一筆書きの文章にすら「構造」を感じさせるには、マラソンの経験が必要
同じテーマでも書き手によって出来上がる文章が違う、という例を身をもって体験した話。
何日か前にnoteで「才能」について書いたのだけど、その2日後くらいに
偶然(だと思う)作家の篠原信さんがまったく同じテーマでnoteに書いておられた。
篠原さんは毎日膨大な量の文章をTwitterやnoteに投稿していて、しかも一つ一つの完成度が高くていつも驚嘆している(プロだから当たり前なのかもしれないけど)
篠原さんとぼくが書いた「才能について」の文章。
二つを読み比べてみると、出来上がりの差がよくわかる。同じテーマでもここまで違うか、というくらい。自虐を通り越して感心してしまう。平凡すぎる感想だけど、やはりプロは違う。
せっかく偶然が起きたのだから、なにかしら学びを得たいと思った。
ぼくと篠原さんが書いた文章は、どこがどう違うのか。
それを言語化して認識することで、自分の技術の向上に役立てることができるような気がした。
まず思ったのが「知識の量の違い」。
ぼくの文章が自分語りの比率が高めなのに対して、篠原さんは子供のことや教育のことにまで、様々な切り口で書いている。知識が多いと、書くときの切り口も増えるのだと知った。
構造化
Twitterで友人のタダノブさんが書いてくれた感想。
「構造化」というのがキーワードな気がしている。
簡単にいうと以下になる。
篠原さんの文章・・・構造がある
ぼくの文章・・・構造がない
タダノブさんが言ってくれているように、ぼくのnoteの書き方は「一発書き」要素が強い。(良い悪いではなく)
頭を空っぽにして挑んで、そのとき浮かんだものを言語化する。そのトレーニングのために発信しているようなところがある。文章の構造については考えていないのはある。狙ってやっていることもあるし、構成を組み立ててから書くのが苦手(できない)というのもある。
ぼくの文章が「短距離走」であるのに対して、篠原さんは「長距離走」的だ。
今あるものを出し切ってもうおしまい、というぼくのスタイル。それに対して篠原さんは「まだいくらでも書けるよ」という余裕が感じられる。
この差はなんなのか? と考えるとき、ぼくにはひとつ仮説がある。たぶん合っていると思う。
それは「長くて構造が作り込まれた文章を書いたことがある経験の差」だ。
つまり「本を書いたことがある/ない」の差だと思った。
篠原さんのnoteもほとんど毎日更新されている。(ときには1日に数投稿されていることも)だから、時間をかけて練り込まれた文章というわけでもない。かけている時間も自分と大差ないと思う。それでも結果物には歴然とさが生まれる。
その差が「本の出版経験」だと思う。
1冊の本を書くためにはすごい量のアウトプットが必要になると聞く。
構成だって考えに考えて作り込まれているはずだ。それをプロの編集者との共同作業で書き上げていくのだろう。
本の出版を経験すると、その後の文章のスタイルに影響があるのではないかと思った。
1度でもフルマラソンを走った経験があるランナーは、その後のジョギングでも走り方が変わる、みたいなことかもしれない。
自然と構成力が滲み出てくるような文章を書くためには、「フルマラソンの経験」が必要なのではないか。
文章のフルマラソン。つまりワンテーマで10万字単位のテキストを書き切ること。
それをやったら、自分の書く文章が変わりそうな気がする。