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「グループシンク」を超えて

スマホの中の「世界」


I’llです。
今のご時世、ニュース一つひとつを吟味するたびに苛立ちと不安を感じます。
利益のために事実を歪め、正当化することで利権を再強化し、世の中への悪影響を鑑みない人たちがあまりに多すぎます。
社会や人間への期待度が、どんどん下がっていく感覚があります。知らなければ自分の首を絞め、知れば嫌気が差してくる、そういうジレンマの中でバランスを取ることすら苦しいのです。
しかし、距離を取って冷静になれば、周りの人や多くの人たちが、私と同じようにニュース一つひとつにまともに腹を立てているわけではないことに気づきます。むしろ、どうでも良いと思って日々の仕事をこなしています。それは他の人たちが鈍感なのではなく、私が敏感すぎるだけなのかもしれません。
このズレの正体は、私が孤独であるように起因します。多くの人は組織に属し、ある程度思考範囲を縮小して合理的な生活を送っています。私が不安を感じるのは、私自身が組織や集団のロジックを一切持たず、頼る人もモノもないまま現状を分析し、将来を予見しようとしているからではないでしょうか。
組織に属し、自分に与えられた役割があれば、その任務を遂行することに思考のリソースを割く必要があります。そのことだけを考えて無難に生活できれば、国がどうとか国際情勢がどうとか、胃をキリキリさせてまで考えるのは明らかに不合理です。
私は根無し草だからこそ、そこまで考えてることに支障がないだけかもしれません。自営業というのも、不利益な情報を手に入れる必要を生じさせる理由の一つです。
日課の散歩をしながら、行き交う人たちを見れば、どれだけ自分が自分の頭の中でしかモノを考えていないかを再確認する時があります。
スマホで得た情報で世界を構築し、それだけで「現実」を作り出し、不安な世界に身を置いているのは自分自身ではないのか、と気づかされるのです。

世の中にはびこるポジショントーク

「ポジショントーク」という言葉があります。
それはセールスが目的のためではなく、自己を正当化して影響力を保持するために良く利用されます。世の中にあるのは正直な事実ばかりではなく、何かを美化させる目的でわざと流す虚偽もたくさんあります。
そもそも、人間の認識のレベルでのフィルターすら外すことができないのですから、情報に色がついているのも当然と言えます。
TVで政治家やコメンテーターを見れば、「この人ならこう言うだろう」という、予想していた言説や立場表明が裏切られることはほとんどありません。ポジショントークは思想や方針の再確認に過ぎず、新しい思考の枠組や発想を促すことがないため、そもそも改めて聞く必要もないのです。
しかし業界というものは、影響力の高い人物の意見を旗印にして、同調圧力を高める必要があります。そうやって業界全体や組織の利益を保守します。そこに必ずしも社会的な善悪や経済的な影響は考慮されず、むしろ一人勝ちを狙うために印象を作り出せたほうが得です。
そして特にメディアは、権力構造の再定義のためにインフルエンサーの立場表明を利用し、メディア本体は利権のカルテルを形成する傾向にあります。ニュースもメディア側のポジショントークの一部であり、そこに社会的平等やジャーナリズムはわずかにしか存在しません。
私たち現代人は、そうやって色をつけられた情報しか知ることができず、また多くの人がその情報に疑問を抱くことも、修正する力もありません。
つまり、情報の質が遥かに問題でありながらも、ファクトチェックが弱すぎるのが現在です。最近はオシントに注目が集まっているのも、メディアがポジショントークやプロパガンダを疑いなく垂れ流していることへの不満があるのだと思います。
私としては、事実だけをさらっと流してくれるだけでいいのにな、と思ってしまいます。下手なキリトリや自称専門家の私見にすぎない解説が加わるから信頼性が下がるのにな、と感じるのは私だけでしょうか。

コミュニティの思考を超えて

人は集団になればなるほど思考が最小化され極端になっていく現象を、社会心理学で「グループシンク(集団浅慮)」と言うそうです。思考が鈍化する傾向はともかく、「集団思考」という原理はあらゆる局面で働きます。個人が属する組織や集団によって、ある程度思考の枠組みが最適化され、構成員であるため組織や集団の主張を代弁をすることがあります。これがポジショントークです。したがって言説の内容や肩書きを知れば、何が目的なのかはすぐに理解することができます。組織大抵の場合、個人が集団のロジックに反するような言動を「表向きに」することはありません。しかし、内部告発や組織への批判は、組織外にアイデンティティを置いているからこそ、ハイリスクの行動が取れるのです。
自分がもし、糧を得る手段がある集団にしかなかったとしたら、その集団の思想は絶対です。しかし所属度が低く他に生活の手段があれば、その組織を批判するリスクも下がるはずです。

私たちは、何かを考え意見を決めるたびに、コミュニティのロジックを使い、損得を判断して言動に移します。そこに必ずしも善悪が前提にあるとは限りません。
どこまで行っても、集団や組織の思考フレームに支配され、必ずしも自由な発想ができているとは言えないのです。もし、その思考回路を客観化し批判の目を向けるためには、コミュニティの思考を離れる必要があるのだと思います。
孤独になって考えるべきと言いたいのではありません。「所属の分散」が、利害に縛られた思考を中和させ、コミュニティの構成員としてどう答えを出すべきか、という圧力を緩めることができます。私のように孤立した人は、逆にコミュニティに属して違う価値観と接することも、思考の固定化を防ぐ有効な方法かもしれません。
私たち人間は、自ずとコミュニティに合理的な思考をするようにできています。けれど自分一人になった時は、どんどん自分本位の思考に傾いてしまいます。つまりコミュニティとの距離や関係を保ち、わざと思考を複雑化させることが発想のバランスを安定させる秘訣であるように思います。
私は特に、スマホで色のついた情報ばかりを見ると、勝手に残酷な世界を作り上げ、妄想の中で憎悪を作り出してしまうことがあります。しかし、目に見える世界を直接見て、全く違う立場や価値観の人と触れたら、その世界は幻想であると気づかされます。
自由な思考と、事実を受け入れる心がなければ、世の中を真正面から捉えることができません。私はまだ、色々なものを知る必要があるな、と思います。

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