見出し画像

第28回 宮沢賢治と陸羽132号 岩手編(修正版)

江刺市史より

今回、岩手県立図書館リファレンス活用して、国立農事試験場陸羽支場から岩手県立農事試験場に移動した、#高橋茂 が岩手での #陸羽132号 普及の中心と思ったので図書館の方々に探していただく。が、既に当たりをつけていた、#水沢市史 四 の他は、#江刺市史 三 しか無かった。

江刺市史からかいつまんで説明していこう。

・亀の尾

岩手県には、大正二年(一九一三)に三千六〇〇ヘクタール栽培されていた。この分離の中から、 奨励品種となった亀ノ尾一号を始め、同三号・同五号・同十号・岩手亀ノ尾一号がある。

・愛国

一口にいって稈が強く、病害抵抗性があり、密粒、多収で品質は不良であるが極めて広い地域に適応性のある素晴らしい特性をもっていることが注目される。
この品種は一旦冷害などにあえば主幹葉数を減らし、出穂登熟を全うするなど他品種にはみられない特性をもっている点、交配親として最適であったと思われる。

・陸羽132号の誕生

育成関係者は
交配・F1(大正三~四) #寺尾博・ #仁部富之助
F2 ~F4(大正五~七) #仁部富之助
F5(大正八)#岩渕直治
F6~F7 (大正九~十) #稲塚権次郎
 F7時代 #陸羽百三十二号 の系統名がつけられた。


・陸羽132号の栽培拡大

百三十二号は、陸羽支場から大正十年に配布を受け、胆江分場で品種比較試験が開始された。これには陸羽支場から胆江分場に着任(大正九年五月)した #高橋茂 氏の労によるところが大きいとされている。

同氏は胆江分場で品種比較試験を担当し、冷害やいもち病につよく良質安定多収性を確認し、数多い系統のなかからスピード出世で大正十三年(一九二四)に奨励品種に採用された。

石鳥谷塚の根肥料相談所、
そして陸羽132号の推奨

問題は、いつ宮沢賢治が陸羽132号の普及に努めたかどうかだ。
心象スケッチ [あすこの田はねえ]が正しいとすれば、昭和二年。しかし心象スケッチだけでは記録とはいえまい。
結局、昭和三年以前に、#宮沢賢治 が #陸羽132号 推奨した記録は公式には見えてこない。新校本宮沢賢治全集年譜では、昭和三年三月十五日、石鳥谷塚の根肥料相談所で肥料設計したとある。そこで、宮沢賢治の教え子が、#陸羽132号 を推奨したことに出会ったという記事に当たった。新校本宮沢賢治全集年譜では地元紙本で信憑性から目に止まらなかったかもしれない。もっとも、『石鳥谷肥料設計所の思い出』でも、昭和三年 陸羽132号種を極力奨められた、と教え子 菊池信一が述べてはいた。下記の引用が筆者が見た、陸羽132号推奨の日付けとなった。

そこで昭和三年三月十五日、その肥料相談所では、まず第一に陸羽一三二号を作付けすることを受講者たちに説得した。

#続・賢治先生と石鳥谷の人々

#板垣寛 杜陵高速印刷 H30年

あすこの田はねえの、ニ石五斗の妥当性

また、タイトルどおりの疑問にもぶつかることになる。昭和二年、岩手稗貫郡、花巻周辺で収穫量が、10a当たり二石五斗もあったのかという疑問である。下記の図は、岩手県江刺金札米シンポジウムであるが、この大正14-昭和2年3か年平均は約400kg(ニ石五斗)辺りがやっとであったかと思われる。ただし、『稲作挿話』の三石ニ斗(約490kg) に至っては比較は難しい。試験場の収穫データでは出ている収量なので施肥次第では十分可能でもあったと考えている。賢治の水稲収量については豊作の祈りを込めて描かれていると考えるべきだと思う。

↑江刺金札米シンポジウム 2021 より(岩手県)

品種比較試験 1
品種比較試験2

終わりに

水沢市史 四に戻るが、#高橋茂 の尽力もあり、胆江地域での昭和二年の、#陸羽132号の普及率は30%を越していた。花巻市史、石鳥谷町史にはこの時期の農業に関する記述が全く
みえない。この事実を踏まえれば、宮沢賢治の努力は当時の花巻において一個人の努力の限界を示しており、農業において宮沢賢治を持ち上げるのはいささか過剰ではないだろうか、というのが筆者の意見である。それでも偉大な文学者として、農業にも従事し多くの農民の幸せを願ってやまず農民に寄り添った思いは決して我々は忘れることはないだろう。
今後も、陸羽132号と共に宮沢賢治が語られることを強く願うばかりです。

※水沢市史 四はより読み込む予定


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?