見出し画像

予算1000円以内で正月気分。

アカバト(金時豆)でぜんざい。
伊達巻、お煮しめ、鰊昆布巻。
予算1000円以内で正月気分。


先月お師匠山際永三(92)が亡くなったので、喪中です。
お師匠との出会いは、2006年。
同年の監獄法改正を機に、知人のつてで文通を開始した。

私は、長期初犯の受刑者として、千葉刑務所にいた。2006年は、15年の刑期の折り返し地点。
刑務所で刑務官に目をつけられて不条理な懲罰をいくつか経験し、不服申立てをしていた。
隣合った受刑者に、折山敏夫さんという、同じ刑務所の金属加工工場で服役中の再審請求を求める冤罪受刑者の話を聞いた。程なく私は折山敏夫さんの妹と文通を始め、その支援者の山際永三さんを紹介されるに至った。

お師匠山際は、人権と報道連絡会の事務局長をしており、日本で起きる理不尽な報道による人権侵害を網羅していた。
私は、その会報誌を毎月読んだ。
政治弾圧と報道検証
「たちかぜ」 いじめ自殺
公共放送NHKを考える
北陵クリニック事件
秘密保護法との闘いとメディア
三鷹バス痴漢冤罪事件と報道
栃木・今市事件の報道
朝日新聞の『慰安婦』 報道検証と右派メディアのバッシング
などなど。

また、ロス疑惑の冤罪犠牲者三浦和義さんの一番の支援者でもあり、2008年の国際逮捕時には一番にサイパンに駆けつけていた。

ウルトラマンのシリーズの監督もしていたことから、デアゴスティーニのウルトラマン特集など、自身の名前の載る雑誌をよく差し入れてくれた。昼夜間独居に3年入れられ、拘禁反応を発症している状態だったので、こういった童心に帰る雑誌は嬉しかった。

お師匠は獄中者の家族と友人の会 という団体を立ち上げ、家族が逮捕された方たちの支援もしていることから、私は、出所したらこの人のもとへ行って師事しようと思った。

私は2014年の夏に満期出所となり、両手に国家賠償の訴訟書類を抱えて山際さんの住む永福町を尋ねた。
長く文通はしていたが、この日が初対面だった。
山際さんは私の顔を見て、
「名古屋刑務所では、君のように不服申立てをする受刑者が沢山死んで行った。生きて出られるとは思わなかった。」
と言った。

文通を始めてから、私は刑務所で二度、保護房に入れられていた。
刑務官を特別公務員暴行陵虐致傷の罪で告訴しようとし、逆に器物損壊罪で告訴されるなど、抗い続けてきた。その顛末を記録するように山際さんに手紙を書いていたので、裏門から出所すると思われて当然だった。

その出所から私は毎月、人権と報道連絡会の定例会に参加し、印刷できた会報誌の切手貼りをし、会報の発送を手伝った。
また、三崎事件、氷見事件、狭山事件などの冤罪事件の資料製作もした。
普通に生きていては触れられない情報を知れるのは面白い。

出所した日から生活保護を受け、精神安定剤を減らすため精神病院に通った。
杉並区で生活保護を受けたが東久留米にある無料低額宿泊所に住むことになったので、永福町に通うのに自転車で片道1時間はかかった。

半年後には、杉並区の浜田山に引越しができ、山際さんの家に通うのは楽になった。

獄中者の家族と友人の会は、発足から数年で休眠していたので、私がその名を引き継ぎ、死刑囚の再審請求事件の会合に家族が逮捕された方たちを招くようになった。

今でも継続して開催している。刑務所出所者が良きアドバイザーになれる希少な場。

お師匠が亡くなる前、いくつかの再審請求事件を引き継いだ。
同じ刑務所にいた折山敏夫さんの事件もそのひとつ。

先月の葬儀の直後、博多で実証実験をした。

お師匠は、去年の秋頃からベッドから起き上がれなくなり
「俺のお見舞いはいいから、再審請求事件を頼むよ」
と言っていた。

私は、自分の事件を振り返り、自身の立ち位置の確認のためにも再審請求事件を手伝っている。
再審請求は、事実をどこまで深く、皆が納得できるよう、根拠を示して証明できるか、による。

お師匠は、
「『私の事件は冤罪です』という人がいたら、その人の言葉を信じて支援する」
と言っていた。

私自身は、盲信はしない。
判断を留保し、ありのままの事実を探求する。

私自身の服役理由の事件は、構成要件の事実が間違っているので、再審請求の余地がある。ただ、当時の証拠を集めるとなると、時間経過の散逸が多くて再審請求は出来そうにない。道は途中。


いいなと思ったら応援しよう!