私が自閉スペクトラム症と協調運動障害、PMSを持っていることは、裁判前の精神鑑定中にわかった。私は令和六年五月一日をもって少年院を退院した。このあとは児童養護施設に行く予定だった。十六歳だった。特定の個人としての身元引受人はいなかった。血縁者としては父がいたが意識不明になっていた。私がそうした。だから逮捕されたのだ。父は売れないホストで、もうあきらめているのかほとんど出勤せず、ある日私に「強盗でいいからカネを作ってこい」といった。私は小柄だし知恵もないので強盗などできなかった。古い鉄骨のアパート、六畳一間の中をひっくり返すようにしてやっと見つけたよれよれの一万円札を、自分はアホだと思いながらコンビニでコピーした。そのくらいしかできなかった。帰って父に見せると目玉がはずれてそこから脳が出そうなほど殴られた。私はそばにあった、延長コードで父の首を締めたらしかった。よく覚えていないが、そうだと調書にあった。その後、やはり覚えていないが、私は自ら警察に通報したらしい。紙幣偽造と殺人未遂、それが私の罪名だった。警察のお兄さんは優しくて、私は取調室で生い立ちからなにから、すべて話した。母について何度も、色んな人から確かめられたが、いつも、何も知らないと告げた。本当だった。父も何もいわなかったし私も興味がなかった。
うちは貧乏で私はいつも空腹で、アパートに忍び込んできた雄猫の毛と尿で汚れた制服を着て中学に行くのでクラスでいじめられていた。ボロボロの私でも、十三歳になると生理が来た。ナプキンを買うカネがなく、いつも保健室にもらいに行っていた。生理前は食欲が増して、よくコンビニでおにぎりやパンを万引きした。
少年院は先生も厳しく、私は同級生から「アスペ」と呼ばれ嫌がらせを受けたが、三度の食事が保証されているので助かった。
移送先の児童養護施設から、あらためて精神科に連れていかれ医師に診断書を作成してもらい、区役所に行き証明写真を撮影し、精神保健福祉手帳というものを取得した。三級と書いてあった。一から三まで等級があり、数字が若いほど重態、ということだった。マイナンバーカードも作った。服に関しては、ほとんど先輩のお古だけど、といって、きちんと洗濯されたものを支給してもらった。
高校には行かず、施設で高卒認定の勉強をした。小中学生のときから、学校の勉強は不器用な身体を使う実技を除けば苦ではなかった。勉強していると自然に集中でき、その間は家庭の苦しみを忘れられた。そんな私には高認の勉強はやや物足りなかった。
私は自分の髪を束ねることも、靴紐を結ぶことも自転車に乗ることも、できなかった。身体がイメージ通りに動かないのだ。
そういう、勉強だけが少しできる私に、養子縁組の話が持ち上がった。相手は児童養護施設から二駅のマンションに住む高屋さんというご夫妻だった。ご主人は大手日系IT企業の、在宅ワークメインのエンジニア、奥さんは区役所で働いていた。私は児童相談所に連れて行かれ、その面会室ではじめて会い、プロフィールを本人たちから直接聞いた。
ご主人は晴樹(はるき)さん、奥さんは佳奈子(かなこ)さんといった。晴樹さんは髪を後ろで一つ結びにし、派手な柄シャツを着て、その中に女性の顔が印刷されたTシャツ、深い色の太いデニム、スリッポン姿だった。佳奈子さんは揺れるピアスを着けて、水色のチュニックに白いスラックスを履いていた。
「雨さん」晴樹さんが私を呼んだ。下の名前にさん付けで呼ばれるのははじめてといってよかった。少年院や施設では苗字の呼び捨てが普通だった。晴樹さんは低く強く、しかし優しい声をしていた。「経歴の紙、見たよ、全部かな、書いてあった」
心拍数が上がる。縁組をして新しい親ができ、あの売れないホストの意識不明の父とは別れ別れになって、成人後も安心して暮らせるとばかり思っていた。経歴がバレては、話は総崩れだ。
晴樹さんは、ゆったりと続けた。
「何があったかは、あえてこちらから聞かないよ。心が決まったら話して。うちにおいで、なにもないけど」
八月のある金曜日に、荷物をまとめ、晴樹さんたちと児童相談所の正面入口で待ち合わせをした。彼らは、深い青の軽自動車に乗ってやってきた。佳奈子さんが運転していて、晴樹さんは助手席から顔を出し、私の目の前で停車すると、
「雨さん、お待たせ」といった。晴樹さんは降りてきて、私のボストンバッグをトランクに積み込み、後部座席を開けてくれた。スライドドアだった。
「お邪魔します」私はしずしずと乗車した。新車の匂いがした。
「じゃあまず、頭痛外来はさっき行った、じゃあ家庭裁判所に寄って養子縁組の申し立てをします、そのあとスーパーで細かいもの、と」晴樹さんは確かめるようにいい、佳奈子さんが車のハンドルを切って、児童相談所の駐車場を出た。私は去り際に小さく、見送ってくれた担当職員の方に会釈した。緊張して、膝に置いたリュックのベルトを握っていた。
家庭裁判所で手続きをし、一生分くらいの記名をした。養子縁組をしていいかどうかという判定が、その場でおりた。大丈夫だった。審判書という紙を受け取り、そのまま、マンション近くだというスーパーの二階に寄った。本当に近くかわからなかったし、巻かれるのが怖くて私は佳奈子さんに「手をつないで」と頼んだ。快諾してくれた。前を歩く晴樹さんは、高身長だった。百八十センチくらいあった。体躯はがっしりしている。
そこでは私の歯ブラシと歯磨き粉、浴室で使うボディスポンジ、生理用ナプキン、ヘアブラシ、カミソリ、眉バサミ、日焼け止めなどを購入した。カミソリはT字と真っ直ぐなものの二種類を佳奈子さんが選んだ。ナプキンは二パック買うと割引、とあったので、二十五センチの薄い昼用と、三十五センチの夜用を選んだ。施設では高くて買えない品だった。そこでは毎月、スーパーで一番安い物が一部屋に一パック支給されていたが長さが足りなくてよく血を漏らした。日焼け止めはANESSAのミルクにした。佳奈子さんが、「ちふれ」の化粧水と乳液を選んでくれた。
「雨さん」佳奈子さんがいった。「髪、伸びてるから切る?」
確かに胸下くらいまであった。
「はい」
「……ハルくんストップ!」
「おおっ、うん、なあに?」晴樹さんが足を止めて振り返る。
「髪切る?って聞いたらはいだって。ここ奥に千円カットあったよね」
「うん、じゃ行こうか」
散髪の間、夫妻には待合椅子で待っててもらった。髪型は顎ほどの前下がりボブになった。散髪には専用自販機で買うチケットが要って、料金は出していただいた。私は最後に無料のおしぼりでノーメイクの顔を拭って、三人で理髪店を出た。お昼ご飯は、スーパーの隣のガストで唐揚げ定食をご馳走になった。
午後は区役所に行き、養子縁組の申し立てをして受理され、住民票を移し、マイナンバーカードの住所を修正した。佳奈子さんにいわれるがまま証明写真を撮った。彼女が指定したのは「美肌モード」という通常より百円ばかり高級なサービスだった。曰く、「目に光が宿るし、顔色も綺麗に写るよ」
お言葉に甘えた。出てきた写真は、確かに人相がよく見えた。
障害者手帳を作り直しに福祉課に行き、「美肌モード」の私が一人切り離され、カード本体が後から郵送されてくることになった。それから百円ショップで三文判を買ってもらい、銀行で、「高屋雨」名義の口座を作った。
夫妻のマンションは本当にスーパーの近所だった。その目と鼻の先に、新しそうなバス停と、学校があった。学校の区分を聞くと小学校だとわかった。バス停にはJRの駅に行く便が来るという。しかもマンションは外観もエントランスも綺麗で、そういったことから、二人に経済力があるのがなんとなくわかった。ボストンバッグは晴樹さんに持ってもらい、エレベーターで三階に上がって、彼が右の角部屋の鍵を開けた。ドアを押さえていてくれる。
「はい、女性らどうぞ」
「はーい」佳奈子さんが軽やかにはいり、三センチヒールを脱いで揃える。
「失礼します」私も静かに続いた。
靴は施設の先輩のお古のスリッポンだったが、二回、酸素系漂白剤と粉洗剤で洗って天日干しし、靴下に関しては先生に頼み込んで買って来てもらった新品だった。足は今朝、施設のシャワーで、固形石鹸を直に擦り付けて爪と皮膚の間まで洗った。それでよかったと思った。廊下は光り、毛髪の一本も落ちていない。
「雨さん、荷物ってこのバッグとリュックだけ?」晴樹さんが後ろからいった。
「はい、夏服と十一月に受ける高認のものと、あと薬とか精神科の紹介状とか、最低限ですが」
「最低限だからちょっとなのか。足りないものがあったら佳奈子さんにリクエストしてもらっていい?あと敬語ヌキね。スマホある?連絡先教えて」
「持って、ない……」
施設の一部の子はアルバイトをして自分専用の機器を所有していたが、給料の発生する労働をしていない私は非該当だった。
「え、……荷物も降ろしたし、マイナンバーの氏名と住所も書き換えたし、契約に行こう」
「……私、お金ない」
「通信料とか機種代はこっちで持つよ。iPhoneの最新のは高すぎて無理だけど、Androidの安いのなら、ね、買える」
晴樹さんは佳奈子さんに確かめるようにいった。
「うん、いまスマホないと不便だから」
「いいの?」
「使いすぎて依存症になるくらいだったら止めるけど、いまは、ないと不便、が先にくるから」
「有難う」
三本の水筒(私に用意された白のものは新品らしく、箱から出された)に冷蔵庫のポットから麦茶を注ぎ、それぞれリュックにいれてマンションの前でバスを待った。五分もしないで来た。駅で私専用のSuicaを購入し、千円入れてもらった。駅前の携帯ショップで格安回線のスマホを「家族割」で契約した。その響きが嬉しかった。色はライトブルー。カバーは本体を傷つけないよう、白い手帳型にした。ガラスの液晶保護フィルムを一緒に会計してもらい、マンションに戻って、広い洗面所で手を洗い、貼るのを手伝ってもらった。リビングダイニングも綺麗だった。床に物がない。佳奈子さん曰く、「物の住所が決まっているの」
ふいに晴樹さんが、
「雨さん、顔写真一枚撮らせて。弟が見たいって」
「弟さんがいるの?」
「うん。康樹(こうき)っていうんだ。今度の土曜日、会いに行こう」
私は人生初の「叔父さん」にドキドキした。どんな人だろう。私は彼が構える彼自身のスマホのカメラを見つめた。シャッター音が鳴る。「私の」と同じ機種のネイビーだ。
「びっくりされないように先にいうけど、自閉スペクトラム症と重度の知的障害を持ってる。一卵性の双子だから見た目はほぼ俺。違いといえば、向こうは内斜視か。大人しくてのんびりした、ちょっとどんくさいくらいの奴で、自傷他害の類はしないし、たまに唸るけど急に叫んだりもしない。福祉作業所で働いてる、会話は一問一答でタイミング次第」
「自閉スペクトラム症で知的障害の子なら、施設にいたからイメージつく」
「へえ」
「その子は一日中廊下で叫びながら跳んで回転してた」
「元気だな。康樹はもういい歳だからそんなパワーないよ」
「本当に静かよ」佳奈子さんがつけたす。「よく一人で喋ってるけど」
夕飯前に、医師から処方された加味帰脾湯という漢方薬を飲んだ。晩の献立は佳奈子さん手作りのオムライスとサラダ、レアチーズケーキだった。どれも美味で、施設の給食は一体なんだったのだろう、と思った。はじめて経験する「家庭」に浮き足立っていた。
済ませると佳奈子さんと私はその後片付け、晴樹さんはバスタブを洗いに行った。戻ってきた彼が「雨さん、ちょっと手をすすいでこっち来て」と、リビングダイニングの真横の部屋で呼んだ。
「はあい」私は手の水気を切り、タオルで拭いて、その部屋にはいった。
左に窓があり、水色のカーテンが閉じている。右側は一面クロゼット、窓の下にすのことマットレスと、やはり水色のカバーがかかった布団と枕が広げてあり、部屋の中央に木目調の折りたたみ机、机の下にはこれまた水色の、毛足の長い小さなラグが敷いてあった。その向こうにまだカラの、スチールの黒い本棚、天井の隅にエアコンがついている。
「ここ、雨さんの部屋ね。電気はこのスイッチでも操作できるし、ここについてるリモコン外してもいける。晩の片付けは佳奈子さん一人で大丈夫だから、荷物配置しちゃって。いまリュックとバッグ持ってくる」
「あの、これ、用意してくれたの?……有難う」
「どういたしまして。ほら、バッグ類。終わったら風呂ね」
晴樹さんは扉を閉め、私を一人にした。
荷解きをはじめる。胸がいっぱいだった。施設では二人部屋を使い、緊張しっぱなしだった。相手が私を敵とみなし、隣近所の女子と徒党を組んで嫌がらせしてくる人だったからだ。思い出すだけで心拍が上がり、鼻がツンと痛くなる。
広いクロゼット内に、中型のボックスが三つ重ねてあった。ここに下着を入れよということなのか。私は施設の先生が衣類量販店で買って支給してくれた下着を一つ一つ収納した。それ以外の衣服もすべて、ほとんど詰め込むようにして持ってきたから、洗濯してあるのにくしゃくしゃだった。情けなくて半泣きになりながら、シャツやワンピースはハンガーにかけ、ズボンは畳んでボックスの上に置いた。リュックから薬袋とサニタリー用のポーチを出し、机の上に、高認の教材と共に置いた。パジャマは一旦布団の上に広げた。部屋がこの家の洗濯洗剤もしくは柔軟剤のほのかな香りから、生乾きの、施設の匂いになった。カーテンの向こうの窓を開けた。
「ちょっとお邪魔します、あら、結構いっぺんに開けたのね」佳奈子さんが入ってきた。
「あ、ごめんなさい……あの、実は畳むのが下手で全部、下着も服もよれよれで、恥ずかしいし図々しい、けど、明日晴れたら全部洗っていい……ですか」つい敬語になる。
翌日は快晴だった。緊張して、レンドルミンといういつもの睡眠薬を使ったのに五時半に起きた。
目が覚めたら晴樹さんと佳奈子さんの家の天井が見えて、安堵した。もう私には同室の子はいない。従って意地悪をいわれる心配も、される心配もない。
服については、洗濯の許可が出た。
「パジャマも、ちょっとくしゃくしゃね、新品のサテンパジャマと短パンがあるから、お風呂上がったらそれを着て、出しとくから」と苦笑いされ、いわれるがままに借りてしまった。
スマホを開く。これから半年は定期的に児童相談所から連絡がくる。私の番号とメールアドレスは、晴樹さんから担当職員の方に連絡してくれたと、昨日のお風呂上がりに聞いた。月曜日あたりに一報あるだろうか。はじめはこちらから挨拶をしたほうがいいのだろうか。そっと部屋を出て歯を磨き顔を洗って「ちふれ」のスキンケアをつけた。佳奈子さん曰く「化粧水で水分をいれて、乳液で蓋をする」らしく、その通りにやった。ヘアブラシで髪を梳かす。
どこのなにかわからない、施設のカビたボトルにはいった石鹸類とはちがい、この家のものは昨日のスーパーの日用品コーナーや施設の買い物当番で行ったドラッグストアで見かける品だった。そういう物が浴室に置いてあることに「家庭」を感じ、微かに高揚した。昨日から気になっていた足元の大きなプラボックスを開けて、ちらと中を見た。男物の下着と部屋着がぎゅうぎゅうに畳まれてはいっていた。
持参した衣服やパジャマは施設の誰かのお古だったが、下着は私のために用意されたものだった。女性の先生に裸でスリーサイズを計測され、いつの間に量販店に行ったのか、上下五枚、揃えられていた。
昨日の夜、リビングでスマホにWiFiを接続してもらった。Googleplayを見たが、複雑でわからない。結局なんのアプリも入れぬまま、ただ漠然と画面を流し見た。ふと高認が気になり文科省のサイトに飛び、出願セットを頼んで、七時半になった。扉の隙間から、生活の音が聞こえはじめた。父を締めたときのことは「情報」として知っているだけで記憶にはなかった。鮮明に、自分のものとして想起されてから二人に告白しようと決めた。部屋をそろりと出る。ダイニングにトーストを並べる佳奈子さんとふいに目が合った。
「おはよう、ハルくん起こしてきて」
「えっ、私がですか」
「一発で起きると思うのよね。寝室は玄関寄りの右の部屋」
「はい、うん、わかった」
寝室のある地点は左右に部屋があって、左には、蝶番のところにダイヤルロックがついていた。晴樹さんは在宅ワークが多いと聞いていたから、きっと仕事部屋だろう。
右の部屋に入る。すのこベッドとプラスチックの箪笥が二個ずつと備え付けのクロゼットの一つある、ベージュと白を基調とした柔らかい印象の部屋だった。晴樹さんは頭までタオルケットを掛けて、丸まって寝ていた。いびきは聞こえない。規則正しい寝息だけだ。名前を呼び、肩のあたりをトントンと叩いた。ばさ、とその繭が動き、晴樹さんがベッドから落ちた。
「ぎゃっ、すみません、起こしに来たんです、朝ごはん出来てます」
「……ああ、はい、……バッチリ起きた。肩弱いんだよな、いま支度して行きます、よいしょ、居間で待ってて」
「佳奈子さん、晴樹さん起きました」ダイニングに呼びかける。
「よく聞こえた、ははは」こちらは目玉がひっくり返りそうに驚いたのに呑気なものだ。
晴樹さんが洗面所で顔を洗ったり歯を磨いたりしているうちに、私は加味帰脾湯を飲んだ。佳奈子さんが昨日の服薬時と同じく冷蔵庫のポットから浄水を注いでくれた。
三人で、慣れぬ食卓を囲んだ。朝食の内容はバタートースト、ほうれん草の炒め物、バナナと蜂蜜のはいったヨーグルト、麦茶だった。
「あの」私は晴樹さんを見た。
「なあに?」
「肩触ってすみません、……ごめん」叱られたり呆れられたりするのが怖かった。
「……今度からは背中とか腰で頼む」
「自分で爽やかに起きなさいよ」佳奈子さんが横から苦笑した。
それが済むと晴樹さんが一錠、ポットの水で服薬した。頭痛外来に通っているといっていたから、その関係のものだろう。彼が片付けを担い、私と佳奈子さんは洗濯に移った。大きな角ハンガーを二個とシャツ用の連続ハンガーを一つベランダに吊るし、下着類はリビングで部屋干し用の折りたたみラックに掛けてサーキュレーターをあてた。
「不思議な景色」晴樹さんが冷蔵ポットのダージリンという紅茶をコップに注ぎながらいった。
佳奈子さんは「ハルくん、そういうこといわない」と夫をいさめつつ「雨さん、お洋服、年季が入ってるね。系統は同じで、ちょっと新しくしようか。下着も少ないし」といった。わからなかった。聞き返すと「こっちで買うの」と返事が来た。また出費をさせてしまうと思い遠慮したが押し切られた。私の部屋に彼女のピンクゴールドのノートPCを持ってはいり、二人で通販サイトを見た。ワンピース二着、チノパンツ二着、ボタンシャツ二着、ノンワイヤーの下着の上下セットと、キャミソールを五組、頼んでもらった。いずれも数は佳奈子さんの指定だった。
「緑とか青とか、寒色が好きなんだね、私といっしょ」彼女は微笑んだ。「靴はどうしよう、楽天でいい?」
「あの」私は恥を忍んで「靴紐が結べないんです、どんなに練習しても、現時点では」といった。
彼女は、「そうなんだ」と、まるで出身地を聞いたみたいに軽く、いとも簡単にマジックテープのハイカットスニーカーを見つけ、
「足のサイズいくつ?」
「二十三です」
「在庫あるよ、白黒二色、両方買おう」
あっさり注文してしまった。
「いいんですか、いいの、色々」
「いいのよ、もう、うちの子だし」
「うちの子」という、私には一生縁がないと思われていた優しい響きに、肺の凍る冬山で暖炉付きの小屋を見つけたような気分になった。佳奈子さんはPCを畳むと電源を抜いて、わきに抱えて退室し、その去り際に「お昼までまだちょっとあるから、進路でも調べておいて」
進路、か。残された私は折りたたみ机の上のARROWSをとりあえず開いた。学校の試験勉強は好きで、結果もそれなりに出たが将来となると話がちがってくる。私は体力もコミュニケーション能力もないし、不器用だし、小学校のクラブ活動でPCクラブに所属しタイピングが速いともてはやされたことはあるものの、だからといってどうするというか、未来に関してはまったくの無計画といってよかった。
「学費 安い 大学」と検索した。学部については調べながら決めよう、と思った。関東通信大学、というのが、はじめにヒットした。ページを開く。「通学不要、四年間で九十万円(入学金込み)、学士が目指せる」と見出しがあった。学士とはなんぞ、とWikipediaを開いた。ざっくりあらわすと「四年制大学を卒業したときに、その証明として授与される資格」らしかった。大学のページに戻って単位取得システムの項を見た。スマホやPCで講義動画を見て、オフィスソフトのワードか、または郵送でレポートを提出すればよいらしかった。その他、入学式と卒業式以外、東京は新宿にある学校の本部に出向く必要は基本的にないという。さて、ITマネジメント学部というのと、社会福祉学部というのがあって、どちらかといえば前者に興味が湧いた。入学試験は、規定の期間に出願して、指定された時間内に作文をワードで作成し、送付すればよいらしかった。
昼食は肉野菜炒めと、玉ねぎの味噌汁、玄米だった。
終えて、ダージリンを飲みながら、
「進路、いいとこあった?」佳奈子さんが聞いた。横から晴樹さんが、「十六でもうそんな話すんの?」としんから不思議そうにいった。
「……よさそうかなってところはあった。関東通信大学のITマネジメント学部」
「わ、俺が出たとこ」
日本の狭さを感じた。まさか目の前にOBがいるとは。
「……どんな感じだった」
「レポート溜めないように計画立てて勉強すんのが大変だったな、バイトもあったし、康樹の作業所の送迎もあったし」
「バイトは何をしてた?」
「ケーキ屋で生地混ぜてた。あれ力仕事で単純作業だから、まあまあ俺には向いてた」
「そっか、私もなんかやらなきゃ。なにがいいかな」
「無理して決めなくてもいいよ、いまは高認が大事。出願用品一式頼んだ?」
「うん、今朝やった、あの、なんかちょっと、正式な出願のときにお金がいる」
スマホを取ってきて、二人に確認してもらう。
「なるほどな」晴樹さんが立って、片開きの冷蔵庫に貼ってあるA4ホワイトボードに必要なものをメモした。区役所や家庭裁判所で用紙に記入していたときにも思ったが、左利きで、すごい美文字だ。それを伝える。
「有難う、硬筆技能検定一級まで取ったかいがある。雨さんも、高認が済んだら大学受験までなんか資格の勉強する?」
「うん、是非。こう見えて小中学の勉強は、苦じゃなかったし。最後に受けた定期試験は、全部九十点くらいだった」証拠はないが嘘ではなかった。確か国語が八十五点、理科が九十点、英語が九十二点、社会が九十六点、数学が九十八点だった。それを言うと二人は感心し「頼もしい」と拍手をした。恥ずかしいやら嬉しいやらで縮こまる。「学校の勉強は、先生が前もって授業でやりかたを解説してくれるし、教室がもし雑談で盛り上がってうるさくなったら教科書と黒板をよく見て、予復習をやってればなんとかそこまでの成績は取れた」小声でいう。
「じゃ、勉強の息抜き、だとあれかもしれないけど、本屋に行って、なにか小説か漫画でも買おうか」
洗濯物を取り込み、佳奈子さんに畳むのを手伝ってもらい、すっかり綺麗に分別し、クロゼットに収納してから、軽自動車で書店と衣服量販店に連れて行ってもらった。書店ではかねてから気になっていた小説の文庫を、一冊とA4リングノートの五冊セットを買ってもらい、量販店では生理の夜に腰あたりに敷く防水シーツを手に入れて帰った。
道すがら、晴樹さんが、
「俺はもう高校の範囲は忘れたけど、佳奈子さんは市立教育大学卒業だから、高認でなんか困ったら問い合わせはそっちに」と笑った。「教員免許は小学校のを持ってる」
「教職は三年もせずに挫折したけどね」
佳奈子さんが苦笑いした。「それでそのあと、区役所勤務。これはずっと続いてる。適性って大事ね」片手で涙を拭うのがわかった。
私は驚いた。私にとって他者は、いついかなるときでも完璧。私だけが持たないレシピや地図のようなものがあらかじめ割り振られ、それぞれの「正解」を歩み、そこに挫折や悲しみなどないと思っていた。それなのに、彼女は泣いている。挫折を思い出して、泣いている。私は大人が泣くのを、生ではじめて見た。施設や少年院の子が泣いているのは見たことがあるが、騒音を立てて私の行動を妨害するためだと思っていた(私は聴覚過敏だった、生理の前などが特にひどかった)。私の思考だけが本物で、あとはすべて、芝居の一種、または人生というロールプレイングゲームをクリアするための「過程」だと認識していた。あるいは彼女のいまの涙も、そうかもしれなかった。私はずっと人間の猿真似で生きてきた。この考えのことはややこしいから黙っていたほうがいいなと思った。
帰って、買ったものを本棚に置き、眺めた。そうしていると、動揺が少しおさまった。
夜、晴樹さんには康樹さんがいるから、きっとわかってくれるだろうと、夕飯と片付けが済み、佳奈子さんが入浴している間に、聴覚過敏の話をした。変人と思われたり、必要以上に重度だと認識されたらどうしようかと迷ったが、金属音や子供の泣き声や人混みのざわめき、スーパーマーケットの何種類も混ざったBGMなど、日常的な音に苦手があるので勇気を振り絞った。
「なるほど、他に感覚過敏はない?……あと、ざわざわしたところで音を全然聞き分けられないとか、そこまでではなくてもちょっと聞こえにくいとか」
「ある」
学校で、教室が雑談をもって盛り上がったときなど、まさにそうだった。
「なるほどね、あとは、こう、ちょっと人が身体に触っただけのはずが、過剰にくすぐったいとか、そういうのは」晴樹さんは黒い卓上手帳を広げ、挟まっていた黒い万年筆でサラサラと書き留めた。
「くすぐったいは、ないかな、普通」
「光が眩しすぎて困るというか、迷惑に思う日はある?」
「ないかな、晴れでも曇りでも、眩しいのはわかるけど困るまでじゃない」
「曇りが眩しい、ああ、銀色が光っていて、ということか、合ってる?」
「そう」曇りが眩しい、が理解されるときがあるんだ、と驚いた。否、人にははじめて話したが。それにしても、診察されているみたいで妙な気分だ。
「生魚の鱗の光り方は平気?」
「大丈夫」
「見なきゃいい、とかじゃなくて、感覚的に」
「大丈夫だよ」
「わかった、どんな音が苦手?」
私は前述の数種に加え、大勢の拍手や揚げ物の音、人の大声や咳を挙げた。
「なるほどね」そういうと、ネイビーの端末を開いて操作した。そして、向き直ると、
「実は俺も自閉スペクトラム症って診断されてて。あと不眠か。レンドルミンとリスペリドン飲んでるし、ちょっと共通点」といってはにかんだ。「次の精神科どこ?」
「ああ、さがみ中央診療所、ってとこ。予約しなきゃ」
「お揃いだ、案内も兼ねて、時間合わせて一緒に行くか、来週の月曜日、夕方六時半から」
はじめて、知的障害のない自閉スペクトラム症の大人を見た。否、いままでにもいたかもしれないし、接していて怪しく感じる人もいたが、わざわざ名乗り出てきたのは初だった。私からは定型発達に見える。リスペリドンは、私はとんぷくとして持っていた。気持ちを穏やかにする薬だ。まだこの家では使っていなかったが、児童相談所から晴樹さん側に渡ったプロフィールに書いてあったのだろう。
「俺のは二ミリの錠剤なんだ、朝飲んだやつがそれ」晴樹さんはそういった。二ミリといえば、私のとんぷくの倍量だ。それを常用している。ということは、もし薬効がなくなったら、この温和さ、鷹揚さは消えるのか。実際は粗暴なのだろうか。不安になった。
「細かいことが気になって仕事が進みません、って病院でいったらこういう処方になった、そんな不安な顔しなくても大丈夫だよ」
察するのも上手い。やはり定型発達ではないか、と思うが、定型発達の人と自閉スペクトラム症の人が対峙したときの、あの一種のプレコックス感といってもよさげな、「言葉は通じるが話がわからない」違和感はなかった。
次の日は日曜日で、やはりよく晴れていた。朝食を済ませると、リスペリドン二ミリを服用した晴樹さんが自分の携帯端末を見て、お、はや、といい、玄関の外から中型の紙袋を持ってきた。
「なんか買ったの?」と佳奈子さん。
「昨日寝る前にいった、雨さんの耳の」といいながら出したのは黒いヘッドホンだった。
「雨さん、これね。耳が辛いときにつけて。雑音をカットするやつ。音楽は聞けないけど……。パッと見ただのヘッドホンで、外でつけても目立たない。あとは、デジタル電波式のbaby-G。両方、雨さんの」
「え、あ、有難う」
「ヘッドホン付けてみて」
従った。エアコンの音が遠くなる。
「いま、俺が話してる内容わかる?」
「……話してる内容わかる?っていった」
晴樹さんはOKのハンドサインをした。
「遠く、軽い感じに聞こえる。耳が楽」
「頭、痛くない?」
「大丈夫、痛くない」
佳奈子さんが親指を立てる。
午前はその格好のまま、高認の勉強をすることにした。私がここに来て三日になるが、かなりのお金を費やしてもらったな、と思う。スマホが振動した。携帯ショップでインストールしてもらったLINEだった。晴樹さんから、佳奈子さんと三人のグループLINEに招待された。「参加」をタップする。
『@高屋雨@かなこ 大事な用はこうやってメンション付けます!自分が呼ばれたと思ってください!よしなに!』
『了解』
わかった、と打って送信し、無料の親指スタンプをつけた。
高認試験科目を一周して、ヘッドホンを外す。そのとき、LINEがまた飛んで来た。佳奈子さんだった。
『勉強お疲れ様、お昼ご飯、ピザトーストできたからリビングにおいで』無料の、ウサギが心酔したような表情でクマに抱きつくスタンプを送った。リビングに出て昼食を摂った。デザートに桃が出た。一人あたり五切れ、小皿に乗っていた。
「昨日の話の続きだけど、ああ、自閉の件。こういうのも、どこまで自分の食べる分か俺がわからないから、うちではあんまり大皿は使わない」と晴樹さん。
佳奈子さんが、「ハルくんカミングアウトしたんだ。……十七歳で付き合って、付き合う前のいい感じの期間に発達障害なんだっていわれてたけどピンと来なくて。お互い大学出て、就職してハルくんがギブアップして休職して退職して一回実家に帰って、あらためて就職したときに、ああ、そうか、社会で暮らしづらいんだ、こんなに優しいのに、と思って、自閉スペクトラム症、で調べたらハルくんの紹介みたいだった、びっくりして、それまで、病名がつくレベルの危なっかしい天然、くらいにしか思ってなかった。ひとりにしたらふっと死んじゃう気がして急いで結婚した。確か、康樹くんの精神科に呼ばれて、『一卵性の双子だし、一回検査しましょう』ってなったんだよね?」
「うん、俺は知的障害はなかった。双子揃って注意欠陥多動性障害が黒寄りのグレーといわれた。あと、二人して協調運動障害がありますねって話になった。靴紐が結べなくて、スリッポンかクロックスばっかり履いてる。あと、スニーカーがどうしても必要なときは、佳奈子さんに頼んで、一々結ばなくていいゴムバンドに替えてもらってる。これは昨日いってなかったな、ごめん。それから俺の精神保健福祉手帳は三級」
「へぇ……」だから佳奈子さんは、私が靴紐を結べないと知ったとき、あんなに平然としていたのか。
「手帳の更新がめんどい。発達は治らないんだから身体障害者手帳みたいに一発永久保存にしてほしいよ。生きてるだけで他人に核爆弾級のド迷惑かけてる自信がある」
表現が壮大で、つい笑ってしまった。
「でしょ、ハルくん面白いこというよね、真面目な顔してさ」佳奈子さんが合いの手をいれてくれる。よって、私の失礼な笑いは正当化された。
「うちはみんな真面目一徹で、ユーモアがないの。だからね、高校で、リュックの中でぺったんこになったコンビニのおにぎり出して『zipかかっちゃった、でも食べやすい』っていってモリモリ食べてるハルくん見て好きになった。単位制だったからなんとなく履修聞いて被せて近くに座って、いまはいつも隣にいる」
「素敵。私にも佳奈子さんみたいな優しくてポジティブで長所を見つけてくれる人、あらわれるかな」
「そのうちね。雨さんは真面目だし頭もいいし礼儀正しいから」
一遍に三つも「長所」を並べられるのははじめてだった。枚挙にいとまがない欠点をなじられたことは、何度もある。
例え「ロールプレイングゲーム」の台詞にしても、嬉しかった。
「有難う、……晴樹さんは、『こだわり』って、自分で、ああこれだな、ってわかる?」
多くの自閉スペクトラム症者が、やらずにはいられないこと、すなわちこだわりを持っているが、ほとんど無自覚だ。しかし彼ほどの軽度なら、把握している気がした。リスペリドン二ミリの処方理由にしても、第三者視点がイメージできている。自閉スペクトラム症の人は、大体、そこに力がないといわれる。
「ええ、こだわり、か……なんだろ」
彼はしばらく考えた。
「あ、やらないと気になって気持ち悪いのは、麦茶やダージリンや浄水の、残り一センチになったときかな、飲みきって容器を消毒して新しいのいれないとモヤモヤする。きょうも午前中やった。あとは一日一回風呂にはいって全身洗わないと死ぬくらいの気持ちになる。あとは、仕事部屋はめちゃめちゃだけど、リビングは物の置き場が決まってて、その通りにしとかないとずっと気になる、そのくらいかな、自分で、あらためて考えてみてわかるのは。あと、靴下は全部GUの黒ショートソックス。これにはちゃんと理由があって、片方が頻繁に行方不明になるから、どれとどれ履いても大丈夫なようにしてる、あとわりと不注意で瀬戸物割っちゃうから食器は割れにくい素材」
どれも、生活にプラスに働くものだ。こだわりというより、習慣。靴下や食器の件はこだわりではなくもはや工夫に聞こえた。
「いまは地震が来て断水、とかになって風呂使えなくなったらどうしようって悩んでる」
お昼の片付けは私がやった。軽食三人分なので、早く済んだ。ダイニングで麦茶を飲む。きちんと三人分注いで出した。
晴樹さんが、「有難う。そういえば雨さんの精神科の予約、月曜日の午後六時半に取れた、一緒に行こ。前の病院でもらった紹介状と、マイナンバー忘れないでね。先生は多分、女性の、佳奈子さんくらいの年頃の人で、部屋はこんな感じ」端末を開き、病院のホームページにのっていた診察室の写真を見せてくれる。
「診察は、よっぽどじゃないかぎりひとり三十分以内って決まってるから、話すことメモして持っていくといいよ」
「わかった」
午後はメモの作成にはいった。紹介状は見ておらず、どういうことがどこまで書いてあるかわからないから、まず、経歴と疾患名、症状を箇条書きにし、助詞を使って文章にした。作文はあまり得意でない。その作業に一時間使った。確認してもらおうとリビングに行くと、佳奈子さんだけがいて、座って新聞を読んでいた。日本経済新聞、と書いてあった。
「メモできた?」私に気づき、こちらを見て微笑む。
「できたよ、私、文章とか、説明が苦手で、これで訳わかるか見てほしい」リングノートのページを切り取ったのを差し出した。
「どれどれ」佳奈子さんが黙読する。黒目の動きが早い。「うん、大丈夫。字が綺麗だね」
「よかった、有難う」また長所を見つけてもらってしまった。
「じゃ、ヘアバンド取ってくるね。雨さんの眉、ちょっと整えていいかな」
いわれるがまま、リビングのラグの上に座り、真正面、至近距離に佳奈子さんがかまえ、「目は軽く閉じてて」従って、眉を専用ハサミ等使い、きちんとしてもらった。体毛はやはり佳奈子さんからT字カミソリのかけ方を教わり、初日の夜、全身綺麗にしたのだった。
「出来た。もう目を開けて平気、鏡見てきて」ヘアバンドを外し、洗面所にはいった。前髪を上げると、太くて「野放し」状態だった眉が、大人のように整っていた。顔についた細かい毛を洗って流す。拭いて戻った。
「気に入った?」キッチンで用具を水洗いして拭きながら佳奈子さんはいった。私は頷く。
「よかった、たまにやろうね」
「うん、そういえば、というとあれだけど、晴樹さんは?」
「社会人柔道のお稽古に行った」
「柔道やってるんだ。身体、大きいし、強そう」
「中高と柔道部で、初段なの。結構すごいでしょ」
「そっか。私は中学の時はPC部だったな」あの父の待つ家に帰りたくなくて、活動が週五で、学校の備品を使うため特別な出費のないそこを選んだ。「佳奈子さんは?」
「私は中高、バドミントン部だった。大学でもバドミントンサークルに入ったよ、大学のはほとんど飲み会やってはしゃぐようなところだったけど。私はお酒弱いから、ウーロン茶飲んでピザ食べて、酔い潰れた子の介抱してた」
「へえ、なんかかっこいいね、自分が弱いのをちゃんとわかってるって、大人っぽい」
「有難う。ハルくんもああ見えてすごくアルコールに弱いの。ガタイがいいから意外でしょう」
「うん、大ジョッキ飲みそう」
「ウイスキーかと思ったらダージリン飲んでる人だからね、平和よ。お酒自体あんまり好きじゃないみたい」
「そうなんだ。やっぱり本当の大人だ。自分の身体の加減をわかってるって、ぐびぐび飲めるよりかっこいい」
「雨さんがそうやって自分の価値観を持っていて、周囲に伝えられる人でよかった。それもかっこよくて大事なこと」
私は言葉に照れてしまい、どうしようもなかった。サッと自室にはいって、布団をひろげ、洗濯の香りが僅かに残るタオルケットを頭までかぶった。不安かと思うほど、しばらくドキドキしていた。やがて、言葉を脳で反芻しながら、眠るみたいに気が遠くなった。しかし、意識はあるままで、ただ魂だけ休ませるかのように、呆然と横になっていた。
夕立が地面に飛び降りる激しい音で、私は「こちら」に戻ってきた。机の上のbaby-Gを見て確かめる。午後七時半だった。そっとリビングに出ると、晴樹さんが帰宅していて、ダイニングに全員分の夕食が並んでいた。
「おはよう、もう、こんばんはだね、ご飯食べる?」佳奈子さんが聞く。私は頷いた。もしかして、待たせてしまったか。私は「ごめん、寝ちゃった、正確には眠ると覚醒するの間をフラフラしてた」といった。二人とも気にしていない様子で「ああ、あるね、そういうの」と晴樹さんが僅かに笑った。
「柔道の調子は、どうだった?」
「ああ、二十歳の人に目から火花出るほど投げられたから、相手の気絶寸前までしつこく投げ返した。明後日、筋肉痛で寝てるかも」
「意地張って無茶して怪我したら大変よ、諦めが悪いわね」佳奈子さんがいさめた。
夕立は止まず、本格的な夜を迎えても降り続けた。私は入浴後、歯を磨き、浄水でレンドルミンを飲んで、ヘッドホンをした。部屋でひとりになると、さっきとは打って変わって、本物の、理由のない不安と寂しさ、倦怠感に襲われた。誰かに会いたくてリビングに出た。佳奈子さんは既に寝室にいるのか、そこにいなかった。晴樹さんだけ、ダイニングで新聞を読んでいた。
「どした、寝られない?」優しく聞かれて頷いた。差し向かいに座った。晴樹さんが立って、麦茶を注いでくれた。そのとき、背の高さ、ガタイのよさにあらためて驚いた。リビングには物干しラックが広げられ、そこに柔道着が掛けられている。黒い帯もあった。大きな銀の保冷コップで麦茶を差し出され、礼をいって受け取り、ひと口飲んだ。晴樹さんは座り直すと、
「雨さん、物心、ついたのいつ?」
急に聞いた。
「人生はじめての記憶がはっきりしてるのは、多分、三歳。夜間保育の先生に抱っこされて、ベランダから灯台を見た」
「へえ、やっぱり女の子は早いな」
「晴樹さんはいつ?」
「小六。学校だった。なんか気に入らないことがあって、教卓を投げて机四個とロッカー壊して、ギャーギャー叫びながら隣のクラスの男の先生と、隣の隣のクラスのやっぱり男の先生に押さえつけられて、廊下に引きずり出されてた。その時……それ以前はモヤモヤして感覚と感情だけがあって世界が曖昧だったのに、その時のことは急に、ビデオカメラで録画したみたいにはっきり覚えてる。その場で、あ、これは自我なんだ、って、ピンと来た」
「……暴れる子だったの」
「あ、引いた?」
「いや、意外だなって」
「暴れたり先生にイチャモンつけたり、忙しい子だったらしいよ。覚えてないけど。中学生になってから、母さんにちょこちょこ聞いた。物心ついてから暴れなくなったしイチャモンもなくなって、大人しい、むしろ老成したくらいの子に変わった、っていわれた。物心ついてから勉強というのをちゃんとやって、最高で学年五番くらいになったかな。それまでは知能指数が三十いくつの康樹とマジで殴り合いの喧嘩するし、叱ったら変な理屈こねまわすし『きょうだいなんだからちょっとお世話しといてね』が通じない息子で、まわりのきょうだい児と比較すると変わってるね、となってたらしい」
「ある意味で平等な、いいお兄ちゃんと言えるかも。障害者扱いしてチヤホヤしないってことでしょ」
「うお、前向き。有難う。俺らが十六のときに康樹の精神科の先生がかわって、付き添いの母さんが俺の話したらそっちに食いついて、一回連れてきて、となって調べてもらったら俺も自閉だったんだけど、康樹は五歳で診断ついて服薬と療育があって支援学級にいたとはいえ性根からして大人しい奴だったし、暴れ癖は俺の責任、というか性質というか」
「悪いけど、クラスメイトは怖かったかもね、晴樹さん、身体大きいし」
「小六で百七十センチあったからな、確かに、ビビらせたかも。ほぼ人語を理解してないし」
「ごめんけど、怪獣じゃん」
「そうなんだよ、まったく」
二人で苦笑した。
麦茶を飲み切って自室に戻り、しばらくすると大いなる不安が再燃した。晴樹さんは寝室にはいった。もうリビングに人はいない。冴えた夜を不穏が駆ける。私はその苦しさに、さめざめ泣いた。『前科者で精神障害の自分だけ家庭に恵まれてしまった』ので、余計泣いた。どうせ明日精神科に行くのだ、と残っていたレンドルミンをもう一錠飲み、リスペリドンをすすり、泣き腫らした目を閉じた。
起きて、baby-Gを確かめると、午前十一時だった。当たり前であるが佳奈子さんは区役所に出発したあとで、ダイニングにリンゴの砂糖煮が、ラップをかけられてぽつりとあった。「雨さん用」と付箋がついていた。耳を澄ますと、玄関に近い仕事部屋から、高速タイピング音が聞こえる。あの、ごつい、かつては教卓を投げた手は、こんなに早く動くのか、と感心した。まだ眠かった。頭痛もした。加味帰脾湯を水で飲み、リンゴを食べて、しかし、まだお腹が空いていた。悪いと思いながら台所を漁った。引きこもりみたいだ、と自嘲した。目が腫れて視界が悪い。お菓子やカップラーメンの類はなかった。袋麺はあったが茹でてスープを作り具をのせる気力がない。
「ちょっと連絡待ちついでに休憩ー、って、おはよう、どうしたの?」
振り返ると晴樹さんがいた。やばい。見つかった。身を縮こまらせる。
「え、すげー目ぇ腫れてる。冷やしな冷やしな」彼は冷凍庫から保冷剤を出して私に手渡した。
「有難う、……」
「座って水飲みな」コップに浄水を注いでくれた。
「具合悪い?」
「いや、眠れなくて、寂しくて泣いて、頭痛くて、お腹も空いてる」
「よれよれじゃんかよ、いまちょっと会社にいって前倒しで休憩にしてもらうから五分待ってて」いうや否や仕事部屋に戻り、さっと帰ってきた。
台所でボウルに卵を割り、計った牛乳でとき混ぜ、作業台の下から五百グラム程度の粉のパックを出し、それも混ぜ、生地を作って、フライパンを温めバターで焼いてくれた。ホットケーキだった。二人分を、向かい合って食べた。
「……ごめん」
「体調不良じゃん、悪いことないよ」
「有難う、美味しい」
「よかった、食べたらのんびりしてな。六時半から精神科だから、それだけ覚えてて」
「わかった」
精神科は、マンションから徒歩で行けるクリニックビルの二階だった。白いbaby-Gと、念のため黒いヘッドホンをして行った。私と晴樹さんは同時に呼ばれ、別々の診察室に入った。ソファのある小部屋だった。私を診察してくれる医師は確かに女性で、紹介状と私が作ったメモを読んで頷いた。
「PMS、きつい?」
「はい、不眠とか不安とかイライラ感とか泣きたくなったりとか頭痛とか、聴覚過敏が増したりとか。……あ、まさに昨日の夜からきょうでした、レンドルミン二錠とリスペリドン一包を飲んでやっと寝て、多分きょうの夜か明日くらいに生理になります」
「不順?」
「はい、わりと」
「つらさが来たら、ああ、生理だろうな、っていつもわかるかしら」
「いまは振り返って気づきましたけど、あの、普段は、自己観察するようにします」
「そしたら、毎日二、三行でいいから、心身の記録をつけて、来院のたびに見せてくれるかしら、ひとまず三週間後にまた来て。つらい時だけ一包余計に飲めるように、レンドルミンととんぷくのリスペリドン、少し多く出しますから。薬局ではレンドルミン二十八日分です、っていわれると思うけど、二十一日後に来てね」
「はい、あの、失礼ですが忘れちゃうんで、書いてもらっていいですか」私はリュックからA4のリングノートとボールペンを出した。
「いいですよ」女性医師は受け取って、さらさらと要点を記した。
有難うございましたと会釈をして診察室を出ると、待合室の椅子で晴樹さんが貧乏揺すりをしていた。目が遠くを見ていた。
「……お待たせ、どのくらい待った?」
「七分。次はいつ?俺は三週間後」
「……私もそうなった」
「また一緒に来るか」
「うん。あと、私の診察内容、メモしてもらった。薬の量がちょっと変わるっていわれた」
一階の調剤薬局で薬を受け取り、それは晴樹さんが持参のエコバッグにいれた。
その晩も肉体は重く精神はつらかった。ない気力を振り絞って、戦時中の物資不足を耐えるみたいな気持ちで頑張ってシャワーを浴びドライヤーをし、帰ってきた佳奈子さんと一緒に、晴樹さんの手作りの夕食を摂取した。食前に加味帰脾湯もきちんと飲んだ。もう高認の勉強をしている場合ではなく、泣きたい気持ち、消えたい気持ちを抑えて歯を磨き、頭痛があったのできょう処方されたロキソニンを飲み、レンドルミンを早速二包飲んで床についた。LINEの「家族チャット」に、女性医師に書いてもらったメモを撮って投下した。
次の日はひどかった。目が覚めたのが十時で、割れるように頭と腰が痛み、気分も沈み、肉体は昨日の倍重く、しかしひどい空腹だった。しかし、食べ物を求め動くまでの情熱がなかった。正午を過ぎて、晴樹さんが、剥いた桃と水がのったお盆片手に「よう、生きてるか、LINEも既読スルーで」と部屋にはいってきた。
「ごめんなさい」私は罪悪感と消えたさの中、言葉を振り絞った。
「いえいえ、えらい難儀な感じで。大丈夫か。桃置いとくから食べて、飲める薬飲んでて」
晴樹さんが部屋を出た。私は従って桃を完食し、リスペリドン内用液一ミリとロキソニンを飲んだ。時間が経つと身体の痛みが楽になり、気も幾分か軽くなった。お手洗いに行くと、トイレットペーパーに経血がついた。慌てて目の前の棚から出し、あの日買ってもらった三十五センチのナプキンをした。手を洗って自室の、桃のあった皿を下げた。部屋で横になっていると、枕元のスマホが鳴った。児童相談所からの着信だった。
「……はい、高屋雨……です」
『児童相談所の城崎です』担当してくれた職員の方だった。『どうしたの、元気なさげだね』
「あ、いまちょっとその、巡って来るものが……ちょうど」
『ああ、大丈夫?』
「はい、毎回重いんで」
『お家には慣れた?』
「まだ緊張することもありますが、二人とも優しくて温かいです。昨日、精神科に連れて行ってもらって、そこの先生もいい人で。いま、前科者がこんなに恵まれていいのかなって心配になってて」
『あら、再出発したんだからいいのよ。いま幸せ?』
「……はい」
『ならよかった。また来月のどこかで連絡するわね。またね』
「はい、失礼します」
耳からそのARROWSを離すと『通話終了』の文字が光って自動でホーム画面になった。
次の土曜日に晴樹さんのご実家で会った康樹さんは、黄色いヘッドホンをしていたから、聴覚過敏なのだとわかった。上下、紺色の部屋着を着て、廊下の壁にもたれて独り言を話し続け、ここではない場所を見つめ、たまに「あぁああああぁああぃ」等と脱力した声を発し、また、ゆらりと立ったかと思えば、ゆっくり晴樹さんの背中に抱きつく、それを何回か繰り返すだけの、本当にのんびりした人だった。きょうだい仲は悪くなさそうだ。お昼には、彼は介護用のビニールエプロンをお母様に着けてもらって、食卓についてテイクアウトのカレーライスを一緒に摂った。不器用な食べ方だったが、自分でスプーンを使っていた。私たちが帰る時、囁くような声で、「また……ね」といった。
それから、高認の出願セットも、佳奈子さんに注文してもらった衣料品も、その週に無事届いた。高認関係は次の一週間で(聴覚過敏に関する医師の意見書含め)必要なものを揃え、バスで駅前の郵便局まで持って行くことができた。あとは勉強をするだけだ。
生理に関して、次の月からは、身体がだるくて思考が自他のどこかを責めているのを自覚した時点でリスペリドンを飲むようにした。前月よりは精神状態がいくらかマシになった。それでも眠れないときはあり、レンドルミンを二錠使った。
佳奈子さんの運転で、彼女のご実家にも行った。晴樹さんがお土産にと、結構な量のシュークリームを買っていた。佳奈子さんにも一卵性双生児の妹さんがいて多佳子(たかこ)さんというお名前。専門学校を卒業しネイリストとして駅ビルのサロンに勤務しているという。その娘、つまり私の「いとこ」が三人いた。ご主人はいなかった。二度離婚しているといった。「いとこ」は長女と次女がやはり一卵性双生児で琉唯(るい)さんと瑛麻(えま)さん。瑛麻さんは電動車椅子を使っていた。壁伝いになら五、六歩、歩くことができるそうだ。一卵性双生児は十三歳、三女の芽依(めい)さんが十歳ということらしかった。みんな落ち着きがあり、佳奈子さんや多佳子さんに似て美人だった。お母様(私の戸籍的にはお祖母様)も離婚されていて、空間は完全に静かな女の園だった。
再出発したんだから、幸せになっていい、らしかった。
九月の前半、ある土曜日に、佳奈子さんから、「今月のお小遣い」と、小さい封筒に入った五千円をもらった。聞けば通信費や被服費や医療費やナプキン等の消耗品費とは別で、私が完全に自由に使っていいという。施設では毎月五百円支給されていたから、その十倍だ。
私は喜んだ。お昼が済んでから、スマホで時間を調べ、保冷保温のできる白い水筒に冷蔵庫の麦茶をいれ、身体の露出部分に日焼け止めを塗り、施設時代から使っているColemanの青地に白い水玉のリュック(これは丁度いいお古がなくて、新品で購入してもらった物だった)を背負ってバスに一人で乗った。小田急線の駅前のショッピングセンターのテナントのGUで佳奈子さんにピアス、晴樹さんに黒いスニーカーソックスを買った。それから東急ハンズに寄って、初心者用の万年筆を購入。晴樹さんが卓上手帳になにか記すとき使っているのを見て、万年筆は左手で使えるとよりかっこいい、と思ったのだった。私も彼と同じ左利きのO型だった。駅ビルのドーナツショップで、オールドファッションという固めのとエンゼルフレンチという、丸い生地の中に生クリームがはいっているのを、一つずつ家族人数分手に入れて帰った。いかにも「娘」らしくて、浮き浮きした。
合鍵で家に入ると晴樹さんは社会人柔道の稽古があるため不在で、佳奈子さんが自分の仕事用のブラウスに酸素系漂白剤の濃いスプレーをかけていた。
「ただいま」
「おかえり、いま洗面所空けるわね、暑かったでしょ」
「まあまあ、でも麦茶持って行ったし、大変じゃなかったよ。カラにしちゃったけど」水筒をシンクに出し、ドーナツを袋ごと冷蔵庫にいれ、空けてもらった洗面所で手洗いうがいをした。
「あら、ドーナツ、買ってきたのね」
「うん、二人の分もあるよ。あとダイニングの、GUの袋見て」
「あら、ピアスと靴下」
「そう、佳奈子さんと晴樹さんにプレゼント。佳奈子さん、ピアス好きでしょ。よく着けてる。お仕事には派手かもしれないけど、お休みの日に、って」
「有難うね、ドーナツとか、ピアスとか。気を遣わせちゃったかな」
「初のお小遣いをもらった記念だよ。気遣いとかは疎いほうだから、私がやってみたかったこと」
「……有り難く頂くね」
リビングの真横の自室にはいって、黒い聴覚過敏用ヘッドホンと、白いデジタルのbaby-Gを外した。出かけるときには必ず着けていた。
私は自閉スペクトラム症と聴覚過敏と、協調運動障害と、月経前症候群(PMS)を持っていた。PMSについては、私の場合は経血の出る二、三日前から、身体症状もそれなりに、しかし精神症状がより辛くあった。私の生理は不順だったので、身体がだるくて思考が自他のどこかを責めているのを自覚した時点で通っている精神科クリニックから処方されたとんぷくのリスペリドン一ミリを飲むことにした。以前よりは状態がいくらかマシになった。それでも眠れないとき等はあり、プラス一錠まで自己調整の許可がおりているレンドルミンという睡眠薬を使った。いまはこの家に養女に来て二回目の生理三日目だった。先月は中旬に、鬼にいたぶられているような壮絶さと共に来たのに、今月は自己観察と薬効があってか、不眠と過食と頭痛とネガティブ思考だけで、ひょこっと来た。裂け目から血さえ出れば、症状はなくなって、服を汚さないように気をつけながら、普通に暮らせるのだった。次の月曜日に精神科クリニックの診察があった。私の通院はいまのところ、三週間に一回だった。前回は通院後すぐに巡って来たから、三週間で二回も生理になったことになる。初潮は十三歳だったが、過去、実父の首を絞めて逮捕され、少年院にいた頃等にはまったく来ない月が続いたりもした。来ないよりは来た方がよい気がするので、これでよかった。
私が少年院を退院したのは十六歳の五月で、高校受験に間に合わなかった。そこから三か月くらい児童養護施設にいて、八月にこの高屋家の養女になった。面談を一回しただけの、縁もゆかりもない、優しい家だ。私は十一月の高卒認定試験に向けて勉強しながら、在宅ワークがメインのエンジニアである養父の晴樹さんと、区役所勤務の養母、佳奈子さんと暮らしていた。
晴樹さんも私と同じく自閉スペクトラム症と協調運動障害、加えて注意欠陥・多動性障害のグレーゾーンと診断されていて、リスペリドン二ミリの錠剤を毎朝飲んでいた。穏やかで落ち着いた人だが、本人曰く物心がついたのは小学六年生の頃で、それまでは感覚と感情の世界に生き、気に入らないことがあると癇癪を起こして暴れ叫び物を壊し、とにかく大騒ぎする子だったらしい。双子の弟さんがやはり自閉スペクトラム症と重度の知的障害を持っているが、子供の頃は本気で殴り合いの喧嘩をしていたそうだ。全て、物心がついてからお母様に聞いた話だといっていた。診断がついたのは十六歳のときで、弟さんの主治医が、家族構成を聞き、その付き添いのお母様の話をもって、一卵性の双子なら一回検査しましょうと提案し、そして障害が明確化したらしい。なかなか難儀な人生だ。彼の常用薬かつ私のとんぷくであるリスペリドンは、平たく表現すると自閉スペクトラム症の人の気持ちを穏やかにするものであるが、彼の場合、粗暴さを抑えるために飲んでいるのではなく、「仕事中、細かいことが気になって会社にチャットばかり飛ばしていて作業が進まないし、会社の人にも迷惑をかけている」と大人になってから行った精神科クリニックで相談したらそういう処方になったらしい。いまの彼は、粗暴さとは遠い。親切で明るくて几帳面。最終学歴は通信制大学のIT系学部。高校は「家から二分」の単位制定時制高校の昼間部、そこで希望の高校を落ちて二次募集で入学した佳奈子さんと出会ったそうだ。二人とも、一度転職している。佳奈子さんは高校を出たあと市立教育大学に進み、小学校教師になったが無理がたたって辞め、区役所へ再就職。晴樹さんは障害を開示せず不動産会社に営業職として新卒入社、やはり無理がたたって休職し満期退職、いまはカミングアウトした上で、神奈川県の川崎市にある、日系大手IT企業の支社に籍を置きエンジニアとして働いている。普段は在宅ワークで、朝の九時半から夕方六時までの固定勤務制、土日祝日は完全に休み。出社は月に一度か二度、上司の方と相談の上で、指定された日にするそうだ。
八月の出社は私を迎える前に済み、九月はまだだった。
私は部屋で教材を使い高認十一教科を一周した。答え合わせをすると、どれも合格ラインを超えていた。やがて玄関が開き、晴樹さんの声、入浴し洗濯機を回す音がする。柔道着を洗っているのだろう。やがて上がり、ああ、とリビングでついた息が聞こえた。
「おかえり」といおうと扉を開けると、相手はリビングのラグの上に、直にうつ伏せていた。こんなことはいままでなかったのでギョッとして一回扉を閉じた。でかいなぁ、と思った。背は百八十センチほどあり、柔道をやっているから、横幅というか、体躯が頼もしい。少し経って、佳奈子さんから私宛てに、夕飯ができた旨LINEがはいった。もう一度扉を開ける。リビングに柔道着が干してあり、張本人は上下紺色の部屋着を着て黙ってダイニングにいた。迫力の塊だった。
私は佳奈子さんに頼んで浄水をもらい、夕飯前にと処方されている加味帰脾湯を飲んだ。
黙々と食べた。いつも晴樹さんがなにかしら話題をくれて、それなりに団欒しながら進むのだ。
「どうしたのハルくん」佳奈子さんが問うた。
「……何で?」いかにもだるそうな、低トーンの返事だった。
「ちょっと機嫌悪そうに見えたから。雨さんがドーナツと靴下くれたよ、っていっても、おう、しかいわなかったでしょ、さっき」
「ああ、そか、……雨さん、気を遣ってくれたみたいで、どうも……」
「ああ、いえいえ、家族で甘いもの食べるのも、いいかと思って……」私は、おっかなびっくり対応した。
「ああ、うん……ちょっと食事中にスマホ失礼」
彼が端末を開き「……あ、やっぱり」
「どしたの」
「天気。明日の午後から大雨で、いま気圧低下中。なんか俺も自分おかしいなと思ってた。頭痛いし、わーもう、……お恥ずかしい」
夕飯が済むとドーナツをレンジで軽く温めて、冷えたダージリンをお供に、三人で食した。
「……美味しい」
「よかった」
「……明日までには、直すから、この状態……」
「自分の機嫌がわかるってだけですごいよ、第三者目線が生きてる。無理しないでね」
「機嫌……か……、悪いわけじゃなくて、テンションが外に出ていかない」
晴樹さんはドーナツを食べ切ると、ロキソニンを飲んで歯を磨き、寝室にこもった。
私は黙って、お皿を洗いに立った佳奈子さんを見た。目が合った。
こんなことははじめてで、どうしたらいいかわからない。本人は気圧のせいだといっていたが、私がなんらかの過失を起こした可能性も否定できないと私は勝手に認識していた。
「……いまは季節の変わり目ね、ハルくんは、プログラム更新中、ってところかしら。……きょうは雨さんをびっくりさせちゃったわね。でも大丈夫だから」
「本当?」
「うん、年々落ち着いてる。発達障害っていうけど、ハルくんを見ていると、知能指数に関係なく、脳という臓器の発達がゆっくりなんだな、って思う。いま、彼はまだ成長中」
「昔はどんなだったの」
「二十六で結婚したけど、その頃は、季節が変わる度に情緒不安定になっててね、枕に口を押し付けてワーって叫んだりしてた。そしてぼろぼろ泣きながらとんぷく飲んだりね、でも物壊したり私に怒鳴ったり暴力振るったりは一回もないよ、根が大人しいからかしら」
「私がここに来たことによって、環境の変化にやられて、昔に戻ったりしないよね?私、男性の大声、苦手なの」
「昔に戻る……か、ないんじゃないの」
「昔は薬、なにを飲んでたの」
「前は、そりゃもう、色々と、よく分からないくらい。いまはかなり減った。仕事の環境がハルくんに向いてるスタイルになったのと、精神科の先生がそれまでの人から代わって。あとはやっぱり、加齢で落ち着いた?」
「そっか。色々聞いてごめん」
「いいのよ。気になるもんね、でもハルくんには昔のメンタルの話は振らないであげてね」
「はあい」
過去は「内緒」の塊だ。私だって無闇に聞かれたくはない。思い出すだけでワアっと大声を放って泣きたくなることが、ゴロゴロ転がっている。
翌日の晴樹さんは、よろよろ身支度をし朝食を摂り服薬したまではよいものの、やはり頭が痛いのか、精神的に調子が悪いのか、黙って、リビングのラグに、魂の抜けたように転がっていた。部屋干しラックのジャングルの向こうの、曇り空が続くベランダに繋がる窓に視線が固定され動かない。時たま「……あ"ぁー……」等小声を漏らすので私は一々びっくりした。話しかける勇気がなかった。
「ハルくん、ベッドで寝てきたら?」佳奈子さんが提案したが、
「……イヤ、一人になったら……ちゃんと寝ちゃう」
「だめなの?」
「……夜の……七時まで寝て日曜日を溶かす……で、夜中じゅう起きてて、明日、地獄……あ"ぁー……」
「その、暗いところから這ってくるみたいな低い声出すの止めれる?怖いしビクッとしちゃうよ」
「……え、……ごめん無意識……ごめん」
「いいよ、気をつけてね」
「……はい。ああなんか、めっちゃ頭痛いし、眠剤飲んでないのにドロ眠い、あとえげつなく腹減った、さっきメシ食ったのに……」
「みかんのでっかい缶詰あるよ、開けようか」
「……自分でする」
「そんなに朦朧として缶切り使ったら怪我するよ。もうきょうは『具合悪い人』としてじっとしてなさい。みかんのシロップで痛み止め飲んで横になってな。メンタルは?元気?」
「……虚無……ただ一さいは過ぎて行きます、というアレ」
「太宰治か。そうよ、何事もただ過ぎて行くようになってんのよ、やがて虚無も過ぎ行くから安心してみかんをお食べ」
太宰治について私は「走れメロス」しか知らず、二人のやり取りが分からなかったが、普段は大人しく時に物憂げですらある佳奈子さんがなかなかの肝っ玉母さんに見えた。
彼女は、本当に普段見かけるみかん缶の二倍くらいのを開け、三分の二を晴樹さんの器に出し、シロップをコップに注いで、あとの三分の一は一回り小さい深皿によそって私にくれた。
「頑張って起きて。缶開いたよ!」
まるで寝起きの悪い男子高校生を忙しい朝に起こす母親のようだった。その三十六歳の「男子高校生」は土気色の顔をして、えいっと覚悟を決めたように上体を起こし、ダイニングに来た。虚ろな目が起き抜けそのもの、テーブルについた肘がまるで不機嫌みたいに、目立った。スプーンを持ちみかんの実を口に運ぶ手に結婚指輪をしているのに、不思議なもので本当に朝の男子高校生に見える。
「……大丈夫?私の生理前くらいキツそうだよ、食事中に生理とかアレだけど」私は、やっと話しかけた。しばらくの間を置いて、うん、といわれただけだった。
「ねえ、やっぱりハルくん一回寝な。三十分で起こしてあげるから」
「……寝起き悪さで、……起こした起こしてないで揉めたくない、寝ない」
「きょうちょっと寝ても、夜になったらレンドルミンがあるし、佳奈子さんに甘えていいと、私は思う、よ」後半につれて声が小さくなったが、いった。晴樹さんはコップのシロップとは別に浄水でロキソニンを飲み、洗面所で歯を磨いて、リビングのラグ、さっきと同じ位置でまたもぬけの殻になった。
「ハルくん、ここで寝るの?」
「…………あ、降って来た……」ゆるりと窓を指す。水滴が一つ、二つ、ついていた。
私ではない雨は止まず、正午にはスコールのようになり雷鳴がし、私は部屋から黒いヘッドホンを取ってきて装着した。昼食は晴樹さんの好物だという塩味の袋麺で、佳奈子さんが豚バラ肉とニンジンとキャベツを炒めてそれのいちばん上にのせた。麺を茹でるお湯と粉末スープを溶くお湯が別なのが、実家と違った。
「ハルくん、お昼出来たよ、起きて。三食はちゃんと食べて」
「……はい、有難う、よいしょ」
さっきよりは俊敏になったな、と思う。
三人でゆっくり麺をすすり、野菜炒めを食べた。品物は同じなのに、実家で作るより何倍も美味だった。洗い物は私がやって、大きな銀の保冷コップ三個にダージリンを注いだ。
自閉スペクトラム症の人の中には、他人の体調にまったく関心がない人や、親しい人を自分の一部と捉え、相手が体調不良を起こしてもまったくそれには興味を持たずにいつも通りの振る舞いを求める人がいるというが、私は、普段元気な人がわかりやすく不調だと「対応の変化」によって、不安でたまらなくなるタイプだった。この度の晴樹さんのことも、胸がちぎれて内臓が出そうなほど苦しかった。
「……晴樹さん、頭痛は」
「…………本降りになったのと、薬が効いたんで、かなりマシになった。降る前とか、小雨がいちばん来る。あとは虚無感をなんとか……します。お気遣い有難う」
「……いえいえ」
私はそっと自室にはいり、しかしリビングにつながる扉は少し開けたまま、昨日小田急線の駅前で買った万年筆を開け、精神科クリニックの女性医師から指示されている心身についての記録をつけた。きょうについては、「低気圧による養父の体調不良で自分が彼の「いつもとの状態の違い」によって不安、気になって気になって集中力が欠如する」とした。繰り返すが私は本当に不安だった。「いつもと違う」は苦しいのだ。私は不変が好きだ。他人の様子はもちろん、物の位置やシャンプーの銘柄さえ変わらないでほしかった。それも書き足した。我ながらデリケートで面倒だと思う。しかし気の持ちようでどうにかなる問題ではなかった。私は気を紛らわせたくて、八月に書店に行って買ってもらった文庫を開いた。社会に適応したいのに、社会のほうが身を躱すようにみんなを連れて逃げていく、そういう感じの、男の一人称小説だった。タイトルに惹かれて、ずっと欲しかった本だった。人から君は共感性がないねといわれて生きてきて、実際の問題として人の心情や文の行間がわからないから小説が苦手な私であったが、読み進むごとに引き込まれて行った。孤独感や対人関係の歯がゆさの描写が、私の感じるものに似ていたのだった。昔の作品なので、国語力に乏しい私にはわからない言葉もしばしば出てきた。すぐにスマホで読み方と意味を調べる。
「ただ、一さいは過ぎて行きます。」
夫妻の会話は、これだったのか。本文の終盤に、二度ほど繰り返して、その文言があった。
背表紙を見る。「走れメロス」と同じ著者名が記載されている。中学生の頃学校で配られた国語便覧に、写真がいくつも載っていた。享年は確か三十八か、九。早い。しかし、ふと、自分はその歳まで踏ん張れるだろうか、この熱帯夜のように息の苦しい現実世界を、と思い立ち、身体の毛が、全部逆立った。扉の間から晴樹さんを見た。やはりラグの上にいて、眠っているのか考えているのか耐えているのか、胎児のように丸まって微動だにしなかった。
(以後三ヶ月あまり使って、いまでも広く流通している太宰治作品を全て読んだ。彼の敬愛する芥川龍之介の著作は言葉選びやリズムが難しく、残念ながら私には理解できなかった)
さて、翌日、晴天の月曜日の晴樹さんは「ソフトウェア更新完了」という感じで、元気を取り戻していた。身支度をし朝食を摂り、浄水でリスペリドン二ミリを服用し、出勤する佳奈子さんを見送って洗い物をして、九時十五分には仕事部屋に行った。三十分の始業と同時に高速タイピングが響いた。私も、自分の仕事である高認のための学習をした。お昼は、あの一回目の生理のときと同じ、ホットケーキだった。
午後もそれぞれ「仕事」に精を出し、六時に晴樹さんが業務終了、夕飯の仕込みをして精神科クリニックに徒歩で向かった。
私の担当の女性医師は持参した記録を見て、「大変でしたね、生理、あんまり頻繁だったら婦人科に行ってくださいね。それからちょっとお父様のことで気を張っちゃったようね、でも、低気圧で気が沈んだり頭痛がしたりする人は結構いるのよ、あなたの受け止め方も、『脳の構造がこうなっているから仕方ないんだ』と、気持ちの面でだけでも割り切ってもらっていくのがいいかしら。急にパッと切り替えるのは難しいから、徐々にね、水泳を習うみたいに、ゆっくりご家庭の水に慣れて行く感じ」
「はい」
「きょうはレンドルミンの量を計算して出しますね、二錠飲んだのは何日ですか」
「三日です」
「わかりました、そしたらまた三週間後にいらしてね」
待合室で、一緒に来たが別々に呼ばれた晴樹さんが遠くを見ている。
「……おまたせ」
「あ、おう。次いつになった」
「三週間後」
「また一緒でいいか、予約」
受付で代金を払ってもらい処方せんを受け取って調剤薬局に行く。そこでかかる費用もやはり出してもらう。私が自閉スペクトラム症なのもPMSなのも、誰のせいでもないが、罪悪感がある。
そこからは、そういう「養ってもらうつらさ」と向き合う日々だった。佳奈子さんが「そろそろ長袖買わない?」とPCを持って部屋を訪れてきても、胸が痛むだけで物欲は湧かなかった。「安いのでいいよ」とだけいって画面さえ見なかった。十一月の試験に合格したら変わるのだろうか。聴覚過敏で外出時にヘッドホンが手放せず、自閉スペクトラム症で定型発達者の話がよく理解できなく、協調運動障害で不器用極まりない私に普通のアルバイト含む労働は無理だろうと思われた。ただ猛烈に勉強してはリスペリドン一ミリを飲んで、苦しさから目を背けて生活した。ノートやシャープペンの芯が足りなくなったらお小遣いでまかなった。さて、見立ててもらった約十着ほど、秋冬用の服はどれも私好みのデザインで、余計苦しかった。紺色のダウンジャケットまであり、佳奈子さんの母性みたいなものに精神がじんじん痛んだ。
肌寒い、九月一回目の連休の、晴れの日を狙って、梨狩りに出ようということになった。車で行ける場所に農園があるらしく、留守番を申し出るのも盛り下げるような気がして参加した。
「雨さん、この頃一層勉強頑張ってるからな、ちょっと休憩も含めつつ。連休に出かけるのテンション上がるわ」道中、助手席から晴樹さんがいった。
農園は入場料の他に、一キロもいでいくら、という計算の仕方をするらしかった。三人で二キロ買った。売店で生搾りジュースを購入し、飲みながら帰った。はじめての経験で、満たされて、申し訳なさより浮き浮きした気分が勝った。マンションの近所の、あの二階に千円カットのあるスーパーの一階、食料品コーナーで、夕飯用にお弁当を購入した。帰宅して食べながら、晴樹さんが、二十日の金曜日に出社の令が出たといった。
「わかった。お弁当要るね、なにがいい?」
佳奈子さんが聞くと、
「自分で適当に卵とか焼くわ。台所汚したらごめん。佳奈子さんも雨さんも通常運転でいいから」という。晴樹さんは家族を自分の手足として扱わないタイプの自閉スペクトラム症なんだ、と思った。
ねえ、と私はいった。晴樹さんの自閉度って軽いんでしょう。
「いや、そうでもないよ。病院の先生いわく、総合判断して中等度、という話。軽く見える?中等度といわれてから自分でも色々調べて、記録つけたり、それなりに気をつけてるつもりだからかな。自閉である実感はあんまりないから手探りだけど。会社に在宅ワークの配慮もしてもらってるし薬も飲んでるし、それでどうにかギリいける『っぽく』生きてる」
「それでも努力が的を射てるのがすごい、大抵、自閉スペクトラム症の人の、対人関係や生活に関する頑張りって、あんまり報われないというか、とんちんかんになりがちじゃない」これは実感から来た言葉だった。私はいつも苦悩し、努力をしてきたが、効き目に乏しかった。それについては、いま生きているこの世界が間違っているのか、自分が愚かなのか、いまいち曖昧で、腑に落ちない部分があった。
「運と人に恵まれおるんだろうな、俺」
「雨さん、そんなにハルくんの自閉スペクトラム症にこだわらなくていいのよ」佳奈子さんがポツリといった。
「どうして」
「雨さんの話し方だと、ハルくんを父親というより、自閉スペクトラム症のサンプルとして見ている感じが強いかなって思っちゃう」
「ダメなの?自閉スペクトラム症は事実でしょう?晴樹さんも答えてくれるよ」
私は遠回しに責められた気がして、少し語気を強めた。私の疑問を否定された気がした。だいたい、なんで晴樹さんと私とのやり取りに佳奈子さんがはいってくるのだ。
「はい、二人ともなんかギスギスすんのやめて」晴樹さんが箸を咥えたまま割って入る。
「してない」佳奈子さんが泣きそうにいった。
「なんで私と晴樹さんの会話に佳奈子さんが苦言を呈して、かつ泣きそうなの、泣きたいのは私のほうだけど」
「はい第三者委員会です、二人とも聞いて」晴樹さんが宥めるようにいった。
「第三者じゃないでしょう?」私は返す。
「ここの女性二名のやりとりだけ切り取れば俺は第三者」
「なんで切り取るの?佳奈子さんが責めたいのは私の言動でしょ、話はつながってる、第一、晴樹さんが自閉スペクトラム症なのが問題の原点なのに、なんで第三者委員会とかいってふざけてるの!」
私は悲鳴混じりに怒鳴った。佳奈子さんが今までに見たことのない形相で私を睨む。
「なんで睨むの、話もわからないのに!責めるだけ責めて被害者みたいにして、愚かしい、自分の罪だけは見ないで、私をただ悪者にするんだね!」
刹那、顔が痺れた。佳奈子さんに平手打ちをされたのだ。
「佳奈子さんちょっと落ち着いて、雨さんも静かに話そうか」
「原因のくせに冷静ぶらないで、やっぱり第三者目線が死んでるよ、中等度どころじゃないよ、最重度、施設にでもはいっててよ!」
即座に佳奈子さんからもう一発くらった。そして、「いますぐ晴樹に謝れ!」
「どうして、障害者の、自分の男が侮辱されたのがつらい?私は本当のことしかいってないよ」私は痛みと怒りに震え、半ば嗚咽しながらいった。
「わー、とりあえず休憩!カットカット!」
晴樹さんまで、私の正当性に気づかないで、「喧嘩両成敗」に持って行くのか。晴樹さんまで、私を誤解し、否定するのか。
「ちょっと佳奈子さんは寝室で待ってて、雨さんもちょっと解釈が違う」
やっぱり、私をすべて否定するのだ。佳奈子さんは寝室に消えた。話は終わっていない。追いかけようとして、晴樹さんに後ろから抱きとめられた。
「離して!」
「その前に一回俺の話聞いてくれる?」
低い、怒りのトーンだった。恐怖に身がすくむ。
「な、なに……」
「雨さんと自閉の話をしたとき、いつも、ここからここまでカミングアウトした、って、夫婦で情報共有してたのね、これが頻繁になってきて、佳奈子さんは雨さんが俺を自閉スペクトラム症の症例Aとしか見ていないと思ってしまった。本当は、雨さんは親近感と興味で色々、俺のエピソードを聞いてくれた、ね?」
「……」
「佳奈子さんは、やっぱり家族としてご縁があったからには、症例Aでなくて、我々に対して、父と娘として交流して欲しいな、という風に思考が発展した。それで、サンプルとして見てる感じが強いね、って、雨さんの『視点』に対する『感想』を投げた。そこで一回誤解が生じた、……ここまではOK?」
「……うん……」
「佳奈子さんは、雨さんを否定しようとしたのではなかった、でも雨さんは、責められた気がしてしまった、ね?」
「……佳奈子さんと晴樹さんは別の人間でしょ、なんで佳奈子さんの意図がわかる気でいるの」
「想像。貧弱な想像力フル回転」
「図々しいよ」
「そうかもな。雨さんは佳奈子さんから責められたと感じた、っていうのは合ってるかな」
「……うん」
「そして俺が間にはいろうとしたとき、『原因そのものがやれ第三者委員会だとか、ふざけるな』って腹が立った?」
「うん」
「佳奈子さんも雨さんの気持ちを全部わかるわけじゃないから、雨さんの、俺に対する発言に嫌な気がした、わけよ、多分。だから睨んだしビンタもした。雨さんとよりも俺との方が付き合いが長いしお互い好きで結婚したから。ビンタしたことと睨んだことは、佳奈子さんがよくなかった。雨さんは、強い言葉を俺や佳奈子さんに使った、要は『言動』がよくなかった。『人格』ではなく、あくまで『言動』ね。あと『認識』にズレがあった。俺らは雨さんを非難する気持ちはなかったけど、雨さんは傷ついて穏やかでいられなくなっちゃった。合ってる?」
「私が被害妄想してるってこと?」
「えー、『誤解しちゃった』が適切な表現かな、『誤解』はみんなある。今回は二人とも傷ついちゃったから、『誤解してごめんね』をお互いにいわないといけない。いける?……佳奈子さんにも説明してくるから、待ってて」腕をゆるめた。最初の一言以外は、はじめて会った日と同じ、優しいトーンだった。
「晴樹さんも、嫌だった?」
「……うん、どっちも同じくらい大事な二人が目の前で揉めてて、悲しい気持ちがした」
「最重度、とかの、私の発言は?」
「言動ミスってんなー、と思った」
「……だけ?」
「うん」
「なんで?」
「雨さんより二十年くらい長く生きてるから、真面目に生きてたら言葉を間違う日もあるな、ってわかってる。あと、普段はまあまあ仲良いから、きっと本心ではないんだろう、って想像できるから」
「……ごめん……なさい」先ほどまでと違う涙が出た。
「了解。わかった」
晴樹さんは寝室にはいって、二十分くらいして出てきた。
「雨さん、おいで。こういう『ごめん』は歳下から行くもんだから、ね」
「……はい」
私は晴樹さんに付き添われて寝室にはいった。佳奈子さんは後ろを向いていて、表情がわからない。
「……佳奈子さん、ごめんなさい、ひどいこといったの、悪かったです」
「……こちらこそ。ぶったところ腫れてない?」
「うん」
「ならよかった。怒鳴った上に乱暴して悪かったわね、痛かったでしょ」
「まあ、うん」
「……両者納得?……あー緊張した、第三者委員会は風呂を洗ってきます」
「ハルくん、お騒がせしました」
「私も、色々、すみませんでした」
「いやあー、焦った。明日からは通常運転ね、約束ね」
彼が浴室を掃除している間、我々はダイニングに戻った。食べかけの弁当が冷たくなっていた。
「……晴樹さんって頭いいね、冷静だし」
ふと、知能指数いくつ、と聞きたくなったが引っ込めた。口は災いの元だ。歯を磨いて自室にはいり、ノートに要点をまとめた。なるべく客観的に、晴樹さんの解説をもとにして記した。情けなかった。私は優しく気遣われながら説明されないと、日常会話さえままならない。最重度は、私のほうだ。泣けた。自分の無力が恥ずかしいやら、それに対して焦るやら不安を感じるやらで、いくらでも泣けた。
「風呂わいたよ、って、どした、終結したんじゃなかったか」晴樹さんが扉を開けて、ちょっと飛び退いた。私は泣き腫らした目で、つっかえつっかえ説明した。
「うーん、俺も二十歳過ぎてから覚えてギャーと尻浮くほどびっくりした暗黙のルールとか文化とか結構あるからな。ま、気長に生きるしかないんかな。いまその件で落ち込まなくていい、もう双方納得して和解したんだから。はい、切り替えて、麦茶でも飲んで風呂はいって、寝る。淡々と!」
私は入浴しながら、このまま溺死してしまいたく思ったが、反抗だと勘違いされそうで、想像にとどめた。
そして、どうせ発達障害者として生きねばならぬのであれば、晴樹さんのようになりたいと、強く思った。
翌日も休みで、晴樹さんは元気だった。口では、「出社が決まって緊張してる。はい、センシティブの権化が通ります」等、ふざけていた。家長の情緒が安定しているって有難いな、と急に思った。まだ私にはぎこちない佳奈子さんが梨を剥いてくれて、三人で食んだりした。
「二十日の出社の日、雨さん一人で留守番になるけど、お昼どうなる?袋麺とかなら自分で支度できる?」
「うん」彼は気遣いもでき、未来について予測も立てられる。私は『いま、ここ、だけの連続』を生きているから、『未来』とか、『三手先』といったものにあまり実感がわかない。それを伝えると、
「大人になったらイヤでもスケジュール管理がついてまわる。慣れたら自然に近い未来を考えられるようになるよ」
と、呑気だか深刻だかわからない返答がきた。「特にエンジニアやってると、納期、納期、納期の繰り返しで、マネージャーのいない売れっ子漫画家みたいな気分になって、イヤでも未来が想像できるようになる。人事とか経理の事務員さんもそうだろうな、勤怠管理とか給与計算とか、なんでも締切があるから」
私は青くなった。
「締切のない仕事ってないかな」
「探せばあるだろうけど、雨さんの得意分野とは限らないな」
そうだ、私の「得意」は狭い。ただ日常を生きて暮らしていく中であっても、不得意や困難や、もはや、無理、のほうが圧倒的に多いのだ。
「細かいことや違和感によく気づくから品質管理とか検品とか、そっち系が向いてんのかな。この間家族で行ったサイゼリヤの間違い探し、十個、料理が届く前に見つけたじゃん。あれは才能」
ファミリーレストランのキッズメニューの表紙と背表紙の間違い探しと、職業相談とが繋がる。こちらからいわせてもらうと、その頭の回路は一体どうなってんねん、という感じだ。きっと、各方面のデータが整理されずに無造作にドカッと置いてあるのだろう。あるいは常に竜巻でも起こっているのか。
私は、そのまま尋ねた。
晴樹さんの中では、竜巻が起こっているの?
うん、そうだよ。
優しい声だった。
佳奈子さんが不思議そうに我々を見た。
お昼にナポリタンと梨と麦茶が出て、済むと佳奈子さんが片付けをし、例の近所のスーパーに食料品を買いに行こうとなった。私は黒いヘッドホンと白いbaby-Gをした。一週間分の生鮮食品とお米の三十キロと、袋麺と、麺の上にのせる具を買った。お米の車への積み下ろしは軽々と晴樹さんがやった。車からマンションのエレベーターに乗り、長い廊下を渡って角部屋にはいって、台所で袋を下ろすまで、平然としていた。
「力あるね」この人には生意気をもういわないでおこう、と思った。
「男だから。まあ、こんなときくらいしか発揮出来ないけど」
「私、四十六キロある。担げる?」
「やってみるか。よっ、と」
簡単に横抱きにされた。
「まあ、こんな感じか」
そのまま台所をまわって、ダイニングチェアに座らせてもらう。
「有難う。すごいね」
「雨さん、小柄だし軽かった。あと十キロ重くなってもいけるな」
「晴樹さんは何キロなの?」
「健康診断で、百といわれたな」
「背は?」
「百八十、丁度だった」
「大きいね、筋肉見せて」
晴樹さんがTシャツの首元に指をかけて下に引き、隆々と発達した胸筋をのぞかせる。
「晴樹さんが大怪我したら、ストレッチャーに乗せる看護師さんは大変だね」
「そうだね、気をつけないと」
「佳奈子さんのことも、私みたいに抱っこできる?」
「えー、佳奈子さん、雨さんからリクエストがありましたが、いま何キロ?」
「秘密」台所の整頓をしながら、きっぱりと答えられた。
「身長はいくつ」
「百五十九センチ」
「だったら、見た感じ細いし、担げそう。佳奈子さん、片付け終わったら来て。二十年ぶりにお姫様抱っこするから」
「危ないよ。スジ痛めても知らないよ」
といいつつ、佳奈子さんは晴樹さんに近寄る。やはり簡単に抱き上げられた。
「よっ、と。おお、全然いける。軽。ちゃんと食えや」やはりチェアに座らせ、そのまま晴樹さんは台所にまわって、ダージリンを三人分汲んで我々に渡した。
「有難う」
三人でダイニングにつき、お茶を飲みながら、
「雨さん、背は……百四十八、とかか」
「当たり。中一から変わってない。胸はFカップらしい。施設の先生に採寸されていわれた」
「おう、胸……女性の大事なことだから、あんまり外で言いふらさないでな」
「わかった。よく実父に揉まれた」
「アウトやん」
「晴樹さんはそういうことしないね」
「当たり前じゃ、親だよ。ダメなんだよ、親子でそういうことしたら」
「したいと思う?我慢してる?」
「ちっとも思わない」
「へぇ、実父は、男ならみんなこういうことがしたい、といって、よく私を触ったよ。裂け目にも指いれた。痛かった。痛いし、いま生理だから布団が汚れるって正直にいったけど、聞いてくれなくて、お股に男のアレがでっかくなって充血したのがはいってきて、痛い痛いって泣いたけど、実父はずっと静かで、お腹に精液をかけられて終わった。気持ち悪い感じがしてすぐシャワー浴びた」
「……それは、実家のお父さんと離れてから、大人にちゃんと報告した?」晴樹さんの声が震えていた。
「うん、色んな人にいって、みんな慰めてくれた」
「……水着で隠すところは、本当は他人に触らせちゃダメなんだよ、知ってた?」
「あとから色んな人にいわれたし、病院にも連れていかれて、そこでもまたいわれた」
私があまりに淡々と、雑談のひとつとしていうことに、夫妻は面食らったようだった。何故だろうか。
「……そりゃ首も締めるわ」
「なんで知ってるの?なんで?」私は動揺した。
「児童相談所でもらった雨さんの経歴の紙に書いてあった、から……。つらかったね、本当に……」
「いや、事実が淡々と過ぎていまに至るって感じかな、首締めたのも警察に通報したのも私らしいけど、覚えてない。……親子セックスと、私が殺人未遂で逮捕されたことの繋がりがわからない。わかる?日にちも結構あいてるんだよね」
「多分、そのうち、ああそういうことか、ってなって、すごくイヤな気分になる日が来ると思う」
「私が人を殺しかけたの、イヤじゃない?」
「……ちょっと、理由が理由だから。もはやイヤとかそういう問題ではないな」
「少年院は厳しくてつらかったし、もう人は手にかけないって決めてる」
「うん、それはそうだ」
十九日、晴樹さんの出社の前の日の正午に、『明日の練習』と、私が袋麺を二人前茹でて、スープは別のお湯で作って、先に完成させておいた肉野菜炒めを上にのせて、出した。二人で向かい合って食べた。
「美味しい?」
「うん、かなり美味い。雨さん、優先順位考えられる派なんだね、肉野菜炒めが先で、スープは最後とか」
「スマホで、美味しい作り方を調べたの。袋の裏の説明だけじゃよくわからなくて。そこにのってた」
「なるほど、スマホ買ったかいがあった。雨さんが適切に使いこなせる人でよかったよ」
晴樹さんは、たいていなんでも前向きに捉え、褒めてくれる。
「雨さん、俺が勤めてる会社で明日一日だけ、アルバイトしてみない?在宅ワーク用の貸し出しPCの付属品が揃ってるかチェックする部署でおたふく風邪の検査結果待ちの人が発生して、人が足りないんだよね。上司に、『そういえば養女さんってどんな方?』って聞かれて、『ファミレスの間違い探しを十個、クリアできる、几帳面な自閉スペクトラム症の子です』って紹介したら今朝になって連絡が来た。自閉のことも聴覚過敏のこともわかってる人が仕事教えてくれるって。服はいつも通りの、シンプルな落ち着いた感じでいいらしい。どうかな、初アルバイト。……午後三時半までに答えればいいから、考えてみて」
急すぎる。
「……それって、もし私が上手くできなかったり、空気読めなかったら、晴樹さんが肩身狭いんじゃない」
「いやー、俺も出社したら結構コミュニケーション系トンチンカンだから、平気だよ。表立って意地悪いわれることもないし」
「そうか、……前、品質管理関係向いてそうっていってもらったし、ちょっと勇気出して挑戦してみる」
「了解。一日だけだけど労働だから、あとで雨さんのメールアドレスにデータで雇用契約書飛ばしてもらうね。即レスなほど印象いいから、しばらく手の届く範囲に端末と給与口座の通帳置いといてちょ」
「わかった」
「明日は朝、七時半出発。小田急線に乗って、登戸で乗り換えて南武線で川崎に行きます。そこからバスで十分くらい」
「始業の二時間前に出るの?会社、遠い?」
「そんな遠くないけど、不測の事態に備えて早く出て、会社でゆっくりしてた方が安心じゃない?」
「確かに、そっか」
「二人分の弁当とお茶は俺が用意するから、雨さんは、そうだな、六時半に起きて、自分の身支度してて」
「わかった」
その日の午後、一時すぎに、メールで雇用契約書が届いた。すぐ読み、署名欄に氏名を打ち込んで、口座情報を求められ用意していた通帳を見い見い、返す。時給は神奈川県の最低賃金だが、昼休みは六十分とあった。
夜、帰宅した佳奈子さんにも説明し、
「二人がいいのなら、行ってらっしゃい」と承諾を得た。
翌日、六時半に起き、加味帰脾湯を飲んでから佳奈子さんが作ってくれた朝食を摂り、緊張をほぐすためリスペリドン一ミリを飲んだ。部屋でブラジャーをつけ、青い、ボタン付きの綿シャツと黒いスラックスに着替えた。靴下は黒だ。念入りに歯を磨いて髪を梳かし、黒いヘッドホンと白いbaby-Gをつける。
「はい、雨さんの弁当とお茶。会社に着いたら別行動だから、自分のリュックに入れといて」スーツにノーネクタイ、白いシャツの第一ボタンを開けた晴樹さんが巾着と水筒を手渡してくれる。
「会社って、中に入る時に履物変える?あと、私、入構証みたいなのないけど大丈夫かな」
「履物は土足でOK。入るときは、スマホ買った日に撮った顔写真のデータ渡して登録してもらったから、専用のカメラに顔見せればフロアの鍵は開く。入構証とか、よく気づいたね」
「ドラマとかでピッてやってるの見たことあったから」
「支社だし、小さい雑居ビルのワンフロアだから、ドラマみたいにかっこいいところじゃないけどね。でも建物自体は綺麗だよ。トイレも男女別々だし、清掃はビルの管理会社がやってくれてるから、フロア全体も綺麗。準備できたら行くよ、いい?」
「いいけど、ネクタイと第一ボタンは」
「あ、胸らへんから上が感覚過敏ですって伝えてあるから、そのあたりは免除」
二人でそれぞれリュックを持って、バス、電車、またバスに揺られて会社に到着した。通勤はぎゅうぎゅうで立ちっぱなし、私も将来は在宅ワークがいい。
「おはようございます、めちゃくちゃ失礼しまーす、高屋でーす。新井さん、噂の娘連れて来ました」
晴樹さんは入るなりちょっとテンションを上げて、既に奥でPC作業をはじめていた男性に声をかけた。この人が上司か。歳は四十代半ばと見た。
「あ、おはようございまーす。高屋さん、娘さんマジで声掛けてくれたんだ。助かる、有難う。在宅関連作業課はあっちだから、案内するね、お姉さんお名前は。俺は新井大輔(あらいだいすけ)といいます、よろしくね」
「高屋雨です、よろしくお願いします」
新井さんの案内で電子タイムカードに打刻し、晴樹さんと一緒に後ろをついて行った。私が働くのはフロアの端だった。部署ごとに背の高い仕切りがついていた。
「えーっと、野村さん、新井ですけど」
「はーい、見ればわかりまーす、その女の子がバイトちゃんね?高屋さんのご息女か。ご息女、お名前は?」
「高屋雨です、よろしくお願いします」
「雨さんね、私は野村景子(のむらけいこ)です。じゃあ九時半になったら業務の説明をしますから、私の横の空席に来て。ダディはミスター新井と戻って」
「はーい、よろしくお願いします」
ひょいと晴樹さんが仕切りの向こうに消える。明確に、寂しかった。
「雨さんの向かいの男性二人、はい、自己紹介」野村さんがいった。
「……有村です」
「磯田です、よろしくね」
有村さんも磯田さんも、三十代前半といったところか。磯田さんは銀縁メガネを掛けていた。
「こちらこそよろしくお願いします」
「……高屋雨さん、リュックは足元のバスケットに入れちゃっていいからね。あと水分は適宜補給してね」
「はい」
九時半になると、フロア内に「ノルウェイの森」のピアノ版が流れた。
「……よっしゃ、始業か。じゃあ俺から説明しますね」有村さんがファイルを抱えて立った。「……高屋雨さん、ついてきてください」
「はい」私も立つ。
「……まず、この資料をB4、えーっと、A4の二倍の大きさでそれぞれ二十枚ずつカラーでコピーします」
コピー機の前に並んで聞く。紙をセットしてもらい、機械を操作した。
「……必要枚数が出てきたら、ページ番号を見ながら先端を揃えつつふたつに折って、読みやすいように本の形にして、ホチキス止めします。……そして、ジップ付きポリ袋に入れて空気を抜いて口を閉じます。終わり。……はい、気になることありますか」
「ジップ付きポリ袋とか、ホチキスとかはどこから借りて、出来上がったものはどこに持って行けばいいですか」
「……ポリ袋とホチキスは課長が管理しているので、声掛けてください。出来上がったものは窓際のボックスに揃えて配置。あとで僕が確認します。……あと、ワンポイントアドバイス。これは在宅ワークをはじめる人に、PCと共に送付する初期設定の説明書なので、ページとか間違えないように、気を配って行なってください」
「はい」
それが第一の作業だった。完了して二回セルフチェックし、有村さんに声をかける。
「……お疲れ様です。確認しますので、十分あまり休憩時間にしてください。ちなみに次の作業は宅配便の伝票書きです。ペン字は得意ですか。これが住所一覧です。印が付いている住所を書きます。苦手な文字は練習しといてください」
「はい」A4の紙を受け取る。
「そして、これが伝票とボールペン」スチール机の引き出しから出した紙束とペンを渡される。
私が席に戻り、住所表を確認していると、「……高屋雨さん、第一作業、満点です」と声がかかった。
「あ、有難うございます」
伝票を二十枚あまり書き、それもよく確かめてから住所表とペンと共に返した。また十分休憩をもらった。
「……はい、では、次は誤字脱字探しをしてもらいます。さて、この紙たちは在宅ワークの人向けのソフトウェアアップデートに関する文書なのですが、誤変換などあるかもしれません。他にも、意味が通じにくいところなど。探してください。これは午前で終わらなかったら午後の時間も使って大丈夫です。誤字脱字を見つけたら矢印をひいて正しい字を書いてください。終わったらこれは野村課長に渡してください」
「承知しました」これが口をついて出たとき、慣れたかな、と思った。
「電子辞書をお貸しします。備品なので扱いに注意してください」
「有難うございます、承りました」
文書は厚くなかったが、誤字を見つけても正しい字がなにかわからなかったり、読みづらい文章に代わる表現が浮かばなかったりして、時間がかかった。一時間のお昼休みを挟んで、午後三時にひとまず課長に渡すことが出来た。
「時間がかかってすみません」
「いやいや、丁寧で真剣でよかったわよ、預かるわね」
その他、レターパックの宛名書き、取引先に渡す来年のカレンダーの図柄選び、届いた郵便の仕分けと各部署への引き渡しなどやらせてもらった。郵便仕分けに関しては、有村さんいわく、「ここは郵便室や庶務も兼ねているので」とのことだった。
「……おっと、あと五分で定時か。高屋雨さん、お荷物を持ってお父様を迎えに行って大丈夫です。帰り、打刻を忘れないように。きょうの業務は終了です。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。お世話になりました」
「はーい、すごく頑張ってたってダディにチャットでいっとくわね、お疲れ様」
椅子に掛けていたダウンジャケットを着て、リュックを背負い、会釈してその場を辞し、「ノルウェイの森」を聞いて打刻をした。リュックを持った晴樹さんとそこで会った。ひどく久々な気がした。外でバスを待ち、またひしめき合う電車に乗って、小田急線の最寄り駅でマクドナルドにはいった。バニラシェイクを買ってもらい、それぞれ飲んだ。
「どう?初アルバイト」
「みんな優しかったし、指示もちゃんとわかりやすくしてもらえた。作業は色々やった。誤字脱字探しとか、伝票の宛名書きとか。でも、みんながみんなあの人たちみたいに親切じゃないよね、社会人って、きっと。私が初アルバイトだから配慮してもらったこともあるだろうし。いっぱい褒めてもらったけど、自分に向いてるかどうかはまだわかんない」
「わ、成長しとる」
「もちろん、いい経験にはなった」
「まあ、これから大学とか、就職とかあるけど、参考程度に受け止めといて」
「わかった」
「体力的には?消耗した?」
「通勤がちょっと。あと、はじめての場所ではじめての人たちと過ごして緊張した」
「まあ、そらそうか」
「あと、漢字と文章の勉強しないとな、と思った」
「自分で、あっ足りんな、と感じた?」
「うん」
「大収穫じゃん」
「晴樹さんはどうだった?」
「一日ミーティング三昧。弁当も会議室で食った。いま俺が働いてるチームのリーダーがインフルエンザ脳症の子供さんの介護で辞めるから、新しいリーダーだれにしようかってことに話が行って何故か多数決で俺になった。マジで何故。俺、コミュニケーションの障害持ってますっていまの会社にはいったんだけど。何故に管理職?」
「仕事とマネジメントが出来る、ってことでしょ、おめでとう」
「有難う。最初はただ年齢で選ばれたのか……?とか思ったけど、そうか、うん、元気になった」
帰って、先に着いて夕飯を支度していた佳奈子さんに、晴樹さんが自ら昇進を伝えた。「と、いうわけで、冬のボーナス期待してて」
「おめでとう、きょうは二人が頑張ってくると思ってホタテのフライにしたの。準備したかいがあるわ。先にお風呂はいって来て。よーく揚げとくから」
「じゃ、先にチームリーダーからどうぞ、私は待ってるから」
「有難う、行ってきます」
彼が浴室にはいると佳奈子さんが私に麦茶をくれて、やや涙の混じった声で、
「……ハルくん、やっと努力が認められる場所に行けたんだ、彼の頑張りをちゃんと見てくれる人達がいるんだ」
「……だよね、晴樹さん、普段からめっちゃ爆速タイピングで仕事できて、コミュニケーションも、きょう、定型発達のみんなの中で頑張ってた。ちょっとユーモアを使ったりして……、一日会議室詰めで、お弁当もそこで食べたって」
「『長い話は途中から記号に聞こえる』といって、テレビの討論番組を観るのさえ避けてたあのハルくんが、会議室にじっとしていられて、チームリーダーも任されたんだ、もう、ちょっと、涙が、……ああ、どうしよ、ハルくんにびっくりされちゃう」
二回目の三連休初日、起きたら九時だった。普段は七時半に起き、きょうもその予定でARROWSのアラームを掛けていた。歯を磨いて、加味帰脾湯を飲んで朝食を摂り、二時間あまり余計に、粛々と高認の勉強をし、たまに太宰治を読んで国語力の向上を図った。聞けば晴樹さんはいつも通りの時間にベッドから出てきちんと身支度をやっていた。月に一度とはいえ、出社に慣れている人はやはりちがう。しかし、「神経が興奮してたんかな、朝の四時半ごろバキバキに目が覚めて、スマホ触ってた」と苦笑いしてつけ足した。やはりお互い「いつもとちがう」に弱いらしかった。
袋麺の上にのせる予定だったのが、アルバイトのため食べ逃した具材を使ってお昼にチャーハンを作った。やり方についてはインターネットを見た。鶏ガラスープの素をいれるとなんとなく中華っぽい味になる、と、粉を少し手に出して味見しながら知った。出来上がったものは好評で、三人分の空き皿を洗いながら、楽しかった。終わって、麦茶を三人分注いで、お盆にのせて一気にダイニングに並べた。チェアには誰もいない。ふと、窓のほうを見ると、晴樹さんがいつものラグにうつ伏せになって、佳奈子さんに、リズムよく優しく、背中と腰の間あたりをトントンされていた。顔だけがこちらを向いていて、半開きの瞼の中の、上転しかけの黒目が見えた。
「あ、……佳奈子さん止めて、それ、結構くる……」
呂律はあんまり回っていなかった。そのままこと切れるかのように、目も開けた状態で、黙っていた。
「……佳奈子さん、晴樹さん寝てる?」
こくり、頷かれた。
胸から上の感覚過敏で、正面から抱き合うのも、仰向けのトントンも難しいんだろうな、と、ふいに思った。
「お腹で手が圧迫されてて、私、いま動けないの。痺れる」
「抜けない?」
「起こしちゃう。別に大人だしいいんだけど、疲れてるみたいだから悪いかなって。ハルくんがお昼寝しちゃうの、珍しいから」
ああ、頭痛で呻吟しているときも眠らなかったっけ、と思い出す。
「そうだね、結構レアかも」
「一回身支度しちゃうと、お風呂はいって着替えて薬飲んでベッドへ行くまで絶対寝ないの、普段。だから起きたら『いつものルーティンとちがう』ってちょっとイライラするかな。雨さんは気にしなくていいよ。ウトウトしてたから寝かしつけてみたら、まさか本当に寝るとは」
「そんな珍しかったら、写真撮って佳奈子さんに送ろうか?LINEのカメラだったらカシャっていわないし」
私は立ってARROWSを高く構え、寝転ぶ二人を撮影した。いま転送すると通知が響くので、『保存』だけをタップする。
四十分あまりして、急に晴樹さんの巨体が、ビクビク、と動いた。癲癇の発作でも起こしたのかと、ぶわあと汗が吹き出る。しかし、ただ意識を取り戻しただけだった。猫のように伸びをして、
「……佳奈子さん、ずっと手ェ下に敷いてた?きつかったべ、ごめん。神経潰しちゃったらどうしよ、え、本当に平気?」
「大丈夫、大丈夫、おはよう、よく寝てたね」
「何分?」
「体感、四十五分」
「そっか。眠剤盛られたみたく意識がモロモロって溶けた。いやもちろん昼のチャーハンに不審物がはいってないのはわかるけど。作ったの雨さんだし。わ、洗い物までしてある。え、俺、待遇、姫?なに?え?ん?」
「洗い物は量も少なかったし、元気あったから私がやった。ぬるくなっちゃったけどダイニングのお茶どうぞ」
「あ、どうも、いただきます」
「姫、って。ハルくん面白い。いつも仕事と家事とでてんてこ舞いなんだから、土曜日のお昼寝くらいしていいのよ」
「いや、忙しいのはみんな一緒、疲れてるのもみんな一緒、だったら職場が徒歩一秒で体力のある奴が補填しないと、という気持ち」
「偉い!有難い!……結婚したときから、ハルくん、思想がマメだよね。あと、フェミニスト」
「え、フェミニスト?」
「買い物行ったって、私に重いもの持たせたことないじゃん」
「だってほら、佳奈子さんは腱鞘炎になりやすい仕事してるし、俺は筋トレがしたいし」
「お家デートでDVD借りようってなっても、毎回私の見たい作品に付き合ってくれて」
「デートは相手と楽しさを共有する行事だから、佳奈子さんが楽しいのがまず第一優先。俺も色んなジャンルの映画見れて楽しかった」
「レストランのメニューのAとBで悩んでると、『じゃあ俺、A頼むから小皿もお願いしてシェアしよ』っていつも提案してくれたし」
「アレルギーも味覚過敏もないし、現実的かなって。佳奈子さんこそおおらかで理論的で偏見や色眼鏡がなくて、俺は助かる」
「ハルくん、個性的で天然で優しくて興味深いもの。病識もあって、ちょっと潔癖なくらい気をつけてるし。もう母と離婚した私の父も多分、自閉圏内にいたんだけど、まるでタイプが違うの。あっちは尊大型っていうのかな、亭主関白でこだわりが強くて、自分の外側全般に対してお客様気質で怖かった。ハルくんは大人しくて人が好きで、自分であれこれ工夫して社会に馴染もうとする感じ。過剰適応でメルトダウンしないか心配」
話はよくわからないが、のろけあっているその雰囲気だけは理解できた。私はこそこそ自室に戻り、会話に出てきたワード、「フェミニスト」とか、「尊大型」とか、「メルトダウン」とかを調べた。
なるほど、確かに晴樹さんは定型発達者とはなにかがちょっと違うらしいが対人的には無害で、優しい。本人と担当医師いわく「中等度」の自閉を、知能指数や様々な作戦で補って社会適応しているのだ。同じ「自閉」という肩書きがあっても、私とは世界の見え方が違うような気がした。
私は部屋を出て、
「お話し中ごめん、晴樹さんって、自閉は中等度といっていたけど、知能はどんな感じなの」佳奈子さんの前て晴樹さんの自閉について触れるのは、薄氷を踏む思いだったが、その件で盛り上がっているのだからいましかないだろうという気持ちもあった。
「えっと、知能ね、確か、具体的にはいわれずに、総合して日本人平均よりやや高めです、でも得意と苦手の差が数値にして二十あります、だったかな。気になった?」
「うん、有難う」
「他に聞きたいことある?」
「家事はどこで覚えたの」
「新卒で入った会社をやめてフリーターしてた時とか、通信の大学に籍を置いてた時とか」
「対人スキルは」
「佳奈子さんや親の振る舞いを参考にしたり、彼女たちとコミュニケーションを取ったりする中で、ああこうすれば円滑で、俺の苦手分野はこういう系ね、って分析した。コミュニケーション自習メモとか作ったな」
「そのメモまだある?」
「あるよ、確かベッド下の引き出しに自己分析関係のものはまとめて入れた。見る?」
「いいのならぜひ」
「取ってくるね」
二十分あまりで、晴樹さんが寝室から戻ってきた。A5のリングノートを手渡される。部屋に持って行って表紙をめくった。
「目の前の人は血の通った人間であって自分がプログラムしたロボットではない。どんなに優しくても、仕方なく俺の相手をしている可能性を考える」、「プライベートゾーンは冗談でも同性でも触らない」、「ある程度仲良くなれたかな、と思ったら自閉のことと得意不得意を伝え、それを受けて去る人に執着や攻撃をしない」、「第三者目線を飼う」、「トラブルがあった際、自閉中等度や注意欠陥・多動性障害の黒寄りグレーを理由に開き直らない、反省しろといわれたらする、いわれなくてもする」、「上空に他人のヘリがついている」、「話し方がくどくて長いらしい、5W1Hをはっきりするのを意識」、「自分ばかり話さない、勝手にスピーチ大会しない」、「まず落ち着け、人の話を最後まで聞け」、「一を聞いて十を知った気になったら俺の場合一・五くらいから勘違いが入っている、とにかく落ち着け、最後まで聞け」、「誰も天才じゃない」、「何事にも限度がある」、「人事を尽くして天命を待つ」、「義憤はややこしさの始まり」、「個性を出していいのは結果を出したヤツだけ」、「地味でいろ目立つな親切に動け出しゃばるな勝手に推理するな」、「まずは利益をもたらす都合のいいヤツ役に徹して、徐々に、ミリ単位で己を出す」、「愚痴るな、悪口言うな、特に容姿やスペックの話は禁止」、「安定した社会生活の構築と継続」、「切れるな、俺に人権はない」、「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす」、「俺に機嫌はない」、「機嫌を悪くしても誰も慰めてはくれない、離れられるだけ」、「病むな、全ては終わる」、「俺自体に媚びるほどのメリットがある定型発達はいない」、「俺の上位モデルが安価で流通しています」、「御託はいいからプログラミングと家事をやれ、淡々と!この世に二つしかない得意分野を伸ばせ!それしかない!」、「破壊には、再構築がついてまわる」
他にもびっしり書いてあったが、私が理解できる部分だけを拾って読んだ。
ところどころ、涙のあとがあって、インクがかすれていた。ページをちぎったあともあれば、ただ小児が描くようなぐるぐるめちゃくちゃが殴り書いてある部分もあった。顔が熱くなり、涙が出る前にノートを閉じ、リスペリドン一ミリをすすり飲んだ。ノートを簡易机に置いて、布団の上に正座、黒いヘッドホンをして目を閉じる。
そうだ、私に特別な価値はない。百年経ったら、人類総入れ替えだ。私こそが、自閉スペクトラム症の症例A。私はこの世の主人公ではない。それでいい。全てはいつか、終わる。
目を開けた。
世界が、ゆっくりに見えた。
身体の処女は実父に、精神の処女は養父の過去に預けた。
ノートを持って部屋を出る。
「晴樹さん、ノート、有難う」
「おう、なんか恥ずかしいけど」
「私にはとても重要だった」
「それならいいか」
「思考回路をBluetoothで共有したい」
「じゃ、開発してくれ」
「勉強頑張るね」
私は部屋に戻って扉を閉じ、高認の学習を、ひたすら続けた。本気で脳とBluetoothを繋ぐシステムを開発する気はなかったが、主人公ではない私がいまやることはこれだと、わかっていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?