「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 51
第5章-12.ライプツィヒ、1838年 フェルディナント・リースの急逝
最近は、デュッセルドルフのブルグミュラーの交響曲がとてもお気に入りです。
昨日シュライニッツが君のト短調の歌曲(「Europa」の)を持ってきて歌って聞かせて、誰の曲か当ててみろとクイズを出してきました。
答えられなかったことが腹立たしくて、後になって歯噛みしました。冒頭を聞いただけで答えるべきでした、それかせめて中間のト短調付近で。
近況としては、ヴァイオリン四重奏(※1)と、ピアノとチェロのためのソナタ(※2)をほぼ書き上げました。
それから一昨日ブライトコプフ&ヘルテルに、混成四部合唱のための6つの歌曲を送りました。野外コンサートやパーティーで歌えるような小品です。
この地で晴雨をもあやつり、お別れコンサートでは生き埋めになりそうなほどの詩と花を受け、いつまでも鳴りやまない拍手と讃辞を浴びたノヴェロ嬢は、次のコンサートのためベルリンへ発ちました。
またここへ立ち寄り、ライプツィヒっ子たちが跪いて懇願するアリアを二曲歌ってくれる予定です。
春にはイタリアへ向かうと思いますが、その点に関しては、彼女自身も僕と同じくらいハッキリとは分かっていなさそうです。
彼女はこの冬のコンサートに、素晴らしい刺激を与えてくれました。彼女の代わりになるような人材はいませんが、この良い効果はしばらく続くでしょう。
それにしても、リースの急逝について君はどう思いますか?(※3)
僕にとってはとても大きな一撃で、今までにない妙な気持ちになりました。
僕はずっと、彼の態度ややり方を不快に思っていたのに、一瞬それら全てを忘れてそのニュースだけで頭がいっぱいになったほどです。
チェチーリア協会は、確かに奇妙な運命にあるようですね。良い引き取り手も、誰が引き受けることになるのかも、今の僕には全く分かりません。
ほんの一週間前まで、リースは痛風と黄疸で少し具合が悪い程度だったのに――そこから二日で突然亡くなってしまうなんて!
もし君がドイツにいたら、僕は君にフンメル(※4)の後継としてワイマールに行くことを勧めるでしょう。
きっと素敵なことがたくさんあるに違いありません。もしかしたらいつか君が戻ってくるまで、ずっと空席のままかもしれないですよ。君はいつもワイマールをとても気に入っていましたよね。
何よりも、もし君が戻ってきてくれるなら役職なんてどうだっていい、今はっきりと分かった、あなたさえいてくれればいいの――僕が昔考えた物語を引用してみました。
次に君が「もう過去のことだ」と言って、僕が「私は過去のことになんかできないわ」と続ける感じです。
※注1:四重奏曲変ホ長調。op.44-3。
※注2:ピアノとチェロのためのソナタ変ロ長調。op.45。
※注3:ベートーヴェンの弟子のフェルディナント・リースは、1838年1月13日に亡くなった。
※注4:フンメルは1837年10月17日に亡くなった。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前々回、前回に引き続き、メンデルスゾーンからヒラー宛1838年1月20日付の手紙を紹介している。
前回まではメンデルスゾーンの体調不良や、あがり症のヘンゼルトについて、ヒラーの交響曲の楽譜まだ入手できない問題などを書いていたメンデルスゾーン。後半は、つい1週間前に亡くなったばかりのフェルディナント・リースや、昨年10月に亡くなったヒラーの師・フンメルの話題などが出る。
まずは中盤に引き続き、近況から。
前回紹介した部分で、パリで大人気のテーグリヒスベックの交響曲はあまり好みでないと書いていたが、ブルグミュラーの交響曲はお気に入りとのこと。
ブルグミュラーといえば、ピアノ学習者にとってはバイエルやチェルニーと同じくらい呪いのごとくついて回る名前だと思われる。
が、実は兄フリードリヒと弟ノルベルト、兄弟で音楽家だった。父のフリードリヒ・アウグストも音楽家で、ライン川下流域音楽祭を立ち上げたメンバーの一人だ。
★フリードリヒ・アウグスト・ブルグミュラー(Friedrich August Burgmüller, 1760-1824)
ドイツのピアニスト、オルガン奏者、作曲家、音楽教育家、指揮者、劇団員、音楽監督。
ドイツ各地を転々とし、劇場・オーケストラで指揮者、作曲家、役者などとして活躍。1807年からデュッセルドルフに拠点を置く。
妻は一時期ベートーヴェンの恋の相手だったといううわさもあるテレーゼ・フォン・ザント(駆け落ち婚)。息子にフランツ(1805-?)、フリードリヒとノルベルト。
1818年にショウンシュタインと共に「ライン川下流域音楽祭」を立ち上げた。
★フリードリヒ・ブルグミュラー(Johann Friedrich Franz Burgmüller, 1806-1874)
ドイツのピアニスト、作曲家。ノルベルトの兄。
父フリードリヒ・アウグスト、モーリッツ・ハウプトマン、ルイ・シュポーアらに師事。
1832年以降はパリに居を置き、当地の音楽家たちと交流した。
日本ではピアノ学習者向けの「25の練習曲(op.100)」、「18の練習曲(op.109)」などで有名(ヨーロッパでの知名度は弟や父に劣る)。
弟の死後、遺された作品の編集に携わる。
★ノルベルト・ブルグミュラー(August Joseph Norbert Burgmüller, 1810-1836)
ドイツのピアニスト、作曲家。フリードリヒの弟。
父フリードリヒ・アウグスト、ヨーゼフ・クロイツァー、モーリッツ・ハウプトマン、ルイ・シュポーアらに師事。
デュッセルドルフ時代のメンデルスゾーンと交友。メンデルスゾーンがライプツィヒに移った後、兄を追いパリへ向かう予定だったが、アーヘンで急逝(入浴中のてんかん発作による溺死)。シューマンやメンデルスゾーンをはじめ、多くの音楽関係者を嘆かせた。
さて、メンデルスゾーンがこの手紙で言っている「デュッセルドルフのブルグミュラー」はどのブルグミュラーさんの事だろうか。
デュッセルドルフの音楽監督を務め(メンデルスゾーンにとっては先任にあたるわけだ)、当地で活躍した父フリードリヒ・アウグストは、交響曲よりは歌劇作品が多く残されている。
1824年に亡くなっており、1838年時点でメンデルスゾーンが「最近のお気に入り」として曲を挙げるには少し年代がずれているような気がする。
では、「25の練習曲(op.100)」、「18の練習曲(op.109)」などでピアノ学習者の愛憎を引き受けている(?)兄・フリードリヒはどうか。
彼は1832年以降パリで活躍しており、交響曲よりはピアノ小品を多く残した。「デュッセルドルフのブルグミュラー」と言うよりは「パリのブルグミュラー」と呼ばれていそうに思える。
26歳で亡くなってしまった弟ノルベルトはその早世を惜しまれ、メンデルスゾーンが彼のために葬送行進曲(op.103)を作ったり、シューマンが「シューベルトの夭逝以来の悲しみ」と評したりしている。
未完となってしまった交響曲第2番(op.11)は、完成していた第2楽章までが1837年4月にデュッセルドルフで初演されている。
(ちなみにこの交響曲第2番は、シューマンの手によって補完されたバージョンなどがある)
というわけで、この手紙の中でメンデルスゾーンがお気に入りと書いた「デュッセルドルフのブルグミュラーの交響曲」は、ノルベルト・ブルグミュラーの交響曲第2番ではないかと思われる。
この作品は現在でも時折演奏機会があり、CDも出ているので聴くこともできる。ご興味のある方はぜひ。
シュライニッツは以前の記事で紹介した、ハインリヒ・コンラート・シュライニッツさんだろう。ゲヴァントハウスの理事で、メンデルスゾーンの友人だ。
テノール歌手でもあるので、イントロクイズの出題者としては役者不足と言うことはないだろう。
そのクイズに答えられなかったのがとても悔しかったとのこと。知ってたのに答えられない時ってあるよね~なんか分かる気がする。
この時シュライニッツさんが持ってきたというヒラーのト短調の歌曲については、該当の曲がどれなのか、よく分からなかった。調査を続けたい。
メンデルスゾーンが体調不良に悩まされながらもほぼ仕上げた2曲、op.44-3とop.45について。
op.44-3は「弦楽四重奏曲第5番」。このあと2月に完成、4月には初演が行われているそうだ。
op.44-2はメンデルスゾーン本人が「気に入らない、新しく書いている方(op.44-3)の方がいい」と書いていることを以前の記事で紹介したが、実際はメンデルスゾーンが気に入らなかったop.44-2の方が、現在では高評価だったりする。
op.45は「チェロソナタ第1番」。アマチュアながらもチェロの名手だったメンデルスゾーンの弟・パウルのために書いた曲とのこと。
メンデルスゾーンのチェロソナタでは、第2番の方が有名で人気ではあるが、この第1番はシューマンの称賛を受けている。
……余談だが、筆者が習っているチェロの先生は、ピアニストが作曲したチェロソナタについて「ピアノがめちゃくちゃ難しい曲が多くて、ピアノ弾いてくれる人に申し訳ない感じ」と語っていた。この曲も例に漏れずピアノがめちゃくちゃ難しいとのことだ。んんん。
先日ブライトコプフ&ヘルテル社に送ったという6つの歌曲は、「6つの歌曲(op.47)」のことだと思われる。
このうち第3番「春の歌」は、1840年にフランツ・リストが出版した、メンデルスゾーンの歌曲をピアノ独奏曲に編曲した曲集に収録されている(S.547-5)。
無言歌集に収録されている有名な「春の歌」(op.62-6)とはまた別だが、こちらも良い曲。
さて、少し前の手紙からずっと登場し続けているノヴェロ嬢。
ライプツィヒでは天候をも操り、生き埋めになりそうなほどの量の詩と花を捧げられ、惜しまれつつ次のコンサート地ベルリンへ発ったとのこと。
だがすでに次の来訪も決まっているらしい。
ヒラーとノヴェロ嬢の仲をからかい続けているメンデルスゾーンは、「いつイタリアへ(=ヒラーのもとへ)行けるのかは分からないんだって」と付け加えている。
ここまでは明るいあるいはコミカルな近況が続いたが、ここから少し雰囲気が変わる。
1838年1月13日、この手紙を書いた1週間前に53歳で急逝したフェルディナント・リースについての話題だ。
フェルディナント・リースについては以前の記事でも何度か紹介・登場しているが、チェチーリア協会の指導や、ライン川下流域音楽祭の監督などでメンデルスゾーンとは一緒に仕事をする機会があったが、どうやらそりが合わなかったらしい音楽家だ。
手紙の中でもメンデルスゾーンはバカ正直に「彼の態度ややり方を不快に思っていた」とはっきり書いているが、それでもリースさんの訃報には大きなショックを受けた。
それはつまり、メンデルスゾーンはリースの事を「人格的に」嫌っていたわけではない証拠なのだと思う。同業者として、仕事の上では仲が悪かったけれど、人としてのリースについては憎からず思っていたかも……と筆者は思いたい。
かげはら史帆氏の「ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇な運命」(春秋社/リンクはamazon)を読んでからこっち、筆者はリースさんのことが好きだからだ。推し同士の関係性に非常に萌えるタチなので、反目し合いながらも嫌いじゃなかった説は非常にエモいから推していきたいわけである(あーでも亡くしてから気付くってのもエモいなあ……)。
手紙の受取人であるヒラーは、メンデルスゾーンと同じくらいかそれ以上にリースと関わりの深い人物だった。ヒラーがリースについて書いている文章も、そのうち拾って読んでみたいと思う。
フランクフルトのチェチーリア協会は、この連載の最初期から登場している、いわばヒラーの古巣みたいなものだ。
創設者のシェルブルさんが病に倒れてから、メンデルスゾーンやヒラーを臨時指導者として迎えたりして、なんとか活動を繋いできていた。
1837年、ようやくリースが指導を引き受けてくれることが決まり、これでしばらく安定した活動をしていけるね! と考えていた矢先、1年も経たないうちの急逝だった。確かに、奇妙な運命のもとにあると思わざるを得ない。
続けて、昨1837年10月に亡くなったヒラーの師・フンメルの話題に。故人繋がりで思い出したのだろうか。
フンメルは1819年から死ぬまでワイマールの宮廷楽長を務めており、フンメルの死後はそのポストが空いてしまう。
1842年にはそのポストにフランツ・リストが指名されたが、その間に誰が宮廷楽長を務めていたのか、ざっと調べたところどうやら複数人で劇場・教会音楽・宮廷合唱団などを分担して指導していたようだ。総括する楽長は不在ということだろうか。
カール・エバーヴァイン(Karl Eberwein, 1786-1868)、イッポリト・シェラール(Hippolyte André Jean Baptiste Chélard,1789-1861)、ヨハン・ゲッツェ(Johann Nicolaus Conrad Götze,1791-1861)らの名前が出てきたが、詳しいことまでは分からなかった。ざっと調べただけなので、あまり自信がない。
とりあえずメンデルスゾーンがこの手紙を書いている時点では空席のままのようで、ヒラーにその地位に就くことを勧めたりもしている。
そして今までの手紙でも、ヒラーが外国にいる時によく書いていた、「いつドイツに戻ってくるの?」の変形版とでも言うべき文章が登場する。
なぜかメロドラマのセリフ調。
昔考えた物語から引用したとのことだが、いったい何を書いていたんだメンデルスゾーン。どんなストーリーだったのか非常に気になる。
突然謎の役割を振られセリフまで割り当てられた、ヒラーのこの時の気持ちも気になる。
昔の恋が忘れられない男女の会話と思われるやりとりをこんなところにぶっこんでくるの、本当にユーモアあふれるメンデルスゾーンなのだった。
次回予告のようなもの
あー今回も画像を入れるスキがなかった!
今回でようやく1838年1月20日の手紙が終わり、次回から1838年4月14日の手紙を3回にわたって紹介していく。
前々回、メンデルスゾーンが思わせぶりに書いていた「しばらく逃げることができない、自分の体調不良よりもさらに大きな不安」について、答え合わせをするときがやってきた。
またサブタイトルネタバレとなってしまうが、次回はこれだ!
第5章-13.セシルの出産と不調、子煩悩まっしぐら の巻。
次回もまた読んでくれよな!