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自分の言葉に疲れたら「他人の靴」を履いてみる

noteが書けなくなった。

PCに向かっても、文章が出てこない。こんなことは初めてかもしれない。

毎朝のルーティンになっていた、起き抜けでラップトップに向かい文章を書くという習慣。ほぼ寝起き状態の頭でも、30分で1,000文字くらいは書けるようになっていた。

文字通り「朝飯前」で書いていたnoteが、最近は書くことができない。文章が出てこなくなった。

なぜだろう? 自分なりに最近の変化を分析してみる。

出た答えは、「環境の変化」と「疲労」。

移住して、環境の変化に適応することに精一杯だから(たぶんそうだと思う)自分の文章を書くことまで意識が届かないのかもしれない。

単に疲れているせいもある。寝起きの頭で思いつきを書き殴るだけでも、元気がなければ言葉すら浮かんでさえこないと思い知る。元気がすべてだ。文章は元気が9割。(睡眠も大事)

頭の中をからっぽにして、思いつきを一気に言語化するという作業は、自分で思っていたよりも精神力を要する書き方なのかもしれない。

意識が外側に向いてきた

もう一つ、意識を言語化する文章が出てこなくなった原因がある。

思考の方向性が、最近では自分に向かなくなってきた。

以前は意識の方向性が自分に向いていた。毎日同じことの繰り返しだったし、特に外部に意識を向ける機会は比較的少なかった。

意識が自分を向いているときには、内面を掘り下げるライティングのスタイルは適していると思う。散らかった思考をまとめる役割もある。

しかし、意識が外を向いてくると、そういう書き方が億劫になってくる。
適応するのに手一杯で、分析なんか「お呼びでなく」なってしまう。

思考を言語化して深めるのは楽しい作業でもある。少なくともぼくは、誰に強要されるでもなく毎日文章を書けていた。効能みたいなのも、それなりにあったと思う。

でも、そういう「自分の内面を言語化するフェーズ」は、やり切ったと感じる。いまのところは。

次は、別の方向に進んだほうがいい気がしている。内側から「外の世界」へ向かうべき段階。

他人のための文章を書く

でも、今まで「外の世界に向かうための文章」なんて書いたことがない。いったい何を書けばいいのか分からない。

もしくは何も書くべきではないのか。

でも文章を書くこと自体は好きなので、なにかしら書きたい気持ちはある。

外の世界に意識を向けて文章には、いくつか種類があると思った。

まずは風景をスケッチするように、見たもの・あったことを、見たままに書いていく手法。ノンフィクション的な文章を書くこと。

ほかにも「他人の文章を書く」という方法もある。
どちらかというと、ぼくは最近この文章の書き方が気になっている。

誰かが書いた(話した)ことを別の文章に変えていくこと。意味やニュアンスはそのままで、より読みやすく通じやすい日本語に作り変えていく作業。リライト。

他人の言葉を書き換えていくことは、ある意味「外側の世界を自分のものにしていく」作業でもある。

英語のことわざに「他人の靴に足を入れてみる」というのがある。他者の立場になって考えるという意味だ。

でも、ぼくがやりたいことは、少し違うかもしれない

言葉の技術者

「他人の文章を書く」ことでやりたいこと(なりたい状態)は、自分がただの「技術者」になること。言葉の技術者。

職人は仕事に感情を挟まない。効率と性能を最優先に考える。そこで自分の存在は「装置」みたいなものだ。ロボットと化すこととは違う。私情を挟まずに淡々と仕事をするだけだ。

たとえば家を作る大工職人。設計図は設計士が書く。職人がやるのは、書かれた設計図をもとに実際に家を作ること。手順を決め材料と道具を揃えたら、あとはひたすら作り続ける。

経験豊富な大工は、家の設計にも通じていると想像する。多くの家を自分の手で作ってきたことで、家の構造パターンを熟知している。大工が持っている知識は、設計士のそれとは種類が違うけど、実際に動いている人間にしかわからないこともあるはずだ。

ぼくが言葉でやりたいのは、そういうことなのかもしれない。

自前ではない文章をひたすら組み替える作業をすることで、文章の技術者になること。

「ことばの設計者」であることを離れて、一介の「技術者」として無心に言葉と向きあう。

それによって、文章の普遍的な成り立ちを知ること。

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