「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 30
第4章-6.フランクフルト、1836年:プファライゼンにいたかった!
八月のはじめ、彼は海辺へ慰安旅行へ出かけた。それはまた、デフリーントが証言しているように、会えない間の愛を試す意味もあった。
彼が出発してすぐ、ハーグから手紙が届いた。彼の苛立っている様子は面白く、哀れを誘う弱音よりも饒舌に、たった数週間離れる事すら耐えがたいと伝えてきた。
ハーグ、1836年8月7日
親愛なるヒラー。オランダについて書いて送るよりも、叶うことならプファライゼンで君と一緒に、オランダについて話していたかったです。
フランクフルトにいると、ハーグがどれだけ退屈かなんて想像もつかないでしょうね。
もし君がこの手紙の返事をやっつけで書かずに、フランクフルトとファールトーア(※)のこと、君自身の近況、手に入れたもの、音楽のこと、あとこの世の全てについて、八ページ以上書いてくれたら、僕はこの地でチーズ屋に転職して二度とそっちに帰りません。
ホテル・デ・ルッシを出発してからこっち、分別のある考えなどひとつも浮かばないのです。今はこの状態にもだんだん慣れ始めて、賢明な思考など諦めて帰るまでの日数を数えることだけしています。先ほど6回目の水浴を終え、罰ゲームの1/4が済んだことを喜んでいるところです。
もし君が僕の立場だったらすでに10回は荷物をまとめて、チーズの国に背を向けて、旅の道連れに謎の言葉をいくつか残し家に帰っていたでしょう。僕もぜひともそうしたいのですが、みなさんご存知の僕の俗物根性が、僕をここに引き留めています。
僕はデュッセルドルフに二日ではなく三日も滞在しなければなりませんでした。なぜならSを遠ざけることができなかったからです。その数日間は、僕を憂鬱にするのにとても役立ったと思います。
どこもかしこも過去の空気が漂っている。君も知っての通り僕はあんまり気にしていないけど逃れられないあの記憶も、ありありと蘇ってきます。
音楽祭は好評だったようですが、だからといって退屈な時間がなくなるわけではありません。
シンドラーと彼の書いたものや反論についての話を延々と聴かされ続けたのも、全然楽しくなかったです。
某所で食事をしたけど、それも昔の思い出を呼び起こしました。
リーツは今はだいぶ回復しましたが、まだまだ具合が悪そうで心配です。デュッセルドルフの舞台装置に手を焼き、その他の事にも虐め抜かれているので、彼に会うのが辛くなりました。
シルマーと合流後、雨の中を汽船でロッテルダムまで向かいました。彼はそのまま汽船でル・アーブルを経由しパリへ。だけど、ああ! プファライゼンにいたかった! 真の苦悩は、ここからが本番だったのです。
Sが、どれもこれも高価すぎるとへそを曲げてしまい、僕達は宿も馬車も決められませんでした。そのオランダ人はドイツ語がロクに分からないのに、全て適当に返事をしてしまったのです。その上、彼の息子はやんちゃすぎて、迷惑をかけられ通しでした。
今はハーグに宿を借りて、毎朝八時にスヘフェニンゲンまで馬車を走らせ、泳ぎに行っています。すべてうまくいっていますよ、ええ。
しかしスヘフェニンゲンの海が与えてくれる感銘は、どんなことがあろうと損なわれることはありません。真っ直ぐなグリーンの水平線は、変わらず神秘的で計り知れないものです。波が浜辺に打ち上げてくれる魚や貝も十分すぎるほど。
ですがここの海は、他の海と同じでとても殺風景です。砂丘は陰鬱でどうしようもないし、海岸の水位が非常に浅いので水の反射はほとんど見られません。海は遠浅でものすごく遠くまでいかないと水深が深くならないので、半分くらいが砂浜と同じ色をしています。
大きな船はなく、中くらいの釣り船だけが浮かんでおり、私は面白味を感じませんでしたが、今日、オランダ人が海岸沿いを走っていた私をつかまえて、「ここにいると、いいアイディアが浮かぶべ」と言いました。
僕は心の中で、「貴方がペッパーの生産地にいられなくて可哀相だね。僕がワインの国にいるのも残念だけどね」と思ったものです。
※注:ジャンルノー一家が住んでいたのが「ファールトーア」近く。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
1836年、フランクフルトで運命の相手と電撃的な出会いを果たしたメンデルスゾーン。ライプツィヒ-フランクフルト約400kmの遠距離恋愛中に、さらに遠くへ行かなければならなくなった彼からヒラーへ届いた、非常に人間臭くてなさけなくて可愛い手紙を今回と次回の2回に分けてご紹介する。
1836年8月7日付けのメンデルスゾーンからの手紙は、ハーグという町から届いた。
ハーグ(スフラーフェンハーフェ)はオランダの海辺の町で、アムステルダムから西南に65km、ロッテルダム近郊に位置する歴史ある町だ。画家のフィンセント・ファン・ゴッホが住んでいたこともある。
オランダの首都はアムステルダムとなっているが、首都機能はほとんどハーグが担ってきた歴史がある。1826年に創立したハーグ王立音楽院もあるので、音楽的にも中心都市だ。
画像:Google map
デフリーントの書いたメンデルスゾーンの伝記については、今までもちょくちょく話が出てきているのでぜひ読みたいのだが、こちらも完全邦訳本はまだない。ぐぬぬ。
ヒラーの文から察するに、その本の中でこのハーグ滞在について「会えない間の愛を試す」試練だったと書かれているようだ。気になる。この本がひと段落したらそっちも読んでみたいものだ。
前回から、メンデルスゾーンへの友情のために割に合わない「腹心の友」役を引き受けているヒラーだが、この手紙については同情とおかしさの両方を覚えたようだ。
「彼の苛立っている様子は面白く」なんて、昔の手紙を読みながら当時のメンデルスゾーンのアタフタっぷりを思い出して笑うヒラーおじいちゃんが目に浮かぶ。
メンデルスゾーンの手紙の書き出し、冒頭から思いっきりの嘆き節。
「I wish I were~」構文を、同じ文章内でこんなに目にしたのは初めてだ。ここでもう一生分見た気がする。
オランダからオランダの事を書いて送るより、プファライゼンの君の家でオランダについてペチャクチャ喋っていたかったなあ(なんで僕は今こんなとこにいるんだ、セシルもいないのに)。
()内は書かれてはいないがヒラーには行間にその言葉が見えていたんじゃないかと思う。
「プファライゼン」がヒラーを指すなら、「ファールトーア」はセシルだ。当時ジャンルノー一家は、フランクフルトのファールトーア近辺に住んでいたとのこと。
手紙の返事で近況をたくさん書いてね、という催促に、「ファールトーアのこと」が含まれているのはつまり「セシルのこと」という意味だ。
ファールトーアはフランクフルトをぐるっと取り囲む城壁にあった門のひとつで、交通の要衝だった。馬車もらくらく通れる大きな門だ。洪水の時には城壁内の街を守るため封鎖される。
画像:Wikimedia Commons
画像は1840年頃に描かれた取り壊される前のファールトーア。川側から見た図だ。
画像:Wikimedia Commons
こちらは1836年、川も含めて描かれた、ファールトーアから続く城壁。ファールトーアは一番左端だ。
ファールトーアの建物そのものは、マイン川の埋め立てなどのため(以前の記事参照)1840年に取り壊されたが、現在も通りの名前にその名を残している。
画像:Wikimedia Commons
17世紀の様子。左下、少し名前が違うがFahrportと書いてある。
画像:Wikimedia Commons
こちらは1862年の図。門がなくなり、右側の建物(ザールホフ)と左側の建物が切り離されている。
画像:Google map
こちらが現在。ファートールという表記になっているが、赤いマーカーの場所がファールトーア通りだ。ザールホフの跡地にはフランクフルト歴史博物館が建っている。
ニコライ教会が同じ位置に建っているのでわかりやすい。ヨーロッパの古地図は教会という目印があって読みやすくてよい。
セシルさんちはこの近くだったわけだ。せっかくなので、ヒラーの家あたり(ドムプラッツ/青)、メンデルスゾーンが滞在していたシェルブルさん宅(シェーネアウスジヒト通り/緑)もマークしてみた。ぜんぶ徒歩圏内だ。楽しそう。
オランダは今もチーズの産地として有名だが、当時もそうだったようで、メンデルスゾーンが「チーズの国」と連呼しているのが面白い。普段だったらチーズを楽しめただろうが、今はチーズよりセシルが気になってしょうがないのだろう。
近況を全て書き送ってくれるなら僕はここでチーズ屋になるよ、という言葉、ふてくされやさぐれながらそうぼやくメンデルスゾーンの様子を想像すると笑ってしまう。
ホテル・デ・ルッシは1827年創業の高級ホテル。現在のツァイル通りに建っていた。ルシッシェホーフという別名がある。ドイツ皇帝ヴィルヘルム一世や、英国王エドワード七世も即位前に滞在したことがある、豪華なホテルだ。
1844年のトラベルガイド「Hand-book for central Europe(リンク先はGoogle Books)」の161ページ、フランクフルトの観光案内にも、「一流ホテル、非常に高価」と書かれている。
画像:Google Books
赤線を引いておいた。ちなみに第1章でメンデルスゾーン一家がフランクフルト滞在時に泊まっていたスワンホテル(黄線)は、この時代には名前だけ羅列されているがとくにコメントはない。
このトラベルガイド、当時のるるぶとか地球の歩き方みたいなものなので、読むとタイムスリップした気分になれて楽しい。
英語が得意な方はぜひ拾い読みでもしてみてほしい。
ツァイル(Zeil)という通りは当時、豪華な邸宅が立ち並んでいた高級住宅街で、19世紀半ばあたりからその建物を使ったホテルが林立したようだ。建物自体は1888年に取り壊されたため現存しない。現在のツァイル通りは高級住宅街というよりはショッピングセンター街になっている。
ホテル・デ・ルッシを出発してから頭が回らない、と言うのは、あれほど快適なホテルは他の地域にはないという意味ではなく、フランクフルトを出発してセシルのいない土地へ行くなんて……という愚痴だろう。
もう全てがそんな感じだ。愛すべき色ボケ。
メンデルスゾーンが浜辺に海水浴に行った、と言うと、クロールかな平泳ぎかな、なんて考えそうなものだが、当時の海水浴は泳ぐというよりも、水に浸かることで体の調子を整えようという水浴療法の意味合いが強かったらしい。
メンデルスゾーンもハーグに海水浴に行ったわけだが、それは水浴療法のためだったようだ。まあその合間に泳いでもいたかもしれないが。
この日が6回目の水浴日だったようで、1/4が終わったと書いている。単純計算で24回水浴する療法スケジュールなのだろう。
それを「罰ゲーム」と称するメンデルスゾーン。セシルと会えない日々は彼にとっては罰ゲームだ。
もう少なくとも10回は帰ってしまおうかと思っているようだが、俗物根性がその地に引き留めていたと書いている。もったいない精神とか、人の顔色を窺って行動するとか、そういう意味合いだろうか?
そもそもこの遠出の最初の目的地は、デュッセルドルフだった。ほんの2、3か月前にライン下流域音楽祭で聖パウロを初演したばかり。その後片付けとか打ち上げみたいな感じで寄ったのかもしれない。
デュッセルドルフには最初2日間の滞在予定だったが3日に伸びた、という意味だろうか。ここで憎々しげに語られているSが前回のS博士と同一人物だとしたら、腹心の友のひとりだったはずだがずいぶん格下げされたものだ。
デュッセルドルフが憂鬱だったのは、こればかりはセシルさんがいないせいだけではなかった。デュッセルドルフ音楽監督時代の苦い想い出、聖パウロをこき下ろされた思い出、どこへ行っても負の思い出ばかりよみがえる。メンデルスゾーンにとってデュッセルドルフは、できればなるべく足を運びたくない街になってしまったようだ。
ここでシンドラーという人名が出てくる。おそらくアントン・シンドラーのことと思われる。
★アントン・シンドラー(Anton Felix Schindler, 1795-1864)
チェコ出身、ドイツで活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリン奏者、著述家。
ベートーヴェンの秘書(無給)を務め、のちに伝記を著したことで有名だが、現在ではその伝記は捏造された点が多いと言われている。
ミュンスター、アーヘン、フランクフルトなどで音楽監督・教育職を歴任。
シンドラーさんについては、かげはら史帆さんの「ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく」を読んでいただくとして、シンドラーの陰口を誰かから延々と聞かされたということか。これもSから聞かされたのだろうか?
同じくベートーヴェンと関係の深いフェルディナント・リースともあんまり仲がよろしくなかったメンデルスゾーンだが、シンドラーの陰口にノリノリで同意したりはできなかったようだ。
シンドラーがベートーヴェンの伝記を出版するのは1840年。この時にはまだ出版されていないので、聴くのが退屈だったという「シンドラーの書いたものとその反論の話」は、曲についての話なのかな。
メンデルスゾーンの後任としてデュッセルドルフの音楽監督を引き継いだユリウス・リーツは、体調を崩していたのか、あるいは過労気味だったのか、見ていて気の毒になってしまうほどだったらしい。
リーツは1836年に劇場監督も兼任することになったので、舞台装置に悩まされているということはやはり過労かもしれない。がんばれリーツ君。
シルマーさんはデュッセルドルフの画家だ。彼も同じ汽船に乗り込み、メンデルスゾーンはハーグ近郊のロッテルダムで下船。シルマーさんはそのままパリへ向かった模様。
そしてここでまた「I wish I were~」が入って、真の苦悩はここからだった……と小説のような言い回し。
まだ一緒に行動しているらしいSが、「高すぎ」と文句をつけて宿も馬車も確保できなかったとのこと。
Sがどの程度の経済力を持った人なのか分からないが、メンデルスゾーンからしたらイライラしただろうな……と思ってしまう。金には困っていない人だ、金をケチって不都合に巻き込まれたらいやな気持になるだろう。
オランダ語とドイツ語は少し似た部分がないでもないが、基本的には別の言語だ。それを全て適当に返事してしまったとのことだから、メンデルスゾーンのうんざりは加速していくばかり。
そのうえSの息子もやんちゃ坊主で手に負えないとのこと。息子連れてきてたのか、S。知り合いの子供って叱りにくいものだと思う。うわー、想像しただけでうんざりがこちらまで伝染しそう。
この手紙を書いたころには、ハーグに宿をとって落ち着けたようだ。よかった。
毎朝8時に馬車を走らせてスヘフェニンゲンまで行ってる、という記述が、別になんとも思ってないのか、ほんとはスヘフェニンゲンに宿を取りたかった気持ちもあるのかは、判別できない。
スヘフェニンゲン(日本語ではスケベニンゲンというなかなかな表記をされることもある)はハーグの中心部から6km離れた行楽地で、1818年に浴場がオープンしてからますます栄えるようになったらしい。現在も観光地として有名だ。
画像:Wikimedia Commons
こちらはスヘフェニンゲンのパノラマ画像。1880年頃の作品だそう。
スヘフェニンゲンは、というかオランダは北海という海に面していて、その海はどちらかというと日本海のような暗く重たい海だ。それでも、もっと北しか海に面していないドイツ出身の人にとっては「海だー!」という思いに駆られると思う。
だがメンデルスゾーンは旅行好きで、イタリアにも何度か足を運んでいる。陽気な地中海の様子を知っているから、心躍るような景色ではなかったかもしれない。
陰鬱な浜辺の景色が何のインスピレーションも与えないとは思わない。イギリスの海(と島)だってそんな明るい海じゃないけど、メンデルスゾーンはフィンガルの洞窟という名曲を残しているし、どんより空のスコットランドからだって素晴らしい交響曲を生み出しているのだから!
……しかしこの時のメンデルスゾーンは、セシルさんを欠いているのだった。もうダメだ。素晴らしい景色も役に立たない。
ジョギング中のメンデルスゾーンに、現地の人が声をかけてくれたが、心の中で冷ややかな返しをしてしまうメンデルスゾーンだった。
ここの現地の人の言葉はオランダ語とドイツ語の間のような言葉で書かれていたので、少し訛った訳にしてみた。
自分がワインの国にいるのも残念、という言葉には、ビールの国(=ドイツ)にいたかった、という思いがあるのだろうか。
最後に、メンデルスゾーンが心の中で思った「ペッパーの生産地にいられなくて可哀相だね」という言葉について、少し調べてみた。
ペッパーという英語はトウガラシとコショウの両方を指す。両方の観点から調べてみたが、トウガラシは基本的に新大陸(アメリカ)原産であり、それを持ち帰ったスペインやその領邦だったイタリアなどで栽培されていた。
コショウの方は、インドのマラバール海岸という場所がコショウの生産地として紀元前3000年頃から古代ローマ・ギリシャ・メソポタミア・アラブなどにまで知られていたらしい。
オランダ東インド会社領だった時期もあるが、18世紀のマイソール戦争を経て、19世紀当時はイギリス領だった。ヨーロッパにも広く景勝地として知れわたっていたらしい。メンデルスゾーンがどこかでその絵画を見たり、話を聞いて知っていた可能性はある。
ハーグの海と比べられたのは、イタリア・スペインあたりの地中海なのか、はたまたインドのマラバールか。どちらだとしても、そして心の中とはいえ、思い人に会えずイライラしているメンデルスゾーンに八つ当たりされたハーグの人には、ちょっと同情する。
次回予告のようなもの
セシルに会いたい気持ちが強すぎてイライラしているメンデルスゾーン、お楽しみいただけただろうか。
次回は手紙の後半。怒涛のイニシャルトーク、そして畳みかけるような「I wish I were~」! もう何回出てきたか数えちゃおうかなあ!(笑)
イニシャルトーク部分は現在のところ、たった一人しか判別できていません。マドモワゼルJ、そう、セシルさんです。
次回、第4章-7.手紙を焼くか、君が焼けるか の巻。
来週もまた見てくださいね!