私はなぜ印鑑を失くすのか
よく印鑑を失くす。執拗に失くす。マネージャーに今日は印鑑を持ってきてくださいと言われ、ぎくっとする。前回は何で持ち出したんだっけ、記憶を巡る旅が始まる。あの日着てた服、あの日持っていた鞄、帰ってくるなり鍵を置くトレイ、とりあえず重要なものを入れておく癖のある引き出し。あらゆるところを探すが見当たらない。切羽詰まった時の探し物は、探せば探すほど苛立ちが募る。ここにもない、そこにもない。ありそうだと期待をかければかけるほど、なかった時の落胆は大きい。私は不在を辿る冒険家。大概の物語は「有る」ことを起点に先に進んでいくのに、ものを失くした時、私は「無い」ことを確かめることで次の場所へと進んでいく。そりゃあ、腹が立つわけだ。クローゼットの半分以上のコートのポケットが裏返され、部屋のありとあらゆる引き出しがひっくり返された時、時計を見ると待ち合わせの時間はとうに過ぎており、「ごめんなさい」とのLINEを入れて駅までダッシュをする間、頭の中で点灯していたのは次の問いだ。
私はなぜ印鑑を失くすのか?
最初考えたのは次のようなこと。これだけ印鑑を繰り返し失くし続けるのは、印鑑を失くさせるための何らかの内なる力が働いているのではないか。フロイトが100年くらい前に発見した無意識の領域。
人間がやる、言い間違いやど忘れなどの「錯誤行為」は、抑圧された無意識が外に現れたものであるってやつ。
印鑑の件もあれじゃないか。印鑑を持っていきたくない、印を押したくないという抑圧された無意識が自分の中にあり、そいつが私に印鑑を忘れさせている。または、こんなことも考えた。印を押す。つまり名前をどこかに刻むという行為に、何かしらの嫌悪感があるんじゃないか。自分の存在を確約されたくないという、<仮称 自由の魂>、のようなものが私に印鑑を押させない。印鑑を押すって行為はそれだけで象徴的だから、こんな語り方が無数にできるけれど、待ち合わせ場所の会議室に入って話すや否やメンバーに「ことを大袈裟にしすぎだ」と一蹴された。そりゃそうだ。こんなこと言ってたら、どんな忘れ物も無限にできてしまう。まずは、定刻に間に合わなかったことを謝りたい。
次に考えたのは、印鑑をしまうフォルダがないということだ。部屋の中にある大概のものは、それなりにジャンル分けされて所定の位置に置いてある。鍵には鍵の帰る場所があるし、ティッシュにはティッシュなりの居住地がある。印鑑についてのそういった場所が、家に用意されてないことに気づいた。印鑑を一体どこに置いておけばいいんだろう。
「印鑑は爪切りの仲間だ」とメンバーが言う。これには大変同意した。フォルム、使用頻度、その大きさ、どれも印鑑っぽい。自分を記すものと、自分を減らしていくもの。役割には大きな隔たりがあるものの、印鑑と爪切りは近い場所にあるような気がする。他にも玄関に置いておくだとか、タンスに閉まっておくだとか、色んな意見が出たけれど、思うに、この存在の不確定さが、印鑑忘れの一因を成してるんじゃないか。
玄関に置いておくのは、宅急便のサインの名残かもしれないが、それにしてはあまりに無防備な場所じゃないかと思う。印鑑。無防備。思ってはみたものの、印鑑の持つ妙に尊大な感じが馬鹿らしくなることがある。名前は入口。初めて会う人には名前を聞く。名前が分からないものは、社会に入ることができない。「千と千尋の神隠し」は現実に戻るために名前を探す映画だった。ハクは「ニギハヤミコハクヌシ」と呼ばれることで、人に戻ることができた。家の入口たる玄関に印鑑を置いて何が悪いんだろう。
人生上、最も見慣れた二文字が掘られた木材。それを大事にしまおうとしている。爪切りの仲間。もしくは、スティックのりの友達かも。数多の文房具と徒党を組んで、机の片隅にでも消えてくれ。そうやって、思い切り見下すことができないのも印鑑の悪いところだ。私の中に、印鑑をどう位置付けていいのか分からない。あと、こう言っては文房具にあまりに失礼だ。
あれやこれや考えてるうちに帰路につき、印鑑は割とよく使う鞄の、全く普段使わないファスナーの中から見つかった。貴重そうでありふれた、上品そうで庶民的な、印鑑らしい隠れ場所じゃないか。私はそれを常用薬とティッシュの間の、<通称 なんでもトレイ>の上に置くことにした。仲間としては、万年筆のインク、腕時計のベルト、イヤホンの替えのイヤーピースがいる。どれも私の部屋の中で行き場を無くしたものたち。これから仲良くやってくれ。
この印鑑は、大学卒業時にもらったもの。これを持って神戸から町田へ、町田から今の家へと5年かけて旅してきた。
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