2019-06-12 01:24:38.wav
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いわしまいわし
ええ。何からお話ししていいものでしょうか。不安な気持ちもわかります。突然部屋からこんなものが見つかってさぞ驚いたことでしょう。今あなたがどんな気持ちでこれを聞いているか手に取るようにわかります。それこそが私の罪なのですから。あなたは人知れず重大な事件に巻き込まれていたわけです。
……実はまだ迷っている最中なのです。事の詳細を明らかにし、罪の告白をするべきなのでしょうか。はたまた私という狂気の中に留めてあなたは何も知らない方が幸せなのでしょうか。それが本当の幸せなのでしょうか。私はわかりません。全てあなたに委ねたいと思います。あなた……いえ百合子さんがこれから先を聞きたくないと思うのならばこのまま停止ボタンを押してください。そして今すぐに別の部屋に越してください。私がそのことを知る方法はありません。
………………そうですか。百合子さんならそうすると思いました。私は止めましたからね。
詳しい自己紹介はなしにいたしましょう。もう会うことはないのですから。私は百合子さんの隣に住む宮田と申します。引越しの挨拶以来でしょうか、こうしてお話しするのは。しかし私が狂い始めたのも確かにその日でありました。不幸と哀愁をその身に携え微笑みを浮かべたマグダラのマリアに私は心を奪われたのです! 熱烈な恋の根本にあるのは好奇心でした。ああ、もし百合子さんを監禁してその一挙手一投足を見ることができたらどれほど幸せなのでしょう。日に日に思いは募っていきました。ですが監視カメラも盗聴器も私の心を満たしてはくれませんでした。それは本物ではないのです。まるで精巧に作られた百合子さんの人形が生活しているようでした。
本物が見たい。その一心でした。決してやましい気持ちではありません。純粋に百合子さんを愛しているのです。あなたが会社に向かった後、私はいつものように部屋に入りました。洗面所にはやっぱり私の部屋と同じ鏡がはまっていました。百合子さんはご存知ないでしょう。あの鏡は少し力を込めると簡単に取り外すことができることを。鏡の後ろには隙間が空いていて男一人、身を潜めるには十分なことを。そしてあなたの家の鏡には鏡ではなく高い金を払って職人に作らせたマジックミラーがはまっているということを。そうなのです。百合子さんが会社から戻ってから次の朝会社に行くまで私はマジックミラーの裏側から生活をずっと見ていたのです。
朝、あなたは洗面所で化粧をしますね。こだわって青森から取り寄せた化粧水、オールドイエローを少し混ぜたファンデーション、リップはナチュラルに。あなたは化粧の乗りを見ているつもりですが、その実私と見つめあっていたのです。私はあなたの目をいつも見ていました。白目に走る血管の太さや虹彩の微妙なゆらめきに心臓を高鳴らせ、百合子さんが鏡の中にいる私を見つめ返している気さえするのです。幸福な一時でした。あなたを怖がらせることなく傷つけることなく私の物にできたのです。百合子さんがあの鏡を覗くたびに知らずして恋の甘い空気が流れこんできました。
……きっとあなたは今恐怖に駆られているのでしょう。今すぐにでも鏡を取り外したくなっているのでしょう。ですが、少しだけ待ってください。後悔したくないのなら絶対に開けてはなりません。中にはこの世の底が広がっています。狂人の生活した残骸がそこにうずくまっています。あなたはそれが見たいのですか?
……いえ、この辺にしておきましょう。そんな話をしたいわけではないのです。百合子さん。私の告白は罪でもあり愛でもあるのです。狂人は私でありますが、その狂人を育て上げたあなたもまた狂人なのでございます。私とあなたとは一心同体であり強い愛によって結ばれているのです。なんて素晴らしい人生だったのでしょう! 愛する人のためにここまで尽くせるだなんて! ……きっと私を憎んでいるのでしょうね。美しい人生を足元から腐らせる劇薬はもう百合子さんの内
にあります。私は気が狂っています。あなたに疎ましく思われることが今となっては本望でございますから。……ああ、そうだ。部屋の蛍光灯が切れかかっていましたから新しいのに取り替えておきましたよ。
しかしそれも今日でおしまいです。私は気づいてしまいました。百合子さんは私のことを見ていないことに。熱心に鏡を覗くのは化粧の乗りを確認するためであって私と見つめ合うわけではない。鏡の中にまるで誰もいないかのように振る舞うのです! あなたはひどい人です。これではまるで幽霊みたいな扱いではないですか。こうして懺悔の言葉を残すのもすべてはあなたに気づいてほしいからなのです。百合子さん。私はあなたに許してほしいわけではありません。声を、言葉を聞いてほしかったのです。思えば今まで声を殺すのにどれほど苦労したことか! あなたには知るよしもありませんね。
最後に一つだけお願いがございます。……このことを全部忘れて欲しいのです。今までのことは全部嘘です。……アハハ! そんなことあるわけないじゃないですか。大体、鏡の中に人が入るなんてそんな馬鹿げたこと実行するなんてありえない。そうでしょう。……ただ、万が一です。万が一のことを考えて今すぐにここを出なさい。そして今度こそ全て忘れなさい。これは悪夢が極まっただけなのです。それでは、さようなら。永遠に。