「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 35
第4章-11.フランクフルト、1836年:ヒラー『序曲ホ長調』
結局僕が君に何を伝えたかったかというと、二度目の会員制コンサートのことと、僕達全員を心から感動させた君の序曲ホ長調のことです。
オーケストラでの演奏はとても独創的で美しく、とても僕好みの音色でした。ピアノで聞いていた時は気付かなかったいくつかの部分も、オーケストラで聞くと見事で、特に全音がフォルティッシモに下るところ(とても広大で力強い、君のお気に入りのパッセージ)と華々しい音、うちの管楽器がとても心を込めて演奏したので、すごくよかったです。
ダヴィッドは弦楽器パートを全てダウンボウで演奏させました――これは一聴の価値ありです。そして管楽器の柔らかな音の後の、ホ長調のピアニッシモへの回帰!
全曲通して今までのどの曲よりよかったし、僕の知っている新しい曲の中で一番好きです。
いわゆる大衆たちは、僕が期待したほど喜んではいなかったけれど、まだよく理解できていないだけなのでしょう。昨今ドイツで人気を博しているオーケストラ曲の作曲家の中で、君の名前を見たことがなかったからというのもあると思います。
なので、劇場の支配人がすぐ次の日に、一、二週間後の劇場コンサートでの序曲の演奏を依頼してきたことはラッキーでした。私は彼に約束しました(君が許してくれるといいんだけど)。
1月8日に序曲ニ短調、それから冬の終わりには二曲とも再演したいと思います。
批評誌が何と書いたのか、僕は読んでいないので知りません。フィンクは「美しい文章が書けたよ」と言っていました。シュ〇〇も詳しく書くつもりだそうです。何かいいことがあるかもしれません(※)。
でもそんなことどうでもいいですよね? ここの音楽家たちはみんな、この曲をとても気に入っています。それが一番大事なことです。
それにしても、僕のピアノピースはいつ発売されるんでしょうか?
君はチェチーリア協会の事を、鼻高々で自慢しない方がいいですよ。我々ライプツィヒっ子達は、「エジプトのイスラエル人」公演に向けて準備を始めました。これはちょっとすごいものになりますよ。
200人以上の歌手が、オーケストラとオルガンを伴奏に教会で歌うので、とても楽しみです。僕達はそれを約一週間で発表します。
リハーサルでは全てのアマチュア歌手が、女性も男性も全員一斉に歌ったり叫んだりして、一瞬も黙ってくれないのです。僕の頭の中に今もグルグル渦巻いていることのひとつで、一筋縄ではいかない問題です。
指揮者に従順であるように訓練されているチェチーリア協会で、君はうまくやっているでしょう。でも彼らは仲間内で批評しあっているから、それもあまり良くないですね。
ごちゃごちゃ書いたけれどはっきり言うとですね! ファールトーアにいたかったです。あ、プファライゼンにもね。君が信じてくれるかは分からないけど。
スタマティがこちらへ来ていて、僕が彼に対位法を教えることになりました。僕自身、よく理解できていなかったと言わざるを得ません。彼が言うには、僕が謙遜してるらしいですけど。
ああそうだ、馬車! 君には感謝してもしきれません。
君はフリーメイソンでしたっけ? ここのロッジにはフリーメイソンの誰かが作曲したらしい男声四部合唱曲があると、皆が言っています。
春にイタリアへ旅行する予定はまだ変わっていませんか? 親愛なるヒラー、君が長い手紙をすぐに送ってくれることと、僕に静寂が訪れること、あと僕が少ししか手紙を書かなかったからと言って君も同じくらいしか書かないなんて意地悪をしないでくれることを祈っています。
君のお母さんにくれぐれもよろしく伝えてください。お元気で。いいことがありますように。返事早く書いてね。
君の フェリックス M.B.
※注 フィンクは当時の主要な音楽雑誌「一般音楽新聞」の編集者。シューマンは「新音楽時報」の編集者だった(編集者注)。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前回に引き続き、1836年10月29日付の手紙を紹介している。
なかなか勝手な事ばかり書いていた前半と比べて、後半はライプツィヒの音楽監督らしいことなどを書いている。
前半で自分が手紙をなかなか送れなかったことの弁解や、半分逆ギレのような手紙の催促などを書いていたメンデルスゾーンだったが、ヒラーに一番伝えたかったのは、「二度目の会員制コンサートで演奏した君の曲、うまくいったよ!」ということだったらしい。
ヒラーの楽曲は現代ではほとんど忘れられ、演奏機会もほとんどない。録音もピアノ曲が主で、序曲ホ長調の音源は見つけられなかった。そもそもヒラーの「序曲ホ長調」が見つからないのだ。
ヒラーは演奏会用序曲を2曲(うち一曲が、以前の記事で注として言及のあった序曲ニ短調)と、戯曲や詩を題材にした序曲を2曲、ヘンデル風の序曲を1曲残している。だがどれも調性はホ長調ではない。IMSLPにはその他に序曲のスケッチがあるが、ホ長調はこれだけだ。
このスケッチが序曲ホ長調で結局出版はしなかったのか、それとも他に序曲ホ長調が存在するのかはまだ突き止められていない。
メンデルスゾーンがこんなに絶賛している序曲、聴いてみたいのに。
曲の内容については音楽に詳しくない自分にはイマイチ分からないが、若干興奮気味の筆の様子からも、メンデルスゾーンがこの曲の演奏の出来に非常に満足していることがよくわかる。
ダヴィッドは以前の記事でも紹介したヴァイオリニストのフェルディナント・ダヴィッド。メンデルスゾーン率いるゲヴァントハウスオーケストラで1835年からコンサートマスターを務めている。
全てダウンボウで演奏、というと、力強く安定した音になる……という感じだろうか? あー聴いてみたい。
ヒラーの序曲ホ長調、メンデルスゾーンは絶賛していたしオーケストラのメンバーにも大好評だったようだが、一般聴衆には思っていたより受けなかったらしい。聴き慣れれば良さが分かってもらえると思うよ、とのことだ。
また、作曲家としてのヒラーがドイツではまだ知名度が低いことも原因として挙げている。
ヒラーはまだドイツに戻ってきたばかり。フランスではそこそこ人気だったが、ドイツではまだ名が知られていないということか。また、どちらかと言えば「ピアノ曲の作曲家」として知られていたため、「ピアノ曲作家がオーケストラ?」と斜めに見られた可能性もある。
すぐに次の演奏の機会があったので、すかさず「ヒラーの序曲やります!」と約束したメンデルスゾーン。作曲者のヒラーには事後承諾になったが、ここで断る理由もないだろう。
さらに1月8日には序曲ニ短調、冬の終わりにはホ長調・ニ短調ともに再演予定とのこと。メンデルスゾーンはよほどこの曲を推しているのだろう。
メンデルスゾーンは曲の好みにはとてもうるさかったが、たとえ自分の好みに合わなくとも友人の音楽活動は応援するタイプだった。それでもヒラーへの手紙でもここまで褒めているのだし、きっと好みにも合っていたのだと思う。思いたい。ああー聴きたいなぁ。
聖パウロをこき下ろされてからこっち、メンデルスゾーンはめっきり批評誌に強く警戒するようになってしまったらしい。基本読まないが、知り合いが書いていれば目を通す(あるいはどんな記事を書いたのか口頭で教えてもらう)ことがある程度のようだ。
ここで二人の音楽批評家(音楽誌の編集者)の名前が挙がる。まず一人目はフィンクさん。
★ゴットフリート・ヴィルヘルム・フィンク(Gottfried Wilhelm Fink,1783-1846)
ドイツの作曲家、音楽評論家、音楽教育家、詩人、聖職者。
1800年代初頭から「一般音楽新聞」の編集者となり、1827年から15年間編集長を務めた。
〇一般音楽新聞(Allgemeine musikalische Zeitschrift)
ドイツで定期刊行されていた音楽新聞。1798年創刊。
ドイツで最初の音楽専門誌であり、19世紀当時のドイツで最も有力な音楽誌だった。1798年から1848年まで週刊誌として発行され、その後一時休刊を挟みつつも1882年まで刊行。
ベートーヴェン作品の普及に貢献。
E・T・A・ホフマン、ロベルト・シューマン、フランツ・リストらが寄稿した。
二人目は以前紹介したシュ○○さん……なんで伏字にしたの!?
○新音楽時報(Die Neue Zeitschrift für Musik)
ドイツで刊行されている音楽雑誌。1834年創刊、現在まで刊行が続いている。
1830年代当時、ドイツで有力だった音楽誌「一般音楽新聞」「ドイツ芸術の女神」はどちらも保守的に傾いており、より革新的な音楽誌を求めて創刊された。1835年から1843年までシューマンが編集長兼主筆。多数の記事を執筆する。
1850年、ワーグナーが同誌にペンネームで発表した評論文「音楽におけるユダヤ性」はメンデルスゾーンを攻撃する内容だった。
1853年にはシューマンが若きブラームスを賞賛・紹介する記事を寄稿している。
編集者が注を入れてくれているので自信を持ってシューマンと断定したけれど、ちゃんと名前書いてあげてよ!
この二人が好意的に話していたので何か良い記事を書いてもらえるかもよ、と書いておきながらも、でもそんなことどうでもいいよね! と続けるメンデルスゾーン。
彼はどうやら、大衆に愛されるよりも、音楽に詳しい音楽家に愛される曲の方が名曲だという考えの持ち主のようだ。彼らしいと言えば彼らしい。ミーハーに騒がれるのが嫌いな、上品な人なのだ。
ヒラーも同じ考えだったかどうかは分からないが。
フィンクさんやシューマンが書いた記事、見つけられないかな~と思いながら頑張って探してみた。アーカイブを見つけたので、それぞれリンクを貼っておく。
一般音楽新聞 1836年10月19日(p694)
新音楽時報 1836年12月6日(p.191)
どちらにも、シェイクスピアの「十二夜」による序曲、とある。
ドイツ語はよく分からないのでぼんやりとしか読み取れていないが、一般音楽新聞の記事はこの回のコンサート全体のレビューだったようだ。
対する新音楽時報の記事は、いろいろな作曲家の「序曲」についての評論文。シンドラーの序曲についての記述に続けてヒラーの序曲について言及している。
シューマンさんよりはフィンクさんのほうが、ストレートに好意的な記事をスピーディに掲載してくれたように見える。分量はシューマンの方が多い。
シューマンのこの評論については、のちに自選評論集というべき著書「音楽と音楽家」に収録されたようだが、手元にある岩波文庫版の抄訳では省かれたようだ。ざんねん。
さて手紙の内容に戻ると、メンデルスゾーンはここで再度、前半でも書いていた一向に発売されないピアノピースについて、ついでのように愚痴っている。
病身のシェルブルに代わりチェチーリア協会の指導をしたメンデルスゾーンのあとを引き継いだヒラー(ややこしいな)。
メンデルスゾーンは、チェチーリア協会を自慢に思っていられるのも今のうちだ、自分が率いるライプツィヒのコーラス隊の話を聞いたら驚くぞ、と脅かしてきている。 いったいどんなすごいコーラス隊が来るんだ……!? と固唾をのんで続きを読むと、「エジプトのイスラエル人」公演の準備を始めた、とある。
◆『エジプトのイスラエル人』ヘンデル
英語のオラトリオ作品。合唱の比重が非常に大きく、独唱が派手に歌い上げる作品が人気だった初演(1739年)当時は人気が出ず失敗した。
19世紀になり市民合唱団が多数誕生すると、一気に人気が上がる。
メンデルスゾーンが1833年に編曲した版も有名。
人気の大作オラトリオ、といったところだ。
ポピュラー作品や誰でも知っている作品を演奏する人は分かると思うが、人気作品は失敗すると聴衆にすーぐ気付かれてしまうし、演奏機会が多いと記憶の中の演奏と比較される。
そんな作品に挑戦するという。200人以上の壮大なコーラス、オルガンとオーケストラの豪華伴奏。しかも、準備期間は一週間!
このあたりでヒラーは、ん? と首を傾げたかもしれない。いくら優秀な合唱団でも一週間だけでこの大作を?
それもそのはずで、実はメンデルスゾーンはライプツィヒの合唱団にほとほと手を焼いていたのだった。ここでもメンデルスゾーンのおちゃめな語り口(書き方)に騙された。
最初は自分のところの合唱団の自慢だとばかり思ったのに、結局は愚痴だった。ヒラーも手紙を読みながら苦笑したに違いない。
チェチーリア協会は指導者のいう事をよく聞くように訓練された合唱団なので、メンデルスゾーンが今直面しているような苦労はなかったようだ。
だが、仲間内で批評しあっているからそれもよくない、とのこと。素人判断でここがいいとかここが悪いとか言い合わない方がいい、という意味だろうか。
ここですっかりおなじみになった、「~~にいたかった!」が登場。セシルと婚約したので、堂々とセシル宅のあるファールトーアの名を挙げている。
そして取ってつけたように、「あ、君んちにもね」。セシルと婚約するまでの手紙には、さんざん「プファライゼンにいたかった!」と書いていたくせに。愛すべき調子の良さだ。
思いついたことを思い付いた順につれづれ書いている感じになってきた。
対位法をメンデルスゾーンに教わることになった(というかおそらくは教えて! とお願いした)スタマティさんは、おそらくカミーユ・スタマティの事だと思われる。
★カミーユ=マリー・スタマティ(Camille-Marie Stamaty,1811-1870)
フランスの作曲家、ピアニスト、ピアノ教師。ギリシャ系イタリア人の父とフランス人の母の間に生まれる。
カルクブレンナーに師事。カルクブレンナーの正統な後継者であり最も重用された弟子。カルクブレンナーの代理講師なども頻繁に務めていた。
著名な弟子にゴットシャルク、サン=サーンスなど。
パリで大人気のピアノ教師となった後も、オルガンをブノワに、楽典をライヒャ、メンデルスゾーンに師事しさらに研鑽を積む。
練習曲をはじめ多数のピアノ曲を残している(が、現在はほぼ忘れ去られている)。
弟子(サン=サーンス)の母親とモメてメンタルを病んだことがある。
自分では十分理解していたつもりでも、人に教えてみると「あっ、ここ分かってなかったなぁ……」と気付くことはよくある。
メンデルスゾーンもまさにそうなったようだ。スタマティさんは「またまたご謙遜を……」と人当たりよく返しているが。
そして、ライプツィヒに戻る時にヒラーの母が貸してくれた馬車のお礼をまだ言っていなかったことを思い出し、慌てて感謝の言葉を述べる。
フリーメイソンについても筆者は全く知識がないのだが、世界一有名な秘密結社だということは知っている(有名な秘密結社って不思議な言い回しだ)。
ライプツィヒのロッジは1741年に設立されたとする資料を見つけた。ロッジのコードネームは「ミネルヴァ」。ドレスデンのグランドロッジの支部としてのスタートだったようだ。その後メンバーの増加に伴い、第2ロッジ「バルドゥイン」、青年ロッジ「アポロ」などが成立していったらしい。ただし、メンバーの半数近くはライプツィヒ以外の街の住人だったとか。
19世紀に入ってからは、メイソン内に複数の男声合唱団を組織したとのこと。
モーツァルトがフリーメイソンのメンバーで、フリーメイソンのための楽曲を作っていたのは有名な話だ。音楽家では他にもフンメルやリスト、シベリウスなどもメイソンのメンバーだったとされる。
スイスのフリーメイソン博物館のサイトによると、アルベルト・ロルツィング(Albert Lortzing,1801-1851)という作曲家がライプツィヒのロッジ「バルドゥイン」のメンバーだったとのこと。男性四部合唱曲を作ったフリーメイソンの作曲家、もしかしたらロルツィングさんかも?
そして手紙は、ヒラーのこれからの予定とヒラー母の様子を簡単に尋ね、長い返事を書いてくれることを何度も何度もお願いして結びとなる。
返事の催促の言い回し、この手紙だけで何パターンあっただろうか。そろそろ本気で集めてみたくなってきた(笑)。
次回予告のようなもの
「プファライゼンにいたかった!」改め「ファールトーアにいたかった!」を口癖とし始めたメンデルスゾーン。
次にヒラー宛てに届いた手紙は、11月26日付だ。そろそろ「あのイベント」が近付いてきて気が気じゃない様子がありありと見て取れる、そんな手紙になっている。
多忙なメンデルスゾーンはゲヴァントハウスオーケストラからも200人の合唱団からも一時逃れ、 休暇を勝ち取ることができるのか!?
次回、第4章-12.クリスマスに休暇を の巻。
来週もまた読んでくれよな!