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【岩田温大學】東京大空襲 襲い来る赤い吹雪

前代未聞の無差別 都市焼夷爆撃作戦

 昭和二十年三月十日。この日は日本民族が存在する限り、広島、長 崎の原爆投下の惨状と共に忘れてはならない日である。この日の東京大空襲の悲劇は、大東亜戦争中の日本国内におけるとりわけ悲惨な事件であったといえよう。

 東京大空襲。それは紛れもなく、非戦闘員たる民間人の殺戮を目的として為されたアメリカ軍による蛮行であった。我々が忘れてはならないのは、この東京大空襲は、戦争の遂行中に偶然為された作戦ではないということだ。実に事前に周到に計画された大虐殺であったのである。

 昭和十八年十月十五日、ワシントンで「日本焼夷攻撃資料」と題された研究資料が発表された。情報担当航空参謀長補佐官によって作成されたこの研究の要点は以下の通りである。

「日本の都市は極めて燃え易く、焼夷攻擊に最適の条件を備え、日本の工業目標は少数の大都市に集中し、しかも密集した民家に囲まれている。したがって工業目標に対して効率の悪い精密爆撃をすることはやめて、都市市街 地を焼くことに専念すべきである。それによって多くの工業目標が破壊できるし、できない場合にも間接的に大きな被害を与えられる」(奥住喜重・早乙女勝元編『東京を爆撃せよ―米軍作戦任務報告書は語る』(八ー九頁)

 驚くべきことに軍自体が工業目標に対する精密爆撃ーピンポイント攻撃ーを中止し、民問人の住む民家を直接爆撃せよと勧告しているのである。

 そして、この中には

「二〇都市の総人口一六六二万人の七一%、およそ一二〇〇万人の家を焼き払って、備蓄食糧、衣料等々を破壊する」(同右)

との文言まで見られるという。計画当初から民間人の殺戮を狙ったこの都市に対する無差別爆撃は、明らかに国際法に違反した作戦である。そして、事前に準備されたこの計画の完遂を目指すべく計画をさらに繰り上げた人物が、アメリカ第二十爆撃軍司令部司令官の任にあったカーチス・ルメイである。ルメイの作戦は破天荒なものであった。B29は、高高度昼間精密爆撃機として大編隊による目視爆撃を前提として開発されていた。だが、ルメイの作戦は夜間に、従来よりも大幅に爆撃高度を下げながら、空襲するという内容であった。B29の前提を覆す作戦であるといってよい。もちろん、高度を大幅に下げることは、爆撃の精度を上げることを目的としたものである。だが、当然それはB29が日本軍の地上からの射撃に命中するリスクが高まることをも意味している。すなわち、ルメイにとってこの東京大空襲は乾坤一擲の作戦でもあった。

運命の三月十日

 三月九日の夜は、風速二十~三十メートルにも及ぶ強風が吹いていた。陸軍記念日にあたる三月十日は、人々がアメリカ軍による空襲の可能性を囁きあっていた。まず、九日夜十時三十分に空襲警報が発令される。この発令とともに人々は、空襲の恐怖に身を震わせていた。ところが、この爆撃機は爆撃を開始することなく引きあげた。東部軍管区情報はこの爆撃機を「洋上ハルカニ遁走セリ」と報じたのである。人々は胸をなでおろし、安堵の声を上げたことだろう。ところが、この後に人類史上の空前の大空襲が始まるのである。人々が安心しきった、その間隙をついて空襲が行われたのである。

 後におとり作戦とも捉えられたこの最初の不気味な爆撃機。後に公開されたアメリカ軍の資料 (米軍作戦任務報告書) によれば、実際には味方機から先行し、旋回しながら南方洋上にあった後方の味方機を無線誘導していた偵察任務をおびた爆撃機であったようである。

 十日零時八分、爆撃が開始された。このとき空襲警報は鳴らず、ようやく警報が鳴り始めたのは、爆撃が開始されてから七分後の零時十五分であった。この七分間の遅れが、被害を拡大したと言われている。雨あられと降り注ぐ焼夷弾、そして折り悪しき強風のためもあって、火災は次々と広がっていった。まるで炎の柱が立つかのようであったと多くの人が述懐しているのは、周知のとおりである。人々はこの灼熱の地獄の中をひたすらに逃げ惑った。

 なお、巷間ではB29が周囲を炎の標壁で包囲し、その後に絨毯爆撃を行ったとされている。だが、公開されたアメリカの資料からは、この作戦は確認できない。少なくとも、事前の作戦では、この戦術は計画されていない。どうやら、炎の柱の余りの凄まじさに圧倒された被害者の心理的な感覚であったようだ。

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