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セルフアップデートの奴隷
ちょうどよいセルフアップデートの模索について。
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娘が通う保育園では毎月「ほけんだより」をつくっている。
ほけんだよりには風邪をひかないための工夫や感染症対策など、
健康を維持するための情報がキレイなフォーマットにまとまっている。
最初にみたときは「懐かしー!」と声に出してしまった。
懐かしさを感じたのは、A4用紙に手書きでキレイにまとめられた資料だったからだ。
大人になると資料づくりはパソコンでつくるのが一般的で、
手書きでキレイにまとめられたほけんだよりは小学校生活を思い出した。
このほけんだよりは、手書きでレイアウトや文字のバランスを調整したり、自分の手で書いた資料が各家庭に配られるのを想像すると、ある意味保育園のひとつの顔であり非常に緊張感のあるドキュメントだと思う。
強力な手書きスキルだなと感じつつも、日常的にパソコンを触ってる自分からするとパソコンでつくったほうが負担が軽くなるのではとも感じていた。
そして月日が経ち、今月受け取ったほけんだよりはパソコンで作られた資料に変わっていた。
妻曰く保育園にいる保健師さんは1人で変わっていないらしいので、
この保健師さんがほけんだよりを手書きからパソコンに変えたらしい。
このデジタル化ほけんだよりを見たときに鳥肌が立った。
推測だが、忙しい合間を縫って何らかの理由で自分の強力な手書きスキルを捨て、不慣れと思われるパソコンを修練しほけんだよりを刷新させたのだ。
自分自身へのデジタルトランスフォーメーション、
DXM(Digital Transformation myself)だ。
鳥肌が立ったのは、自分自身をアップデートしている人をみるのが好きで感化されるからだ。
そして自分も自分自身をアップデートしたいと常に思っているからだ。
単にスキルを磨くだけでなく、さまざまな作品に没入するために映画を観るとか新たな出会いを求めて女性にアプローチしまくるとかなんでも良いのだが
「自分の中にある渇望を満たすため研鑽すること」に関心が強い。
この考えには副作用もある。
自分が在りたい姿は「自分自身をアップデートしている」ことで、
この状態を正とすれば「自分自身をアップデートしていない」ことに深く失望してしまう。
例えば、同じ失敗を繰り返すこと。
最近も数年振りに同じ過ちを繰り返しアップデートされていない自分を許せない気持ちになってしまった。過ちそのものではなく繰り返していることに失望する。
ようやくこんな感じに言語化できて折り合いをつけられそうだが、
そもそもアップデートが正という状態をどうにかしないと失望を避けられない状態をなんとかしたい。
できていたことができなかったり、できないことがいつまでもできないときに悲しくなってしまうのはなぜだろう。
ちょうどよいヌケ感、スキ、侘び寂びを常に心に持ちたいがまだまだ修行の道のりは長そうです。
なにとぞ。