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第37回 没後80周年 松田甚次郎 展をみて②


はじめに

これは、10/23迄、新庄市
#新庄ふるさと歴史センター で開催された、#松田甚次郎展 のメモ第二弾となります。

8/2企画展開始後、空調設備の改修の為、暫く休館。その間に、市民劇 #土に叫ぶ人 が開催されるなど、没後80周年にふさわしい年になったと言いたいところですが、没後90周年の宮沢賢治熱とは少し違い、静けさを感じさせるものとなっているように思います。(まだ今年度終わってはいませんが、特段刊行物が出るようには見えません。)
再訪した9/24訪問時、新庄市立図書館では、#松田甚次郎 コーナーが出来ていて、#宮沢賢治 を含めて松田甚次郎を知ることが出来るように工夫されていました。

新庄市立図書館 松田甚次郎 コーナー 9/24時点

自分は宮沢賢治の交友関係の中に、今の宮沢賢治像の萌芽があると思います。その中でも爆発的に宮沢賢治が人気を得るきっかけになったのは、やはり松田甚次郎編著の、『宮沢賢治名作選』であったと自分は考えています。そこには、賢治精神の実践を記した、#土に叫ぶ が大きな影響を与えており、その知名度で、#宮沢賢治 の名が普及したと考えます。

#土に叫ぶ の賞状
展示にあった机。机上には、#宮沢賢治 の写真と著書

『鳥越倶楽部』の発足

前回①の話から遡って、#松田甚次郎 が盛岡高等農林から鳥越に帰ってからの取り組みの始まりから話を進めたいと思います。宮澤賢治に誓った 「農民劇をやる」の実現には、まず仲間づくりが必要でした。 甚次郎は、進学後から卒業まで6年間の間お互い遠慮がちになっていた同級生や下級生に対し、「休日に色々と話し合ったり、そこいらを見物したりする楽しい会をつくろう」と呼びかけ、幸い賛同を得ることができたのです。 これにより、1927(昭和2)年4月、会費も会則もない『鳥越倶楽部』 という会が誕生した。

一. 天皇陛下の弥栄を寿ぎ、鳥越部落弥栄に全力を尽さん

一.我等は郷土文化の確立、農村芸術の振興に努めん

一.我等は農民精神を鍛錬し、以って農民の本領を果さん

そして、「誠心誠意唯実践」で行こうと、八幡神社社頭でその誓いを行ったそうです。会員となった青年たちと休日を利用して寺の本堂を借りて読書会を行ったり、晴天の日は、山を、谷を、近隣の部落をと歩き回ったりしているうちにしだいに団結も強くなり、目標もはっきりしていきました。甚次郎はまず仲間をつくり、賢治の教えを守り実践するために部落での足場を得ることができたのです。郷土文化の確立、農民精神の鍛錬といった抽象的な事柄は、掛け声だけで遂行できるものではなく、同時に暮らしに直結する事を実行してゆく中で、皆のものになっていきます。この鳥倶楽部の存在は、甚次郎の生涯において、その業績・軌跡の全てにわたり、足場・ 背景をなすものでありました。

農村劇 『水涸れ』 の初公演

お盆かお祭りの時、芝居をやってみないかとの甚次郎の提案は受け入れられたものの、何を題材に、どのような芝居をすれば良いのか、この段階では甚次郎にも思いつくものはありませんでした。 しかし考えてみると、甚次郎が小作人となり、 最初に突き当たった苦労は田の水不足でした。
当時も田の水は新田川の水に頼っており、 その水量をめぐり水争いが絶えず、毎晩露の下りた芝生や川原の石ころの上にミノを敷いて寝ることが関の山でした。 この苦労こそ芝居の題材として取り上げなければならないとし、 早速余暇を見つけてはその脚本づくりに励みます。
しかし、出来上がった脚本の物足りなさを感じた甚次郎は、「農民劇をやれ」と勧めた宮澤賢治を訪ねるため、 1927 (昭和2) 年8月、 花巻に走ることになります。 賢治は喜んで甚次郎を迎え、 野外演劇のノウハウを指導しました。
当初の劇の題名は「水掛と村の夜」 であったが、 賢治は「水涸れ」 と命名した方が良いとし、 クライマックスの場面では、 篝火を焚くよう加筆 もしてくれ、これにより師弟合作の農民劇 『水涸れ』 の脚本が出来上がったのでした。第1回の記念すべき農村劇は、同年9月10日 八幡神社の境内につくられた 『土舞台』で演じられ、観客は600人を超し、 甚次郎を中心に倶楽部員の熱演は大変な好評を博しました。
この劇がきっかけとなり、貯水池築造の計画がまとまり、 10 年後の 1938(昭和13)年に「うど坂堤」 が完成します。 以後、 村からは水掛けによる喧嘩は姿を消すことになりました。

#最上共働村塾   の設立

甚次郎は宮澤賢治と出会い、「小作人たれ」と言われ、それを実行して小作人となります。 1927(昭和2)年の春、 一人で小作田を耕していたとき、 ふと思うことがありました。 それは毎晩純真な青少年と寝食労働を共にして修行したい。そんな思いを抱きはじめた日々から5年が流れていました。甚次郎は1928(昭和3)年4月に、 山形県自治講習所 (1915(大正4) 年、山形県に開設され、デンマーク国民学校の精神並びに校長の人格を中心に運営された)の初代校長 #加藤完治 が校長を努める茨城県の日本国民高等学校に入学すます。 加藤が創設した日本国民高等学校は、デンマ ーク国民高等学校の理念を追求するものでしたが、 教育方法はデンマ ークのそれと全く違っていました。 1年間をここで過ごした甚次郎の生活様式は正に加藤完治流そのものであり、 早朝未明に起きての禊から、 寒中 の裸参り、悩み事や迷うことに遭遇すれば断食も行いました。1932(昭和7)年8月14日、 「誰が先生で、 誰が生徒ということもなし に自治共働でやるのだ」 との理念のもと、 2週間の日程で第1回目の村塾 が始められました。日課は、四時に起床し、掃除を終え、 朝草を刈った後は 駈け足・体操・唱歌。 東天に向かって礼拝し、 当番が用意した野料理で 食事をとりました。午前中は主に学科とし、 農村問題はもちろん、 社会政治問題 青年教育問題等と幅広く、午後は、畑の除草や明年度からの塾の ために堆肥製造などに汗を流しました。
この第1回の短期塾は塾の創立委員会のような役割を果たす結果となりました。塾の名称も「地名の最上にちなみ、かつ世にも最上なる村塾としよう。そして我等の共に働くことから出来たのだから」というから、 #最上共働村塾 と命名されました。

 #松田甚次郎 という存在

松田甚次郎は、あらゆる田に合うように形を変え、大きな粘りと凝固力を持つ泥のような存在でした。

宮澤賢治の影響を受け、農村改革を目指しますが、 満州開拓の加藤寛治の説く農民教育、筧克彦の産志神(うぶすながみ)信仰、 岡本利吉の理想農村社会の建設、 『最上協働村塾」の開設には、 農政の権威者小野武夫などの考えを取り入れました。

宗教も賢治は日蓮宗であったのに対し、 甚次郎は神道を信仰、 地主の小作地を買い上げ、 神社の社有田にして氏子の小作農民に貸す共同土地管理を唱えたりしています。

生家は曹洞宗ですが、 キリスト教会にも出入りし、聖書を学ぶなど、何もかも柔軟に吸収しました。

一つのことに拘らず、良いと思えるものは何でも取り入れる甚次郎は、 理論より実践を重んじ、 走りながら考えるという主義でした。

昭和初期の農業恐慌にあえぐ農民の生活に直面した甚次郎は、賢治の訓えを受け、 自給自足の小作農民の生活と農村劇を実践し、 村の立て直しに邁進します。 その甚次郎の活動は、ちょうど日本が戦争の渦に巻き込まれていったのと同時期であり、賢治は1933(昭和8)年、 37歳で亡くなります。師を失った甚次郎は、 相前後して国の政策にのまれるようにして傾斜していきます。

農は皇国の大本であり、農民も働くことで国土も守り、 国本を固くすべきという信念を持った甚次郎は、 1937(昭和12)年、 日中戦争が勃発し た後、当時のドイツにて、労働によるナチスの世界観を持って民族意識を高揚し、祖国愛を涵養しようとする 『労働奉仕』 の考えに共感し、 『日本共同奉仕団」を一時的に結成。 1938(昭和13)年に発刊した自身の実践記録 「 #土に叫ぶ 」 がベストセラーとなり時代の寵児となった甚次郎は、 当時、 土地の集約に伴う農村人口の過剰問題や不公正な小作料による土地問題の解決するため、満州移民政策に協力、 大政翼賛会山形県最上郡 支部理事に委嘱されるなど、 戦時下における食料増産運動などの国策に積極的な協力を果たすこととなります。

終わりに~松田甚次郎の魅力

松田甚次郎という人物を当時の歴史の流れに沿って掘り下げていく際、 上記にある言わば“負の部分” についてもしっかりと受け止めていく必要があると思います。 それを踏まえてこそ、甚次郎が成し遂げようとしていた真実が見えてきます。

甚次郎は決して戦争を推進する国の旗振り役を買って出たわけではありません。 あくまで純粋に農に向き合い、 村を耕し続けた真の農村改善運動が紛れもなくそこにありました。 もちろん、 そのエネルギーが大きなうねりを持って当時の農本主義思想に同化せざるを得ない状況もそこにあったのも事実です。 ただし、 それをもって、 甚次郎を国策におもねた戦意高揚の協力者といったレッテルを貼るのはあまりに性急だと思います。

甚次郎は、 自分の遺骨が生涯師と仰いだ #宮沢賢治 のそばに埋葬されることを望み、 当時、 交流のあった 『花巻賢治の会』 では、 甚次郎の死後、賢治の生家とも相談のうえ、甚次郎の分骨を賢治詩碑の横に埋めました。 #松田甚次郎 の魂は今も永遠に師と共にあるのです。

最後に、#宮沢清六 の、#松田甚次郎 への最後の手紙を抜粋し掲載します。戦争中の時代の空気、また宮沢家と #松田甚次郎 の関係を今一度見直しては如何でしょうか。

(前略)今夜の下界は一面の白金で覆はれ、日本はいま「敵国降伏」といふこと、「亜細亜は一つ」といふことで一杯です。そして私は、日本の将校であって、賢治の弟子であり、沙門喬答摩の弟子であって沙門日蓮の弟子であり、しかも昔からの因果の法則に外れない。これら全部の條件を満足させるための問題を解き、その難解で単純なたった一本の軌跡を絶対に間違はないやうに歩むために努力してゐます。そのために私は苦しみ、時々考へが変り頭が痛くせつなくなったのでした。
けれどもその道はやはり単純であって明瞭であり、あなたが立派に身を以て私共にお示しになられましたやうに私は決して今後も見失はないでせう。
思へばあなたと私は、前生からのどんなに深い縁でむすばれていたことでしょう。今生でもいろいろお世話になり沢山のお教へをいた だきました。
・・・・げにもまことのみちはかがやきはげしくして行きがたきかな。 行きがたきゆゑにわれとどまるにはあらず。
おゝつめたくして呼吸もかたく、かがやける青びかりの天よ。 かなしみに身はちぎれ、 なやみにこころくだけつゝなほわれ天を恋したへり。・・・・
こんどの六巻にある詩でお目にかけないでしまったのが実に残念です。別巻はおかげで印刷中の由です。
あなたと御約束した満州行きも、印度の農業も今生では出来なくなりました。どうか今後も私どもを正しく導びきいろいろ御手伝いを御願ひ申し上げます。
   昭和十八年十二月四日
                                 宮澤清六
松田甚次郎様

松田甚次郎三十七回忌追悼集より
土舞台模型
雨にモマケズ詩碑 拓本 掛軸




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