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自分を許せる日が来た、という話

健康な時の自分への反省


I’llです。
風邪を拗らせて、日に日に悪化しています。
人間はこんなに具合が悪くなるものなのかと思うほど、酷い寝込み方をしています。
スケジュールが詰まっているので、安心してダウンできません。一刻も早く復活して仕事に取り掛からなければ、全て水の泡です。
ですが、こうまで強制的に寝込むことがなければ、慢性化している腱鞘炎や疲労を取り除く機会はなかったのかもしれません。こうしているのは何よりもしんどくはあるのですが、もしかすると天からの「休め」というメッセージなのかもしれません。しかし、それにしてはこんな立て込んだ時期ではなくて、もっとゆとりのある時にダウンさせて欲しかったものです。

横になっているのは退屈で、スマホを見てしまうことはしばしばありますが、ネットの情報がどれほど人間の神経を逆撫でし、平常心を持つことに悪影響なのか、病んで弱っている時でなければ改めて感じなかったかもしれません。
人間はニュートラルな状態であろうと、不安がなければ落ち着かない生き物なのではないでしょうか。直接自分に関係がなく、また自分がどうやっても影響しえない事象であろうと、不満を抱いてはこうするべきだ、と考えたがります。
それは一種の思考ゲームというか、娯楽の一部なのかもしれません。メディアの情報はそういったエンタメにバイアスをかけられていて、私たちが常に問題意識を埋め合わせるためにできているように思えてなりません。
横になってすることもなく、特に悩みがない病床の私からすれば、世の中のことを深く考えない時間を作ることで、とても平穏な気持ちになれることに気づきました。
私たち現代人は外部から、不安がるように焦るように仕向けられていますが、人間はむしろ不安や焦りを自分たちで求めるようにできているのかもしれません。もしループを断ち切るとしたら、視野を安易に広げすぎず、自分の手の及ぶ範囲の世界に集中する必要があるのかもしれません。

自分を許せる日

これほど具合が悪くなったのはあまりないのですが、全身がまんべんなくおかしくなった様子を考えると、それだけ免疫力が下がっていたのだろうと思います。
確かにショートスリーパーの体質に変わりましたし、睡眠に費やしていた時間を仕事に使うという生活をしていれば、体がどうなってもおかしくないはずです。それに何の疑問も持たないほど、私にとって体を気遣うことは二の次でした。むしろ、体のほうから根を上げてくれてよかったのかもしれません。あのままの生活を続けていたら、私はまたメンタルを壊して大変なことになっていた可能性が高いです。不安や焦りに突き動かされている状態は、やはりまともではないのです。
そうやって今までの私の生活態度に反省をしました。そういう機会があってよかったのかもしれません。
がむしゃらであることを美徳にできるのは、体力が無限にある若い時だけです。今は、飲み物一つとっても選択が必要な体です。人間は気持ちだけは老けないものですし、年相応にものを考えられない人は痛い行動をしがちです。明らかに老けて快活さを失い、歳甲斐もなく幼稚であることは本人以外には一瞬でわかります。そこに、歳を取るのは人生で一度きりである、という生の残酷さがあるように思えてなりません。
横になりながら今までの自分、最近の自分について反省をしていました。それは前回のnoteに書いた通りです。後悔はいくつもありますが、それは感じやすかった自分に動揺し、心の弱い部分をカバーしようとして、悪手ばかりを打ってしまった結果です。その経緯を失敗ということは容易くても、あの時代、あの人間関係と自分の知識量ではできることに限界はありました。その全てを責められず、例え責めたとしても、今からどうにかなるものでもありません。
あの時こうすれば、あの人がこうしてくれたら、というのはあります。しかし、今の私にとって大切なのは、あの頃の自分に優しい眼差しを向け、仕方なかったという事実をどう受け入れていくかだと思います。そして、これから過去とどう向き合えば楽になるのかを、自分と対話しながら見つけることではないでしょうか。
そう考えると、今ではどうしようもない事象に対して、うだうだと責め立て、後悔を繰り返すのは全く前向きではありません。仕方なかった、と割り切ることも賢さのうちです。だからこそ、過去を経験則に変え、今を立て直すための知恵にすることができます。
弱かった自分というのは、繊細な自分を言い換えただけの表現で、もともと私は感じやすかったし、そういう性質の人間として生まれ育ちました。その事実には何の罪もないのですから、そういうものとして受け取るべきです。
これまで散々イマイチなことをしてきましたが、全てが苦肉の策であり苦し紛れでやった悪手で、そのこと自体は責められるべきではあっても、そうなり始めた原因は、実に憐れでどうしようもないものでした。その頃の自分を深く理解するほど、私は許すべきだし、許されるべきだと思える心境に立つことができます。自分をもう責めたくないと思っていた日々は、今ここで終わらせられるのかもしれません。

単純な人生などないのだから

歳を取り、今まで出会った人がどう生きていくかを見れば、人生は水平垂直なものではないと気づきます。多くの人はやらなくてもいいことや矛盾した行動をしては軌道修正し、人生に一つのストーリーを頑張って作ろうとします。どう考えてもおかしいやろ、と思う筋書きでも、本人が納得できたらいいのかもしれません。
若い人や人生経験の浅い人ほど、一つのことを一貫してやることを当たり前に感じ、その過程で当たり前のステータスに至らなければ恥だと言い、容易く他人の人生をこき下ろします。私も若い頃はそうだったかもしれません。しかし、世の中は信じられない瓦解の仕方をするもので、その理不尽さは完全に予想できるものではなく、自分が遭遇しないという保証もありません。人生というのはジグザグに進むもので、もし右肩上がりの平坦な道と思っていれば、突然道がなくなった時には酷く動揺するはずです。
私の同級生は音楽関係の人が多かったのですが、今クリエイティブな仕事に携わっている人はほとんどいません。音楽を勉強していた私ですら、今は漫画を描いています。話を聞けば何でそんなことやってるの、と思うことばかりです。それくらい人生は予想通りにはいかず、臨機応変に生き方を変えていくものなのでしょう。
「人生に無駄はない」とは言いますが、実際無駄はいくらでもあります。自転車をいくら頑張って漕いでも、月に行くことはできません。大事なのは、諦めた時に何を学ぶか、学んだことを活かし続けられるかだと思います。
同じようにやらなくていいこと、やらなくてよかったことも沢山あります。私の半生がそうだったように、全てにおいて一貫した行動を取るのは難しく、無駄や余計な経験はしてしまうものです。
それでも、今これからハッピーに生きていくためには、うまくいかない人生を過度に批判せず、どれほど自分を好きでいられるか、そんな自分の未来に安心感が得られるかが鍵だと思います。
自分の人生がいかにポンコツでも、健気に幸せを探しながら生きていける人は、おそらく人の心を深く理解しているはずです。人の弱さや愚かさを許せる心を持ち、良いところを評価し、全てが責めきれないことも知るはずです。
自分がそうなれた今は、過去の私を許せる時が来たのだと思います。ずっと自分のことが嫌いでしょうがなかった気持ちを、下手に美化せず「仕方がなかった」と思える日がようやく訪れたのだと思います。

私は風邪でどうしようもないくらい具合が悪いですが、頭の中はわりと平穏さを感じています。その頭で今考えていることを書きました。
いつも私の書く文章はクソ長いですが、他にやることもないので仕方がありません。普段からいらないことばかり考えていますが、私はおそらく考えること自体が好きなのだと思います。

Mr.Childrenに「Over」という曲があります。その歌の「考えすぎて失敗する主人公」はまるで君のようだと、職場の先輩に言われたことがあります。今もそうですが、私は昔からこういう人間です。Overは、失恋して傷ついた心に染み渡り当時の自分を慰めた曲でもあります。なんか、人生って花だな、と思います。


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