モラトリアムの私たち


鬱病のまま転職して余計具合が悪くなったお兄ちゃんが、東京のマンションから父母に輸送されて実家に帰ってきた。大量の荷物と共に玄関のタタキの上に転がっている。出ていったときには縮毛矯正をあててマッシュ風だった、天然パーマの髪は伸ばしっぱなし、脱力しているのにそこだけ黒く豊かに艶々で、お笑い芸人の「かが屋」みたいだ。新しい職場に馴染めず、入って半年で休職したらしい。ヒゲは剃っていた。高校時代から付き合ってn年目になり一緒に地元を出た恋人のサトミちゃんには、転職前に鬱病になったのを言ったまではよかったが、東京で悪化を告げて「重い、ごめん」と振られたという。誰も悪くない。お兄ちゃんは生まれつき二種類の脳神経疾患を持っていて、それは十九歳の「限界」大学生(教育学部に入ったのに教職を諦めた)だったときに自分で精神科に行って判明し薬を飲んではいたものの、言いづらくて同居寸前まで彼女には黙っていた。私と母は知っていたが昔気質の父はやはり何も知らされておらず、「輸送」の前に妻から息子の持病を宣告された。
お兄ちゃんは、転職してもわざわざ電車で地元まで来て馴染みの精神科に通っていた。一社目でたびたび上司や先輩とポリシーが合わず揉めていて、何年も我慢したり繰り返しトラブルになったりしながら最後は喧嘩腰で勢いよく辞めた。新しい会社でも嫌味を言ってくる上司に耐えかねてブチ切れた。それを精神科医に勘案され、診断が「鬱病」から違うものになった。休職中に薬が変更され、会社を満期退職になっていまはタタキの上にだらりと寝転がっている。
経済面については、病状の混沌とした時期にアマゾンと楽天でしこたま散財し、暇つぶしのスマホゲームに課金、また、サトミちゃんと暮らしていた時期から足りない生活費を補い黙って余計に出していたので一文無しということだった。
お兄ちゃんは元々穏やかで、ブチ切れたところなぞ私は見たことがない。私がどんなにモタモタしようと、お兄ちゃんの頭の特異さを「いじろう」と、笑って受け流す人だ。だらしないし、ぶっきらぼうだし、突拍子もないことをよく口にするが、大事な存在である。平仮名も片仮名も漢字も四則演算も彼から習った。
「……お兄ちゃん、玄関暑いでしょ、麦茶あるよ、リビングにおいで」
父母はお兄ちゃんとその荷物を下ろすと買い出しに行ってしまった。
「……あ、つい」
「でしょ、おいで」
「……そのうち」
「熱中症になるから、這ってでも、いま来て」
「……脳、煮えたい……廃されたい……山奥の施設で軽作業と日向ぼっこしながら暮らすの……」
手で顔を覆っている。
「廃されたくてもいまはダメ」
「……手帳、年金で、みんなが楽しく暮らせるように……さ」
「靴ぬがしてあげるし、荷物も部屋に入れてあげるから、這って来てよ」
私はのしのし歩き、ナイキの古ぼけたスニーカーを外してやる。お兄ちゃんがずるずる動き出す。フローリングワイパーをかけたばかりの床に、汗ばんだ手の垢と、絞り出したような涙が付く。八分丈のカーゴパンツから覗く脚は毛がなくて白い。自分で剃ったらしくところどころに赤い傷が走っていた。
お兄ちゃんは元々、口から生まれたようなタイプ、言語化能力が高く、四六時中早口でしゃべりまくる人だった。
リビングまでただ来るだけなのに息切れしていた。目が、死んでいるのにかっぴらいている。
「目、ねこぢるになってるよ」古い、マニアックな漫画はたいてい彼から借りていた。
「あ、うん、うん、ビョーキだから、治るから、多分、多分、多分」やはり、すごい早口だった。
そのまま、あらぬ方向を見ながら、渡した麦茶を一気。立て続けに五杯も飲んだ。
「荷物入れちゃうね、ほとんど本と夏服か。布団敷こうか?」荷物から、行ったことのない物件の匂いがする。段ボールを持って二階のお兄ちゃんの部屋に行く。ドアを開け、往復して次々運び込む。布団はシーツを替えて、昨日宅配便で届いたすのこベッドにのせる。本は本棚に並べ、夏服は全て洗濯してあったのでたたみ直してタンスにしまってやる。過保護かもしれないが、何か大変そうだからよし。エアコンをつけて下りる。お兄ちゃんはリビングであらぬ方にお友達でも見えているのか、固まったままだ。

翌日、お兄ちゃんは、十時半くらいに私が起こしてやっと起きて、朝ごはんを食べずに服薬だけやって、「薬が効いているうちに」とシャワーを浴びて歯を磨き、ドライヤーをして、下着の上にグラニフのシャツを着て全身に「アスリズム」の日焼け止めを塗り、髪にはそのシリーズのスプレーを吹いて、テーバードデニムに黒いクルーソックスを履いた(お兄ちゃんの靴下と下着は全部同じものだった)。私はその間に白無地のTシャツと白黒ギンガムチェックのキャミソールワンピースに着替えて髪を梳かしヘアアイロンをし(遺伝で天然パーマだったから欠かせなかった)、顔にメイクを軽く施した。お兄ちゃんに可愛いと思われたかった。私と母が付き添って、馴染みの精神科に行き診断書を受け取りひとりで診察を受け、調剤薬局に寄って(一包化、という処理が長い)帰りに市役所。障害者手帳を申請するのだそうだ。表情は、昨日よりマシだがまだぎこちない。硬い。申請用に証明写真を撮ろうとしたら、持ってる、とか細い声で言った。ブラウンの革のリュックから、ファイルにも何も挟まっていない写真を出した。スーツ姿だ。
「り、り、履歴書作ろうとして、いっぱい撮った」
声が小さく薄く、早口、たどたどしく、カタコトのような聞き心地だった。あまり呂律が回っていないし、感情が伴っていない。棒読み。
証明写真特有の人相の悪さはあったが、昨日麦茶を飲んだときのような病的な感じはない。これを提出することにした。私とお兄ちゃんは待合ソファに座り、母が手続きをした。審査が済み等級が決まりカード本体ができたら郵送されてくるらしい。
住民票の移動とかスマホの名義変更とかマンションのガスや水道やNHKの解約手続きとか、細かいことは事前に父母とお兄ちゃんが協力して段取りしていた。
三人、帰りがけに駅前の喫茶店に寄って遅めのお昼とし、お兄ちゃんは甘いものが食べたいとシェアサイズのデニッシュにソフトクリームが乗ったのをひとりで箸で完食し(箸の持ち方は父母が躾けた通り正しく上品だったが、食べ方が『捕食』と言ってもいいくらいに豪快で躾などなかったかのようにワイルドなのはこれまた変わっていなかった)、メロンソーダで昼の服薬をした。きょうは昨日と違って、ねこぢるの目ではなく、力が抜け生命感がない。沼色。ぬかるみ色。まるで魂が欠損しているかのようだ。元々、顔にあまり感情が出にくいタイプだが、なお。
「なんだかんだでお兄ちゃん帰ってきてよかったじゃない。勉強のことも聞けるし」母が大袈裟に明るく言った。私とは十四歳離れた彼は国立の学芸大学をストレートで出て、教員免許を持っている。中学と高校の国語科目。
「そうだね、学校の勉強は平均的な子に合わせてあるから、話が合う人が戻ってきてよかった」
私の学業成績は、上から数えた方が早かった。授業は少し退屈で、お笑い芸人気取りの男子がふざけ出すのをいつも待っている。この夏休みは部長を務める女子剣道部の練習と県大会での優勝、そのほかは取り寄せている通信教材の難関国立高校受験コースを解いていた。花火大会やデートの類には縁がなかった。私は地味な生徒だった。勉強に固執しているわけではない。高校は経済的な公立で、制服のデザインが気に入ったところにしようと思っている。お兄ちゃんの手が震えだした。大量にある薬の副作用だろうか。
「べ、勉強ってどこにすんの志望校」
「制服がシャレてるところ。近所」
「大学の附属結構シンプルで爽楽(さら)ちゃんの好みだったよ。紺色に青いリボンのセーラー服」
久しぶりに名前を呼ばれ、ほっとした。発病しても私を思っている。好みも覚えていてくれた。
いわばお兄ちゃんの上に病が乗っている感じで、身体に練り込まれたり人となりを侵略されたりはされていない。
横浜学芸大学の附属なら私鉄で二駅だし、自転車でも行ける。手元のスマホで制服と偏差値を調べ、見学会の申し込みをした。偏差値は高めだったが、その分やりがいがあるだろう。
喫茶店を出るともう夕方で、タクシーを利用して帰ることに決まった。三人でセダンタイプの後部座席に座るとぎゅうぎゅうだ。母が運転士さんに自宅の住所を告げ、ドアが勢いよく閉まって走り出す。
帰宅するとお兄ちゃんは真っ先にシャワーを浴びた。身体を拭いて髪にオイルを塗り乾かし、裸体のまま手すりを掴んで半螺旋の階段を一段ずつ上がって行く。
私は手洗いうがいだけをやって、二階の自室で夏の課題をこなした。休みの終わりが近い。自由研究のテーマを決めあぐねていた。植物を育てるにはちょっと遅いので、お兄ちゃんの観察日記でもつけようか。
「お兄ちゃん、入るよ」
「おう」
「夏休みの研究の実験台になって」
部屋にはエアコンが効いている。
「えっ」
半袖半ズボン、綿のボタンパジャマ姿でベッドに片膝を立てていた。
「診断書のコピーとお薬手帳見せて」
「えっ、はい、うん」
学校から配られていた模造紙に、病名と症状と薬とネットで調べた効き目と、診断書や我々家族の記憶にあるお兄ちゃんの通院頻度や大まかな経過を症例Aとして並べた。意外にも、それだけでいっぱいになってしまった。日記はつけなくとも間に合いそうだった。総括として、「精神の病は狂気ではなく、治療可能であり、重篤と見えても根底には『個人』がいる」とした。これは実感だ。始業式の三日前に登校日があり、夏の制服を着た。そこで課題を全部、提出した。担任の若い理科教師は、模造紙をチラと見て、「精神医学か、渋いね」と言って職員室に消えた。始業式を過ぎ通常授業が開始して、自由研究をひとりずつクラスメイトの前で発表することになった。みんな、ぽかんとしていた。そりゃそうだ。身内に診断書を借りる中学生がどこにいる。
採点を経て返却された模造紙は「総括と着眼点が◎」と全体の二番目によいA評価であった。その上のAAを狙っていた。やはり日記を添えたりお兄ちゃんにインタビューしたりしたほうがよかったか。いや、でも彼を傷つけたくないから、結果的にそれはやらなくてよかったのかもしれない。

「ただいまー」
高校の数学教師とエンジニアの両親は留守だが、この夏からはお兄ちゃんがいる。ゴホッゴホッと、二階で盛大にむせる音がした。
「お兄ちゃんー?」
階段の下から声をかける。「大丈夫?」返事はない。
慌てて駆け上がり、彼の部屋を開けた。エアコンが付いていないと直射日光の当たる彼の部屋は蒸し暑い。

首を吊っていた。

スマホの充電コードを巻き、カーテンレールにきつく固まっている結び目をほどこうと手が踊っている。
「何してんの!」彼の背だと床に足がつくが、それでも頸動脈が圧迫されれば死に至る。私はハサミを持って出窓の段差に足を掛け、コードを断つ。お兄ちゃんがドサッとベッド上に落ちた。血が集まった赤い顔に涙の跡。せき込んでいる。生きていた。
「何があったの、大丈夫?」
「……だれにも、いわないで……」
息が荒れていた。
「うん、もうしないって約束してくれるなら、言わない」
「本当に首って吊れるのかなって。割といけて結構焦った、もうやらない」
呼吸をととのえたら、いつも通りの疾いたトーンになった。自分の命に対して、冷めていることの表れなのか。
「うん」
「よく考えたら葬式するカネもないし爽楽ちゃんが第一発見者になるところだった。何も考えてなくてごめん」
頷くしかできなかった。涙が止まらなくなる。
「医者からも死にたいのは症状だから絶対実行するなって言われてる。軽率だよな。助けてくれてありがとう。で、おかえり、ドクターペッパーゲットしたから冷やしてあるよ、飲みな。充電器の予備は多分、楽天で昔買ったやつが机に……あったあったあった」
何故、普通に机の引き出しを探っていられるのだ。命に興味がなくなると、人間はこうなるのか。相変わらず棒読み、声は淡い。涙の付いた頬で硬い微笑をする。市役所のときより安定して見える。そういえば、多数の目に晒されたり、赤の他人と触れ合うのがつらいと、東京にいるときから母あてにたまに連絡がきていた旨、昨日耳打ちされたばかりだった。スーパーだかコンビニだかわからないが、よくドクターペッパーが買いに行けた。限界大学生のお兄ちゃんと同じ脳神経疾患が六歳で発覚し、薬を飲んでいる身とはいえ、その副作用の動悸がたまに起こる以外は、薬効のおかげであまり生活に苦しみのない、「ほぼ健常」の、気楽な私が飲んでいいのだろうか。
「近所のスーパーくらいは行けないと不便だし、安定剤飲んで秒で帰ってきた。ママチャリで」お兄ちゃんが察したように言った。「ドーパミン欲しくて濃縮コーヒー買っちゃったし牛乳も」
生きる気あるじゃん。もうやらない、のは本当と見ていいらしい。安心した。命懸けで試しただけだ。試すな。
何週間かして、障害者手帳が届いた。判定は二級だった。調べると一から三まで等級があって、二級は、「日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」らしかった。母が障害基礎年金の申請に動き、そちらも二級として処理された。お兄ちゃんの口座で管理するとハイに転じた時に浪費してしまう恐れがあるから、名義を使って別に口座を開き、通帳とカードは母が管理することになった。お兄ちゃんにはその中から必要なときに、診察費用や薬代、交通費、少額の自由費が支給された。彼は料理みたいな複雑な家事はもうできないが、洗濯機を回して中のものを干したり畳んだり、食器を洗ったりはできる。一日一回は必ずシャワーを浴び水周りを掃除して、朝は皆が出かけたあとに洗面所で髪を洗っているらしい。少年漫画や廃墟の写真集を買って、ちまちま読んでいる。昔は小説も好きだったが、「活字は目が滑ってダメだ」と、いまは保留にしている。しかし、文章を書く、のはまた別の力なようで、日記はつけているし、短歌や川柳も詠むし、長いサイエンス・フィクションの小説さえ書いた。安楽死が合法化された日本であらゆる障害者を導いて、結果的に給付金や補助金が減り国全体が豊かになり優秀かつ健康な人間がぐんぐん育つ環境になって、障害者手帳を持ったものを全て排したあとも政治家が欲をかき、結局、どこからが障害者かという問題やら、障害があっても才能に溢れていたり努力を重ねて社会に適応していたりといった人はどうするのかという問題やらが山積し、また、死を望まない障害者による反乱が起きたりして、生かす、死なすのラインが曖昧化、最終的には国が滅ぶという、優生思想とアンチテーゼのグラデーションになったストーリーであった。国語の教員免許を持っているだけあって、読ませる力、みたいなものはあった。たまに、家にあるコピー用紙に、写真集の廃墟を、鉛筆の数本使いで描き写している。上手い。まるで、ページをそのままモノクロにレタッチしたかのようだった。なぜ疾患が遺伝して才能は来なかったのか。「休職中にやることなくて、鉛筆、色んな濃さのを買ってちょこちょこ描いてた」らしい。
お兄ちゃんは台風が来るときや雨が降るときは不調で寝ていた。頭も関節も、精神も痛いのだと言った。ただぼんやりした不安が襲いくるから、「芥川龍之介タイム」と、文豪の遺書になぞらえて簡単に教えてくれた。
調子は安定していない。精神安定剤を飲んでの通院と近所のスーパーへ行く以外は外に出ず、食欲もありすぎたりなさすぎたり波があって、たまに濃いお酒を飲んだりし、破滅というか堕落というか、外側からはそう見えるだろうなという暮らし方をしていた。暗い漫画を読んで、不安になって精神安定剤を飲んで寝たりあるときは鬱状態が強すぎて入浴や家事のできない自らの頭を強く殴ったり、昼間、焦燥や不安が抑えきれないのかたびたび大声で叫んでしまったり己の白いつるつるもちもちの手の甲を噛んだり(不意に見たら歯型が浮いていた)利き手の反対に持ったカッターナイフを腕にざっくりと刺してギギと力を込めて滑らせ生きるためにある赤色を大放出し床まで失禁のように濡らしていたり自分で針を炙って手芸用の糸で縫ったそれを開けて膿ませ救急車のお世話になったり(私が焦って呼んだ)両腕に包帯と、見かねて買った手指の自由を奪う専用のミトンをつけたまま、うあー、うあーと脱力した声を上げながら、壁に頭を打ち付けたりしていた。彼は自分を痛めつけても、他人や物には当たらなかった。血の掃除も傷の手当も、できる限り自分でした。何をしでかしても痛がる素振りはなく能面の顔だった。傷を膿ませて搬送されてから、それで一週間、そこしか空きがなかったゆえ一泊一万五千円の精神科病棟の個室に入った。私が学校を休んで面会時間いっぱいまでそばにいた。自販機でミネラルウォーターを買うために病室を離れたら、戻りがけに部屋からドスン、ドスンと音がするので何かと思って焦れば、お兄ちゃんが手にはミトン、仏頂面のままひたすらバク宙をしていた。上手かった。父母は自傷行為を見聞きするごとにお兄ちゃんと距離をとって、臭い物に蓋をするように無関心になっていった。ミトンは五双買い、毎日洗った。お風呂と食事とお手洗いと外出のときだけ手を解放し、一々私がつけ直した。家族が留守にしている間、誰か世話をしてくれる人を専門の機関から呼ぼうかと思ったが、彼自身が拒否した。真昼間のお手洗いは我慢してもらうしかなかった。「薬の副作用で口が渇く」らしく、二リットルのペットボトルの蓋を開けてストローを浅く挿し込んだ。私は放課後家に帰ると、彼の手を自由にして、袋麺の野菜炒めのせとか、オムそばとか、ケチャップ炒飯とか、簡単なお昼ごはんを作って食べてもらい、服薬まで見届けた。
お兄ちゃんが担っていた家事は母と私で分担した。
彼は、朝は比較的調子がよいのだが、夕方から夜になると沈む。腕を切るのを見てしまって、退院してから、万が一夜の間に誘われて死神について行かないように、ベッドのそばに布団を敷いて一緒に寝た。睡眠薬を飲んでから眠りに落ちるまでをずっと見ていた。二時間くらいかけてやっと寝付くと、朝起こすまで起きなかった。起きてから、生活の中で飲む薬品について、東京で発病したものに対してメインとなる銘柄は変わらなかったが、その用量が二週間に一度の通院のたびに増え、最終的には以前の倍、八百ミリグラムで固定された。サブの薬の一つに至っては四倍の十二ミリグラムになった。しかし、それに伴って自傷行為も軽くなった。たまに腕に歯型や痣があるが血まみれではない。大声を発したり、頭を壁に打ち付けたりすることはまだある。そういうとき、
「お兄ちゃん、いま少し疲れてるんだと思うよ、薬飲んで休もうか」
「働いてないのに何を疲れるの」
「生きるって働くだけじゃないでしょ」
恥じたように従って、ミトンに出してあげたとんぷく、ストローの挿さった水のそのカップを両手で抱えて飲み下した。

朝、寝起きの悪いお兄ちゃんを、揺さぶり起こして、ときには抱いて上体を上げた。たいていはしばらくぼんやりしていた。たまに私は、「血の匂いがする」と言われ、二日後くらいに生理になった。朝ごはんを一緒に摂って、私は一階の浴室で、彼は二階のユニットバスで同時にシャワーを浴びて洗面所で歯を磨いた。

衣替えの季節が来て、古い、東京のつらさの染みた服を捨てて新調しようと誘っても、ざわめくショッピングセンターは怖い、の一点張りで動かなかったので、渋り苦虫を噛む母と相談し、ユニクロやグラニフや無印良品の通販を活用する他なかった。都の悲しさが詰まった服は美品だけ古着ショップに持って行って、あとは廃棄。
秋だったので、丈夫そうでリーズナブルなセーター四着、綿シャツ六枚、デニム五枚とスラックス三枚とチノパンツ二枚、ダウンジャケット一着、ブルゾン二着、派手なリュックサック一つ、綿のパジャマ七枚。加えて、私の秋冬服とやはり綿のパジャマ、それからお揃いで、アマゾンにて、アディダスのスニーカーを白黒、二足ずつ購入した。母は、「購入」をクリックする前の最後の確認と、クレジットカードの登録だけした。ほぼ引きこもりのお兄ちゃんには品数が多いかと一瞬よぎったが、新しい服を身につけて出かける気になってくれたらいい。兄妹で私のPC画面を見ながら、あれがいいねこれはどうかなと相談するのも楽しかった。もっとも、彼は服装音痴で、ほとんど私が決めたが。東京での仕事着はスーツで、プライベートの服はボロボロになっても実家から持って来たものを着回すか、見かねたサトミちゃんに見立ててもらっていたらしい。持ち帰った服は、スーパーの紳士服コーナーで特売になっているような、渋いデザインが多かった。サトミちゃんも、懐事情を熟考しながら選んだはずだ。彼女は私よりはおしゃれに疎かった。この家に遊びに来ても、いつまでも母親が選んだように地味で垢抜けないか、子供っぽい服装をしていた。

季節はめぐり、私は幸いなことに青いリボンのセーラー服を手に入れた。地元駅が終着点であり始発点の私鉄だから、車両の中では必ず座れる。お兄ちゃんと同じ脳神経疾患を持っていたが、通院頻度も医療機関も別だった。中学でも高校でも担任にのみ脳のことと服薬を開示し、教職員間で情報共有するに留めてもらった。薬の副作用の動悸や吐き気のために長距離も短距離も走れない日があるかもしれないがサボりではなく、レポート提出で勘弁してほしい、とか、座学でも保健室に行って休む場合があるがやはりやる気がないわけではないとか、そういったことだった。
お兄ちゃんの通院は二週間に一度、火曜日の午後だったが、医師都合で今回、一度だけ土曜になった。人が多い中を電車と路線バスに乗って行くのは怖いが薬が切れるのでキャンセルできないと言うから、シャワーを浴びさせ、通販で買い直した服を選んで、付き添うことにした。病院の待合室までだ。怖い、と正直に伝えてくれたことが嬉しかったし、私のコーディネートを素直に受け入れてくれたことにも浮き足立った。父母は休日出勤でいなかった。私が朝ごはんを作り服薬を見た。私は着替えて薄化粧をし、鍵とパスモとスマホと財布を無印良品のリュックに入れて玄関へ出る。
「お兄ちゃん、忘れ物ない?自分のもの。診察券とか保険証とかお金とかお薬手帳とか」
「多分」新しいものではない、ブラウンの革のリュックを背負っていた。こちらで新調した、濃灰のセーターとカーキのチノパンツに意外と合う。
「お昼、久しぶりに外食しようか。病院前のモスとか」
「任せる」
駅までは自転車で行って、私鉄でターミナル駅に出てバスに乗る。とんぷくの精神安定剤を規定の倍飲んだお兄ちゃんは落ち着いていて、やや眠そうに見える。診察を終え、受付でお代を払うときに、彼の財布が大学入学祝いに父母から贈られたバーバリーのまま変わっていないことに気づいた。
調剤薬局に処方せんを出し、長い一包化を待つ間は薬剤師さんに外出を告げて、予定通りモスバーガーに入った。二人でモスチーズセットを頼み、サイドメニューはポテトとアイスコーヒー。
意思に関係なく「捕食」しかできない彼にウエットティッシュを貸しながら、いま、幸せだと思った。

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