ともに 〜東日本大震災備忘録〜
はじめに
こんにちは、iwate EVOLVEDです。
実態こそゲームセンター支援団体ですが、メンバーの大半は30代以上であり、度々起こる震災とは無関係ではない人生を送ってきました。
岩手の名を冠していることから、東日本大震災(3.11)との関係も深く、いつかそこに触れよう、でもまだその日ではないかなと先延ばしにする中で発生した能登半島地震。受けた衝撃は非常に大きいものでした。
先日は1995年1月17日の阪神淡路大震災についての備忘録を書きまして、今回は2011年3月11日の東日本大震災についての備忘録となります。こちらも影響を受けたiwate EVOLVEDメンバーは多く、iwate EVOLVEDがiwate EVOLVEDとなった根源とも言える部分も含むのですが、「震災について未来に語り継ぐ」ことを目的とし、あの時何処で何が起きていたのかを切り抜いてお伝えします。
諸注意
以下は2011年3月11日14時46分頃に発生した東日本大震災の、当時名古屋市に住んでいたAと一関市に住んでいたCによる記憶の記録です。
2名にとって13年前の記憶となっており細かい部分は曖昧です。ですが確実にショッキングな内容を含みます。
時間が経てど各々「語りたくないことは語れない」のですが、時間の経過とともにある程度は震災の生々しい光景を語れるようになりました。
記事として纏める際にもそこはカットしておりませんので、それを読む覚悟ができるほど元気な時にお読み下さい。
2011年と2024年は遠そうで近く、近そうで遠いものです。携帯電話は普及しており電波があれば連絡はできたものの、今ほどインフラは発達しておらず、またTwitterのようなSNSは広く普及していない、寧ろこの東日本大震災を受け緊急時の連絡手段としてのTwitterが広まった、そんな時代です。その辺りの時代背景も込みでお読み下さい。
CASE1: Aさん(名古屋市千種区、震度4)
地震発生時は大学内でセミナー中で、セミナー室の中に4人集まっていました。何だかクラクラするなと感じ、体調不良を疑ったのですが周りの3人も「何か変ではないか」と異変を訴え、周囲を見るとゆっくりと揺れていることが判明しました。
阪神淡路大震災でも震度4を体験した為、その時点で私はドアを開け机に潜ったのですが、周りの3人は何も動かなかったのは今でも印象に残っています。3人は東海地方で過ごした方々で、阪神淡路大震災は出来事として知っているがそれに対する備えは無かったのです。今振り返って、改めて備えの心の有無が初動に差を生むのだと思いました。
幸い我々の周りでは大した揺れは無く、日常に戻ってセミナー後には飲みに行き、同じ研究室の留学生が「明日は京都に行くのだけど新幹線は動くのかな」と話すのを聞くような一日でした。2024年と比べれば情報の浸透が随分ゆっくりしていたように感じます。
その内東京タワーの先っぽが曲がったというニュースが届いたりしたのですが、被害の大きい地域の惨状を耳にするのは数日後になります。その後急いで宮城県に住む友人達の無事を確認し、仙台でも建物にヒビが入り水道は止まったまま、電気は復活しているなどの情報を得ました。同時にテレビでは連日被害の大きかった地域の動画が繰り返し流され、「自粛ムード」が展開され始め、CMは当時の皆さんご存知の「ポポポポーン」一色になりました。春休みだったこともあって大阪の実家に戻り、大変なことが起きているが何もできることが無いという無力感に沈んでいた記憶があります。
3月11日当日は緊急地震速報は無かったのですが、数ヶ月後には長野県で起きた地震の緊急地震速報が名古屋にも届き、実際その後に揺れが到達した記憶があります。
スーパーの水が買い占められたりと言う変化は起こるものの震災自体での被害が無い地域で悶々と過ごす中、自分のできる範囲で手伝えることが見付かり、仙台に赴いたのがその年の8月でした。余震が続く中で友人宅に寝泊まりし、仙台駅近くのゲームセンターでは震災に対して書かれた楽曲「Tohoku EVOLVED」を選曲して「Pray for All」の文字と共に想いを馳せ、滞在最終日には学生の身にはお高い回らない寿司を食べ、気仙沼の支援になるかなあと考えたあの日は今でも記憶に残っています。別の友人が新幹線で帰る際に余震が起き、東京付近で5時間くらい足止めを食らっており、青春18切符でゆっくり帰った私と移動時間が変わらなかったということもありました。
その後は毎年3月11日には震災のことを振り返り、その日でなくともハワイ島に旅行した際に太平洋津波博物館を訪れ、岩手県から流れ着いた道路標識が展示されているのを見て意外な繋がりを発見するなど、東日本大震災は心に根強く残り、現在進行形で人生に影響を与え続けています。
CASE2: Cさん(岩手県一関市、震度6弱)
被災者として長い間生活していたのでその記憶も長くなるのですが、震災当日を長めにとって、それから数ヶ月で一旦日常を取り戻すまでを搔い摘んでお伝えします。
震災が起きた時には会社にいまして、工場の被害は震度の割には軽微なもののシャッター・配管等が壊れてその応急処置で1〜2時間ほど拘束、その後は全社員に帰宅命令が出ました。
帰る前に同僚のカーナビで名取市の津波が映っているのを観て尋常じゃない事態が起こっていることを改めて実感しました。ちょうど母は妹が不在のため甥姪の面倒を見るために妹宅に、存命だった祖母は自宅に、という状況で、妹は東京の方へ出張中でしたので妹宅に向かいました。
母からは「テレビが倒れた、怖い」とメールで連絡があり、自宅近くに住んでいる同僚からは「(私の)祖母の無事を確認」とメールありという状況の中、当日保育園児だった姪を迎えに行くもすでに帰宅したと先生から聞かされて妹宅の状況を見に行きました。
妹の旦那さん、甥姪、母親の無事を確認しひとまず安堵しましたが、妹宅はオール電化住宅のため停電中は何もできず、ひとまず自宅から水やご飯をもらいに戻りました。ご飯はガス釜だったので停電でも炊けていて、水はネットで情報を得てタルにゴミ袋を貼りその中に水を貯めるという方法で20リットルほど運びました。その夜は妹宅で過ごし、カセットコンロで簡単な食事をとり早々に就寝しました。
2日目以降、妹は震災当日東京の方へ出張しており戻ってこれたのは1週間後でした。その間は弟が千葉にいるのでそこで世話になってた模様です。
停電は3月14日(月)の午前中まで続き、その間は毛布にくるまって暖をとり、ご飯や水が無くなりそうな時は自宅へ戻ってまた妹宅へ戻ることを繰り返しておりました。その往復と、車載コンセントでの充電のため何度もエンジンをつけたことでガソリンの量が残りわずかになり身動きが取れなくなりました。
携帯の電波も発生2日後くらいまでは繋がっておりましたが、電波塔のバッテリー?がなくなったのかやがて圏外となりました。自宅にちょうどあったPSPでテレビを見れるオプションでやっと事の重大さを実感しました。何度も流れる津波の映像に嫌気がさし、ノートパソコンで映画やバラエティのDVDを流して視聴していました。
3月14日(月)お昼頃に停電から復旧し、とりあえず電気は使えるようになって携帯の電波も復活。会社から電話があり状況を報告し、ガソリンがなく出社できないためしばらく休むことになりました。
食糧品も残り少なくなったものの近所のスーパーは未だ休業しており、個人店にてわずかながらのおかずを買って過ごしました。数日経ってスーパーも復旧したものの物流がまだ滞っており品物も少ないため、少人数ずつ店舗に入れて購入してもらう方法を取っておりました。
また会社の上司が一関〜奥州で並んで買ったというガソリンを持ってきてくれて10リットルほど頂きました。これで会社、自宅へ戻ることができ仕事も復活しました。社の方針で数日間はなるべく近くの社員同士で乗り合いで出社するよう指示が出ました。その後社長の知り合いのガソリンスタンドで優先的にガソリンを入れてもらえることになりましたが、それまでは近所のスタンドですらガソリンを買い求める車が夜中から列を成して待っている状況でした。
Twitterのアカウントを作成したのもこの頃で、ガソリン入荷情報が得られないかと思ったが田舎すぎたのと調べ方も悪かったため情報は得られませんでした。その後音ゲーの情報収集にも使うようになり現在に至ります。
普通の生活レベルに戻るまで3週間前後はかかった記憶があります。4週間後の4月7日(木)夜11時ごろにまた強い地震が東北を襲い、体感ではこちらの揺れの方が強く感じました。縦揺れが311よりも酷く、前回無事だった一関市内の巨大なコンクリートの貯水塔が崩れ、主に一関市街地で断水となりました。この時も停電になりましたが1日も経たないうちに復旧した覚えがあります。
地震発生後からの数日間についても細かく思い出そうとすると様々なことがあった気がしますし、その後の生活に関しても色々あったのですが、とても長くなるので一旦ここで止めておきます。
おわりに
東日本大震災から13年、まだ復興は完了していない状況ではありますが、災害はそれとは無関係に襲い掛かってくるものであり、その前後にも様々な災害が日本全国で発生しております。
直近ですと2024年1月1日には能登半島震災が発生しており、こちらは将に復興の真っ最中です。各々、何かしら力になれることがあれば力になって欲しいと願います。
今回の備忘録に関しても、震災という非日常は日常の中に唐突に投げ込まれ、人々は非日常の中で日常を生きることになるということが改めて伝わり、有事の際の何かしらの参考になれば幸いです。