こっちのアニキ
二年の冬休み明けから身体が鉛になって通えなくなった母校の裏門を開けて敷地に入ると、あの頃と変わらない用務員の筒井さんが、職員駐車場に舞いおちて硬く褪せたケヤキの葉を、ゆっくりとした手さばき、竹ぼうきでもって、用務員制服の上に紺のウインドブレーカーを着て、掃いているのが遠目に見えた。
目の奥に熱した鉄パイプを挿入しているような、じわんとした、しかし強い頭痛が、止まらない。在籍している通信制大学のレポートをワードで作って印刷し、事務局宛に投函してきたが、その前から痛んだ。昼飯を食っている時、いやもっと前、ケーキ工場の清掃バイトで床を磨いている時、いやもっと前、朝起きて、コンピュータプログラマの仕事に出る母がマンションの重い扉を閉じるのを聞いた時、いや、眠っている時点から既に?考えれば考えるほど痛い。
しかし、思考は自動で回る。俺はそういう脳の持ち主なのだった。観念本逸(かんねんほんいつ)というのか、勝手に外から入ってきた情報や、内部に芽吹く想念が竜巻を起こして止まらない。これは、ちゃんとした疾患らしく、まだ特殊清掃員だった頃に眠れなかったり眠りすぎたり朝動けなくて欠勤したり、かと思えば何度も徹夜して遊び狂ったりして、母に異常を指摘され、精神科にかかったら、薬を処方された。俺はどうやら、三つくらいの疾患を持ち歩いているらしかった。うち二つは先天性で、残る一つは仕事のしすぎが元だそうで、休職して、協会けんぽから傷病手当金をもらい、満期退職した。今は貯金をくずしたり清掃バイトで作った小銭で学費を払いながら、社会福祉学、という、学問をやっている。少ないながら、家に食費を入れたりもしている。頭が痛い。割れる。脳が出る。寒い。コーデュロイの、ブラウンの、ダウンジャケットのジッパーをたぐりよせた。これはGUで買った。
職員玄関のインターホンを押し、カメラに「いのり学級 保護者」のネックストラップを映す。
「菅谷里月(すがたにりつき)の兄です」
「どうぞ」
弟、朝、機嫌悪かったなあ、と思う。昨日降った大雪の影響で、放課後デイサービスが昨日と今日と明日、計三日間休業になったからだった。弟は、「いつもと違う」のが苦手だ。そういう障害を持っている。特性として、色や、時間や、予定に固執する。崩れたらパニックになって、他人を噛んだり自分を叩いたり、全裸になったり叫んだりする。コミュニケーションが難しい。身体の年齢相応に脳が発達していないのだ。上手く話すことができない。排泄にも入浴にも介助がいる。
職員玄関を開けると、暖房のぬくみがどっと来る。横の事務窓口で、専用の紙に氏名と来校目的を記入。
菅谷悠里(すがたにゆうり)、兄弟の送迎。
履いてきたショートゴムブーツをを片手に持って、板の廊下を、靴下で歩く。冷たい。出る時は生徒用の昇降口から。
ぎゃああああああああああああ、おおおおおおおおおおおおおお。
いのり学級、という、知的障害を担当する特別支援学級の方から、劇団員の狼人間役が、見世物になって、暴れる芝居をやっている、かのような、すごい、腹からの叫びが聞こえる。
弟じゃ、ありませんように。
祈りは神に聞き入れられなかった。里月が、机を蹴っ飛ばしたり投げたりしたのだろう、前方に固め、素っ裸で、制服を四方八方に飛ばして、尻からどろどろの排泄物を噴き出して、その海の中を、手足ばたばた、胴体くねくね、叫びながら、泳いでいる。腹に力を入れるから、余計出る。肛門に茶色い泡が立つ。他の生徒は、三人いて、荷物を持てるだけ持って、廊下に固まって、唖然としたり、泣いたりして、見ている。教室のドアは閉まっているが、強い刺激臭が漏れてくる。
「あ、あの」
「ああっ、お兄さん、すみません、里月くんお腹痛かったみたいで、でも僕、気づかなくて、絵カード出してくれたのに、授業中はトイレに行きませんって言っちゃって、したら出ちゃって、大パニックになっちゃって」若い男の、担任の先生、小太りの身体にミズノのジャージ、が頭を下げる。
「いえ、あの、掃除とか、どうしましょ」
「ああ、職員で対応します、業者さん呼びます」
「すみません、費用は出します」
言いながら、脳の一部が狂ったみたいに、おかしみがこみあげてくる。なんなんだ、この状況。
「費用は大丈夫です、経費で落ちます。里月くん、収まったらシャワー行きましょうか、水泳部の部室、プールサイドですけど、誰も使ってないここの横の更衣室にも、シャワー付いてますんで」
収まるまで、弟が、揚げるものに生卵を絡めるように汚物に隅々まで染まっていくのを、見ていた。泣き、叫びながら床や窓や壁に、いっぱいのどろどろを塗りたくる。細いストレートの髪もデカい顔も丸い腹も小さい性器もちぎりパンみたいな足、指定の靴下を履いている、も茶色だ。手は、大きくて丸くて肉厚で、あまり節が目立たない。穴から出たての半固形状のを、直に取って、廊下側の窓ガラスに投げた。びちゃ、と広がる。スプラトゥーンか。
たまに他の保護者が来て、茶色い教室を目にし、ギョッとして、子を連れて去って行った。
ああ。
あー。
頭痛も、目の前の地獄も、夢ならいい。
熟れすぎた柿が木から落ちて破裂するみたいに、ばちん、と、いきなり目が覚めた。部屋が暗い。手の感覚でスマホを探し、時間を見る。三時五十分。頭痛。心臓がバクバクする。抗不安薬のレキソタン五ミリを四錠、二リットルのペットボトル、サントリーの天然水で飲み込み、目を閉じる。あの真っ茶色の風景は、一体なんだろう。エアコンのないこの四畳半は寒い。ニトリ的ピンクの蓄熱毛布と羽毛布団で身体を繭のように包んでも、内臓が、寒い。隣、壁一枚の四畳半から、弟の大鼾が聞こえる。父は、母が弟を妊娠している時に、くも膜下出血で、フラッと逝った。母、俺、弟の三人暮らしのこのマンションは、その保険金で買ったのだった。
尿意。ああ、面倒くさい。部屋を出てトイレを目指す。玄関までの一本道の途中に色んな部屋がある家だから、何もしないと郵便受けとタイル張りのタタキが見える。大きな可燃ごみ袋。茶色が綯い交ぜになった学校指定の黒いナイロンリュックと、母手縫いの緑のよだれかけ、後ろはマジックテープ留めになっているやつ、と、冬服一式。ああ、あー、そうだ。あのあと、二、三時間かけてやっと落ち着いた素っ裸の里月を、シャワー室に連れて行って洗った。学校からエッセンシャルとビオレu.の青紫を借りた。パンツと肌着と指定の靴下は月曜日、新品を持たせて、もって返却となる。夜が明けたら制服店に連れて行き、冬服を買う。若先生のナイスプレイ(教室の外に持ち出し)で奇跡的に無事だった最大サイズの名前入りジャージを着せて、赤信号のたびにグズって歩道に寝転がるほど青信号、つまり緑色、が好きな弟を、なだめ引きずって帰ってきた。あー、全部思い出した。えーい。うわー。泣きたい。とりあえずトイレ。座って放尿。サラダ用のボウルみたいに受け皿の小さい備え付けの水道で手を洗う。居間に行き、台所そばの間接照明をつけ、一リットル千円しない新品の赤ワインを開けて直に飲む。俺は、酔っ払いすぎて嘔吐し、その酸っぱい中に顔を突っ込んで気を失っている時が人生で一番幸せだ。
何も考えず瓶の半分までいった安ワインの恩恵で、温まった。レキソタン五ミリ四錠との相乗効果でどろっとした眠気がやって来る。
ちょっと、吐きそう、かも。吐き気は、良い。緊急事態だから、それ以外の、世界のゴタゴタを、頭に浮かべなくて済むから。思考が操作できない脳を持つ、とはそういうことだ。吐き気は、救いだ。あと半分、飲んだら、いける?救われる?
でも、それより、眠い。ベランダに続くカーテンが半開きになっている。軽い雪が、風に乗って右や左に吹かれながら、地上を目指している、その白いのが、闇に映える。
次は布団の中で起きた。重い。百八十センチ、百キロの弟が、すっかり着替え、よだれかけを付けて、俺に座ったところだった。痛い。全部の臓器が破裂する。よろよろ、震える手を伸ばし、スマホをとる。七時四十分。
「り、りっくん、どいて。にいにのお部屋、入らないで」大学のものとか、PCとか、持病の薬とか、あるのだ。
「にーにー、にーにー」
「わかった、起きる、出て行って」
「にーにーにーい、いーっ、うーっ」
ショッカーか。
言葉が通じたようで、よっこいせと立ち上がり、出て行った。
俺はよたよた居間に行く。母がいて、俺の食パンを焼いていた。里月はよだれを垂らしながら、幼児番組の録画を見て、画面の中の人形と一緒に、ドスドス踊る。
母が四枚切りの食パンにバターを塗って、熱いダージリンを出してくれる。
「悠里、酒飲んだら片付けな。ってか飲むな、薬で闘病してる身だろ」
「すみません、はい」
あれからの弟は、フツーだった。手を洗っておやつのマリービスケットを食い、夕飯に手羽先の甘煮で白飯を三杯食い、けんちん汁を五杯完食し、俺にシャワー浴と歯磨きを介助され、睡眠薬を飲んで寝た。睡眠障害があって、寝付きが悪いのだ。腹痛は一過性だろう。
「制服とリュック、買いに行かなきゃ。あと上履き?学年で違うのよね、何色?」
「赤じゃね、今年の中三だから、俺から逆算して、赤」
「菅谷里月さーん、聞く姿勢!」母が声を張り上げる。テレビ台の横のA4ホワイトボードに、
9じ くやくしょ、しょうがいふくしか ヘルプマークくださいなします
10じ、せいふくやさん、うわばき25センチ、ふゆふく、ネクタイ、くつした、ながそでシャツ、がっこうリュックくださいなします
12じ ジーユー パンツ、エックスエルサイズ、 はだぎ、エックスエルサイズくださいなします
13じ ガスト からあげべんとうくださいなします
にいに、おかあさん、りつき、ワゴンあーるにのる、いきます。
と、書きつけて見せた。弟は、平仮名と片仮名と数字なら理解できる。そして、口頭で伝達するより絵や字で書いた方が理解しやすい、らしい。
先っぽに塊があり重たそうなよだれをびよんびよん垂らしながら、弟はホワイトボードを見る。
母が続きを書く。
でかけるしたく、トイレに、いく、ユニクロのななめがけバッグ、えカード、とんぷく、よだれかけ、ハンカチ、りつきがもちます。8じ45ふん、じゅんびおわり、くつした、くつ(しゅんそく みどり)をはく、げんかんをでる、ワゴンあーるにのる。
「わかった?」
「……」頷く。
弟が首から下げているリング留めの絵カードの束から「むぎちゃ」を母に示す。母は台所に回り、蛍光緑のストロー付きタンブラーに冷蔵庫の水出し麦茶を満たす。里月が、でん、と、俺の差し向かいに座る。デカい。
「にーに、あーよ、あーよ、にーにねんね、……いぱい」
「悪かったな、おはよう、里月」
「あーよ、にーに、にー」
「何?」
ここから先、五十音にない音の羅列がしばらく続いた。省略。里月が麦茶を飲み終わり、母にお代わりを要求する。母は応じる。俺は自分が使った耐熱プラスチックの食器をシンクに持って行き、部屋に戻る。チラと玄関のタタキを見ると、大袋が消えていた。邪魔だから、一階、道路わきの集積スペースに片付けたのだろう。うちは二階の右の角部屋で、エレベーターから遠く階段には近い。
朝の薬、一包化をちぎり、二リットルで胃に流す。薬の数が多くて、また見た目も似たり寄ったりで、何がどこにどう効いているのか、もう、わからない。ついでにオープンクロゼットから適当に服を引っ張り出す。紺の、Championのパーカーに黒い裏起毛のスキニージーンズと、やはり黒い保温ハイソックス。雪は止んでいたが、寒い。紺の短いダッフルコートと、GREGORYの花柄リュック、金持ちの家のカーペットみたいなの、を、居間に持って行き、さっきまで座っていた椅子に乗せる。母が里月にエビリファイ三ミリリットルのとんぷくを飲ませるべきか、声をひそめて聞いてくる。
「飲め飲め、落ち着くんだろ、出かけるなら必須じゃん、百個飲んどけ」
母は、薬が嫌いである。里月の常用薬も、ほんの最低限にしている。
「そんないい加減に言わんでよ、弟の身体が心配じゃないの」
「外で暴れたりして迷惑かけるより断然いいじゃん、エビリファイって、大塚製薬が開発したんだけど、ポカリスエットより売り上げあるんだよ、それだけたくさんの人がいっぱい飲んでる、いけるいける」
「……」
里月が後ろから母に絵カードを押しつける。
「はいはい、里月、おトイレね、出るかなあ」
トイレのドアは開けっ放しで、俺は横の洗面所に入る。鎖骨下あたりまで髪があって、それは柔らかい天然パーマでもって、中間からが散らかっている。ドラッグストアでブリーチを買い、自分で脱色したのだが、それは実は、半年以上前の話で、今は黒い毛の方が多い。浴室でヤンキーのようにしゃがんで、上の服と靴下を脱いで、マー&ミーラッテのリンスインシャンプーで洗髪する。流して拭いて、濡れたままの髪にドライヤー。六割乾かして、GATSBYの水色のワックスで前髪ごと低めの団子にまとめ、でこっぱち全開。ゴムに紫のケープをかける。牛乳石鹸の赤で顔を洗い、アルジェランの化粧水、乳液、クリーム。手に余った分は、黒ずみ始めた肘とかに塗る。服を着て靴下を履き、洗濯機を回す。冷蔵庫の野菜室で冷やしたモンスターエナジーの紫を、弟に見つからないよう忍者みたいに小さくなって飲む。トイレの済んだ彼がNHKの天気予報を、もっともらしい顔で見ている。よだれが、ぼたぼたぼたぼた、と足元に落ちる。母は電話をかける。中学校宛らしく、「ご迷惑おかけしてすみませんでした、面談でも言ったんですが、里月はお腹がゆるくて、はい、取り扱いメモパッド、年度のはじめに渡したのにも書いてます、いや、あの、謝ってほしいんじゃなくて、謝るのはこっちで。はい、はい、今は大丈夫です、調子いいです、はい、すみません」おろおろしている。俺は自分のGREGORYに、自分のロキソニン、レキソタンを入れる。弟のマイナンバーカードと、障害者等受給者証(医療費の自己負担が窓口ゼロになるカード)と療育手帳を母子手帳ケースにまとめ、収納する。あとは自分のニベアの色つきリップクリームやら、ウエットティッシュやら財布やらスマホやらをしまう。カフェインを摂ったから頭の回り具合がいい。あれは箱で買って、服掛けの下にひっそり置いてある。里月は炭酸が飲めないのだが、俺が持って歩いていると手から取ろうとする。プルタブもひとりで開けられないのに。
あー、いい加減、そろそろ美容院に行かねば。縮毛矯正でもかけようか。色は、赤みがかったはっきりした金にして、形はマッシュショート、とか。
里月の支度を手伝う。ユニクロの斜めがけバッグによだれかけ、GPS、ウォッシュタオル、おしりふき、絵カード、エビリファイ三ミリを三包。
洗濯機が止まった。中身をベランダに持って行く。シリコンのカゴから出して角ハンガーに留める。
床に座っていた里月が前を押さえてトイレの絵カードを差し出して来る。弟は舌がすごく長い。顎下まである。その気になったら鼻とかほれる、多分。言葉が上手く発音できないのは、知能が重度知的障害の中でもなお重度と言えるほど低いから、だけでなく、舌の長さも関係あると、児童デイサービスの指導員さんに言われたことがある。
「はい、トイレな、行こうか」
個室に入って、便座を上げ、ズボンとトランクスを下ろしてやる。小柄な女子の小指くらいの性器と、栗の実くらいの睾丸。
「はい、座ってチンコ後ろ向きにして、手で支えて、足閉じて、していいよ」陰毛が薄く、肌が見える。排泄の勢いがいい。量が多い。
「たー、しぃ、あ、いっ」
「終わり?よっしゃ、立ってパンツ上げて、ズボン上げて、お腹、シャツしまう。流す、はい、ジャー。さ、手ェ洗いましょうか」
個室についている小さな洗面台で、手本を見せながら一緒に洗う。石鹸は泡で出るポンプタイプのミューズ。
里月が生まれたとき、うちは喪中だった。出張先でくも膜下出血を起こし、空へ羽ばたいた父が骨になって飛行機で帰ってきて、寺で通夜と葬儀。妊娠中の母が、慣れないヒールで、お堂から中庭に出て参列客を見送る、その石段から、転がり落ちて、腹を打って、股から、あ、やばいな、と、酸素が全部凍るくらいの血が出た。父方の祖母が寺の電話で百十九番をし、母と母方の祖父母が救急車に乗って、あとの親戚は近い人から自分の車で追いかけたり、参列客の送り出しをやったりした。俺は叔父(母の妹の夫)が運転するノアに乗って、従兄弟たちと青くなりながら、病院の夜の赤い十字が見えてくるのを待った。妊娠は「トツキトオカ」というように、十か月が一般的だが、八ヶ月と二週間で、子宮破裂、緊急帝王切開、出生児頭蓋骨折、脳挫傷、心停止、と画数の多い字が薄暗い病院の中で青い手術着のおじさんから展開され、死ぬのも生まれるのも死にかけるのも、えらい騒ぎだ、と、遠く思った。
月日は流れ、里月、百八十センチに百キロの体躯、重めの近眼、知的障害に自閉傾向の十五歳、市井の人として、生きている。心房中隔欠損症という状態、心臓の中の十字の縦線の壁に穴が空いている。過呼吸発作が起こりやすいが、今すぐ命に関わりはしない。
落ち着きがなく、よく動く。不注意で怪我が多く、そういう症状の疾患と診断され、薬を服用している。目線は自然に合う。大変な「ゲラ」で、よく笑う。人懐っこい。俺は人見知りで、つい他者に塩対応をしてしまいがちだから、他人の懐に入って可愛がられているのを見ると、ええい、遺伝子分けろ、と思う。
「にーに、てって、ろぞ、てって」
駐車場で、里月が俺にペコペコお辞儀しながら、運転席を拳で指した。奴さんは指さしをしない。クリームパンみたいなグーで対象を示す。運転して、と言っている。
「いいよ、今日は高速乗らないからびゅーんってしないけど」遠出の際、運転係は専ら俺である。母が、高速道路で車を動かすのは怖いと言うからだ。ま、ワゴンRスティングレー、軽だし。それも無理はない。ちなみに、こればかりは俺の好きな紫のボディを選ばせてもらった。
「はい、ほな、じゃあ、女子供は後ろ乗って、ベルトして、まず区役所で新しいヘルプマークもらう、ね」俺はエンジンを掛け、ベルトを締めながら、後部座席の二人を窺う。
紫のランニングシューズでアクセルを踏み道路に出る。カーステレオをいじり、呂布カルマの「夜行性の夢」をリピート設定にする。弟が、好きなのだ。ルームミラーを確認すると、上半身でノッている。片手は母と繋いでいる。母が時々、緑の斜めがけバッグからウォッシュタオルを出して、よだれを拭き取る。
区役所へは十分あれば着く。
「じゃあ悠里、行って来て」母。
「えっ、俺?パシリかよ、だる」
「土曜日なんて午前中しか開庁してないだから混んでるじゃない、里月、飽きて騒ぐわよ」
「何のためにエビリファイ飲んだんだよ、全員で行こ」
「えー、里月が途中で座っちゃったら悠里が抱っこしてね」
百キロを?
「あーもー、わかった、在庫全部もらってくる」
俺は母子手帳ケース入りリュックを持ってドアを閉じ、建物に入った。古い煉瓦造りの階段を上がり、自動ドアをくぐり、手に消毒液をまぶす。何故か椿の柄の扉、のエレベーターに乗り、二階の障害福祉課へ。
「すみませえん、ヘルプマーク、ありったけくださあい」
開いている窓口に声をかける。
「はい、少々お待ちください、って、あら、菅谷くん?久しぶりだね」
「うお、伊丹(いたみ)。公務員かよ、すげ」
ちょっと好きだった、小学五、六年の二年間、同じクラスの女子。
「ヘルプマークね、ちょっと待って。いっぱい要るのね、三個渡すよ、足りる?」
「ありがと」
伊丹は、里月の存在は知っているが、障害児だということは知らない。中学受験をして、神奈川学芸大学の附属に行ったのだ、確か。俺は公立中学に進み、中二の冬、布団にトリモチがついたように動けなくなって、それきり卒業まで学校に行かなかった。里月と俺は十歳違うから、伊丹の記憶に里月がいれば、二歳。まだ経過観察中、診断は下りていなかった。
伊丹は、何も聞かず、それじゃ、お気をつけて、と言い、窓口から自分の机に戻った。電話が鳴って、それを取る。もう俺は彼女の意識の中にいない。
煉瓦造りの階段を降りる。車に入ると、母がスマホで誰かと連絡していて、里月は飽きて、窓ガラスの冷やっこいのに、舌をべたんとつけていた。左手は繋いだまま。
「里月、お口閉じる、ガラス拭く」それだけ言って、車に常備している徳用ウエットティッシュの蓋を開け、容器ごと渡す。里月は舌を出したままこちらを見、にこお、と笑った。ちゃうねんて。後ろの窓ガラスに手を伸ばし、ウエットティッシュで拭き取る。甘酸っぱい慣れた匂いがする。残念なことに、拭けば拭くほど、薄く広がった。後部座席のドアを開け、出ようとする里月をガードしながら、窓一面にリセッシュを吹きつける。これも常に乗せているものだ。垂れるほどシュッシュシュッシュやって、帰ってから布巾で掃除するべ、とスライドドアを閉める。あー、頭、痛い。目が痛い。頭蓋骨が痛い。また雪が強く降るだろう。
母、電話を切り、
「あー長かった、いやね、ああ、悠里ありがとう。知的障害児者の会の尾田さん。特別支援学校が定員オーバーで来年の春から入れない、作業所探すか一年浪人か、って話」
「え、うちもそれ含まれてる?尾田さんって尾田佑来(たすく)くん家だよね?同級生じゃん、昨日は休みだったけど」
「作業所の見学に行ったんだって。うちは浪人かな」
「待って、他の地区は?」
「いっぱいよ、同じよ、だから困ってんのよ」
「マジかよ、俺が出たみたいな通信制は?喋らないような障害児、いっぱいいたぜ?明らかな知的障害、自閉、ダウンの子とか」
「この子が授業なんかついて行けやしないわよ、多動も不注意もあるし」
「自宅学習中心のコースにして、俺が教えて、対面指導の日は俺が都合つけて送迎、でよくない?浪人イコール、学校行ってない、イコール、放デイ(放課後デイサービス)使えない、だからさ、俺バイトと大学辞めなきゃいけなくなる。浪人生と無職のいる家って、結構ハードじゃね。療育も止まっちゃうし、そこんとこ、今から別に新しく教室探せないだろ」
「うん、……考えとく」
車を操作し、制服店に向かう。
「南町中学校の男子の一番デカい冬服一式と上履き二十五センチの赤と指定のリュックと靴下ください、でいいよな、俺行くわ、どうせ試着できないし。あとGUも隣だから行ってくる。柄は地味なら何でもよくて、XLのトランクスと肌着だよな」
「ありがとう……ごめん」差し出された家庭用デビットカードを預かる。
謝られると、返しに困る。生まなきゃよかったというわけでもないし。
「ま、行ってきます」
かなり、「巻き」でコトが進んでいるが、時間厳守の鬼、里月はフツーにしている。低気圧だと精神の調子が悪かったりもするが、それもない。エビリファイ、ありがとう。
制服店で指定の、大量の品を支度してもらっている間、ウォーターサーバーの小型のが紙コップと一緒にレジ横にあったので、「もらっていいすか」店の娘さんらしき人に声をかけ、それでロキソニンを飲んだ。
ごめん、と言った母の表情が、観念本逸により、にょき、と生えてくる。しょうがねえじゃねえか、すべて、事故なのだから。
いっそのこと里月になりてえなあ、と思ったことは一億回、ある。パニックは苦しそうだし意思疎通に困難があるのも大変だろうが、基本、日がな好きに動いているし、「がんばり」のハードル低めで注意はされようとも叱られはせず、褒めて伸ばされているし。俺なんか脳が竜巻、仕事はミスだらけで支店長に嫌われ、大学の単位は落とすし字は汚いし部屋も片付けられない。失言が多すぎて友達がいないし、だらしないのに完璧主義で、結局何も出来ない。マッチングアプリで出会った彼女とのデートに遅刻しすぎて脈ナシと勘違いされラインをブロックされてしまった。精神は躁と鬱の二択で眠りから覚める度ルーレット。四週間に一回の精神科受診にて「一生付き合う病です」と半年以上前に宣告済み。ショックで何故かブリーチを買った。今は、薬が増えたり減ったり変わったりして、小さい波こそあれど概ね「ちょい躁」くらいを運良くキープ出来ている。しかしいつ崩れるか分からない。重い。
GUでトランクスと肌着、大きな紙袋を買って学校用品をひとまとめにしトランクに積んだ。
帰路にあるガストで唐揚げ弁当を三つ手に入れ、家で食べる。頭が、まだ痛い。明日は爆弾低気圧、らしい。適当につけたテレビが言った。カラの弁当箱を水洗いし、区役所で受け取ったヘルプマークを母に渡して、四畳半。上着を着たまま万年床に横たわる。ロキソニンの薬袋を引き寄せ、一錠口に放り込んで、水。
何かを考えていた。
けど、思い出せない。
人の声で目が覚めた。
里月の顔が、視界のめいっぱいを埋める。
何か言っている。聞き取れない。
というか、入らないで、と言ったのに。忘れたか。少し腹が立つ。軽く脇腹を叩く。入るなって言ったじゃん。
入るなって言ったじゃん。
はいるなっていったじゃん。
音は喉から出る。しかし、日本語にならない。
里月が大袈裟に痛そうな顔をする。
そして、居間に何か叫ぶ。
言語だ。意味を持っている。しかし、テープの逆再生と同じように、聞き取れない。意味が掴めない。目の前に里月がいる。里月の顔をした男がいる。
あれ、里月、って、どんな顔だったっけ。
目の前に目、鼻、口がある。だが、しっくりこない。里月だ、というひらめきがない、というべきか。
なんだ、この夢、早く覚めろ。
俺は両手で自分の頬を挟むように、ぱんぱんぱん、と叩いた。「里月」が手首を掴み、よくわからない「言語」で、何か説いて来る。
気持ち、悪!
早く覚めろ早く覚めろ、早く、覚めろ!
布団に激しく頭を打ち付けた。柔らかくて、自分の匂いがする。「里月」が慌てた様子で部屋を出る。焦った母を伴って戻ってくる。母も、「母」だ!というひらめきに欠ける、無数の砂利の粒のような目鼻が、正しい数、目鼻らしい位置についている。
「里月」が俺の後ろに回り、羽交い締めにする。離せ。上半身を激しく振って、叫び、「里月」の胸に後頭部を打ちつける。口に何か差し込まれる。苦い。でも甘ったるい。泥水の砂糖煮、という感じの味がする。自分でも何を思ったか、飲んだ。
あー。あ、わかった。ここ、こういうところなのね。なんか、わかった。うん。
実際は何もわかっていないのだが、「納得感」だけはあった。「里月」離してくれ。振り返ると、腕が緩んだ。
二人が見守る中、四畳半を探索する。布団、学習机、オープンクロゼット。部屋を出る。喉が渇いた。居間。変わらぬ居間。俺のGREGORYが、椅子に座っている。カーテンが少し開いている。
真珠が降り、地面に落ちて、形をなくし、それを繰り返している。見つめる。綺麗。不変だ。このおかしすぎる世界で、変わらない、そして害のない、しかも綺麗なもの。見とれる。首に布を巻かれた。後ろを太いマジックテープで留められる。
紫の、よだれかけ。でも、あ、真珠、綺麗。
後ろで二人が何か話している。たぶん、俺の機嫌がどうとか、夕飯がどうとか。でも、どうでもいいくらい、真珠が綺麗だ。勝手に声が出る。高い叫び。
真珠を見ながら夕飯を食う。わかったことがあった。口が上手く閉じられない。だから、よだれが勝手にだらだら出る。あと、平仮名と片仮名と数字ならわかる。用事は書いてもらえたらありがたい。あと、行動が早すぎる。身体が勝手に動くのだ。
本来なら、真珠が綺麗だな→立つ→カーテンを開けて鑑賞、となるところが、
あっ、しん、ガラスに頭から激突、くらい、違う。飯を食いながら何回も頭をぶつける羽目になった。疲れる。母が俺を回収し、座らせ、片腕をつかむのだが、こちらがうむッと気合いを入れて集中していないと、腕が観念本逸の脳のように勝手に動いて振り払い、やはりガラスに激突してしまう。夕飯は鉄火丼で、俺だけスプーンを使って、あとの二人は箸で食っていたのだが、自分の衝動がいよいよ嫌になって、スプーンを投げ、部屋で自分の頭を殴って、おいおい泣いた。泣き疲れて、気を失うように眠った。
頭痛で起きた。夜中だった。廊下の明かりをつけて居間に行く。食べかけの鉄火丼にラップがしてあった。
この夢、いつ、どうしたら覚める?
俺はまた、泣き叫んだ。拳が勝手に頭を殴る。
パジャマ姿の「里月」が飛んできて、泥の砂糖煮と何やら錠剤を飲み込ませ、部屋に引きずり込み、布団をかけてくれた。全身が脱力する。朦朧とする。
白黒の映像を見た。ディズニーの「蒸気船ウィリー」みたいな、ワクワクするコメディタッチの、しかしストーリーのない、アニメーションだった。音声もまた、なかった。
頭痛で起きた。枕元にCASIOの電波時計、デジタル、八時二十分。
やばい、バイトに遅れる。
というか、この状態ではバイトに行ってもしょうがない。とりあえず居間に出て、スマホを探しにGREGORYを探る。ヘルプマークが下がっていた。
スマホ、ない!代わりに、緑ではなく紫のネックストラップがついた絵カードの束と、おしりふきと、クラシックミッキーの柄のウォッシュタオルと、療育手帳がある。
それを、恐る恐る開く。等級欄に、A2(=重度)。虚ろな俺の顔写真。
見たくないものを目にしてしまった。ヘルプマークもそうだが。
母がホワイトボードに書く。
「おはよう、1ばん、8じ30ぷん はみがき(りつきがてつだう ありがとうする)、あさごはん トースト、こうちゃ 2ばん、うがい、3ばん、シャワーあびる、4ばん、きがえ(りつきがてつだう ありがとうする)、5ばん、ミスターマックスいく、ゆうりのリュックゆうりがもつ、ワゴンあーるのります」にちようび、と赤字で書かれたマグネットを貼る。
俺は母の手から水性ペンを取り、トイレに行きたい、と書こうとした。こちらの世界にもトイレらしき部屋は、元の世界と同じ位置に存在していたが、過去の俺が詰まらせでもしたのか、ダイヤルキーとバツ印で封印されていた。
「トイレ」とペンで書いた。しかし、ペンを持った途端に脳内で字が溶けて、象形文字まがいの落書きにしかならなかった。
「排泄」関連の絵カードを探した。
黄色い雫が男性器から出ている絵があった。多分これだ。
母に見せ、股間を押さえ、言葉のつもりで唸ってみる。
母が洗面所に行く。後を追いかける。洗面台の前に介護用の背もたれ付き椅子がある。その分、狭い。ふと、鏡に映る自分が変わっていることに気づいた。舌が出しっぱなしだ。唇にぬらっと乗っている。
そのまま伸ばしてみる。長い。顎下五センチはある。
あと、髪型。濃い金のマッシュショートになっていた。撫でてみる。サラサラで細くて寝癖がない。直毛だ。
母がそんな俺を見て何か言う。文字化けみたいな文章の中に、「りつき」という単語が入っている。あ、一個だけリスニングできるようになったな。やった。りつき、がやったのか。これ。母は介護用の持ち手付きのデカい尿瓶(しびん)と、やはり介護用の、寝たきりの人が布団の上でやるようなゴム便器を洗面台の下から出した。マジ?
俺は恐る恐る尿瓶を指す。固まったようにうまく人差し指が出ず、拳で指す。自室に促される。マジか、マジかー!
カーペットの上に寝かされ、パジャマのズボンとトランクスを剥ぎ取られ、足を床につけたM字開脚。あてがわれる。母が俺の手を取り、性器の根元を持たせる。
「オシッコして」
怖々従う。思いのほか、勢いよく出る。熱い。ジョオオオオオオオオ、じゃねぇって。
ていうか、俺のリスニング、「りつき」と「オシッコして」の二つか、今。口の中で「りつき」と呟いてみる。音はやはり、形にならなかった。排泄が終わると母が赤ちゃん用のおしり拭きで性器の先を拭ってくれる。あ、待って、裏筋、触んないでッ、……熱っ。モノが心臓になったようにドクドクする。触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい触りたい……触って、気持ちよくしたい。気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい気持ちよくしたい、……気がおかしくなりそうだ。
母は、四分の三ほど黄色く濁った液が入った尿瓶を持って、そっと部屋を出た。
静かな部屋で、M字開脚のまま、ティッシュを引き寄せ、モノを包む。擦る。何も浮かばない。感覚だけでいく。すっげぇ、いい。いい。気が狂う。何これ、一か月ぶりとか?
どろり。
ああ、と声を漏らしてしまった。
白痴になろうと、生命の源は、意識が飛びそうに鮮烈な、温かさをたたえている。
りつきが部屋に入ってきた。M字開脚でティッシュ片手にひっくり返っている俺を見て、何か文章を発する。「じょうず」が聞き取れた。衝撃で起き上がると、頭をぽんぽんと撫でられる。えー、十歳違うフルチンの兄に頭ぽんぽん、ああ、そういう世界なのだった、ここは。悲しいかな、改めて認識せざるを得ない。りつきは片手に紫色のプラスチックタンブラーと歯ブラシと、ぶどう味の子供用クリアクリーンを持っていた。
大の字、手を太ももと床の間に固定され、頭を奴の股間に押しつけるような格好で、モノ丸出しのまま歯を磨かれる。
ホワイトボードの通りか。そんなに順番にこだわりないんだけどな。
すると次は、この格好で朝飯。居間で漢方薬を溶かしたぬるま湯を二杯飲まされる。適温に冷ました紅茶がタンブラーに入って出てくる、バターの塗られた四枚切りの食パンを置かれる。「いただきます」と試しに言ってみたが、力の抜けた奇声になって空間に溶けた。力の加減が出来ず、手が勝手にパンを握りつぶし、バターまみれになる。真珠こと雪は止んでいたが、まだ頭は痛かった。ロキソニンがほしい。手を洗いに席を立つと、母に袖を掴んで阻止される。昨日みたいな衝動ではないのに、しゃべれない(通じない)から説明ができない。段々イライラしてきた。タンブラーを開け、バターだらけの手を突っ込んで油を落とし、一気に飲む。母がパチン、と俺の頭をはたく。
いや、しょうがないんだって、叩かなくてもいいじゃん、しょうがないんだってば。急激に、半身引き裂かれたように、また、人生や人格を全否定されたかのように悲しくなって、勢いよく涙がでた。
しばし涕泣する。イライラも混じってそっくり返り、自分の頭を手のひらの硬いところでばんばん叩く。怒りの我慢が、その概念がなくなったみたいに、できない。壊れたい!ああ、腹立つ。全部嫌だ!
キーッ、と悲鳴を上げる。椅子ごと後ろにコケた。床に後頭部を打ち付ける。繰り返し、繰り返し。
慌てたりつきに泥の砂糖煮の細長い入れ物を咥えさせられる。
飲み込むと、あっという間に、頭が真っ白になる。力が抜ける。ぽかん、と口が開いて、閉じられない。一包化の薬と、吸い飲みの水が入ってくる。口を開けたまま喉を動かして飲む。あああああ、なんか、全部どうでもいい。りつきに手を引っ張られて立ち、よだれかけ、びしょびしょの手、フルチンの三点セットで浴室に連れられる。うがい三回。マジックテープ留めのよだれかけをベリベリ剥がされ、上を脱がされて、二人でタイルに踏み込む。りつきが、自分のジーンズの裾を膝まで、トレーナーの袖を肘までまくり、俺を洗う。シャワー、熱っ。頭から無遠慮に湯をザブザブかけられて、シャンプー。六プッシュくらいやる。マー&ミーラッテのリンスインシャンプーではない、白と赤のボトル。読めない。
りつき、シャンプー上手い。美容師のようだ。続いてトリートメント。地肌を避けて塗って、五分置く。どこで覚えた。俺に銀色のトリートメントキャップを被せ、ナイロンタオルで全身、洗ってくれる。一本真っ直ぐの剃刀を取って、口に当てて動かす動作をする。ヒゲ剃りか。静かにして動かなければいいんだな。泡で出るメンズビオレを口の周りに塗られる。
動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない、……念じていないと、勝手に身体が動く。
最後にトリートメントを流し、シャワー完了。出ると洗濯機の蓋の上、母が洗濯済みのトランクスと下着を置いてくれていた。りつきが薄紫のバスタオルで全身を拭いてくれる。ちょっと乱暴だが、隅々までやってくれる。珪藻土バスマットに俺のよだれが落ちる。舌が長くて厚くて、口がやっぱり閉じにくい。パンツを履かされ、シャツを着せられ、洗面台の前の介護椅子に導かれる。座る。動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない動かない……。目を固くつぶっていた。
念じている間に、ヘアオイル、温風、冷風、ブラッシング、が終了。
前の世界ではパサパサのギシギシだった俺の髪に、キューティクル、なるものができている。美術部の一年生が鉛筆で塗った黒髪に消しゴムをかけて表現するやつだ。俺、高校のとき、蛭子タッチながら美術部にいたからわかる。
誘導されて、次は部屋で着替え。オープンクロゼットの中は、前の世界と全然違う。八割、紫。俺はぺこぱか。ロンリネス。探して、探して、紺のケーブル編みセーターと、ベージュのチノパンツを身につけ、藻みたいな黒緑のフリースを羽織って、黒いアーガイルの靴下を履く。パチパチパチ、と、後ろからりつきの拍手。何で?ひとりで選んで着替えたのが、そんなにあれだった?ハイタッチを求められる。玄関チャイムみたいに人差し指で手のひらを押して、次。そうか、A2(=重度)の判定が療育手帳に出ているこの世界の俺は、元いた世界の、あの里月くらいの感じなんだよな、多分。今意識が乗っている「俺」が登場する前、この世界の「菅谷悠里」はあっちの「菅谷里月」なんだよな、急にテキパキ着替えだしたら唖然とするわ、そりゃそうだ。しかもあのものすごい「緑」くらいのこだわりの「紫」抜きのコーディネート。居間の床に座ってホワイトボードを見る。りつきが興奮気味に、母にさっきのことを報告している、っぽい風景が見えた。そして、後ろから紫のよだれかけを巻かれる。次、出かけるのか。ミスターマックス。ヘルプマーク付きGREGORYの中を確かめる。A2の療育手帳、障害者等受給者証、マイナンバーカードは小さいジップロックにまとまっている。クラシックミッキーのウォッシュタオル、おしり拭き、水に流せるポケットティッシュ五個。多くね?四畳半にも、すぐ手が届く所にティッシュがあった。「菅谷悠里」、「来ちゃった」ら、ティッシュに出すタイプ?いや、「俺」はそうだけど。 あと、とんぷく薬。多分泥の砂糖煮、が、五包。やはり小さなジップロックに入っている。
玄関で靴を履く。途中の、りつきの部屋を覗こうと思ったが、ダイヤルロックがついていてダメだった。真っ茶色スプラトゥーンの学校に里月を迎えに行った時に履いていたショートゴムブーツ。ソールに「みぎあし」「ひだりあし」と書いてある。「悠里」はA2の知的障害者だ。親切でありがたい。そうか、外は雪が残る。「走るな」と念じ続けていないと、全力ダッシュしてしまう。気をつけよう。俺は鈍足であるが、そういう問題ではない。
うちの車はワゴンRスティングレーで、白だった。母は高速道路を克服したのだろうか。否、そもそも乗らないのか。右側の後部座席をりつきが開けて、俺を押し込む。左のスライドドアにはチャイルドロックがかかっている。ガチャガチャやると、りつきに指でバツ印を示された。あ、すみません、ただの確認です。俺は運転席の後ろが定位置らしく、前に小物をしまうポケットがあって、電子メモパッドとか、携帯トイレとかが入っていた。クラシックミッキーの平べったい座布団が敷いてあって、その下に紙の吸水シートがよれている。ははん、たまに漏らす、と見た。
何、これ?俺、昨日まで「きょうだい児」というか、健常側だったのに。今や、こっちの悠里。
ツボに入った。抜けない。母が車を操作しながら、不審な顔をする。りつきも、怪訝そうに見る。
やめろ、余計おかしい。腹が痛い、息が出来ない。スルーしてくれ、頼む。りつきの手をぎゅっと握った。
首から下げた絵カードの束が揺れる!何だ、これ!おかしい、おかしい、こんなもんで意思を汲んでないで、郷に入れば郷に従え、音声でしゃべらせろ!あはは、あはは、お膳立て、あはは、何の生産性もない奴らに、手間かけて、あはは、あはは、生きさせて!あはは、あははははははははははは。殺せ!
俺の、優生思想の馬鹿笑いは、ミスターマックスの駐車場に入るまで続いて、急に、ふっ、と冷めた。全身の産毛が逆立った。「あっちの里月」、「こっちの悠里」に対する存在否定!
店内は混んでいて、放送の音が大きい。これはりつきの手を離したら即、迷子になる。母がりつきに、そういったようなことを、言いつけている。何かに気を取られ手をふりき、っ、て、は、だ、め、……伊丹!伊丹がいる!俺の鈍足は百メートルくらい先の彼女に向かってロケットスタートを切っていた。……何でこんなにスピードが出るんだ?りつき、助けて、後ろから羽交い締めにして!俺は、彼女に追いついてどうする気だ?肩をたたいて「よお」とか言える口じゃないだろ、抱きつく?舐める?それとも、もっと違うこと?朝抜いたじゃん、今、それで若干眠いじゃん、でも、何か、伊丹の身体を押し倒して、フレアスカートをめくって、と、そんな画が浮かぶ。やめろ、止まれ、足!人や棚にぶつかろうが、一直線に伊丹を目指す、足!
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁ。
伊丹、
ではなかった。
俺。
声帯ナイスプレイ。
あと残り半歩のところで大声を発し、わけもわからず慌てた伊丹を遠ざけて、そのまま寝具コーナー、ベッドの展示スペースにダイブしたのだった。よし、多分、伊丹も俺も無傷。上から、追いかけてきたりつきが、覆いかぶさり、羽交い締めにして床に下ろしてくれた。
フルで勃起していた。走って、よく痛まなかったな。ズボンをずり下げて品物のベッドに上り、パンツ越しに擦り付ける。
「一か月ぶり」の快楽が来て、咆哮。よだれが口外に、じゅわあ、溢れる。
ああ、疲れた。俺は大の字になる。ほうぼうに謝る、母の声がする。眠い。頭痛がする。ガラスの入ったような脳が脈を打つ。
あー。こっちのくらし、結局、重い。