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エンタメについての雑記
「FF6」は今でも傑作
I’llです。
先日、体調を崩してからペンを持たず安静にしていますが、想像以上に退屈で困っています。
昔の趣味をやってみても「こんなにつまらなかったっけ?」と思ってしまうのは、私が歳を取ったからなのかもしれません。自分は10代の気持ちのままという感覚があっても、その心を宿している脳と体は40代なのですから、考えてみれば当然です。
あまりに退屈なので、ピクセルリマスターの「FINAL FANTASY6」をプレイしてみました。
10分に1回はストーリーに変化があり、細かい演出が光っていて、今やっても胸がときめきます。クリエイターのこだわりの深さとか、細部まで行き渡る心遣いを見ると、SQUAREが神がかっていた時代は本当だったんだな、と思います。
コンフィグに「アナログモード」が実装されていて、当時のブラウン菅TVの映像の味わいが再現されています。中学生の頃にプレイした時、確かにこんな印象だったかもしれない、と感じます。走査線の味わいや発色のぼやけた感じ、映像に一味情報を被せる往年のテイストは、デジタル化以前のTVが魅力的に見えた理由の一つかもしれません。
確かに、スーファミ時代のゲームは単調ですし、リアルな描写は皆無です。しかし、40代のおっさんには360°から攻撃が飛んでくるより、目の前で敵がピコピコ動いてくれるほうが安心できます。最新のゲームも良いのですが、心身に優しいゲームであるほうが、何となくしっくりくる歳なのです。エナドリをキメながらFPSをできるような中年は、心身が若いのかもしれません。羨ましい限りです。
若者と年寄りにとっての「エンタメ」
FF6をプレイしながら、最新作のFF16までの変遷を考えていました。プレイしていない最新作を除いて、私にはFFシリーズが年々面白くなった実感は全くないのですが、それはおっさんの感覚だからかもしれません。私は昔のFFをリアルタイムで見てきたから、いくらでもダメになったと言うことはできますが、初めてFFに触れる若い人には違うのかもしれません。
今の自分につまらなく感じることは、他の人が面白いと感じる場合もあるし、全く感受性が同じである場合もあり、この差は何なのだろうか、と考えてしまいます。
時代と共にエンタメが本質的に変わってしまったと錯覚する理由の一つに、需要とコンテンツに求める価値観の変化を認識できないことにあります。
視聴者や読者が何を求めるかで、エンタメの性質は変わります。年寄りほど、若い人たちのニーズが理解できず「くだらないものが好きなんだな」と考えがちです。しかし、文化の担い手は常に若い人たちが築いているものですし、いつの時代も年寄りは若者ウケするものを口汚く言ってきたわけです。年寄りにも若い頃は美徳や需要があり、それによって文化を築いたはずですが、その価値観に共感できなくなれば、若い人たちのほうが間違っていると錯覚しがちです。
けれども、需要の形が変わっただけで需要の質が下がったわけではない、という点にはなかなか気づけません。
「若者はダメだ」というのは、古代ローマ時代も同じことが言われていました。特にエンタメの分野において、若者が共感するコンテンツが理解できなくなれば、もはや第一線の消費者ではないのです。そうなれば、現代のコンテンツを口汚く言う前に、潔く身を引いて、昔のコンテンツをスルメのように噛むべきなのかもしれません。
それでも、人間が「面白い」と思う原理原則は、太古から変化していないはずです。「面白い」と思うロジックは変化しながら、「面白さ」を感じる仕組み自体は変化しない、という微妙な線引きがどこかにあります。その瀬戸際で、「他人が面白くないものを評価している」と「自分にとって面白いものが評価されている」という相反性が混在することになります。それは完全に価値観の問題で、自分か悪い他人が悪いというレベルではないのですが、それが何故かコンテンツを叩く理由になるのは悲しいことだと思います。
若者には若者の、年寄りには年寄りに合ったコンテンツがあるのは確かで、価値観が違うものを無理して楽しむ必要はないのかもしれません。
クリエイターの苦悩には「孤独」がある
音楽の世界でコード進行が使い尽くされたように、絵や物語でも、時代と共に最適解の経験則が蓄積され、クオリティは上がり傑作は作りやすくなっていくはずです。しかし、セオリーが普及しコモディティ化が促進されると、胸を打つような衝撃作も年々生まれにくくなっていくわけです。そこにAIが参入し技術の陳腐化が起これば、エンタメは有象無象の世界に成り果てるでしょう。
私はクリエイターとして危機感を感じるからこそ、潮目を変える義務があるような気がします。しかし、将来に対する危機感はもしかしたら、私だけが過剰に感じているのかもしれない、と疑うこともあります。自分がもっと力をつけなければならない、と身を削って鍛錬することも、実は不安からの防衛機制が転化しただけかもしれません。
この不安が事実から得ているものか、それとも自分が妄想に取り憑かれているだけなのか、そこをはっきりさせる必要があります。自分の直感はどれだけ正しいのか自問自答しています。
おそらく、私には信じきれる人が一人もおらず、自分さえ信じきれない弊害がそこにあるのだろうと思います。周りに仲間や同業者がいれば、「自分もこのレベルで良いのだ」と納得することもできるのですが、もしかしたら自分一人で妥協することが恐怖なのかもしれません。
エンタメの世界どころか、私はこれからの未来が良くない方向に向かう気がしています。しかし、それすら錯覚なのかもしれません。私が孤独であるがゆえに、全てが自分次第で決まると思い込んでいます。ただ人は集団や組織に属し、その中で立場を得ることで初めて安心できるのです。私は何にも属さず自由でありたいと思うからこそ、集団の協力を得られず、ゆえに不安なのです。
芸術家に身を滅ぼすほどの完璧主義者が多いのも、裏には孤独や不安症があるのかもしれません。妥協に対する違和感や不安の正体は、結局は妥協した作品をもてはやす人が周りにおらず、そういった人たちとの距離感を拭い去れないからではないでしょうか。
私は、もっと自分の作品に自信を持つためには、一人で物事を決めてはいけないのではないか、と最近は考えるようになってきました。実は、一人で最後までワンオペを貫くほうが細部までコントロール可能で、コストもかからないのです。しかし、全てを自分一人で完結させるのは、それはそれで他者が介入しないというリスクもあります。
完璧なプロジェクトを達成しようと思うほど、自分一人では不可能であることを実感します。今後は、自分のプロジェクトにどう他者性を盛り込んでいくかを考えるべきだと思います。
今回のnoteはいつになくまとまりのない記事になってしまいました。何というか、自分でもモヤモヤしたものがあるようで、その正体がいまいちわかっていないようです。
「良いものを作りたい」という気持ちが強くあります。それゆえに、どう方向づけるかをもっと考えていく必要があります。まだ暗中模索の日々は続きそうです。