弟の髪はピンクで
俺は理美容師をやっている。お客さんのオーダーに合わせて髪を切り、切って切って切りまくり、夜、酔っ払いが肩を組む時間帯に上がり。駅近の店舗。路線バスで帰る。今日は遅番だったから、締め作業と終礼の進行をやった。次の便を逃したらタクシーしかない。自腹だ。三千円以上はする。ちょっと走る。切れた息は白い。間に合った。定期券と連携したSuicaをタッチして乗り込む。車内は空いている。暖房が、冷えて痺れた手をじわんとほぐす。なるべく外の風が当たらない位置を選んで座る。乗客は皆、一回死んだような、極限の、疲労の顔をしている。きっと俺もそうだ。十二月二十九日、仕事納め。新年は一月四日から。それは土曜日だが、理美容師はサービス業だから、あまり曜日の概念がない。シフトは月ごとに違って、店長の気分や都合で、月に十日の休みが決まる。年末年始は、三十日から、三日まで、店自体が休みだ。
お疲れ様です。全員。
バスが動き出す。俺は黒いダウンジャケットを脱いで丸め、黒いOUTDOORクラシックのリュックを前に抱く。入るかな。いや、降りれば着るからこのままで。足元から暖房の風が吹き出る。黒に白の三本線の、adidasのスニーカー。黒いヒートテックの五本指靴下。寝そう。足の指を靴下の中で猛烈に動かしてみる。
帰れば専業主婦の母と、やはり今日が仕事納めの、福祉作業所に通う二歳差の弟が待っている。父はいない。弟の事故をきっかけに4LDKのマンションの一室ごと家族を手放した。
弟は、美容専門学校に通っていた二十歳の時、スノーボードで欅の大木に激突し、頭蓋骨を骨折した。救急車で町の病院に運ばれ、家族が呼ばれ、CTだのMRIだのレントゲンだのを撮った。粉砕して刺さった骨で脳があちこち割れ、今は止まっているが少量出血していたことがわかった。
意識が戻らず、このままかもしれません、と田中哲司みたいな中年の医師に言われ、ああそう、と、妙にひんやり納得した。救急車で高速道路に乗って地元の病院に行き、脳に突き刺さった骨を取る手術とか、折れた左手をボルトで固める手術とか、やった。ボルトについては一生入れっぱなしらしい。脳の割れは戻らない。母は、わあわあ泣いた。毎日泣いた。父が後遺症をネットで調べ、母に、全財産を渡すから別れてくれ、と病院のロビーで土下座をした。
母は立ち尽くし、父の短い髪に指輪を投げつけ、好きにして、と言って、また泣いた。父は、指輪を拾わないで去った。
弟の目が覚めたのはそれから一週間後のことだった。母は医師と話しに行き、有給休暇の俺が病室にいた。弟、謙弥(けんや)は、目を、ふっ、と、しかし、それはそれはぱっちり開けて、掠れた悲鳴を上げ、酸素マスクを放り投げ、左腕の点滴をぶち抜き、白い病室と柔らかい薄い肌にひとすじ太く、赤をたくわえ、ベッドの上にバッと立って、壁に頭を打ち付けた。ぎゃあぎゃあ泣いていた。後ろから抱いて止めると、胸に後頭部を打ち付け、さらに火がついたようにわめいて、失禁した。尿道に差し込んでいたカテーテルが、ぎゅぼぼぼ、みたいな音を立てながら、薄黄色の液体でいっぱいになったからわかった。
百六十五センチ、五十二キロと、男にしては小さいが、リミッターが外れているような怪力だった。集中治療室には看護師さんが常駐していて、すぐに男性が八人、かけつけ、火事場の馬鹿力で荒れ狂う謙弥を、三本くらいのベルトで縛ってストレッチャーに乗せ、タオルを噛ませて運んで行った。俺は唖然としながら、奴が蹴った布団などを直し、隣近所の患者、またはその付き添いの方に、「急に騒いですみません」と謝って回り、それをしながら、謙弥が一生あの感じだったらどうしよう、と泣きたくなっていた。息もつかずに、一生暴れ回る?意思疎通は?家は?食事や入浴や排泄の世話は?
不安だった。会えたのは次の日の仕事終わり、面会時間ギリギリで、二人部屋、犬みたいに吠えっぱなしのおじさんと同室、手と足をベッドに縛り付けられ、薄い青い、浴衣みたいなのを纏っていた。めくると、紙おむつ一枚。カテーテルが挿入し直されていた。左のふくらはぎに点滴が二本つないであって、そこは包帯で幾重にも固定され、顔に生気は全くなく、瞳は闇、静かだった。真顔というか放心状態というか、「コイツ留守だな」とわかる表情だった。
医師が来て、こちらは田中哲司でなく松尾スズキ、という感じで、まあそれは印象に残っているだけであまり関係ないのだが、吠え声の中、説明をしてくれた。
「せん妄(意識障害)か、脳の方の後遺症で騒いじゃったのか、慎重に調べるからね。心配ないよ。ただ脳が割れてるから健常の弟くんには多分、もう戻らないね、点滴が取れて、口から物が入るようになったら知能とか調べなきゃね、うんうん、質問あるぅ?」
「……一生、このまますか」
「だからぁ、じっくりその辺、検査するってぇ。焦らない焦らない。あ、寝た。初めて見たぁ。お兄さんが来て安心したのかな。今日は騒いでないから疲れてないし、まあ、ゆっくりしてってや、じゃあね」
キャンキャン吠えるおじさんと、眠る弟。よくこの騒音の中で瞼が閉じられるな。地鳴りみたいな大いびきをかいていた。
退院まで、半年かかった。そのハレの日、松尾スズキ先生(仮)の話によると、
「左手にちょこっと麻痺があるね、神経やっちゃったね、まあ、一か月に一回リハビリに来て。ご飯は右手にスプーンでモリモリ食べてたね、好き嫌いないんだね、肥満だけ気をつけて。で、尿意をうまく伝えられないみたいだし、紙おむつ履いてられないようだから大変だけど時間排泄だね、朝起きた時と、あと三時間おきね。あと、よく動くね、謙ちゃん。多動、衝動、不注意の三冠王。事故注意。知能の障害は、まあ、重度の、部類……、になるね、ああ、そんな顔しない、謙ちゃんは謙ちゃん。知能が変わっても。さて、視覚優位、って言ってイメージ湧くかな、耳から入る情報より、目で見たものの方がインプットしやすい。あと、自閉傾向。初めての物事を嫌がったり、こだわり行動が出たりするね。お兄さんルーティンある?できなかったら調子狂うな、みたいな」
「……朝、アイスティー飲みますかね」
「そそそ、それ!それの強いバージョン、崩れたら泣いちゃう暴れちゃう、くらいのが謙ちゃんにはいくつかあるわけよ。ま、他人に迷惑かけない範囲で合わせてあげて。あと、気圧の変化に弱いね、ちょっとメンタルやられちゃう、あと頭痛かな……しばらくは二週間に一回、ここの精神科外来に来て。合う薬探すから。で、診断書か、よーく書いとくから、再来週、外来ついでに引き取りに来て。保険利かないのね。八千円ね。精神保健福祉手帳、っていう、ま、身分証明書だね、作った方が色々いいから、診断書、コピーして、原本を市役所の障害福祉課に持ってって。四センチかける三センチの写真一枚用意して。証明写真の。事故前の免許証の余りとかでいいよ。うん、そんな感じ。ああ、お母さんは病室で荷物まとめてて、謙ちゃんは介護士さんが精神科の娯楽室で様子見てる。会いに行く?……あとこれ、今言ったやることリストと、看護記録チラ見して作った謙ちゃんの取扱説明書」
手書きのA4メモパッドの一枚とキャンパスノートを渡される。松尾先生(仮)が書いたのか。ノートの中を見ると息を飲むほど達筆だ。
案内され、精神科病棟。出入口は鉄のドアで、上と下に鍵がついている。先生が鍵束をガチャガチャやって一緒に内側に入り、長い、陽の差す廊下を歩く。若い、小太りの女性看護師さんが、先生とすれ違うとき、足を止めて頭を下げ、「お疲れ様です」と言った。松尾先生(仮)、軽くてフレンドリーだけど、ちゃんと先生じゃん、と思う。
「ああ、安井さん、忙しいとこ悪いんだけど頼まれてくれないかな、彼、紫雲(しうん)謙弥くんのお兄さん。娯楽室まで案内してあげて、それじゃ、僕はこれで」
「あ、はいー、承知しました、お兄さん行きましょうかー」
「あっ、はい」
安井さんは、意外と足が早かった。軍人みたいにテキパキ動く。曲がって突き当たりの両開きの扉をノックして、「すみません安井ですー、はいー、謙弥くんのお兄さんですー、開けますー」
中は広くて、カーペット敷きのスペースとテーブルセット。乳幼児向けの玩具が、隅に山と積み上げられている。
若い男性の介護士さん、メガネに短髪の真面目そうな美男子が、テーブルセットの椅子から立って頭を下げ、「櫻井(さくらい)です」と言った。
「あ、ども」
あああああああああああぁぁぁあああ、うううううううっううううううううう!
びくっ、とした。櫻井さんが目をやる。
謙弥が、飛び跳ねながら回っていた。白い泡ごとよだれが垂れ、糸を引いて、カーペットにシミをつくった。
謙弥。
これが、謙弥?
確かに見た目は謙弥だ。一族郎党のいいとこ取りの、俺に似ていない整った顔。
「あ、謙弥さん」
腕時計を見た櫻井さんが近づく。
片膝立ちになってティッシュでシミを拭き、
「謙弥さん、ト、イ、レ、行きましょう。ト、イ、レ。止まって。目を見ます。ト、イ、レ、行きます」謙弥は動きを止めた。櫻井さんの腕を右手で掴む。左手は、曲がって脇について、握り拳のまま、動かないようだった。
「お兄さんの前で、出来るところ見せましょう。お兄さんついてきてください」安井さんは仕事に戻ったようで、いない。病棟の奥の男子トイレに入る。仕切りと小便器がない。カーテンと便座二つとベッド一つだけだ。
「謙弥さん、一番、どうしますっけ」
謙弥は便座を上げ、スウェットズボンとボクサーパンツを片手で下ろして便器に座った。右手で細長い性器、ロールオンタイプの制汗剤くらい、を後ろ向きにして、大股を開き、放出する。彼が紙おむつではなく、布地のパンツを履いていることに安堵した。
「お、できるできる、お兄さん、声かけ、『一番どうします?』だけでここまで行けます、大きい時も」櫻井さんは、笑わずに言った。謙弥が足元の水流ボタンを踏み、流しながらズボンとパンツを上げる。黒いシャツがはみ出ている。
「謙弥さん、シャツしまいます、前、自分でしてみて。後ろは手伝います」
「あうう」左手が拳のままなために、上手くいかない。段々と謙弥はイラついて来た。眉根をよせ、いーっ、と高い声を出す。
「イライラしない、できないときはどうします?」唇を「お」の形にする。
「……おえがいし……すっ」
「はーい、わかりました、手伝います、……出来ました」次は「あ」の形。
「……あいと」
「どういたしまして」
「……てて、ややう!」
「そう、手を洗う、ね。出来る出来る」
右手で水道を捻り指先を濡らす。みかんネットに入って水道の首にかかったまだ新しい固形石鹸を撫でるようにして、親指、人差し指、中指を洗う。流して、蛇口を捻り「六階」と油性ペンで書かれた共用らしいタオルで拭う。
「たっ、た!……た!」ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「謙弥さん、跳ねない、跳ねない、歩きます、病室に戻ります、お母さんに会いましょう」
「あい!……に、も!ににに!に!」
「そう、お兄さんも。行きましょう」
俺、呼ばれた?保育園ぶりくらいに「にいに」って言われた?小学校に上がったらいきなり、「諒弥」と呼び捨てになったけれど、半年ぶりに、存在を認識された?
思い出すと、潮の気で顔の内側が痛い。バスが最寄りの停留所に停まった。ここから歩きだ。ジャケットを着て、リュックを前に抱いたまま降りる。闇の中を、暖かいバスが去っていく。十メートル先のセブンイレブンの上、最上階の左の角部屋が我が家だ。階段しかない。リュックを後ろに回し、走る。犬の遠吠えが聞こえた。
わおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。わおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。
「た、ただいま……」
犬の遠吠えだと思ったのは、弟の声だった。玄関で四つ這いになり、高く遠く。
事故から、五年経った。弟の知能は上がりも下がりもせず、左手は曲がったままだ。要するに、退院したときと変わらない。免許証の写真の余りで作った「身分証明書」は一級。判定基準の中で一番重い程度、というわけだった。二年に一回八千円を払って診断書を作ってもらい更新するが、変わらない。
弟が作業所に就職するときに、送迎の関係で母が仕事を辞めた。それから、「身だしなみへの慣らし」というわけで、母と弟が俺の職場に来て、髪型を整えた。担当は俺。店の売り上げに貢献しようと、カット、シャンプー、トリートメント、ブリーチ、カラー等、パーマ以外全部やった。謙也に「髪、何色、する?」と一覧表を見せると、ピンクを指した。母に確認すると、「清潔感があればそれだけでいいのに。まあ、いいか」とOK。店長が、「若いねぇ」と笑った。それ以来、三週間に一度、日曜日に、母を伴ってリタッチと毛先のカット、眉カットに来る。俺指名。ちなみに、店のロゴ入りエプロンをつけた大男が実兄とは気づかないのか、恥ずかしいのか、馴れ馴れしく寄って来ない。リピートのお客さんが出来て嬉しいやら、ちょっと恥ずかしいやら。ある時窓際の席で謙弥をいじっていると、後日、知的障害者の団体から十人分、予約が入った。謙弥の多動、衝動、不注意の「三冠王」をかわしながら対応する俺をたまたま見た施設の職員さんが、「ゴットハンドがいる」と目を見開いたそうだ。流石にひとりで十人はさばけないので、予約の前日に、翌日のシフトの人を店に呼んで講習会を開いた。
結果は大成功。ひとりで合計十一人も固定客をつくったからと、本社から表彰状が来た。駅の裏路地で立地が芳しくなく、売り上げもよくなかったうちの店はV字回復し、俺は副店長になって、副店長だった人が店長になって、「若いねぇ」と謙弥に微笑んだ人はエリアマネージャーになった。理美容師のメンバーの中には、「サービス介助士」の資格を取る人も現れた。前述の知的障害者団体から聞きつけた福祉フリーペーパーの編集担当の人が取材電話をかけてきたりした。
と、いうわけで、玄関に四つ這いで吠える謙弥の髪はピンクである。よだれかけ代わりに首に大判のバンダナを巻いている。百均で大量に買った。何度注意しても五秒後にはぽっかり口が開いている。
「ああおかえり、仕事納めお疲れ様、プレミアムモルツ冷やしてるわよ」 母。
「え、やった、ありがとう。……謙弥の世話、今どのへん?」
「あと寝る前のトイレと睡眠薬で終わり」
「サンキュ。寝かしてから飯食うわ。これ、一月のシフト。休みには赤鉛筆で印つけてあるから、冷蔵庫、貼り替えて」
ダウンジャケットを脱ぎ、二枚の布団(俺たちは俺の部屋に並んで寝ているのだった)を踏み越えてハンガーにかけ、部屋着を着て、靴下を脱ぎ、謙弥をトイレへ誘導する。
「謙弥、一番どうします?」
あの退院の日と変わらず、奴は放尿する。長い。匂いがむっと立ち昇ってくる。相当溜めていたのだろう。「寝る前のトイレは兄と入る」は、彼のこだわりのひとつであった。立ち上がる。流す。パンツとズボンを上げる。
「あいっと、あいと、……あいとー」
シャツをパジャマに入れるのを、あきらめている。いつの間にか、これが「入れてくれ」の意になった。
レンドルミンというもの、入眠にも中途覚醒にも効く、あの松尾先生(仮)から処方された薬、を水で飲ませる。六畳間に連れていき、ニトリで買った布団セットの間に謙弥を挟む。ピンクの蓄熱パッドがゴム留めになっている。電気を落とす。真っ暗にするとパニックに陥るので、電子レンジの中みたいな鈍いオレンジの空間にする。奴が何かしゃべりかけて来るが、宇宙語にしか聞こえない。目を凝らして表情を見る。満面の笑み。眠るには苦しかろう、とバンダナを外す。俺の頭を覆うように抱きついてくる。温かい。鼓動。とく、とく、とく、とく、という。眠い。よだれと柔軟剤の匂い。いや待て、夕飯食わなきゃ。俺が寝かしつけられてどうする……、と、思いつつ、瞼、重い。謙也が離れた。スっスっスっ、と何かが擦れる音。
……あッ、あっあっあっ、ぎっ、いいい、んッ、はあはあはあはあはあはあはあ、ぎっ、んん、ああ、あ……あ!
ティッシュ取ってシコッたのか。ゴミ箱は枕元にある。魚みたいな匂いが立って来る。
事故に遭って知能がやられたから、性的な問題はどうなる、身体は大人なんだからしたくなる時もあるよな?教える?手伝う?まさか、母が相手をする?いやそれなら、デリヘルを呼ぶ、毎日だって、……いろいろ心配したが、オナニーは覚えていた。外で触ったり、道路に這いつくばっているのはまださいわい見たことがない。ちゃんと家で、人目がない(と本人が思っている)場所でティッシュに出している。鼻炎の俺の鼻セレブの減りが早い。特売のスコッティではダメらしい。わかる、気持ちはわかるけど。
射精すると男は眠い。脳が割れて、入り込んだ頭蓋骨があまりのこまかさに取り切れなくてもそれは同じらしい。謙弥は地鳴りのようないびきをかきはじめた。
プレミアムモルツの缶を開ける。母がハヤシライスとわかめサラダを出してくれる。ビール、冷えていて美味い。沁みる。長い息をつく。
「お疲れ様」
「いやいや、こんな時間まで謙弥ワンオペ、母さんこそお疲れ」
「いや、うん、ありがとう」
「来年は早番多めに頼んでみる。今日は午後に指名のお客さんいたから仕方ないけど」
「商売繁盛で何よりよ、冬のボーナス、関東の副店長で一番の額でしょ、誇らしい」
「中学の時は毎日謙弥と流血沙汰の喧嘩してたのにな。人生どう転ぶかマジ分かんねえ」
「ほんとね、ああ、年末年始休暇、作業所と美容院、一緒で私は気が楽よ、謙弥は土曜日も作業あるし。あんた全然休まんなくって悪いけど」
「やー、イケます、やるしかねえ、ブリンバンバンバン大爆発バッチコイ」
「ふっ、何それ」
「to the next to the 一番上、だっけ?」
「えっ、わかんない。謙弥がいるとEテレかディズニーチャンネルかアニマックスしかつけないから」
「あーな。二人でいる時に癇癪だのパニックだの来たら怪我人が出る。ご馳走様、美味かったっす」
「ごめん、お風呂、ぬるかったら追い焚きしてね」
「ありがとう」
「じゃ、洗い物して寝ちゃおうかな、っと。待った、あんた明日、暇?ドライブついでにクリーニング取って来て。謙弥連れて」
「おっす、あのデカい学校の裏のとこでいいんだよな、いつもの」
「そうそう、謙弥のセーター二枚出してあるの。これ引き換え券。お金は払ってあるから」
「りょっす」
「あとさ、お風呂って言ったら」寝るんじゃないのか。母は止まらない。
「シャワーかけていつも通りに謙弥の身体洗ってたらさ、オトコノコ、大きくなっちゃって、急いでドア閉めたわよ、作業所帰りのコープに好みの美人さんがいて、目で追ってたわ、そういえば」
「……その辺、改善しないとな。女の子からすりゃ、よだれ垂らして母親と手繋いでる大人にガン見されたら怖いじゃん」
母は不思議そうに、
「触ったりしないわよ?しかも今どきのイケメンだし」
「はい、身内フィルターかかってる。外せ外せ、ガン見だけで気持ち悪いの」
「障害があるって見ればわかるのに。リュックにヘルプマークつけてるし。今の若い子って心狭い?」
「いや、何するか読めないから余計気分悪いはず」
「何もしないのに。ちゃんと自分の力でお風呂でお触りしたし、実際」
「いやもう、ややこしいな。女の子側からしたら謙弥がどんな感じの障害者かとか、母さんが万が一のときどういう対応をするかとか、わかんないじゃん。その状態で、名前も知らない男によだれ垂らしながら見られてる。ヤバいよ」
「……あんた、エッチなビデオ見すぎじゃない?謙弥はそんな子じゃないよ。お兄ちゃんなのに何で分からないの」
「兄だから心配なんだって。はい、初々しい保育科女子短大生の気持ちになって。謙弥ではない、知らない、デカい男がよだれ垂らしながらあなたを見てます、母親は一緒にいますが買い物に夢中でスルーです、はい、どう?」
「うーん、育児大変そうだな?」
「おおっと、風呂どころの騒ぎじゃないぞ?どうしたもんかな、いや、わからん、保留!風呂行ってくる!」
翌朝、七時に眠くてぐずる謙弥を立たせ、トイレに誘った。朝イチの尿は濃い。濁った、暗いオレンジだ。
六畳間でうつらうつらする彼を抱きとめながらパジャマを脱がせ、明るい灰色に青空と雲の色がグラデーションになったニットを着せ、カーキのチノパンツを履かせる。靴下は白地に太い青線と、その上下をなぞるように黒線が入った、GUのセールでとりあえず買ったやつ。
母が朝飯を用意してくれる。だし巻き玉子と白米、水出しアイスティー。謙弥にエプロンをつける。
「謙弥、謙弥、手で行くな、箸使え箸」
「いいじゃない、拭けば」母は呑気だ。
「いや、六歳のヘレン・ケラーじゃないから!マナーの話だから!」つい声が大きくなる。
食後、謙弥用の一包化を開ける。
気持ちが落ち着くという、本来は双極性障害に適用される炭酸リチウム、レキサルティ、血圧の薬だがやっぱり情動の安定によいらしいインチュニブ、抗不安薬のレキソタン。他、とんぷく薬に抗精神病薬のエビリファイ液と、抗不安薬のワイパックスがある。頭痛薬のロキソニンも。あとは前述の、寝る前のレンドルミン。謙弥はこれで、今のところ落ち着いている。いや、健常者のような、「落ち着き」はないのだが、それは前頭葉がしぼんでしまったから仕方がない。目立った問題行動はない、という意味だ。女の子ガン見を別にして。眠気覚ましに氷水、ジョッキ一杯で服薬させた。
コープの女性、フリーアナウンサーの鷲見玲奈みたいだったのかな、と思う。謙弥はああいう、柔らかい髪にナチュラルメイクが似合う、曲線的な人が好きである。エプロンを外し青いバンダナを巻き、歯を磨いてやる。子供用の液体クリニカで口の中を洗い、俺が歯ブラシを右に左に動かす。最後に水でうがい。飲んだ。まあいいか。クリーニング店のついでに、その近くの運動公園にも寄ってこよう。走らせて体力を減らすのだ。
謙弥は学生時代、運動神経抜群、サッカーも野球もバドミントンも陸上もできたが、しかしそれ以外がダメだった。国語も数学も英語も美術も音楽も出席最低ラインの五段階中、二で、技術科だけはかろうじて四。高校はテスト用紙に名前が書ければ入れる私立の体育科。高校駅伝で区間賞を受賞し、体育大学からお誘いが来たものの「いや、履修登録からして漢字読めないので。サラリーマンになっても会議の資料とか理解できないだろうし」と辞退し、AO入試で美容師専門学校に入った。
「美容師なら資格職だから安定してるし、教科書の漢字は先に美容師学校を出た諒弥に振り仮名を付けてもらう」というのが、奴の狙いだった。実技が中心の専門学校では、上手くいったのだろう。時間がある、と言って原付バイクの免許を取ったり(その更新の写真で例の「身分証明書」を作った)、居酒屋でアルバイトをして金銭を得、眉と髪以外を全身医療脱毛したりした。髭もワキもVIOもつるつるだ(今となっては、風呂とトイレの介助の時に助かる、下の毛がない、とは素晴らしい)。
アルバイト先の居酒屋で彼女が出来、「DT」(田園都市線ではないほう)を捨てた。運よく景気のよかった二〇二〇年卒業に当たったため、就活もすぐに終わって「最後に遊ぼう」と男女八人、グループデートみたいに、軽井沢へスノーボードを滑りに行って、大木に衝突し、その小さい顔を形作る頭蓋骨と同時に、全部、壊した。あっけないものだ。
玄関で、プーマの白いランニングシューズを履かせる。謙弥はもう靴紐が結べないから、足を入れるだけで歩き出せる専用のゴム紐に交換した。奴の靴は全てそう。紐はアマゾンに売っていた。
「諒弥」母に呼ばれた。
「ん?」
「ニトリで布団買ってきて。年明け、熊本の燈(あかり)ちゃんが泊まるのよ。部屋は謙弥の四畳半が空いてるし、散らかってるのはあの男の部屋にぶち込みゃいいし、OKしちゃった」あの男、つまり父。
「へー。何でまた」
「こっちの福祉専門職大学、受けるんだって。ああ大丈夫よ、受かったらうちに下宿はしない、寮に入るって」
「ダイガク受験って、もうちょい後じゃね。二月とか」
「あんたらが美容学校に入ったのと同じ、一芸入試なの、学校によるよ」
「へー、はあ、そう。布団と毛布でいいね?」
「あと、隣のGUで、パジャマと下着、二セット買ってきて。何があるか分からんし、荷物減らしてあげたいでしょう」言いながら、生活費のデビットカードを渡される。
「し、下着、って、あの下着?女子の?」
「私おばちゃんやけ、十八の子の下着事情なん分からんもん」
「急に口だけ帰省するなよ、俺、男子だよ、もっと知らないよ」
「彼女おらん?どんな下着つけよん?」
「口だけ帰省するなって。えー、彼女、彼女……」
最近マッチングアプリで知り合って、数回サシ飲みした森香澄似の公務員。まだ身体のアレコレまで発展していない。元カノ。内田理央似の美容学校の後輩。別れ際の怒った泣き顔ばかり浮かび、下着どころではない。……困った。
すっかり靴を履いた謙弥がヘルプマーク付きのリュックを背負い、狭いタイル張りの玄関でぴょんぴょん跳ねて奇声を上げている。飽きている。勝手に飛び出す五秒前。
「わ、わかった、サイズ聞いといて、下着とパジャマね、あと肌着か。あとでラインして」
俺は謙弥に引きずられながら、車のキーを取り、階段を転がるように降りた。
マンション裏の駐車場には、うちのスペーシアギアだけが、ぽつんとあった。
みんな、年末の休み嬉しさに、どこかに行ったのだろう。助手席を全開にして、謙弥の身体をねじ込む。チャイルドロックをオンにする。リュックを足元に下ろしてやり、シートベルトをかける。ドアを閉じて反対側に回り、
「謙弥、謙弥のリュック取って」
「あい!」
中からA5サイズの電子メモパッドを取る。運動公園は無理だろう。「予定」にこだわりがある彼に予告する前でよかった。
「きょうの よてい
1 くりーにんぐ みぞひら にっと2まい
2 にとり ふとん まくら もうふ すのこ しょっき かう
3 じーゆー あかりちゃんのぱじゃま、したぎ、はだぎ、2こずつ かう」
謙弥は自分の名前以外の文字が書けないが、平仮名と数字なら読める。宇宙語の返事が返ってくる。
「じゃ、出発」
「ちゅっぱーとぅ!」
「クリーニング みぞひら」は長い農道を抜け、デカい学校を目印にして、その裏手にある。いつも店番をやっている美形のご長男は聴覚障害を持っているが、馴染みの客を車のナンバーごと覚えているらしく、引き渡しがとても早い。駐車場に入って車から出たら、もう衣服が支度してあるのが見える、そんな具合だ。
今回も例外でなかった。セーター二着が畳んだ状態でビニールを被せられ、待っていた。
「ふくぉあ、おとぅけちましゅか?」
袋はお付けしますか?俺は首をふり、服をわきに抱え、会釈して店を出る。
「また、ごいよーくらさい」
またご利用ください。背中に声を掛けられる。このご長男、来る度に口話が滑らかになっている。健聴の親友か彼女がいると見た。ニット二枚を後部座席に重ね置きし、運転席に戻る。謙弥は大人しく前後左右に揺れて待っていた。よだれで遊んだのか、右手がびしょ濡れだ。運転席に乗せていた謙弥のリュックから、八十枚入りウエットティッシュを出す。
「謙弥、手、出して」
「あい!」
「よだれで遊ばない」
「あい!」
何でやらかしといてこんないい返事が出来るんだ。多分、何を言われたのか理解していない。指先まで、執拗に拭う。
「次、2番」メモパッドを見せ、二本指を立てる。
「……にばん!」真似して指を出す。ピースサインになっている。しかも逆さ。ギャルピ。笑顔満面だ。楽しそうで何より。
「にばんにばんにばん!」きゃはははは、と笑う。ツボが分からない。
くねくね道、下り坂、農道、運動公園のわきを通って国道に出る。まだ「にばん」できゃはははは、と笑っている。
ニトリ、テナントでなく一軒の店だから、デカい。駐車場も広々、停め放題。
店の出入口の傍に停めて、助手席側を外から開け、ベルトを外し、リュックを背負わせる。このリュックの中には、前述のメモパッド、ポケットティッシュ、ワンタッチ式の水筒、スタイの替え、ズボンとパンツの替え、ハンカチ、とんぷく薬などが入っている。
「に、に!」
「何?」
「あこ」
しがみついてきた。
抱っこ?マジ?とりあえず、車から降ろして両足を地面につける。
「あこっ!」
両足でガッチリ俺を固定して、やはりしがみつく。
「抱っこナシ、自分で歩く」
待て。広い店内には食器もある。興奮して走り出したら?
ゾッ、と、背中の産毛が逆立つ。
「おっ、おんぶならいいよ、絶対離れないで、お、ん、ぶ。……せ、な、か」
リュックを下ろさせる。五十二キロ。大丈夫、助かった命の重さだと思えば、余裕。多分。
俺は後ろを向いてしゃがむ。折りたたみエコバッグと財布、スマホ、車のキーは着ているダウンジャケットのポケット。
「んぶ!」
嬉々とする五十二キロ。余裕。……ぜ、ぜんぜん、よゆー……。五、五十二キロ?多動のあまり筋肉量が増えていないか?もっと重く感じる。
そのまま使える保温布団セットと畳めるすのこ、マットレス、耐熱プラスチックの食器類を揃え、トランクに積む。GUは隣だから歩いて行く。……だいじょうぶ、こしとか、いってない、いってない。たぶん。
店内でスマホを見る。燈ちゃんから直接ラインが来ていた。
『お気遣いありがとう、恥ずかしい思いさせてごめんね、GUは作りが細めやけ、XLサイズで、胸、のだけXXLでお願いします』
ありがとう、のスタンプ付きだ。
メーカー的に細めだからXLサイズで、というところに、わずかな色気がある、気がする。一瞬、背中の重みが気にならなくなる。さて、胸、特段大きい、ということか。最後に会ったのはあちらが十歳の時だからイメージが上手く湧かない、が、なぜか胸が高鳴る。親指スタンプを送信。
そうだ、そういえば、彼女は事故前の謙弥しか知らないのだ。事故に遭って脳が割れて「身分証明書」が一級、左手が麻痺だが歩ける、多動、衝動、不注意、自閉傾向で予定と時間にこだわり、とは伝えてあるが、背中におぶさってくる、「この感じ」は知らない。
『ありがとう、恐縮です。二日にお邪魔します』
お辞儀のスタンプが付いてくる。二日!
母、ギリギリか。頭の中で『はいよろこんで』が鳴る。ツートントン。
燈ちゃんの来訪日程はこうだ。二日の午前中に羽田到着。三日は会場の下見。四日に試験があって、五日に結果が出て、それがどうであれ夕方の便で熊本に帰る。中々の弾丸試験旅行、なり。
帰宅。謙弥や荷物を家に運び、下のセブンイレブンでポチ袋と旅行用歯ブラシセットを買い、ATMでカネを下ろす。燈ちゃんにお年玉をあげるし、送り迎えの羽田でお茶くらいするだろう。
謙弥からもお年玉を回収した。母が身振り手振り、ラインで送ってもらった燈ちゃんの写真、カレンダー、ホワイトボード、ポチ袋の現品、作業所の工賃の千円札などを見せ説明すると、
「あっちゃん、あっちゃん」と言って、千円をポチ袋にしまった。俺の分と一緒に母が預かる。
「あっちゃん、あっちゃん、ににち!にゅうはしゃい!おえんきょ!おえんきょ、うじゅかてぃ!」これを繰り返す。
「あっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃん、んー、ににち!あっちゃん!」言いながら寝室に消えた。引き戸が閉まる。ティッシュを抜く音がする。
あっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっちゃんあっ……んん、はあ、はあはあはあはあ、はあ、んん、ああ、い、あっちゃ、……んうッ!
しばらくして、地鳴りのいびき。
確実に、燈ちゃんの顔写真で一発抜いた。
燈ちゃん本人がいよいよ来たら、ヤバいのではないか。部屋を覗く。右手にティッシュを握ったまま、二枚の布団を横断するように、大の字で寝ている。パンツがズレて、元に戻った、性器がこぼれている。魚の匂い。そっと窓を開け、網戸にする。「晴れた午後」が「健康」のシンボルみたいに、渦を巻いて走ってくる。圧がすごい。こちらは今、それどころではないのだ。
燈ちゃんにライン。「忙しいところごめん、こっちに来る荷物、なるべく中性的な雰囲気にしてほしい、謙弥、事故に遭ってから女の子と交流ないから、反応が読めない」
既読。
『わかった。童貞の中二だと思っとくw』
福祉系大学志望とあってか、「障害者の性」に慣れている感じがする。話が早い。草までも生やすとは。余裕か。
大晦日も元日も、謙弥にはあまり関係ない。レンドルミンを飲んで一回シコって爆睡して、七時に俺に起こされる。朝飯を食い薬を飲み歯を磨かれ、Eテレかアニマックスの録画を繰り返し、繰り返し見て過ごす。飽きない。両津勘吉は今日、何万キロ部長に追いかけられただろう。
「に!に!……にーに!……にぃいいいいいいいいいい!」
謙弥が母に羽交い締めにされながら、俺に手を伸ばす。泣いている。
「あのう、特攻じゃなくて、燈ちゃんを迎えに、羽田に……」
「いいから早く行きな!」
「にーにーーーーーー!」
ピンク髪の男の、慟哭。
「行ってきますっ」
「はいっ、行ってらっしゃいっ、謙弥はこっち、お留守番っ」
閉じられた臙脂色の鉄の扉の向こうから、絶叫。
母が迎えに行って、俺と謙弥が留守番、がいい気がするが、母は怖くて高速道路で運転ができない。スペーシアギアの助手席のチャイルドロックを解除する。車のエアコンにはめるファブリーズを開封してセッティング。カラは百均で買って置いた、小さなダストボックスに入れる。机の上とかに置くサイズだ。さて、俺たち家族は鼻が慣れて分からないが、よだれが香るかもしれない、よって、ファブリーズ。エンジンを掛け、暖房をつける。しばらくエンジンを温めないと車が壊れやすくなるから、そのまま手を擦り合わせてちょっと待つ。
行きのシェルで満タンまで給油して、羽田空港を目指して走る。
燈ちゃん、八年ぶり、は、デカかった。胸の話ではなく、背。中学でバレーボールを始め、高校でも続け、百七十三センチになったという。謙弥と同じ白い、薄い肌に明るい茶の瞳。染めなくても六トーンくらいに勘違いされそうな髪は、おかっぱにしていた。ボブ、ではなく、昔ながらの、おかっぱ。全部の線が真っ直ぐだ。格安航空の出口で、黒いベンチコートを羽織り、三センチの黒革パンプス、ネイビーと白のボーダーのセーターにベージュのチノパンツ姿だった。
「諒ちゃん、悪かね。ありがとう。お正月からお邪魔します、ああ、バスで行こ思っとったのに、迎え来てくれっき、紳士やね、モテるやろ」にこ、と顔全体で笑う。可愛い。
「いや、うち、横浜だけど、横浜の電車やバス、ややこしいし。住んでるところはやや田舎だし、車の方が早いし、楽だろ。腹減ってる?」
「うーん、お腹、そうでもなかとよ。緊張かな、入らん」
「そっかそっか、自販機でお茶だけ買って出るか。足元、ヒール疲れるだろ。ボストンバッグ持ってやるよ、貸して」
「わあ、優しか。都会の美容師さんは違うったいね。腕痛かったけん、ありがとう、重いよ」薄ピンクの大きなバッグが肩に預けられる。
「謙弥しょって歩いたりしてるから平気」
「え、歩けるっちゃろ?足の裏、感覚過敏なん?」
「あ、いや、甘ったれで」
「可愛かね」
雑談しながら車に乗る。助手席のドアを、内側から開けた。
「ありがと。おお、流石におっちゃんいらした頃と車違うね、コンパクトでええな、都会の人は見栄張らんで機能性重視やね。父なんかBMW乗りよる、畑しかない道を」
燈ちゃんが、革のリュックを下ろし、足元に置いて、ベンチコートを脱いで畳み、ドアの鍵を閉める。自販機で買った綾鷹、茶葉のあまみを、ドリンクホルダーにセットし、シートベルトをする。熟れた梨のような匂いが、ふわっと、鼻腔を刺激する。これが、生の十八歳の匂い、なのだろうか。ドキドキする。唾が湧く。股間が軽く優しく絞られる。
「じゃ、出しますよ」
「はい、よろしく」
「……緊張してる?」
「諒ちゃんの運転、初めてで新鮮なのと、試験が迫ってるドキドキたいね」
「ま、試験はな、自信ない、怖いくらいが上手く行ったりするもんさ」
「そうなん?」
「うんうん」
「うち、出来れば神奈川で就職したか。熊本はほら、男尊女卑で時代が遅れよるから。関東は平等ちゃろ」
「まーな、母の実家は特に田舎だしキツいよな、女の子の扱い」
「わかってくれよん?」
「だって、田植えして、いとこで集まっておばあちゃんの弁当食ってたら、燈ちゃんだけお菓子が出なかったじゃん、あれ何年前だっけ」
「わ、そんな細かいこと覚えとってくれたん?」
「そーだよー。だって、俺らの環境じゃありえないから、印象的で」
田舎の愚痴で盛り上がりながら家に着いた。
「ただいまぁ」
「お邪魔します」
「に!に!……あっちゃん!」謙弥。走りよって俺の胸に顔を埋めながら、燈ちゃんに指をさす。
「謙ちゃん覚えててくれた?嬉しかー。謙ちゃん難儀やったねぇ、あら、髪ピンクにしたん?」
「身だしなみの慣らしで勤め先に来たからブリーチした」
「へえ、似合っとおよお、あ、幸子姉さんお邪魔します、あけましておめでとう」
「あけましておめでとう。玄関の横の四畳半、一応片付けたから、荷物下ろして勝手ば確かめて来て」
「わあ、個室貸してくれるん?ありがとう」
「謙弥の勉強机があって、ああ、クロゼットはぐちゃぐちゃだから開けないで。普段使わない部屋に掃除機かけて、カーテン洗って、新しい布団敷いただけ」
「見てきまあす」
燈ちゃんが母と、ボストンバッグとリュックを持って部屋に入る。俺は興味をそそられる謙弥を抱き、居間に引きずって行く。
「わ、下着、パジャマ、お布団も可愛い、温かいシーツのやつや、ありがとう、よく寝れそう」
「お礼なら諒弥に言って。あの子の腕一本で回ってる家だし、買い物行ったのもあの子」
「姉さん仕事辞めたの」
「謙弥の作業所の送り迎えがあるからね、仕方なかったの」
「そうかぁ、このお家、アロマの匂いするね」
「謙弥のために、精神が落ち着く精油をディフューザーで焚いてるの、最近はイランイラン。苦手?」
「大好きよ」
「よかった。謙弥中心に回っとるけん、不自由に思うこともあるかもしれんけど、ごめんね」
「いえいえ。試験前の特別実習みたいに、謙ちゃんに沢山お世話になります、よろしくね」
夕飯は、「前祝い」と、近所の出前専門寿司店に「上」のセットを四人前、頼んだ。謙弥は燈ちゃんに、「はい、お口開けて、噛んで、美味しいね」と介助されている。何か、あの、うらやま、いや、何でもない。
「謙ちゃんよだれ出てる、かぶれるよ」ティッシュ(これはスコッティでいいらしい)で、時々顎を拭われている。
「ん、ん、た!」
「はい、きれいに食べました。座ってられるんだね、頑張ったね、美味しかったねえ」
「おいしかたねえーがんばたねえー」自分の細い髪を手の甲で撫でる。
割り箸一本、新品未使用で残っている。
回し食いか!間接べろちゅーじゃん!
母が浴槽を洗って汲んだ湯に、燈ちゃんが一番に入る。うちのマンションは古いから、床は銭湯みたいな四角の青いタイルだし、給湯器も浴室暖房も後付けだ。
「ああ、お先、お湯頂いてしまった。シャンプーいいね、美容院の専売品かな、サラサラでいい匂い」
俺が選んだベージュの、くま耳付きルームウェアに、ピンクに白いハートのルームソックスで出てくる。
「ドライヤーもすごかった。風量バッチリだし、サラサラに乾く」
「ああ、あれ、ReFa」
「やっぱ高いやつはよかね、うちのなんかケーズデンキのワゴンセールで買ったやつやけ、こんな艶々にならん」
「………………あ!あ!」謙弥が俺に、股間を押さえて見せる。浴室の前を通らないとトイレには行けない構造になっているから、奴なりに遠慮していたのだろう。
トイレに連れて行く。
「謙弥、一番どうしま……」
ズボンとパンツを脱いで丸出し、大放出。尿崩症になったかと焦った。
「ああああ……っ」謙弥が声を発する。息切れしている。
「おお、よかった間に合って。二十五歳だもんな、漏らすわけにいかねえ」
弟を介助しながら、自分も入浴する。燈ちゃんへのボディタッチはNGと言い聞かせる。軍手で隠れるところ以外、絶対ダメ。水で流せる落書きボードに描いて説明した。
謙弥と自分の全身を洗い、流して、しかし性器だけは「サマーズイブフェミニンウォッシュシアービューティー」という専用の石鹸で、自力でやらせる。特別な部分だと認識させるためと、勃起してシコるまでにパンツについて、陰部にもう一回付着したカウパー腺液の独特の匂いを消すため。
バスタオルで拭いて着替えをやってドライヤー。奴はまたトイレに入り、チョロチョロ出して手を洗い、歯磨き。レンドルミンをぬるま湯で飲んで、一発抜いて大いびき。ナイトルーティーンが固定されているとスっと眠れていいな。俺なんか、壁の向こうに女子がいるってだけで何か暑いよ。血の巡りがよすぎるよ!だってあんなに成長してると思わないもん!胸、上着を脱いだあの感じだとF、はあるかな。だから何だ。いや、昔から可愛かったけどさ、可愛さの上に透明感と色気が乗るとああなるのか!肉置(ししお)き豊かなボディライン。きっと、バレーボールで培った筋肉がそこにある。
俺は眠れないんじゃない。謙弥が夜這いなんて気を起こさないか見てるだけだ。兄だから。兄だから!
「水、飲も……」
部屋を出る。貸した四畳半に明かりがついている。チラ、と、間接照明をつけた居間の時計を見る。午前一時四十分。
俺、そんなに呻吟(しんぎん)、輾転(てんてん)、してたわけ?
四畳半の借り主は何をやっている?
気になる。
聞こう。でも何か口実がないと本当に夜這いになってしまう。
謙弥が薬を飲んでも中々眠らぬ時に、六十度くらいの、ぬるいカモミールティーを飲ませている。心を落ち着けて、深い睡眠にいざなう効果があるのだ。
俺は小さいやかんに水を張り、ガスにかけた。換気扇を回す。紐付きのティーバッグをカップに入れ、ソーサーとお盆に乗せる。湯が沸く。注ぐと、香りがフッと立つ。
「今回、総合型選抜の定員十五人。滑ってしまったら、浪人やなくて、来年一年かけて家事手伝いしながら就職活動やけ、ほーんと、ドキドキ。それで、万が一に備えて勉強やっとった。高卒でええ言う親があって、わがまま言って受験しとるけん。高校が福祉科やろ、介護職員初任者研修は受けたけど、条件よかとこ入るには、もっと上の資格持たんといかんし、今は介護福祉士の問題集やっとった。大学行ったら、社会福祉士と精神保健福祉士の資格が欲しいんやけど、あと手話通訳士と保育士な。欲張りかな。そんだけあればどこ行ったって困らんよな、プロフェッショナルやんな」
「ほー、あの、画数が多くて分かんね」
「要は、福祉分野の実践的な知識をいっぱい仕入れて、諒ちゃんと謙ちゃんみたいな、頑張り合う人を支えたい。お茶ありがとう、頂きます」
「あっ、はい、召し上がれ」
熱いはずのカモミールティーを一気に飲んだ。
「あ、思い出した、お土産あるんやった」ボストンバッグをゴソゴソやり始める。
「はい、今や西日本限定になりよった、カール」
「おっ、懐かし」
「あと、福岡寄りで悪かけど、空港で『めんべい』買った」
「あ、好きなやつ。サンキュ」
「あとは重度の知的障害を持った人の姪っ子がいつも遊ぶ仲間におってな、あると嬉しいもの。だからこっからは謙ちゃんにお土産になるかな。……まず、手首と手首を繋ぐハーネス。飛び出したりせんようにな。それから、大判バンダナ、百均回ってあるだけ買った。あと、点線でちぎれる方眼ノート。取り扱い説明書なんか作る時、いるやろ。あと、吸い飲み。イタズラとか自傷がされないようにするミトン。好きな方角に曲がるスプーンとフォークと大人用の練習箸。……どう、要るかな」
「……ありがとう。要る。全部要る、重かったろ、ありがとうな」
「……あんな、うちな、謙ちゃんの目が覚めた、暴れて鎮静剤しておむつ履かさって縛ったって連絡来た日、夜、夢を見たんよ」
「夢?」
「気がついたら、山の中で、裸で、呆然と立っとるの。ざわああと木の葉擦れがして、寒くて、クマが来そうで怖くて、赤い、大きな鳥がいっぱい、ギャーギャーせからしい(騒がしい)の。足が大きくて怖かった。それで、自分が誰か分からない。どこの誰、手にも見覚えない、このパーツに、手、って呼び名があるのも知らんの、足もわからん、お股もわからん、時間経ったらムズムズして、黄色いぬるいお湯が出る。すぐ冷たく気持ち悪くなる。泣いた。泣くと、鳥がもっともっと、こう、百倍せからしくなる、嫌でね、音要らんけど耳、耳という名前は浮かばなかったけど、は、いくら叩いても壊れん、そのうち百足やミミズや蛇やらがうようよ来よって、私の全身を這い回りよるのよ、気持ち悪くて、走って逃げたら、景色だけのデッサンの壁で、鉄で、東西南北、全部それやってんよ、どうしよ、怖い、足元の草が剣山みたいにチクチクする……で、パッと目が開いたら、いつもの自分の部屋で、生理になってて、熱があった。深夜救急外来に行って、インフルエンザと風邪の検査というわけで、鼻に綿棒グリグリされながら、あ、わかった、謙ちゃん、あの世界にこれから一生おらないかんねな、諒ちゃんが助けるんかな、助けようとして、上手くハマるかな、私ができるだけ、助けに近い存在になりたいな、というんで、福祉科高校入った」
「……俺たちの、ため、……何でそこまで?」
「田植えのお弁当に私だけお菓子がなかったとき、諒ちゃんはおばあちゃんに注意してくれて、口論になって、フル回転の頭、弁舌さわやかにかばってくれたし、謙ちゃんはこっそり自分のお菓子を全部私にくれた。ああ、私、大人に使われるだけの生き物じゃないんだ、ひとりの人間なんだ、って、気がついたの。二人のことが大事なの、すごく」泣いていた。はらはら、はらはら、色のない花弁を散らすみたいに。
カップを真ん中にして差し向かいに床へ座っていたのが、俺の肩になだれ込んで来る。
「目が腫れるよ、泣くなよ」
こくり、頷いた。
「ごめんね、緊張で変になってしまったかな、うち」
「いやいや……カップは洗っとくから、もう寝なよ、二時過ぎるぜ」
「そうやった、こんなええお布団買ってもらったもんね、ありがと」
「謙弥も俺も、デッサンの鉄の部屋にはいないから。気楽に生きてる、根詰めないで」
「うん」
ドス、ドス、ドス、ドス、という足音が近づく。謙弥が起きた。しまった。
ドアの向こうから、
「にー、に、に、……しっしぃ……」
「ああ、トイレな、わかった、行く。……燈ちゃんおやすみ」
「うん、おやすみ。カップは明日私が洗っとくよ、行ってあげて」
「ありがとう」
部屋を出ると、ぐたあ、と謙弥が倒れ込んで来た。「おっと」
「しー……」
「よく起きれたな、すごいすごい」姿勢を立て直し、手を引く。よろよろ、よたよた、歩いている。
トイレの個室に入って扉を閉める。
「謙弥、一番ど……」
ズボンとパンツを足首までおろし、大股、開けるだけ開いて、ロールオン制汗剤大の性器を下に向け、ビシャアアアア……と出す。立ち上がってズボンを上げ、「あいと、あいと……」口を動かす度、首、くねくね定まらず、よだれが落ちる。
謙弥は手を洗って布団に入り直すと、鼻セレブを取り、また一発、苦しそうにシコって、やはり大いびき。苦しいのだけが本当で、気持ちいいのは幻影、蜃気楼みたいなものかもな、と思わなくもない。
夜が明け、ああ、めっちゃ眠い。カーテンの隙間から暗い銀が差す。曇りだ。アラーム、五月蝿(うるさ)い、……誰だ、「だんだん音を大きくする」に設定した奴、……俺か。俺俺俺俺、真夏のジャンボリー。……。
「おはよう、お邪魔します、男子二名、起き!ご飯よ!……あと、姉さんが、二人からってお年玉くれた。ありがとうね、気を使わんでよかところを。大事にします」
ふぇ、燈ちゃん!一気に眠気が飛ぶ。
「あ、諒ちゃん起きた。おはよう、一万円もありがとうね、お小遣い少ないけ、助かります。ゆめタウン(※西日本のイオンモールみたいなショッピングセンターチェーン)でパフェ食べよ、……謙ちゃん起きて、七時だよ、今日の朝、塩パンだよ、好きでしょ、おーい、頑張って起き!よいしょ!今日は謙ちゃんの難しいこと、諒ちゃんに習いながらうちが手伝いますきね、不慣れやけど協力して、最後の実習に付き合って、よいせ!」
爆睡の謙弥を抱いて上半身を起こす。奴が薄目を開ける。
「えーっと、まずトイレか。異性、恥ずかしいかねえ。ひとりで頑張る?」謙弥も衝撃に目が覚めたようで、今までにないくらい、平行型の幅広二重がくっきりしていた。
ドアを開け放して、「謙ちゃん、一番どうすっとね?」ドアを閉める。
燈ちゃんは、もう着替えている。英字が入った灰色のスウェットに、黒いスラックス。そこから伸びる足はストッキングだ。昨日もそうだった。
ファッションと、足元が合わない。羽田では、チノパンツに三センチヒールだった。歯を磨いてうがいをし、聞いてみる。
「ああ、高校に制服がなかもんで、スーツで面接しよう思うて、一式持って来てん。靴と上着とリュックはかさばるやろ、だからあれ一つ」
そういうわけか。納得。
ドアの向こうから流水音、「あいと、あいと」と聞こえる。
「ん、何、謙ちゃん、開けてええ?」
「あいと、あいと、ね、ああと」
謙弥の右手が燈ちゃんの腕を引っ張り、シャツに触らせる。
「ああ、ズボンち入れんか。左手が拘縮しとるけ、こりゃ難しかね、はい、出来たよ。トイレもきれいに出来とるね、よかよか」
「あいと」
うがいとエプロン、四人でダイニング。塩パンとアイスティー。母が謙弥の薬と水を用意する。昨日(今日の深夜)の吸い飲みだ。
「謙ちゃん、塩パンのかけら飛んでる。粘着コロコロするからじっとしといて。あと姉さんごめん、濡れティッシュ取って。手拭いてやらな」
「あいっ!」
「ああ、どうぞ」徳用の、中が渦を巻いている丸い筒を渡す。
三人の、普段の食卓より明るい。瑞々しい。眩しい。パン完食、アイスティー三杯飲んで、拭いてもらった手で、謙弥が自分の眉間をコンコン叩く。
「たあ、た、……」
「謙ちゃん、リュック開けるよ、絵カードの中にあるかな、どれ?」
分からないことは共通言語たる絵カード。燈ちゃん、慣れが早い。
謙弥が、「ずつう」顔をしかめて錠剤を飲んでいるページを出す。それから、「エビリファイ」三ミリリットルの写真のページ、「ワイパックス」も、立て続けに見せる。
「お薬か。姉さん、どこにあっと?」
「私がやるけ、あとは座っとって」
「はあい」
今日は気圧が低い。それにしても、謙弥、自分の不調を自覚して申し出るとは思わなかった。可愛い可愛い燈ちゃんの前で、ちょっとしたきっかけでパニックを起こして転げ回るのは恥ずかしい、とか、燈ちゃんのスケジュールに邪魔だ、とか、思ったのだろうか。ハッキリしゃべれないし、歯磨きも自分で出来ないのに、急に「二十五歳」でビビる。
服薬、吸い飲みで流し込み、燈ちゃんに介助され歯磨き。
「着替えは、どうしようかな、スボンと上と靴下、選んであげるから、出来んかったら言うて」
ベージュのチノパンツと、水色のスウェット。
黒い靴下だけ履かせてくれて、引き戸を閉める。
「……あいと!……あいと!」
「シャツね、今行きまーす。上着はこれでいいかな、ズボンのチャック上げるね、ここ持ってて、よいしょ、上着の前、留められる?」
「……うんっ!」
「そうそう、よし、出来てる。ああ飛ばない、跳ねない、下に響いたらあかんけん、静かに喜びましょ」
「バンダナ、何色、がいい?」
「……あか!」
「よし、赤にしましょ。……出来た」
やり取りを聞きながら、洗濯機を「お急ぎ」で回し、棚の上のガス乾燥機に衣服をぶち込む。ネットに入っていたストッキングと、上下揃いのブラジャーとおパンツは角ハンガー、ニットはニット用の角のないハンガーで、それらだけは室内干しにする。エアコンの近くに引っ掛けた。変な景色!ちょうどテレビの上だから、どうしても目につく。
燈ちゃんがA5メモパッドで、謙弥に今日の予定を説明している。
「一番、バスに乗る。二番、戸塚駅からブルーラインで湘南台駅。三番、バスに乗る。神奈川中央交通二十六系統辻堂行き、四番、櫻乃福祉専門職大学前で降りて学校を見る、近くの櫻乃寮も見る、五番、湘南台駅、コメダ珈琲でお昼食べる、六番、湘南台駅から戸塚駅までブルーライン、七番、バスに乗ってこのお家に一緒に戻る、諒ちゃん、謙ちゃん、燈が行きます」俺は見守りと謙弥のトイレ介助担当、ついでに急に興奮して走り出した時に抑え込む係だ。メインは燈ちゃん、かつ謙弥。母が燈ちゃんに、「お昼代」と五千円を渡す。
「わ、ええの、すみません、ありがとう」
「あの畑だらけの町に喫茶店なんてないやろ、胃が破けるほど食べなさい」
ハーネスを謙弥の手首と燈ちゃんの腕に引っ掛ける。同じ色だ。皮膚が薄く、青い血管が透ける。謙弥の手首には太い傷がある。目覚めた時に引き抜いた点滴の痕。
「あしゅっ、あしゅっ……」
「そう、握手で行きます、行ってきます」
「っきやーしゅー」
バスに乗る為に列に並ぶ。謙弥、宇宙語の独り言を大声でしゃべったり、跳ねたりと忙しい。かと思えば燈ちゃんに、「おえんきょうじゅあしゅい、おえんきょがんばゆ?」と、キスかと思うほどの至近距離で聞いたり。ボリューム調整が苦手だから、声がデカい。周りの客が、ギョッとして振り返る。そして、謙弥は同じ質問を何度も繰り返す。燈ちゃんは、嫌がらずに同じトーンで答えてくれる。
乗ったバスが発車する。
一段高い後方の席に二人は座る。
「……あっちゃん」
「はあい」
「……あっちゃん」
「はあい」
「……あしいた?いたかたらゆー、バンソーコーあゆ、おんなのこくちゅ、いたいね!いたいね!」
「……兄弟で、同じこと、気にしてくれよんね、謙ちゃん、精神保健福祉手帳が一級でも、謙ちゃんのままやわ」
「あいっ!」
何故か俺が泣きそう。
専門職大学は、広くて、校舎こそ古いが充実していそうだった。門は閉じている。
今のところ謙弥は、普段よりゆっくり、歩いている。燈ちゃんのペースに合わせているのか。宇宙語を、二メートルのハチの羽音くらいの大音声でぺらぺらしゃべりながら、ゆっくり、ミズノの、真っ青のランニングシューズで、燈ちゃんと手を繋いで歩いている。リュックのヘルプマークが、揺れている。
意識が戻った時のあの不安は、杞憂だった。
目の前が霞む。なかなか、止まなかった。
燈ちゃんは四日にパンツスーツ、ノーメイクで筆記試験と面接を受け、その日は夜、まるで眠れなかったようだった。翌朝九時にスマホで専用サイトにログイン、ぎゃッ、と言い、ぽんと尻で飛び跳ねた。
普段落ち着いている燈ちゃんがそんななので、兄弟で見に行くと、今度はスマホを握り、母と抱き合って離れない。母が俺らに気づいて、親指を立てた。
受かった。
落ち着いた燈ちゃんにカモミールティーを出し、話を聞いてみると、特待生で、条件はあるが四年間学校への納入金免除、さらには寮費まで無料、というわけだった。すぐに熊本に連絡してもらい、羽田へ送って行った。謙弥は泣かず、「あっちゃん、うえし、またきて」と笑顔。
生活は続く。時間は流れる。全力で走らないと置いていかれる。叫びたいほどに残酷だったり、踊りたいくらい甘美だったりする。何かを得たら失い、失ったら得る。観覧車のように、行き場はなく、しかし、毎度景色を変えながら、続く。
ある休みの日、謙弥を作業所まで迎えに行って、母の令で西友に寄った。
「んぶ、んぶ!」
「え、何だって?」とぼけながら、ハーネスで繋いだ手を引いて歩く。
白いニットワンピース姿の女の人がひとり、賞味期限の新しい牛乳を選んでいる。八トーンくらいの、細いパーマの髪を一本結びにし背中に垂らしていて、そのボディラインにはメリハリがあり、柔らかそうだ。黒いバレエシューズを履いている。謙弥の好みだ。見るな、見るなよ。
謙弥は、じっと虚空を眺め、ぴょんぴょん飛び跳ねた。そうかと思えば宇宙語のデカい独り言。ぐい、と強くハーネスが引っ張られる。真逆の方向へ。