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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 36
第4章-12.フランクフルト、1836年:クリスマスに休暇を
また数週間後には、こんな手紙が――。
ライプツィヒ、1836年11月26日
親愛なるフェルディナント、これが君の序曲です(僕のサインが入っているのが気に入らなければ、クリスマスに代替品を持って行って交換します)。それから君が欲しいと言っていた君の歌曲のコピー、僕がホフマイスターのところまで出向いて手に入れました。
楽しい長い手紙をありがとう、でも今はそれにちゃんと返事できる気分じゃないのです。3週間後にフランクフルトに帰れるかどうかの瀬戸際なんだ、神様お願いします。手紙で知るよりも、自分で直接見聞きできる方が最高なので。
写譜家がこんなに僕を待たせなければ、もっと早くに序曲を送ってあげられたのですが。ホ長調は次のコンサートで再演します。ニ短調についてみんながどう言うか、楽しみです。
馬車はおそらく、クリスマスには返しに行けると思います。少し修理しておきました。大工がこれで完璧だと言ってました。君のお母さんに、貸してくださってありがとうと伝えてください。
スタマティが、パリに帰る前にフランクフルトに数日間寄るそうです。僕は彼がドイツ語と二重対位法を耳で会得したと報告しておきます。そして三週間後には、僕もフランクフルトにいられますように、神様。
ああ、もし僕がプファライゼンにいたら! 君に「こんばんは」と挨拶して、右に曲がります。だけど今日はこれしか言えない、「またね」!
君のお母さんによろしく。
あなたの フェリックス M.B.
彼がクリスマスに婚約者とすごした短い滞在については、私はほとんど話すことがないが、思っていたより頻繁に彼と会えた。
彼は、チェチーリア協会が私の指導のもと『聖パウロ』の練習を始めたことに非常に興味を示してくれた。
私達の公演は、ライプツィヒで彼自身が指揮した初演に続く二度目の公演だったが、デュッセルドルフ音楽祭での自筆譜での演奏を含めると実際は三度目だった。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前回は婚約してから最初の手紙という事で、離れ離れになっていることにイライラした様子も若干控えめだった。
今回は、離れてから3か月目に突入し再度イライラが募ってきている、11月26日付の短い手紙を紹介する。
お互いに「送ってくれ」「送ってくれない」と言い合っていた楽譜について、とりあえずここでメンデルスゾーンからヒラーへ2つの楽譜が送られたらしい。
まずひとつめはヒラーの序曲ホ長調。既にメンデルスゾーンによってゲヴァントハウスオーケストラのコンサートで演奏されたものだ。実際に演奏に使ったバージョンの楽譜をメンデルスゾーンのサイン入りで送ったという事だろうか。
サイン入りが気にくわなかったら交換するよ、と冗談交じりの口調がかっこ書きで書かれていた。ヒラーがどう返したのか、少し気になる。
そしてふたつめ、ヒラーからリクエストのあった歌曲のコピー(印刷版か)。わざわざホフマイスターまで行って入手してあげたんだよ、と若干恩着せがましい言い回しだ。
ホフマイスターというのは、ライプツィヒに本社を置くの音楽出版社のことと思われる。
○フリードリヒ・ホフマイスター音楽出版社(Friedrich Hofmeister Musikverlag)
フリードリヒ・ホフマイスター(1782-1864)によって1807年にライプツィヒで創業された、現在まで続く老舗の音楽出版社。
楽譜や教本の販売・レンタル・出版・海外出版物のライプツィヒ版出版などを幅広く行い、ライプツィヒを音楽出版の中心都市に押し上げた。
ベートーヴェン、ケルビーニ、ウェーバー、フンメル、フィールド、ショパン、リスト、シューマン夫妻、ベルリオーズ、マーラーらの楽譜を出版。 新人作曲家の楽譜を積極的に出版し支援することを、創業当時からの伝統としている。
1829年から1900年まで、音楽出版情報誌「ホフマイスター月報(Hofmeister Monatsbericht)」を刊行。33万タイトル以上の楽曲の出版情報を提供しており、近現代音楽史の貴重な資料となっている。
公式サイト
資料によっては、いわゆる海賊版や作者の許可を取らない編曲版などを出版して、作曲家をビキビキさせたりしていたという記事もある(ちなみに当時の法律ではどちらもアウトではない)。リストとベルリオーズが、そのせいで一時ホフマイスター社と疎遠になったとか。
ホフマイスター月報は詳細なアーカイブサイトがあり、検索も様々な方法でできるので、お時間ある方はちょっと遊んでみてほしい。
試しに、メンデルスゾーンがこの時送ったかもしれない、1836年近辺のヒラーの歌曲を探してみたら、1834年にホフマイスター社からハイネの詩による12の歌曲集が出ていた。もしかしたらこれかなあ。
当時の演奏家や音楽愛好家たちがこれを見て、次にどの楽譜を買おうか決めたり、推し作曲家の新譜をチェックしたりしたのかなと思うと、ちょっと楽しくなる。
前回の手紙で何度も何度も「長くて詳細な返事」を催促していたメンデルスゾーン。どうやらヒラーはその要望に応えて、楽しいニュースのたくさん入った長い手紙を書いたようなのだが、その返事がひどい(笑)。
今はそのエピソード一つ一つに返事できる気分じゃない、ってそんな。ヒラーの立場は?
その理由が、来るクリスマスに休暇をとって、婚約者セシルさんの待つフランクフルトに帰れるかどうかが気になってしょうがないから。手紙で知るよりも直接見聞きしたいんで、とは、いやそれはそうだろうけど。ヒラーの立場は?(2度目)
自分だったらもうしばらく数行しか手紙書かないかもしれない。
しかしメンデルスゾーンはこの短い手紙の中で、2度も神の名を呼び(書き)祈っているのだ。本当にフランクフルトに帰りたくて仕方ないんだなあ。ヒラーもそう思って、一瞬高ぶった怒りを鎮めたに違いない……。
序曲の楽譜を送るのが遅れた理由を、しれっと写譜家のせいにしている。当時はもちろんコピー機などないので、楽譜を写すプロ・写譜家という職業が存在した。
誰でもできるわけではなく、ある程度は音楽の知識が必要なので、作曲家の卵や演奏家が副業のように引き受けることもあったようだ。
ゲヴァントハウスオーケストラくらいの規模になれば、お抱えの写譜家もいたかもしれない。そうでなくても馴染みの写譜家はいただろう。コンサートの度に、人数分のパート譜が必要なのだ。
ちなみにこの写譜家がいい加減な仕事をした場合にどんな惨劇になるかは……容易に想像できる。悲劇だ。
音楽家たちには好評だったヒラーの序曲ホ長調は、もうすぐ演奏するらしい。前回言っていた、事後承諾で演奏許可を取った件だろうか。
そしてもう一曲の序曲、「古典戯曲くん」のあだ名のもととなった序曲ニ短調は、前回の手紙から予定が変わっていなければ翌年1/8に演奏予定だから、その前の練習でオーケストラメンバーがどう評価するか楽しみ、ということか。
この序曲ニ短調については、この後メンデルスゾーンとヒラーの激論のきっかけとなる。お楽しみに(?)。
フランクフルトからライプツィヒに戻る際に、ヒラー母から借りた馬車、メンデルスゾーンはなんと修理をしてくれていた!
借りた時よりきれいにして返す、素晴らしい心がけだ。ヒラー母からの評価がまた上がるだろう。
クリスマスには返せるはず(休暇をもぎとってそっちに帰れれば!)(帰りたい!!)、という行間が見える気がする。
メンデルスゾーンから対位法を習っていたスタマティは、パリに戻る前にフランクフルトに寄るらしい。
当時のフランクフルトには、リースはじめ多くの楽壇の重鎮がいた。ヒラーもスタマティと会えただろうか?
スタマティは二重対位法とドイツ語を耳で習得したとのこと。二重対位法……筆者は分からないがなんか難しそうだ……対位法はマスターしたということだろうきっと。そして『ドイツ語』は、底本ではフランス語で表記してあった。フランス訛りのドイツ語をマスターしてたよという、ちょっとした皮肉だろうか?
そしてスタマティの3週間後には自分もそっちに行けるはず、行きたい! お願い神様! と二度目の神への祈り。メンデルスゾーンめっちゃ必死だ。応援したくなってくる。
もし今自分がプファライゼンにいたら、ととうとう妄想が飛び出した。
繰り返しになるがプファライゼンはヒラー宅がある地区だ。この文章を筆者は、もし自分がヒラーの家にいたら、ヒラーに挨拶だけして、すぐ右に曲がってファールトーアのセシルの家に行くね、という意味にとった。
当時の詳細な地図でも手に入ったら、検証してみたいところだ。
だけど今はヒラーに挨拶することも、そのままセシルの家に直行することもできず、ただ「またね」と手紙を結ぶしかできないとのこと。
ここの文章わりとエモいなと思った。どこか和歌に似た趣を感じる(?)。つまり悪く言うと回りくどいのかもしれないが。
さて、ヒラーによる後日談の通り、神への祈りは通じ、メンデルスゾーンは無事この年のクリスマスをフランクフルトで過ごせたようだ。
滞在は短いものだったうえ、ヒラーともそこそこ頻繁に会っていたようなので、セシルさんとどれくらいゆっくり過ごせたのかは分からない。
メンデルスゾーンはヒラーから聞いたチェチーリア協会の近況に興味を示してくれたとのこと。
その内容はなんと、メンデルスゾーンのオラトリオ『聖パウロ』だ。
以前の記事で、1836年5月にデュッセルドルフで開催されたライン下流域音楽祭での聖パウロの初演について紹介した。
メンデルスゾーンはその後、この楽譜をさらにブラッシュアップし、ライプツィヒのパウリナー教会で自身の指揮による演奏をしたのが1837年3月だ。フランクフルトでの演奏はその後ということだろうか。
だが他の資料によれば、その前に仏・パリ、英・リヴァプール、米・ボストンでも演奏記録があるらしい。英語詞のものはカウントに含めないのだろうか? この辺りもう少し調べてみます。
普通にヒラーの勘違いの可能性もないではないから困る。
次回予告のようなもの
無事クリスマスをフランクフルトで婚約者と過ごせたメンデルスゾーン。
次の手紙はクリスマスも終わった1837年1月10日付。ライプツィヒに戻って笑ってしまうほど落ち込んでいるメンデルスゾーンをご紹介。同情をひくこと請け合い!
次回、第4章-13.ほら、カツラだよ! の巻。
来週もまた読んでくれよな!
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