第24回 宮沢賢治と陸羽132号 ②
[あすこの田はねえ]から分かること
この詩には、作成された日付がついている。昭和ニ年七月。まだ、羅須地人協会で活動していた時期である。引用中にはないが、教え子と想定される単語が入っているので、話の相手は教え子で間違いないだろう。
⇒出典元 江刺金札米シンポジウム 2021 岩手県より
現在全集にも、実際書き記した肥料設計表が掲載されている。この湯本村の肥料設計表から推測できることは、宮沢賢治が、#陸羽132号 を推奨しはじめた時期が昭和三年頃と決して早くなかったことである。
胆江分場 高橋茂 による岩手普及
第23回で紹介した通り、大正十年岩手県農業試験場胆江分場に、陸羽132号を持ち帰った、#高橋茂 は早速、#陸羽132号 の普及に努める。昭和二年に胆江地区の陸羽132号の作付割合が三〇パーセントを超えていたのであった。(参考 「水沢市史 四」)。
農業挿話 と収穫収量
話は戻りますが、#反当二石五斗 は、400kg/10a になるとのこと。(参考資料:令和三年の平年収量は、大臣官房統計部生産流通消費統計課によれば、現在の岩手県540kg/10a) 今の74%相当に該当する。平年値としては当時の稗貫郡としては十分に思える。
比較的作品として近いとされるものに、『稲作挿話』 がある。聖燈創刊号 昭和三年三月発表ですが、以下に内容が変わりました。
収量が増加しています。[あすこの田はねえ]の昭和二年に対して、実際教え子たちからの、#陸羽132号の収穫に関する情報を得て自信のある数字に切り替えたのではというのではないかと考えられます。
#反当三石ニ斗 ならば、490kg/10a になり、二割近い増収になる訳ですから相当自信を持って推敲したと考えるのが自然と言えます。ここでは昭和三年頃、当時羅須地人協会での教え子たちへ稗貫地方で、#亀の尾 、#愛国から、#陸羽132号 への切り替えを推奨していた #宮沢賢治 の姿が垣間見えます。
おわりに
以上の点からも、#宮沢賢治 の #陸羽132号 の推奨は大正十年の #陸羽132号 育成、大正十三年の岩手県奨励品種に選ばれていることも併せて考えれば、決して #宮沢賢治 の昭和三年頃の陸羽132号の推奨が早い訳ではなく当時の稗貫地方の流布スピードに沿ったものだったのだと考えます。宮沢賢治が、#陸羽132号 を推奨したのは間違いないのだが、岩手県をリードして普及活動をしたという訳ではない。積極的に関与したのは、岩手県農業試験場胆江分場 高橋茂です。陸羽132号の普及に関する話は後年、作られた伝説に近いものになりつつあるかもしれません。ネットでは、宮沢賢治が開発した陸羽132号というものも見かけました。宮沢賢治の陸羽132号の普及活動については慎重になるべきだと思った次第です。
参考資料
Youtube 江刺金札米シンポジウム 2021
第2部 1世紀前の稲作の技術革新に迫る/宮澤賢治 と「陸羽132号」/岩手大学 農学部長 伊藤菊一