「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 6
第1章-5.フランクフルト、1827年:新曲の作曲
作品数は少ないが、シェルブルは作曲にも深くのめりこんだ。
彼の判断は大小を問わず非常に鋭く、音楽に対する彼の発言は、示唆に富み興味深いものだった。
彼がフェリックス少年を協会に紹介したとき、フェリックスは素晴らしい即興の才能で熱狂的な好意を勝ち取った。そのためシェルブルは、メンデルスゾーンの合唱作品をベルリン以外の街で演奏した最初の人物となった。
フェリックスはフランクフルトに着くやいなやシェルブルに会いに行き、私もそれに同行した。
メンデルスゾーンが最初に演奏したのは、数曲のモシェレスの練習曲。出版されたばかりだったが、フェリックスはそれについて熱意をもって語り、並外れた活気と明白な喜びをもって、心を込めて演奏した。
だが私たちが期待していたのは、彼自身の新曲だ。最も愛らしく優美で魅力的な、完成したばかりの弦楽四重奏曲イ短調(※)を演奏したときの驚きは、すごかった。
自身のサークルではこの作品があまり評価されず、孤立感を持っていた彼は、私達の反応を見て喜んだ。
そして彼は、序曲「夏の夜の夢」を演奏してくれた!
彼はこの曲についてどれだけの時間と労力をかけたかを、こっそり私に教えてくれた。ベルリン大学での講義の合間に、近くに住む美しい女性のピアノを借りて作曲していたのだと。
「一年間、これ以外ほとんど何もしなかったよ」と彼は言った。そしてもちろん、その時間は無駄ではなかった。
去年の春にベルリンで演奏されたオペラ「カマチョの結婚」が失敗に終わり、彼はこの事をおどけ半分嘆き半分で私に語った。
彼は私を楽しませようと、この件について心配する人々とのさまざまな対話を逐一ドラマチックに取り上げてくれた。どの程度真実かはわからないが、とにかく、とても面白く生き生きと。
しかし私はこれらのやりとりについて、私の貧弱で不確かな記憶を書き留める必要がない。友人としても音楽家仲間としても親しかったエドゥアルト・デフリエントが、著書「メンデルスゾーンの生涯」の中で、このエピソードまるごと詳しく説明してくれているからだ。
フェリックスは友人達を交えてビンゲンまで行かないかと私を誘った。両親は喜んでこの小さな遠足を許可してくれた。
一泊したマインツで小さな船を雇い(まだ乗合蒸気船の時代だ)、食べ物飲み物をあらゆる種類どっさり積んで、そして我らは父なるライン河の悠久の流れを下って行った。
話し、笑い、すべてを誉めたたえた。私達がハマったある種のジョークを思い出したので、見本としてここに提示しよう。
メンデルスゾーンが突然、私たちのひとりにこう尋ねた。
「ろうそく消しの事、ヘブライ語で何て言うか知ってる?」
『ねずみの塔(モイゼ・トゥルム)』が見えてきた時、私の休暇はここで終わり、リューデスハイムで船を降りなければいけないと言うと、皆はそれを知らなかったらしく、また私も「もっといてくれ」という説得にいとも簡単に頷いてしまった。
だが仲間達もホルヒハイムで下船し、私は夜のコブレンツで一人きり、かなりまずいことになったと気付いた。
家までの旅の記憶が鮮やかに思い出されたので、私の自己満足のためにここに記録したい。読者の皆様方はきっとお許しくださるはず。
※注 弦楽四重奏第2番 イ短調(op.13)。歌曲「本当に?(Ist es wahr?)」を含む。
以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前回(第1章-4)から引き続き、シェルブルさんの功績をたたえるところからスタートする。
紹介したメンデルスゾーン少年が協会のみんなから気に入られたので、シェルブルさんはメンデルスゾーンの合唱作品をフランクフルトで演奏できた。
なんとなく、演奏する曲は音楽監督かスポンサーあたりが(半ば独断的に)決めるものだとばかり思っていたので、少しだけ意外だった。
第2章にも出てくるのだが、当時のオーケストラや合唱団で演奏曲を決めるときは、現代よりも、楽団員の意向が強く反映されているような気がする。
……と言っても、現代のオーケストラがどのようにして上演作を決めているのか知らないのだが。団員の多数決で決めることとかあるんだろうか。
メンデルスゾーン、数年ぶりの協会訪問。メンバーは増えてはいるものの、昔いた団員はほとんどそのまま所属している。
大歓迎を受けたに違いない。そして、何か演奏してくれないかなという期待も。
その期待にお応えしてメンデルスゾーンがまず演奏したのは、モシェレスの練習曲。「出版されたばかり」とあるので、1827年に初出版された「24の練習曲(op.70)」だと思われる(リンク先はIMSLP)。
現在でもピアノ中級~上級者の練習曲として使われており、amazonで楽譜も買える練習曲だ。
それはもちろん素晴らしい演奏だったのだが、それじゃないんだよなあもう一声! と言わんばかりに協会のみんなが聞きたがっていたのは、彼自身の新作だった。
そして満を持してメンデルスゾーンが、待ってましたの新曲、弦楽四重奏曲第2番 イ短調(op.13)を演奏(リンク先はIMSLP)。
ベートーヴェンの弦楽四重奏に影響を受けて書いたとされるこの曲は、当時の音楽シーンの中では、特にどちらかというと保守的なドイツ音楽の中では多少なりとも前衛的ととらえられるものだったと思う。
事実、自分の仲間たちからはあまり評判がよくなく、ちょっと拗ねかけていたメンデルスゾーンは、チェチーリア協会のメンバーが喝采をくれたことが嬉しく、そしてホッとしただろう、きっと。
いくら才能ある音楽家でも、とんがってても、そこは18歳の青少年なので。
そして嬉しくなったメンデルスゾーンは、続けて「夏の夜の夢」を演奏した。
演奏会用序曲「夏の夜の夢」ホ長調(op.21)は、もともとは姉・ファニーと連弾で演奏する用に作った曲だという説がある。
IMSLPには「作曲者による?」とクエスチョンマークつきではあるが、ピアノ連弾編曲もある(ただ、そちらは2台ピアノ8手連弾だが……)。
ともあれ、この序曲はとても人気を博し、のちに劇付随音楽として組曲の中に組み込まれる(op.61)。
ヒラーはこの時、夏の夜の夢作曲裏話をコソッと教えてもらったらしい。
ベルリン大学は、今もベルリンにある歴史ある大学。メンデルスゾーンの生きていた時代も、名教授の集まる象牙の塔だった。
メンデルスゾーンは裕福な家庭で育っているので、小さなころから超優秀な家庭教師が何人もついていた。
その中の一人・ヘイセさんに、趣味で訳した古代ローマの喜劇作品を渡したら、その訳が素晴らしすぎて出版まで至った。
そしてその訳本の出来の良さでベルリン大学で学ぶ資格ありと判断され、1826年~29年に哲学・地理・歴史などを学んだらしい。経緯がすごすぎる。
それらの講義の合間に作曲をしたそうだが、ここで気になる一文がある。
メンデルスゾーンがピアノを借りたという「近くに住む美しい女性」。……誰だ!?
どう調べていいかも思いつかず結局調べきれていないのだが、筆者はこれ、姉のファニーさんのことじゃないかとぼんやり思っている。
姉のファニーは、数年のお付き合いを経て1829年に画家のヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚し、その後もベルリンのメンデルスゾーン邸の一部に新居を構え生涯をベルリンで過ごす。
この時はまだ独身で、でもたぶんヘンゼルさんとのおつきあいはしていた頃だろう。
ベルリン大学とメンデルスゾーン邸(ライプツィガー通り3番地)は、1.8kmほどの道のりで、近いといえる距離だ。
「美しい女性」云々は、メンデルスゾーンがそう言ったというよりは、ヒラーがふざけてこう書いたような気もする。知らんけど。
誰か何か情報があったら教えてください!!
1年間これだけに労力をつぎ込み、できた曲はもちろん名曲だった。
だが残念ながら、好評を得られなかった曲もある。そのひとつが、メンデルスゾーン最初で最後のオペラ作品「カマチョの結婚」だ。
セルバンテスのドン・キホーテから題材をとったこの作品、メンデルスゾーンの生前には1度きりしか上演されなかった。
1827年4月19日の初演を聴いていたメンデルスゾーン自身が、以降の上演予定を全部キャンセルしたからだ。
なぜかユダヤの出自をからめた批判を受けたりして、18歳のメンデルスゾーンは相当参ったのだと思う。彼はこれ以降、オペラ作品を作らなかった。「音楽家はオペラを書いて一人前」くらいに思われていたあの時代にだ。
今は蘇演も果たされ録音もある。本当に駄作だったのか、いつか見てみたい。
オペラの失敗に関しては、第1章-1でもちらっと登場したエドゥアルト・デフリエント氏の別の伝記に語るを譲り、ヒラーの回想は「小さな遠足」のエピソードになる。
第1章-4冒頭で、アルバムリーフの中にメモがあったとヒラーが言っていた「エーレンブライトシュタイン」も含め、ヒラーのたどった道のりを地図にしてみた。
画像クリックで地図に飛べる(はずな)ので、よかったら航空写真モードにしたり拡大したりして遊んでみてください。
この項ではフランクフルト~マインツ~ねずみの塔~ホルヒハイム~コブレンツまで。それ以降は次回の投稿分に出てくる。
ライン河流域はこの時代から人気の観光ルートで、お金のある人は船で、お金のない人でも川沿いを歩いてor馬車で観光旅行ができた。
メンデルスゾーンとその友人たちに混ざって、ヒラーは大いに船旅を楽しんだようだ。
彼らがハマったジョーク「ろうそく消しの事、ヘブライ語で何て言うか知ってる?」についても色々考えてみたのだが、ユダヤ教の知識が全くないので手に負えなかった。
ただ、ユダヤ教ではろうそくの灯が神の恩寵を表すそうなので、ろうそく消しのことはきっとあんまりいい意味じゃないんだろうな、という推測をした。不届きものとか不信心者とかなのかな?
誰か何か情報があったら教えてください!(二度目)
「ねずみの塔」(ドイツ語でMäuseturm)というのは、リューデスハイム近くの中州に立つ小さな塔。
同じ名前の塔がドイツやポーランドに複数あり、どうしてなんだろうと思ったら、Mäuseはもともと中高ドイツ語の「潜む」という意味の単語musenからの変化ではないかとのこと。戦時は見張り塔として機能していたことを思うと納得できる説だ。
Mautturm(料金所)から来ているという説もあった。ここで通行料をとっていたことから、らしい。
ほかにも悪い大司教がネズミに食べられて死んだとか暴君がネズミに食べられて死んだとかそんな伝説もあった。こわ……。
この時代は、増えてきた船がぶつかったりしないよう管制塔や信号塔のような役割もしていたようだ。
今見られる、写真に写っている塔は1855年にプロイセンが建てた信号塔。
比較的当時に近い1820年の、ねずみの塔が小さく描かれている絵がこちら。
廃墟からの眺め、ということらしいが、この右隅の、朽ちかけた壁の向こうに見えるのがねずみの塔だ。
隣の穴からは帆船が浮いているのも見える。手前には望遠鏡をのぞいている紳士淑女の二人連れ。観光中かな? のどかだね~。
さて、ねずみの塔はリューデスハイム近くにある塔なので、これが見えてきたということは、ヒラー下船の時が来たということだ。
だが、友人たちは聞いてないぞとブーイング。ヒラーもよっぽど楽しかったんだろう、それじゃあもうちょっと乗ってようかなー! と、あっさり予定変更。
そして気付いた時には、仲間たちは解散し、ヒラーはひとりコブレンツの街に放り出されたのであった……ヒラーの命運やいかに!?
次回予告のようなもの
今回はなんか、こちらが次回予告をするまえに本文でヒラーが次回予告をしてくれている。
次回は第1章-6。
フランクフルト、1827年:とある冒険譚 の巻。
遠くの街で一人放り出されたヒラー少年は、果たして無事に家に帰りつくことができるのか!?
乞うご期待!