「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 16
第2章-9.パリ、1831~32年:モーツァルト、そしてパリよさらば
そんなどんちゃん騒ぎの合間にも、メンデルスゾーンは作曲する時間をしっかり作っていた。当時の彼の実生活とはまったく正反対の、静かな時間だ。
それはだいたい、以前作った教会音楽や弦楽五重奏曲に手を入れ、仕上げをするために使われた。
全くの新曲はここ数か月あまり書いていない、と彼は言っていたが、新しい歌曲をいくつかと、短いピアノピースを数曲、演奏して聴かせてくれたことを覚えている。
私は最初の3つの三重奏を完成させたばかりで、彼がそれらをとても温かく親し気な興味を持って受け入れてくれたことは、私にとって何よりの心の支えになった。
彼は気に入ったものはとことん心から好きになるが、気に入らないものに対しては、非常に珍しい表現を使うことが時々あった。
ある日、私が彼のいくつか欠点のある曲を演奏していた時、曲が崩壊して以降、彼は床に体を投げ出して、部屋中ごろごろ転げまわっていた。
カーペットがあってよかった!
数多の夜を、燦燦と燃える情熱をもって、芸術や芸術家について粛々と語り明かした。
優れたものに対する意見はいつも一致したが、イタリアとフランスの音楽家に対する私達の見解はだいぶ違っていて、私は彼よりも熱心な支持者だった。
時に彼は、最高と評価している巨匠に対してすら、容赦がなかった。
ある時彼はヘンデルについてこう語った。「彼はコーラス用に音楽的引き出しを別に持っていて、ひとつは『戦争』、それから『異教』、3つ目が『信仰』かなって思う」……などなど。
オペラ全般について語って曰く、『ウィリアム・テル』をはじめとしたシラーの完璧な台本に対して、それに見合った傑作はまだ生まれていない、と。だが、台本と同じくらい素晴らしい作品はきっと出来る、誰が成し遂げるかは分からないけれど、とも言っていた。
ウェーバーの音楽には弱点がうじゃうじゃあったが、彼はウェーバーに対してはとても強い個人的な愛情を持っていた。
ウェーバーが「魔弾の射手」の公演を指揮するためにベルリンへ来ていた時、あえて連絡を取ることはしなかったようだ。
その上、リハーサル後にウェーバーがメンデルスゾーン邸へ馬車で向かうから同乗しないかとフェリックスを誘った時にも、嘘をついてまでその名誉を断固断ったらしい。
そしてそのあとで、宮廷楽長閣下が到着した時ドアを開けて出迎えるために、家まですっ飛んで帰ったんだよ、と話していた。
モーツァルトの作品の中では、彼は「魔笛」を一番気に入っていたと思う。
やりたかったことをまさに過不足なく完璧な芸術観で表現し、最高にシンプルなやり方で最高の美しさと完全さを実現したモーツァルトの素晴らしさは、彼でも言い表すことができないようだった。
両親が家に帰ってこいと言ったため、残念ながら、私の方がメンデルスゾーンより先にパリを離れなくてはいけなくなった。
彼と他の友人たちは、ジャン=ジャック・ルソー通りのよく知られた馬車駅まで、見送りに来てくれた。
「君が本当にうらやましいよ」
彼はそう叫んだ。
「春のドイツに行くなんて。それ、世界一楽しいことだよ!」
私が出発した後、パリ滞在の後半に彼はコレラに罹ってしまったが、幸いにも重症化はしなかった。
パリからロンドンへと渡った彼は、このフランスの首都へ、二度と戻ってくることはなかった。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
4か月の短期滞在のわりにそこそこ長かったパリ編も、今回でラスト!
最後は思い出すままに、といった感じで小さなエピソードが集まっている。
ここまでどちらかと言うと友人たちと楽しく遊んだ思い出を多く取り上げていたが、メンデルスゾーンはその合間にちゃんと静かに作曲する時間を作っていた。
新曲を作るというよりは、既存の曲の改訂や仕上げをすることが多かったようだけど、よくそんな時間あったねと驚く。
ヒラーもパリで作った作品がたくさんあった。「最初の3つの三重奏」をメンデルスゾーンは気に入ってくれたらしい。
ヒラーのピアノ三重奏曲第1番(op.6)、第2番(op.7)、第3番(op.8)は、3曲とも1832年にパリで初版が発行されている。
メンデルスゾーンは、曲の好き嫌いがはっきりしている人という印象がある。
それは書簡集やこの本にも表れているように、好みではない曲に対して勘違いのしようもないはっきりとした毒舌を浴びせるからかもしれない。親しい人に宛てた手紙の中では特に。
それは、自分が作った失敗作に対しても同じだったらしい。謙遜ではなく、むしろ言葉より饒舌な身振りがここに記録されている。
メンデルスゾーンのあまり上出来でない曲をヒラーが演奏していると、メンデルスゾーンはそれを聞きながら床をゴロゴロと転げまわったらしい。
二十歳すぎのいい大人が。自分の失敗作を聞かされて床を。面白すぎかよ。
ヒラーの「カーペットがあってよかった!(Happily there was a carpet !)」という言葉に、訳しながら声を出して笑ってしまった。
芸術について夜通し喋りつづけたエピソードは、この本だけでなく、リストやショパンなどの同時代の仲間たちの記録でもよく見る。
イタリアとフランスの音楽についてはヒラーの方が「より熱心な支持者」だったと書いてはあるが、これ、だいぶオブラートに包んだ言い方な気がする。
前述の通り、好みでないものに対する舌鋒が鋭いメンデルスゾーンさんのことなので、ちょっとした言い合いにもなったかもしれない、などと想像してしまう。
ヒラーは「博識のヒラー」という二つ名を冠されたほど、幅広いジャンルの音楽に精通していた。メンデルスゾーンの知識がヒラーに劣るとは思わないが、寛容さというか、「こういうのもアリだよね!」と思える思考の柔軟さにおいてはヒラーの方が上だったかもしれない。私見ですが。
そして、高く評価している巨匠に対しても容赦のなかったメンデルスゾーン。
ヘンデルはバロック時代の作曲家としては、当時はバッハよりも人気だった。イギリスのみならずヨーロッパ各地で彼の作品が演奏されていた。
バッハは教会音楽を多く作り活躍したが、ヘンデルはどちらかというと劇場音楽の分野で活躍したという、活動分野の違いも影響したかもしれない。
コーラス曲というとヘンデルが得意としたジャンル、オラトリオが真っ先に浮かぶ。
第1章のフランクフルト編でも、チェチーリア協会がヘンデルの曲を歌っていたが、ヘンデルの作品はこの頃たくさん生まれた市民合唱団に非常に人気があったらしい。
ここはひとつ、メンデルスゾーンの言う3つの引き出しに倣ってオラトリオ代表作を挙げてみる。
第1の引き出し【戦争】
『機会オラトリオ』、『ユダス・マカベウス』、『ヨシュア』、『アレクサンダー・バルス』の四作は「軍国主義四部作」と呼ばれる、軍国主義的な作品。
中でも『ユダス・マカベウス』は今でも演奏機会のある人気作で、その中の『見よ、勇者は帰る』は表彰式のBGMとして有名。
第2の引き出し【異教】
古代ユダヤのソロモン王が題材の『ソロモン』、
ギリシャ・ローマ神話に題材をとった『セメレ』、『エイシスとガラテア』、
ユダヤ人弾圧をとめた美姫が主役の『エステル』など。
第3の引き出し【信仰】
言わずと知れた『メサイア』。『ハレルヤ・コーラス』は超有名。
ほか、『復活』など。
※ヘンデルさんはどちらかというと新約よりも旧約聖書に題材をとることが多い。
ロッシーニのグランド・オペラ『ギヨーム・テル』(ウィリアム・テル)は、1829年の初演以来、1932年まで続く大ロングランの演目だった。権力者に立ち向かう革命的な主人公が、時代に歓迎された意味合いもあったと思う。
このオペラは、もともとフリードリヒ・フォン・シラーが書いた戯曲だった。シラーさんは、音楽好きな方なら「第九の原詩を書いた人だよ」と言えば、ああ!と思っていただけるだろう。詩人であり劇作家でもあった。
当時の著作権は現代のものとはだいぶ性格が違うので、オペラの原作を既存の作品から持ってくるのはよくあることだった。
ロッシーニのオペラはフランス語。シラーの戯曲をもとに、何人かの共作で台本が書かれた。そしてそこにロッシーニが曲を付けたわけだが、メンデルスゾーン的には、シラーの戯曲を越えるものではなかったようだ。
ロッシーニはイタリアの作曲家なので、ここでもイタリア・フランスの音楽家をあまり支持していなかったことが伺える。
ちなみにロッシーニは、これ以降の章にも登場する。
シラーの戯曲を原作としたオペラは後年いくつか作られたが、有名なものはどれも初演がメンデルスゾーンの死後だ。
ヴェルディの『ドン・カルロ』を見たらメンデルスゾーンは何と評しただろうか。イタリアの作曲家だからやっぱりだめかな?
ウェーバーへの対応が完全にツンデレで面白い。
あ、あなたのことなんて別に好きじゃないんだからねっ! というお決まりのセリフが浮かんでしまう。
モーツァルトの再来と呼ばれたりしたメンデルスゾーンだが、モーツァルトを好んでいたのは多くの資料から明らかになっている。その呼び名を誇らしげに思ったか、畏れ多いと思ったかどうかは分からないが。
余談だが、「モーツァルトの再来」という二つ名は、神童ビジネスが盛んだった当時においては想像以上に多くの人がその名で呼ばれている。
モーツァルトの同時代人で「〇〇(地名)のモーツァルト」と呼ばれている人もたくさんいるので、それと合わせるとモーツァルトはもう飽和状態だよ。
『魔笛』は現在まで高い人気と演奏機会の多さを誇る、モーツァルト最後のオペラ。
もともとが貴族や王族ではなく一般市民に向けた興業のために書かれた作品なので、分かりやすい。話も曲も分かりやすい。
メンデルスゾーンもモーツァルトに対しては毒舌をふるうことはなかったらしい。
ジャン=ジャック・ルソー通りの馬車駅は、当時長距離馬車の発着地だった。今でいうと新幹線の駅……いや、成田空港だろうか、皆が故郷へいったん戻るヒラーを見送りに来てくれた。
画像:Wikimedia Commons
これは「郵便広場に到着した乗合馬車」という絵画。1803年頃の絵画だ。
馬車の上に荷物を載せる場所があり、手前の馬車は荷下ろしをしている。画面中央で抱き合っている人たちは、お父さんが帰ってきたのを出迎える家族かな?
この絵の詳しい解説はルーブル美術館のサイトでどうぞ。
画像:Wikimedia Commons
この画像は、1818年のフランスの長距離馬車を描いたカリカチュア。当時は旅行が大流行していたので、たくさんの馬車会社が多くの都市を馬車で繋いでいた。
メンデルスゾーンがヒラーに言った言葉は、なんだかホンワカのんびりしていてすてきだ。
この後、メンデルスゾーンはコレラにかかってしまうが、運よく回復できた。
1832年2月に始まったパリのコレラ禍は、暴力的な速度で広まり、4月半ばには死者数が7000人を超えていた。今のこのコロナ禍にある我々には、当時の状況が少し想像しやすいかもしれない。
もしここでメンデルスゾーンが亡くなってしまっていたらと考えると、肝が冷える。治ってよかった。
メンデルスゾーンのパリ滞在は、1831年12月から1832年4月だった。
奇しくも同時期に、クララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)もパリを訪れている(1832年2月~4月)。メンデルスゾーンやショパン、リストなどの演奏を聴いたことが日記や書簡で分かる。
父フリードリヒがやっとこさ開催にこぎつけたクララの演奏会も、コレラのせいで貴族やブルジョワたち聴衆が集まらず、失敗に終わってしまったらしい。この辺も今の情勢を知っているから想像に難くない。
コレラから回復し次第、メンデルスゾーンはパリを発ちイギリスへ向かった。
ヨーロッパの首都とさえ呼ばれた、花の都パリ。メンデルスゾーンにはこの街の水は合わなかったようで、二度と訪れることはなかったそうだ。
次回予告のようなもの
パリ編、いかがだったでしょうか?
メンデルスゾーンにとってこの街の音楽体験は、あまりいい想い出にはならなかったようですが、この街で出会った仲間たちとはこの先長く付き合っていくことになるので、悪いことばかりでもなかったと思います。
次回からは、第3章:アーヘン・デュッセルドルフ編!
第3章ー1.メンデルスゾーンの手紙(1834年5月23日)の巻。
隠しサブタイトルは『ハッピートリオ!』です(底本のヘッダーに書いてあった言葉)。
来週もまた見てくれよな!