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なぜ千尋の両親は豚になったのか?千尋の世界が怖い理由―ジブリで学ぶ心理臨床学②―「千と千尋の神隠し」

謎の多い「千と千尋の神隠し」


 今回のジブリで学ぶ心理臨床学は「千と千尋の神隠し」になります。「千と千尋」はジブリの中でも一番のヒット作で人気が高い作品です。
 ですが、実は結構難解で謎も多い作品です。たとえば、「千尋が迷い込んだ世界はどこなのか?」「登場するキャラクターはなにを意味するのか?」などなど考えはじめると、わからないことも多いのです。
 私には、この作品は宮崎監督が自分の作りたいことをこころの底から自由に作っていることが伝わってきます。さまざまなテーマが込められ、奥行きが深く、見返す度に発見があります。ジブリ作品の中でも熟成されていて、「現代の日本」が描かれていると言う点でも意義深い作品です。
 心理臨床の視点から見てみても「となりのトトロ」に比べるとさらに応用編で、よりネガティブな「負」の要素が描かれていて、なかなかに面白いのです。
 では、今回も「謎」を設定しながら解読していきましょう。

子どもたちが持っている力


 「となりのトトロ」では宮崎監督は子どもが持つ空想(ファンタジー)の力と、その成長の姿を描きたかった、と書きました。トトロでは「おばけ」であるトトロや猫バスは、サツキとメイの味方であり、成長を助ける「よい」(good)存在です。普通「おばけ」はグロテスクで怖いものですが、さつきやメイにとって「おばけ」は、好奇心のあらわれであり、ふさふさふわふわで、困難を乗り越えるために力を貸すポジティブなものでした。これは、サツキとメイが肯定的で保護的な関係や環境に囲まれていて、その中で2人が育んできた「心理的な潜在力」が発揮されている、と私は感じます。この「心理的な潜在力」は最近の臨床心理学では「レジリエンス」(反発力・柔軟性などと訳されます)と言われ、「ストレス」や「トラウマ」と対になる心理的危機を乗り越えるこころの強さを指す言葉です。困難な状況にただ打ちひしがれるのではなく、立ち向かって乗り越えていく力として注目されているのです。全ての人に等しく、というわけではない、この辛さを乗り越える「力」が一体何なのかを知ることは、この連載全体の目的の一つでもあります。

千と千尋の神隠しはなぜ怖いのか?

 さて、まず一つ目の問いは「千と千尋の神隠し」に登場するキャラクターたちが、「となりのトトロ」と大きく異なっているのはなぜか?ということになります。トトロのように保護的な存在もいるにはいますが、個性的で曲者とも言えるキャラクターが登場します。千尋を脅して働かせる湯婆婆、わがままそのものの大きな赤ん坊の坊、千尋を助けるかと思うと冷たくする二重人格のようなハク、そして謎のカオナシ・・・。
 その世界では、人間の千尋は歓迎されていないようで、仕事をしないと豚や石炭に変えられてしまうようなのです。トトロのメイとさつきと違って、千尋はシビアで怖い「悪い」(bad)な世界に迷い込んでしまったのです。といってもホラー映画のようにひたすら恐怖というわけではありません。闇一色の世界ではなく、釜爺やりんさんのように助力してくれる存在もいます。ただトトロの世界よりもずっと複雑で入り組んでいるのです。千尋の世界がなぜ複雑で怖い世界なのか?それは千尋のこころの状態がサツキとメイとは大きく異なっていて、それが反映されている、と考えられます。

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不機嫌な少女

 ジブリ史上にのこる塩対応

 では、冒頭のシーンから丁寧にみていきましょう。物語はトトロと同じく「引っ越し」から始まります。しかし、元気だったトトロの2人に比べ、やせっぽちの千尋はあきらかに無気力で不機嫌、かったるそうな表情です。新しい学校に「あっかんべー」するなど千尋は引っ越しと転校に全く納得していないようです。友達からもらった花束がしおれて悲しむ千尋ですが、その気持ちをおもいやることもなく、母は「しゃんとしてちょうだい」と千尋を注意します。千尋が感じている落ち込みや悲しみを汲むことはなく、両親は自分たちの都合で精一杯のようです。そして、千尋は無気力な表情のまま、それに反抗するというわけでもありません。

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わたし、行きたくない!

 引っ越しの理由はよくわかりませんが、千尋は大人の都合に振り回され、それに不満を抱いています。トトロのサツキとメイのお母さんなら「ああ見えてあの子たち無理していたと思うの。さつきなんて聞き分けがいいからなおさら」などという子どもの真意を汲み取る”神対応”で、千尋の悲しみや不満を汲み取ろうとするでしょう。しかし、千尋の母親にはそんな視点はまるでないようです。迷い込んだ世界の入り口で、正しくもその不穏さを感じて「(行くのを)やめよう!」と両親を止める千尋に対して、母は「千尋は車の中で待ってなさい。」と言います。そして渋々着いてくる不安な千尋に「千尋、そんなにくっつかないで。歩きにくいわ。」と突き放します。この一連の母親の対応を、私は「ジブリ史上に残る”塩対応”」と呼んでいます。千尋が危なっかしく川を渡るときも「気をつけなさい」と言いながらも振り向きもしない母の冷たさは、ジブリキャラにあるまじき、と言わざるをえません。

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”俗物”なお父さん

 一方でお父さんもお父さんです。がたいのいいサラリーマンの父は、高級外車をぶっ飛ばし、後部座席の千尋の様子は気にもとめていません。怖いもの知らずなのか、無知なのか、祠などの神聖なものには目も暮れず、油屋の世界にズンズンと入っていってしまいます。母が川を渡る時は手を貸すのですから、妻には気遣いはあるようです。しかし、これまた娘には手を貸しません。そして、屋台に並んだ美味しそうな食事を、お店の人もいないのに「カードで払えるでしょ!」とガツガツと食べ始めてしまうのです。母親もそれに従います。豪快とも言えましょうが、この貪欲さと無神経さ。失礼ながら「俗物」と言う言葉がばっちり浮かんできてしまいます。そして食べ物をたらふく詰め込んだ2人が豚になってしまうという衝撃的な幕開けを迎えます。

なぜ、両親は豚になったのか?


 そう、2つ目の問いはなぜ両親が豚になったかということになります。

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 トトロで学ぶ心理臨床学で書いたように、現実から迷い込んだ世界は、
千尋のこころの世界の反映であり、空想(ファンタジー)であり、夢の世界と言うことができるでしょう。精神分析の夢理論では、たとえ意識的なこころに反したとしても、夢の中で生じることは、その人のこころの世界の反映であり、登場するキャラクターはその人のこころの部分なのです。

 ということは?・・・・・・両親が豚になったことを千尋は怖がっているからそうはみえないのですが、それでも、私はこう考えます。
 千尋は身勝手に引っ越しを決行し、それでいて千尋の悲しみや不満に共感してくれない両親に振り回され、悲しんでいた。そして、彼女の気持ちをないがしろにされることにひどく怒っていたのです。
 実際の千尋は、不満は押し込め、怒ることをあきらめ、無気力で、あまりご飯を食べない(千尋の痩せっぽち具合は、私たち専門家から言えば心配です。体格をさつきやメイと比べてください。)少女になっています。そんな千尋にとって、両親のイメージはまさに貪欲で自分勝手な「豚」だったのです。千尋はあの時、無意識に「お父さんもお母さんも豚みたいだ!」「お父さんもお母さんも嫌いだ!豚になっちゃえ!」と思っていたのです。それがファンタジーの世界=夢の世界で実際に起こってしまいました。元を辿れば、実はそれは千尋の願った望みだったのです。
 完璧な大人などは存在しません。なので子どもは「親なんか大嫌いだ!」「親なんか死んじゃえ!」というbadな気持ちを時にはもつのです。それが全ての気持ちという訳ではなく、そう思うことは自然なことです。
 千尋のこの後の戦いはお父さんとお母さんを人間に戻すことが目的になるわけですから、永遠に豚になってしまっては困るのです。ともかく千尋は自らの怒りによって両親を豚に変えてしまい、得体の知れない世界に一人ぼっちになってしまったのです。帰り道が閉ざされ、怖いお化けたちが闊歩する世界で千尋はピンチに陥っていきます。

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 リアルな大人像


 千尋の両親像はジブリ映画の中でも特筆すべきキャラクターで、他のジブリ作品ではこんなにも俗的で、それだけ身近なキャラクターをみることができません。他のジブリ作品では、親や大人は思いやり深い良い親ですし、たとえ悪者であっても、もっと信念や策略があります。この両親はそういうわけでもなく極めてリアルなことが特徴です。私は2人を「俗物」と感じますが、人のことは言えません。それはまるで自分とも重なってきます。子どものこと、他者のことにそこまで気を回す余裕がなく、「ちゃんとしなさい」と口を出し、学校行きなさい、勉強しなさい、と怒ってばかり。それでいて自分達は美味しいものには目がなくて、自己中心的。子どもを愛することや育てることが目的のはずなのに、いつのまにかお金を稼ぐこと、美味しいものを食べること、贅沢することが目的になってしまっている。千尋の両親は、そんな現代のリアルな私たち大人を表しています。そして、その大人の世界の中で育っていく子どもの姿とその困難さを、この作品は描きたかったのだと私は感じます。
 子どもたちはそんな矛盾に満ちた親たちに反発を感じたり、怒ったりしています。そしてその一方で大事なことは、その同じ親を大事に思い、切実に必要としているのです。

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 キャラクターの意味するところ(メタファー)


 さて、あの世界が千尋のこころの反映であること、そして「千と千尋」が現代のリアルなこころについて描こうとしていること、この2つの理解を元に考えると、登場するキャラクターの意味するところが浮き彫りになってきます。
 湯婆婆は、「働かざる者食うべからず」と考える社会の規範や義務を表していると考えることができましょう。それは厳しいこころの部分です。そして後半に湯婆婆とは対称的な双子の銭婆婆というやさしい魔女がいることがわかってきます。これは保護的なこころの部分です。そして大きな赤ん坊の坊は、泣きわめいてわがままを言いたい千尋のこころの部分を反映しています。カオナシは、名前の通り自分の顔を無くしてしまった寂しい千尋であり、それは両親とも重なります。カオナシは貪欲な欲望を隠し持っていることが後でわかります。これらは心理学的に言えばメタファーであり、千尋のこころの世界の反映なのです。
 そして、少年ハクはいったいなんなのでしょうか?ハクは湯婆婆に弟子入りしていますが、必ずしも悪そのものというわけでもないようです。

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千尋の成長物語

 油屋の世界のキャラクターが、千尋のこころの反映で、黒い部分や欲望、怒りなどを表している。それは、まさに現代に生きる私たちが抱えているこころの闇とも共通しているでしょう。そして、もちろん闇だけではなく、力や希望も隠されています。この理解の鍵を身につけることで、この後の千尋の冒険の物語の意味を理解する準備が整います。
 千尋は自分のこころに潜む闇の部分と戦い、そして自分の中に力を発見し、成長していくのです。それは「となりのトトロ」よりもずっと危険に満ちていて、実のある戦いです。そして何よりも、私たちの自身の中にも潜んでいる重要な戦いを千尋が繰り広げるからこそ、私たちの心を打つのです。
 千尋の顔つきが後半に従って、引き締まって逞しい表情になっていくのが
この映画の見どころの一つなのです。

 前回の連載でも述べたように「となりのトトロ」に不満があるとすれば、それはあまりにも”神対応”に恵まれた子どもたちの姿を描いているところです。むしろ私たちに必要なのは、思い通りにならないシビアな現実、避けられないトラウマや欲求不満という”塩対応”に囲まれ、生きづらさを抱えながら、どのようにそれを乗り越え、成長していくのか?というテーマなのです。
 千尋はこの複雑で、怖い、そして実はリアルな世界でいかに成長するのか?そのために何と戦い、どんな誘惑にさらされ、何を見失いそうになり、そして見出していくのか?豚にしてしまった両親を元に戻すことができるのか?この後の展開にそのヒントは隠されています。
 実は両親の”塩対応”には理由があり、荻野家の隠された秘密と悲しみがそこにあると私は考えます。そして、最大の謎、ハクとは一体誰なのか?ともそれは関わってくるのです。
 また次回の連載でお会いしましょう。


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