恐山で死について考えた
※ナンパ関係ないです
故人と会いたいとは思わない。
今まで人の死を納得して生きてきたからだろう。
イタコさんや死後の世界にもあまり興味が無い。
いわゆるスピリチュアルに対する関心がない、というか感性が鈍い。
だからこそ恐山に惹かれた。
きっと神聖な場所なんだろうな。
体験してみたいな。
訪れたら僕の中の何かが変わるのかな。
そんな気持ちで、なんとなく、観光に来た。
存在を知ったのは漫画キン肉マンⅡ世だったはず。
亡くなった子どもを想い親が石を積むシーンがあり、キン肉万太郎とアシュラマンがここで闘ったと記憶している。
あとはシャーマンキングの舞台でもあるらしい、ちゃんと読んだことないけど。
八戸から電車とバスを乗り継いで3時間。
初めて青森に訪れた時から常に恐山は旅先の候補地に入っていたが、所要時間の長さから度々断念して、ようやく訪れることができた。
その不便さが恐山の特別感を際立たせる。
地図で見てもRPGならば最強装備が眠ってそうな場所に位置している。
不思議なもので、バスを降りた瞬間にフワフワとした浮遊感があった。
海外や沖縄で飛行機を降りた時の異世界にきて空気が変わった感覚に似ているけども、少し違う。
怖くはない、むしろ穏やかな気持ち。
なんやろう、研ぎ澄まされた、神秘的という表現とも違う。
ずっとこの場に居れば、そのまま違う世界へと消えてしまいそうな気さえする。
この日の霧雨が一層その感覚を強くした。
総門から山門を抜けて地蔵尊で曲がると、グレーに岩場が広がり、思い描いていた恐山の風景に踏み入れる。
所々でお参りをされている方々がいらっしゃる。
僕みたいな観光客がその方々の空間に居ては失礼だと感じたので、その念を避けるように巡った。
撮影音ですら場違いだと感じたのでスマホのカメラも無音のアプリに切り替えた。
歩きながら死について考えていたら、最近伝えられた訃報の思い出した。
その故人のお話をさせていただく。
彼女は友人であり、仲間であり、同志でもあり、憧れでもある。
優しく、美しく、可愛く、眩しかった。
今年の春、彼女のご子息から訃報を伝えられた。
数年前から病で余命を宣告されていた事も教えてくれた。
生前はそれ隠して僕に接してくれたことになる。
全く気付かなかった。
本人のご希望で同志に訃報は伝えてないつもりだったが、特に親しかった僕にだけこっそりと告げてくれた。
僕は驚きで動揺して、もう逢えない悲しさで、涙が溢れた。
あかん、泣いたらあかん。
場違いやし、ご子息の方が辛いのに。
そう自分に言い聞かせたが抑えれなかった。
告げてくれた彼のその優しさ、彼女の遺した御心遣い、生前の優しさ、そして笑顔を思い出して、涙が止まらなかった。
彼女と電車でした会話を思い出した。
「息子も慕ってますので、色々教えてあげてくださいね」
「僕なんて悪い事しか教えれないですよ」
社交辞令のようなそんなやりとりも、今思えば遺言だったと判る。
尊敬する彼女のように、笑顔と優しさを絶やさず、周りを幸せにできる人に成りたい。
亡くなっても心の中で生きているだなんてありきたりな表現だけれども、言葉にせずとも遺してくれた彼女の志を、絶えることなく己に宿したい。
感傷的になり岩場を抜けた先に広がっていた宇曽利湖が、透明だった。
この湖と霧の先があの世だとしても納得してしまう、そんな透明が僕の心を震わした。
27年前の阪神大震災で九死に一生を得て、10数年前に上司が急死して、好きな球団の地が大震災に見舞われ、その傷跡を目にした。
これまでの死について考えさせられた場面を、湖から折り返しながら思い返した。
子どもの頃、よく寝る前に、いずれ自分が死んで居なくなってしまう事に恐怖していた。
37歳になった今でもたまに考える。
死んだら終わりだからこそ、この生を大切にしていきたい。
時に慎重に、時に大胆に。
恐山で死について考えて、自身の生の在り方が濃くなった。