鰯の回遊

一人で葛西臨海公園に行ってきて、鰯の回遊を見てきた。
デザフェス57のライブペイントに活かすためだ。
子どもの頃は優雅にのんびりと魚の魚影を眺めていたものだが、
今見ると、やはり大きな魚に比べ、小さな魚は危機意識に敏感な様子を感じたりする。鮪などの大きな魚が優雅におおらかに泳いでいられるというのは周りに敵がいないという安心感から来るのだろうか。

鰯太という名前を背負って今年で5年目になる。歴としてはまだまだ浅いとこでチャプチャプしてるんだなと、2019年活動開始とかプロフィールに描いた時に思った。あ、たいして活動歴長くないんだなと思われたであろう。俺も見て、ちょっとそう思った。鰯という魚は弱い魚と書く、弱い魚と自分で名乗っているのも、弱肉強食みたいな海の世界においても、弱い立場の魚の視点と同じように、同じ視点を持てたらみたいなこともあったし、どうしたら弱い魚が輝けるかを考えることもまた創造的であるし、弱い魚が強い魚をくじくのもそれこそがドラマチックじゃなかろうかみたいなことも考えたりしたわけである。経歴がすごいわけでも、技術がすごいわけでも、才能がすごいわけでもないけど心意気はズ太い魚の逆襲。そんなことを考えたりした。

今日は雨の中でふと思ったことだけども、雨、ホーム、工場地帯、今の年齢で感じとるこの感覚は、生きてきた記憶、視野視力、嗅覚、聴覚、触覚などと混ざり合い、きっとだれとも違う、たぶん同じ時代を生きてるみなも多種多様に感じてる感覚が、誰にもわかることなく、消えていく。誰にも共有できぬまま消えていく。世界はそういう風にしてはじまりまた消えていく感覚を繰り返しているのではないか。そう考えるとそれを何かに転写して表現する人は少しでもその共有を提示できるものではあるのだが、それをまた感じとる感性も多種多様であり、また誰しもが同じように共有できるものではないものがあるのだと思うと、届けようとしていたはずの何かに対して想いを馳せる尊さに気づかされるのである。わかっているようでわかっていない人間はわかろうとして思いを馳せるが、感覚受容器にそれぞれの特異性からわかりきれないものもわりきれないものもあり、わかるが形成されるとなると、実感という感覚がずいぶん個別に感じられたりもするのである。


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