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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 7

第1章-6.フランクフルト、1827年:とある冒険譚

 いくらもなかった手持ちの金は既に底をつきそうだった。船上にいた時からまずいかもしれないと思ってはいたが、旅の仲間たちに「貸して」と言い出すことはできなかった。
 夕食を諦めて馬車駅へ行きビンゲンまでの馬車運賃を払うと、残りはたったの12クロイツァー(約4ドゥカート)。
 早朝、ビンゲンに到着し、私は川岸へ向かった。太陽は昇っているのに人気はなくひっそりとしていたが、美しく、清涼だった。

 しばらくするとまだ半分寝ているような船頭がやってきて、向こう岸へ渡るのかと私に尋ねた。
「もしリューデスハイムへ連れて行ってくれたら」私は言った。「天国から報酬を得られるはずです。僕は6クロイツァーしか払えませんけど」。
 彼は人情の厚い人で、あと多分何もないよりはましだと思ってくれたのだろう、いそいそと私を対岸へ渡してくれた。
 輝かしい朝だ。私の心は浮上し、喜ばしい気持ちで明媚なラインガウの街をそぞろ歩いた。
 私は命を繋ぐため、最後の6クロイツァーをパンと洋ナシに換えた。だがその時には既に、避難所にアタリを付けていた。文字通り、この切望を叶えてくれそうな駆け込み寺だ。

 当時ナッサウ公国の都だったビープリッヒでは、知り合いの宮廷楽長・ルンメルが住んでいた。
 彼は親切で賢い作曲家であり、そのプロデュースの手腕は人々からかなりの批判を受けたが、しかし彼のファンも多かったはずだ。
 フランクフルトで開催される見本市では毎回、かの有名な楽譜店ショット社が彼の名を前面に押し出していたのだから。
 子供のように店の前に立ち尽くし、いったい何度、どれだけの羨望をもって、膨大な彼の作品タイトルを数えたことか!

 彼の部屋に招き入れられたのは午前10時くらいで、心からの歓迎を受けた。
 最初の挨拶のあとピアノの前に行き、最新曲を見せてくれと頼むと、彼は喜んで応じてくれた。
 私はソナタを2曲と、幻想曲、ロンド、変奏曲――そしてまだまだ演奏するつもりだった。スープ壺を持ったメイドがやってくるまで。
「夕飯を食べていくかい?」
 楽長は言った、というか、そう言ってくれないかなという私の思いが、彼にそう言わせたのかもしれない。
「喜んで」
 私はそう返し、安堵の溜息をついた――救われたぁ~!

 夕食後、彼は親切にも私をカステルまで連れて行ってくれ、私の代わりにフランクフルトまでの「ハイダライ」と呼ばれる馬車の手配をしてくれたのだった。
 私は家に着き、御者は運賃を受け取り、冒険を振り返り、メンデルスゾーンのアルバムリーフを眺め、全てこともなし。ああ、青春の幸せな日々!


以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 前回(第1章-5)の上手い引きから、ヒラーの小さな冒険の項である。
 これで第1章は終わりなのだが、ちょっくら番外編といった雰囲気だ。何せ、メンデルスゾーンが全く登場しないのだから。

 船に乗ってる時から「やべぇ……」という予感があったにも関わらず、仲間たちにお金貸してとは言えなかったヒラーの見栄っ張りがここにきて仇となる。
 メンデルスゾーンの友人たち含めても、たぶん年少だったろうから、そこはオニイサンたちに甘えてもよかったのに、青少年って見栄張るよねわかるよ。
 この時のヒラー少年を想像するのもフフッとなるし、この辺を執筆してる、昔の自分のことを思い出してカカ~ッて赤面しているヒラーおじいちゃんを想像するのもちょっと微笑ましい気持ちになれる。

地図

 前回も貼った地図を、今回も貼っておく。リンク先でじっくり見てほしい。
 今回はこういうルートだ。
○コブレンツ~ビンゲンまで、夜行馬車で移動(所持金残り:12クロイツァー)
○リューデスハイムまで渡し船(所持金残り:6クロイツァー)
○パンと洋ナシ購入(所持金残り:0)
○ビープリッヒ(ヴィースバーデン)でルンメルさん宅に駆け込む
○カステルまで連れてってもらう
○フランクフルトまで馬車「ハイダライ」で移動・帰宅~!

 最初の所持金がいくらだか不明なのでコブレンツからビンゲンまでの馬車代金がどれくらいなのかは計算できないが、前回夜のコブレンツに取り残されたヒラーは、夕飯を我慢してビンゲンまでの馬車切符を買う。
 残りの所持金は12クロイツァー(4ドゥカート)だ。

「12クロイツァー」が不安になる少額だということは文脈から分かるが、実際クロイツァーというのはいかほどのお金? ドゥカートってのは?? と首を傾げ、当時の通貨を調べる。
 この時代のドイツは統一前なので、今のドイツ連邦共和国で「州」や「市」にあたる地域などがひとつひとつ国として自治を保っていて、そしてもちろん貨幣もそれぞれ自前で作っていて、ドイツ統一が成るまでグルデン(フローリン)とかターラーとかマルクとかドゥカート(ペニヒ)が乱立している状態だった。他国から文句出るくらい複雑だった模様。

 この頃のフランクフルトで使われている通貨は、おそらく南ドイツグルデンと呼ばれる通貨。
 クロイツァーは円に対する銭のような補助通貨だ。1グルデン=60クロイツァー。ただでさえ数字に弱いのに60進数に出てこられて、このあたりで混乱してきた。
 ドゥカート(ダカットとも)は、ハンブルクなどのハンザ同盟都市や、ザクセンなどで使われていた通貨で、本文にもある通り、12クロイツァー=4ドゥカート。つまり1ドゥカート=3クロイツァーで、えーと……。
 頭が爆発しそうになったので、ここらで開きまくったブラウザタブをそっとすべて閉じる。
 本文中でヒラーが言っているように、パンと洋ナシが6クロイツァーだ。物価が分かる一文を入れてくれて、本当にありがたい。

「コインの散歩道」というサイトのドイツのコインのページに、1809年に鋳造されたバイエルン王国の6クロイツァー硬貨の写真がある。
 デザインなどは違うと思うが、硬貨は貴金属の含有量を同等にして作られるものなので、イメージがわくのではと思いリンクを貼っておく。
 要するに、自宅から100km以上離れた街に、所持金小銭だけで一人きりという状況だ。なるほど不安だね。

 当時の道がどう通っていたのか分からないので正確な道のりは不明だが、現代のgooglemapさんが約80kmと言っている道のりを馬車で走り、早朝にビンゲンの街に到着。夜行バスみたいだ。
 余談だが筆者もよく夜行バスで旅をして、早朝に目的地につき現地のマンガ喫茶や銭湯やファストフード店で時間をつぶすのが好きだった。
 とはいえ時は19世紀。もちろんそんなものはない。渡し船が営業を始めるまで、ひたすら待つしかない。
 渡し船のある川辺へ向かう。早朝の、誰もいないひっそりとした街をそぞろ歩く。いいね。とてもよい。所持金12クロイツァーじゃなければもっとよかったろうに。

 眠そうな船頭相手に、渡し船の運賃を値切るヒラー。「この金額で向こう岸まで渡してくれたら、あなたにいいことが起こりますよ」ってほとんど宗教か何かみたいだが、渡し船の船頭さんは6クロイツァーで渡し船を出してくれた。いいひとだ。

 前日夜から何も食べていないヒラーは、命をつなぐため最後の6クロイツァーでパンと洋ナシを購入。
 考えなしに無一文になったわけではなく、近くの頼れる知り合いの宮廷楽長の顔を思い浮かべて、ここまで来ればこっちのもんだと市場で買い物をしたのだろう。どうでもいいが「知り合いの宮廷楽長」ってなかなかのパワーワードだと思う。
 この時ヒラーが駆け込み寺認定で思い浮かべていた相手・ルンメルさんについても少し調べてみた。

★クリスティアン・ルンメル(Christian Rummel 1787-1849)
 ドイツの作曲家、音楽教育家、ピアノ・ヴァイオリン・クラリネット奏者。バイエルン生まれ。
 (アベ・)ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーに師事(ウェーバー、シェルブル、マイアベーアと同門にあたる)。
 軍楽隊を指揮したのち退役、ナッサウ公国に音楽教師の職を得てヴィースバーデンに住む。
 編曲を得意とし、マインツのショット社から多くの楽譜を出版した。
 1806年にナッサウ公国の宮廷楽長に就任。
 のちに、ロベルト・シューマンが彼を高く評価している。

 フランスやイタリアなどの楽曲を編曲してドイツに紹介していたようで、ドイツ楽壇の中ではこのことをよく思わない人もいたようだ。
『プロデュースを批判された』というのは、そのあたりのことだろうか。

 『ショット社』は、なんと現在まで続く老舗の音楽出版社だ。音楽をやっている方は、お世話になったことがあるかもしれない。

〇ショット社
 1770年から現在まで続く音楽出版社の老舗。現在も経営しているものとしては世界で2番目に古い(1番はライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社)。
 銅版画家でクラリネット奏者のベルンハルト・ショットがドイツのマインツで創立。銅版画家なのでリソグラフもいち早く取り入れる。
 マインツがフランスに占領されていた時期も、フランスの作曲家の作品を出版して経営好調、ヨーロッパ各地に支社を置き、国際色豊かな出版事業を行った。
 楽譜だけでなくメソッド等の教本や、音楽雑誌「チェチーリア」の発刊、「新音楽時報」の買収など、広く「音楽」を扱った。

オフィシャルサイトの沿革ページ(英語)

 IMSLPにあるルンメルさんの楽譜は、そのすべてがショット社から出版されたものだった。強力タッグだ。

 ルンメルさんが住んでいたビープリッヒまでどう移動したのかは書かれていないが、リューデスハイムからビープリッヒは25kmくらいの距離だ。
 うーんまあ、歩けないこともない……かな? GoogleMapでは5時間かかるよと出た。
 ルンメルさんの部屋に招き入れられたのが10時頃だというから、案外本当に歩いて行ったのかもしれない。

 突然訪れた若い友人を、ルンメルさん(40)は歓迎してくれた。
 ヒラーは仲間に「お金貸して」と言えなかったのと同様、やっぱり「ごはんください」とは言えず、挨拶をして、新曲の楽譜を見せてもらい、ピアノを演奏し続けた。メイドさんがスープ壺を持ってくるまで。

画像2

Wikimedia Commonsより
 これはロシアの女流画家ジナイーダ・セレブリャコワの「朝食」という絵画。1914年の作品で特に時代が合っているわけではないが、子供たちが可愛いので載せた。
 画面中央(ちょっと上寄り)にスープ壺が描かれている。テーブルの上に置かれ、見切れている人物(お母さんかな?)がそこからスープを皿に注いでいる。お腹が減ってきた。

 ルンメルさんが「夕飯も食べていくかい?」と言ってくれたのは、薄々事情に気付いてのことだったんだろうか。いつ気付いたんだろう。
 もしかしてヒラー少年、さすがに気取ってもいられずスープ壺の中身にものすごくがっついたりしたんだろうか。
 ヒラーはホッと息をついた。「救われたぁ~!」と訳した部分は、英語では「I was saved!」、ドイツ語原著では「Ich war gerettet!」だ。この本の中ではそこまで出番の多くない「!」マークを使っているので、相当安心したものと思われる。

 ルンメルさんはカステルという街までヒラーを連れていき、そこからフランクフルトまでのハイダライ馬車を手配してくれた。なんて親切な宮廷楽長だろう。

○ハイダライ馬車(Hauderei)
 ドイツに昔あった、馬車(冬場はそり)による運送会社。貨物や商品、旅客運送のほか、病人や遺体の運搬なども請け負った。
 ゲーテは「快適」と評価していた。また、「御者クロノスに」という詩の中にハイダライの名が登場する。
 ちなみにこの詩には、のちにシューベルトが曲をつけた。

 これもあまり資料がなくて、ほぼドイツ語版wikipediaに頼るしかなかった。つまり現代のタクシーのような感じだろうか。
 実際、ハイダライの流れを汲む会社であることを記載している、ドイツのタクシー会社「TAXI-Schwarte」も見つけた。サイトの会社概要のページに記述あります。ドイツ語ですが……。

 カステルからフランクフルトまでは約35km。馬車で4~5時間ほど。ようやく家にたどりついたヒラー少年、終わりよければすべてよしだ。
 最後にとってつけたようにメンデルスゾーンの名を出しておくヒラーおじいちゃん(笑)。
 青春の日々を思い出すのは、いつだってたのしい。

次回予告のようなもの

 今回で第1章・フランクフルト編は終わり。次回から第2章・パリ編が始まる。
 花の都パリで、メンデルスゾーンはどんな活躍を見せるのか。というか、この街はメンデルスゾーンのお気に召すのか??

 次回・第2章-1 ワルプルギスの夜 の巻!
 来週もまた見てくれよな!

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いわし
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