類(白米とか雑穀米とか)かパン(これも種類が色々あった)を指定し、ドリンクを頼むらしかった。
「ビスク、ってなんですか、このオレンジの」
「エビの頭を煮たポタージュよ」
「じゃあ、それと、ヴィシソワーズ、って……」
「じゃがいもの冷たいスープ」叔母は嫌な顔をしない。
 俺は、「ビスク」と「ヴィシソワーズ」と、「白胡麻ご飯」と冷たい「和紅茶」を頼んだ。茉莉も叔母も同じだ。叔父は「北インド風バターチキンカレー」とアイスコーヒーをオーダーした。
 「皆さん、慣れてらっしゃる……」
「近所といえば近所だから」
「俺ん家の近所なんて、居酒屋街と、老夫婦がやってるジャズのかかった喫茶店しかないッスよ」
「……素敵じゃない。この辺にはないわ」と、茉莉。馬鹿にする風ではなかった。
 「ビスク」も「ヴィシソワーズ」も、洗練された、垢のない味がした。食が進む。食べる前に一枚、写真を撮ればよかったと思った。茉莉はちいさな口でゆっくり食事をした。所作が美しい。そういえば茉莉は、二歳くらいから、子供用の補助付き箸(アルファベットのAを逆さにしたような形のもの)を使っていた。俺のように、ザルで育てられていない。ガラス細工みたいに注意を払いながら、躾られてきたのだ。つい注目してしまう。茉莉は俺の視線を気にしない。彼女が最後に紅茶を飲み終えると、叔母が水を二つ用意した。
「ハイ、持病チーム、昼の服薬!」小声で、いたずらっぽく言った。可愛らしかった。
「あっはいっ」俺は背筋を伸ばし、背負ってきた緑色のColemanから無印良品の薄型ポーチを引っ張り、中のサインバルタを出した。
茉莉もバッグの中のミニポーチ(マリークヮントの黒いがま口だった)から薬を出す。こく、と服用した。可愛い。
俺は顔が赤くなるのを冷ますように、カプセル一錠に対してコップ一杯の冷水を一気飲みした。キン、と頭痛がした。
 
 大観覧車は空いていて、待たずに乗れた。俺は窓の外に広がる「大都会」をスマホで何回か撮った。
「茉莉と二人、写して、あとで与利子さんに送ろっと。健ちゃんこっち向いて」叔母が自分のスマホを構える。俺は少し恥ずかしいのを抑えてピースをした。
「……あら?シャッターが」
「動画撮れちゃってるぞ、ほら」と叔父。
「あらほんとだ、ごめんなさい健ちゃん。でもこれはこれで送っちゃう」
茉莉が、ふ、と笑った。
 ゴンドラがてっぺんに来た。茉莉が、つい、と俺のTシャツを掴む。
「……ごめんなさい、高いところ、強くないの。しばらくの間、ここ、いい?」
「いいよ」しばらくどころかずっとでもいい。ちょうど九十度のところで点検なぞ入ってほしい。茉莉には悪いが、願った。俺はスマホを構えて、景色を撮る振りをして、茉莉に絞りを当てた。かしゃ。これは盗撮になるのだろうか。不安げにこちらを見つめる、茉莉。可愛い。しつこいようだが、可愛い。ああ、何の苦労も悲しみも痛みも知らずに歳を重ねてほしい。氷漬けにして永久に閉じ込めたい気持ちすらある。心臓の最後の一拍が終わり世界が闇に包まれる寸前まで、茉莉が見たい。
 観覧車を降りるとき、ああいうものは緩やかに動いたままだから、茉莉を抱きかかえて降ろした。非健脚の茉莉に、「タイミング勝負」の動作は困難だ。
「……ありがとう」ずっと抱いていたかったが茉莉はするりと腕から抜けて歩き出した。「……健ちゃんがいたから楽しかった」
 「さて、二人は疲れたかい?」叔父が俺たちに問う。
 「午後のお茶、外でもいいし、マンションに戻ってワッフルかスコーンを焼いてもいいわ」と叔母。
「……そうね、暑いし、欲しいものも特にないから、ご夫婦のデートに差し支えなければ、家に帰りましょう」と茉莉。俺も頷いた。

 駐車場の隅で漆黒のフォルクスワーゲンが胡座をかいていた。叔父が遠隔操作で鍵を開けると、「おや、来たのかね」と言わんばかりにライトが一瞬、光った。隣と擦らないよう茉莉側に回って戸を開けてやる。茉莉は軽く会釈をし、奥に座った。俺も続く。麝香が漂っている。「……音楽、いる?」茉莉がまた誰にともなく尋ねる。
 俺が答える。「松本淳一、って検索してみて、松本潤の松本に、サンズイに享年の淳、漢数字の一。『魔法使いの嫁』のサウンドトラック出てくるかな。久石譲が好きならきっと茉莉、好きだと思う」ベルトをする。
「……ありがとう、出てきたわ。……『弓のアンソロジー』……素敵なタイトル」
 弦楽器の旋律と共に、フォルクスワーゲンが走り出した。
「どう、曲」
「……素晴らしいわ。教えてくれてありがとう。健ちゃん、普段、他にどんな曲を聴くの?」
「梶浦由記とか、澤野弘之とか。菊地成孔も。だいたい部屋で腹筋してるときか、夜中のランニング中に。歌詞のあるJPOPも聴くよ。宇多田ヒカルとか、Creepy NutsとかKing Gnuとか米津玄師とか、たまとか」
「……その列にたまが並ぶこと、珍しいと思う」
「小声で『らんちう』歌いながら走ってる。深夜の二時に、カエルの鳴いてる農道を」
 叔父が吹き出した。「蘭鋳の守護神がつきそうだな」
「……はは、日陰者全開」
茉莉が、ふっ、と笑う。「……健ちゃんの一日のスケジュールって、どうなってるの」
「えー、起きる時間はバラバラだけど昼までには絶対起きてるな。食事して、散歩して近所の手伝いがあればやって、夕飯の支度して飲み行って。一回寝て起きて、夜中に筋トレとかランニングして、明け方にまた何か食ってシャワー浴びて母ちゃんの弁当作って寝るかな。天気が悪いと具合も悪いから、そういうときは最低限の家事だけして、あとはゴロゴロしてる。もちろん、単発バイトのある日は間に合うように調整するよ」
「ほほう、時計に縛られないだけで、文化的で清潔といえばそうだな。退廃しているわけじゃない」叔父が運転席から合いの手を入れる。「一日テレビゲーム漬けとか、インターネット三昧の人も世の中にはいるからね。食事はどんな物?」
「えっと、メシは母ちゃんの作り置きか自炊か居酒屋のツマミです、レトルトや冷凍は味濃くて、米が進んで太るからあんま食わないかな……就活終わって授業も出ても出なくても、みたいな時期は中古本の海に沈んでましたけど……、絵も漫画も描きましたし。……なにか集中してると時間の感覚が狂うことはありますね、ふいに腹が減って時計見てあぶねってなる、ネット三昧と似てないっすか」
「創作は脳を使うから体にいいんだよ。でも、日光を浴びながら運動、を挟んだりすると理想的だな。まあ理想は理想でおいといても、その日焼けと筋肉の盛り上がりを見ると全然大丈夫そうだけど」
「ああ、これは、『近所のお年寄り手伝い焼け』みたいなもんです」
「地域コミュニティにも参加してる。すごいじゃないか。三十回忌のとき、無職で引きこもりでアル中でえす、なんてふざけていたからちょっと気になっていたんだ。世間から断絶されていたらどうしようって。でも、この数日も茉莉と上手くやってくれていたみたいだし、昨日なんて晩メシを用意してくれたんだろ?ありがとうな。杞憂でよかった。安心したよ。焼き魚美味かった」
「あ、安心してください。そんな平成漂う無職じゃないんで」
「……フリーランス、でしょ」と茉莉。
「あ、そうでした。知ってる爺ちゃん婆ちゃんの手伝いして規格外品の野菜もらったりしてるんで、フリーランスの若手です。東京の中堅IT企業のエンジニアから転職しました」
「素晴らしい」
「そうねぇ、あのいい子の健ちゃんが、無職で引きこもりでアル中、はさすがに考えにくいわよ。第一、与利子さんから雷が落ちるから堕落できないもの。それに人のために動いてないとたまらない性分でしょう。私のお兄ちゃん、健ちゃんのお父さんね、そうだったもの」
「あ、まあ、人がいいねとはよく言われます。学生時代も、追試になったヤツの勉強見てやったり、会社の志望動機練るの手伝ったり、他人のエントリーシートの推敲したり」
「……就職課じゃん」茉莉が、また、ふ、と笑う。
「それな」俺も苦笑いした。「三人くらい、そいつらの第一志望に送りこんだ」
「元就活コンサルタント、元ITエンジニア、そして、今はフリーランスか。すごい経歴だな」叔父も笑った。
「茉莉だってすごいじゃん、ちゃんとしたところから出演依頼のくる、プロのピアニストだろ」
「……出なかったけどね」
「でも腕は認められてる」
「……ありがとう」
「若手フリーランスに、新進気鋭のピアニストに、ベテラン医師に囲まれて、私、鼻が高いわ」叔母がにっこりとして言う。
「葉月さんだって、敏腕看護師だろ」
「ありがとう」
「きっとこのワーゲン、緊張してるな。すごいヤツらを乗っけて」叔父が浮き浮きした様子で言った。「角を曲がればすぐマンションだ」

 午後のお茶は叔母が焼いたスコーンと、茉莉がかき混ぜたクロテッドクリームに、叔父が煮た桃のジャムだった。俺は水出し紅茶を用意する。ティーバッグだが、ほのかな桃の香り付きだ。きっとジャムに合う。お茶会の様子をスマホで撮影し、母に送った。休憩時間らしく、すぐに既読がつく。
『つかの間のリラックスタイム、楽しくね。お作法も勉強してきて』
『ありがとう。近況を説明したら、俺、無職じゃなくて、フリーランス、ってことになった』
すこしの間が空いて、
『どれだけ格好つけたのよ、嫌よ、あとで恥かくの』
『近所の爺ちゃん婆ちゃんの手伝いしてトマトとリポビタンDもらったりしてるって言った。あと民宿の通訳に借り出されてお礼に万年筆もらった話』
『そのくらいならいいけど、あまり雰囲気に飲まれて大風呂敷広げないでね』
了解、のスタンプを打った。
叔母が、「与利子さんなんて?」と聞いてきたので、スマホを差し出した。
「見ちゃっていいの?……あら、相変わらずしっかりしてらっしゃる。大風呂敷なんて広げないわよねえ。お土産はサプライズにするの?」スマホが戻ってくる。
「はい、ジェルはサプライズで、あとは東京ばな奈のお使いを頼まれてるんだけど、……」
「新横浜の改札の外のキヲスクに売ってたわ、たしか」
「あ、そうなの?」
「それか、かさばるから明日横浜のそごうで買って送っちゃう?デパートの方が種類もあるし、私も夏のお洋服が見たいわ。そうしましょ、うん」
 クロテッドクリームを、はじめて食った。生クリームよりやや重く、バタークリームより軽い。イングリッシュスコーンをちぎって、ゆっくり食した。紅茶はキリリと冷たい。
「早いな、もう金曜日か……」
思っただけのつもりが、口に出ていた。楽しかったな、と付け足す。もちろん嘘ではない。テレビドラマより上質で円滑な暮らしをやった。
 お茶を終えた茉莉は、片付けをしてから、自室で、「ラ・カンパネラ」をミスなく弾いた。それから、さっきはじめて聞いたはずの、「弓のアンソロジー」も完璧に弾きこなした。それからしばらくして出てきて、どう、と言われる前に俺はスタンディングオベーションをした。
「すごい、茉莉、はじめて聞いた曲をあんなに。もちろん、『ラ・カンパネラ』も素晴らしかった」
茉莉は満更でもなさげな顔をし、「……絶対音感があるの」と言った。「……音は全て音階に変換されて聞こえる」

 その夜、入浴を済ませた茉莉が俺の部屋に来た。ひょいと内側に入って扉を閉じ、
「……人にはみな、どんなに未熟者でも、生きている限り、『死の扉』があって、普段は忘れているけれど、『健康』とされている人はずっと忘れて閉じっぱなしだけれど、私たち精神病人は、ふとしたときに開いてしまって、吸い込まれそうになって、でもそこで従うとお骨になっちゃうから、抵抗するために泣いたり、自分を殴ったり、薬やお酒を飲んだりして、ぐっと力を入れて閉じようとしておくのね。お互い気をつけましょうね」
「茉莉、どうしたの、急に」
「……注意喚起。健ちゃん、もうすぐ帰るから」
「茉莉」
「……何?」
「浮世にいろよ。この肉体に入ったまま。必ずまた会ってくれ、この姿で、絶対」
「……やれるだけの努力はするわ、最後は才能と運だけど」
「手、握ってくれないか」
「……はい」
「しばらくこのままでいいか」
「……健ちゃんもね。……私のピアノまた聴いて。その日に焼けた耳で。……私を、ひとりにしないでね」
「わかった、耳、大事にする。ラ・カンパネラのために」
茉莉は、ふっ、と笑った。

 翌日、そごうに、茉莉は行かないといった。叔母と二人で、彼女の「アクア」に乗り横浜駅前に向かう。東京ばな奈を、二箱、買ってくれた。もちろん、一遍は断ったのだが、「一週間、茉莉によくしてくれたでしょ」と聞き入れてもらえなかった。そればかりでなく宅配便の送料まで支払ってもらった。俺が小さくなっていると、
「じゃあ、夏のお洋服、見立ててくれる?」
と提案するので、お易い御用、と、水を得た魚になった。

「ブランドは任せるわ。このカードで、茉莉にひとつ。私は喫茶店で待ってるから」
と、婦人服コーナーでクレジットカードを片手にひとりにされた。状況が飲み込めないまま、叔母はエスカレーターに乗って行ってしまった。
それが良い悪いではなく、ミッションは茉莉へのお使い。俺は叔母に、「NEWoManに移動していいですか」とLINEした。
「どうぞ。制限時間は一時間」と返信が来た。
NEWoManの入口近くの、「GUCCI」を見た。俺が金のなさそうな格好をしているからか、店の女性は話しかけてこない。続いて、「Yves saint Laurent 」を覗いた。どんなものを彼女は欲しがるだろう。茉莉はよくワンピースを着ている。大ぶりな耳飾りも好きだ。あと茉莉の好きな物はなんだ。本と服と映画と音楽、と、入浴、と、清潔。俺は茉莉にどうあってほしい?
 恣意的に、つまり気持ちのあるがままに、生きてほしい。ついでに俺のことをなるべく鮮明に覚えていてほしい。
それらを総合して、モノで表すと何になる?

香水だ。しかも一本ではなく、複数の。
しかし、「ひとつ」という制限付きだ。
俺はすぐそばの、「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」のカウンターの列に並んだ。ふと目についたフレグランスショップだったというだけだ。もしかしたら茉莉は、もう持っているかもしれない。自分の順がくる。「お伺いします」と女性店員が笑む。
「香水の小瓶セットありますか、できるだけたくさんの種類が入ったもの」

「ラ・ドゥゼーヌ・パルフュメ」と呼ばれる、十二種類でワンセットの、アルコールを使っていない香水を手にした。代金はカードではなく現金で支払った。日払いバイトで作ったポケットマネーだ。プレゼント用に包んでもらった。
二万八千百六十円。茉莉に宛てるにはすこし安いくらいだと思った。叔母と、そごうの一階入口で落ち合う。クレジットカードを返した。
「何買ったの?……ああ、茉莉から聞こう」
「うん、ぜひ」
 帰宅して、「お疲れ様」と冷たいローズヒップティーをいれてくれた茉莉に紙袋を手渡す。「俺が帰ってから開けて」と一言添えた。

 小豆島は、暑い。マンションの鍵を開け、農道を駆け抜けたスーツケースの足を拭く。
 そのとき、茉莉からLINEが入った。携帯が震える。
「素敵なものをありがとう。ラ・ドゥゼーヌ・パルフュメのために生きる」とあった。返信する。

「俺は、ラ・カンパネラのために」

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