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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 38

第4章-14.ライプツィヒ:ヒラー『序曲ニ短調』

ライプツィヒ、1837年1月24日
 親愛なるフェルディナント。君の序曲ニ短調のリポートを送らなくちゃいけません。先週の木曜夜に演奏されました。
 とても上手くいきました。僕達はとても注意しながら何度かリハーサルをして、ほとんどの個所が僕の期待を超える出来栄えです。
 全曲の中で一番美しいのは、管楽器パートのイ短調ピアノのパッセージ、そしてそこから続くあの――あの主要部! それからワーキングアウトと呼ばれる部分の冒頭のト短調のフォルテ、そのあとに続くピアノ(君のお気に入りのパッセージ)、そして管楽器とドラムが終わりに向けて鳴らすニ長調のピアノもです。
 終結部はオーケストラで聴くと期待していたよりも素晴らしく聞こえます。
 ただ、ひとつ伝えなければいけないことがあります。最初のリハーサルのあと、僕らの間にある信頼関係に期待して、低音のラのメロディ――あとファとレに戻るところ――を、スタッカートから持続音に変えずにはいられませんでした。
 君はそのスタッカートであれほど落ち着きのないものになるとは想像できなかったのだと思います。だから、僕が勝手に変えたことで気を悪くしないでください。君があれを望んだとは思えないので、きっと君でも同じことをしたと確信しています。

 実はまだ言いたいことがあるのです。
 君の序曲は、あの演奏をもってしても僕が期待したほど音楽家たちを虜にはできず、僕らの間に寒々しいものを残しました。
 これはそれほど問題でもないでしょうが、僕が話を聞いた演奏者達が口をそろえて同じことを言っていたのが気になるところです。
 彼らは皆、最初の主題と冒頭部分全て、イ長調と短調のメロディはとても気に入っていてここまでは上手くいったと思っていたのですが、そこから先はどんどんと興味が薄れていき、最後には主題への好印象まで忘れられ、この曲そのものに関心をなくしてしまったのです。
 これは僕にとって重要なことです。というのは、僕達が今まで果てしなく議論を重ねてきた問題が、再浮上したからです。そして君が持っている欲求、いつでも自分の芸術のことを考え関心を寄せていたいという欲求を、最終的には他者にも感じてもらわねばならないということです。
「環境も才能もどんなに偉大な人物であっても、彼にそれを強いることはできず、万人が自分一人で、ただ自身の意志だけによってそれを決める」。この点について完全な確信が得られるまでは、君に言うのはやめようと思っていた論説です。

 僕は誰かの生まれ持った性質や才能をあげつらうことがこの世で一番嫌いです。凹んだり落ち込んだりするだけで、何の役にも立ちません。身長を50cm伸ばそうと苦労して努力したって無駄です、そんなことができる人はいないのです。だからそのことについては黙って、神に責任をなすりつければよいのです。
 ですが今回の君の作品のように、主題には素晴らしく美しい才能やインスピレーション(何と呼べばいいのかな)があるのに展開部だけが良くない場合、それを見過ごすのは難しいかもしれないと僕は思っています。『彼らの批評はまるきり見当違いではない』と考えること、それが自分自身と自分の作品をよりよいものにするポイントです。
 そして素晴らしい能力を持った人には、偉大な人物になる義務があり、もし与えられたものに相応しい成長を遂げられなかった場合は、彼の失態と呼ばれても仕方ないと思います。それは音楽においても同じことだと、僕は信じています。
 僕に言ってもしょうがない、そういうものなのです。そうしなければいけないのです。天がそのように作ったのだから、どの音楽家にも彼の思考や才能を変えることはできないと、よく分かっています。でも、天から与えられたものを適切に発展させないといけないことも知っています。

 お前ら全員間違ってる、などと思わないでください。君の実力がこの展開部程度のものだなんて、僕は思いません。今日のどの音楽家と比べても、君の実力は引けを取らないものです。それなのに、その実力を十分に発揮できている作品を僕はまだ知りません。
 二つの序曲は確かに君の最高の作品だけど、君が自分自身をはっきりと表現すればするほど、人々は何かが欠けていると感じるのです。僕としては、君には改善の余地があると思います。
 どうやって、なんて僕に訊かないでください。君のことは君自身が一番よく知っているのだから。結局のところ、たった一歩あるいはたった一秒の間考えるだけで、たどり着くことなのでしょう。

 この長い話を君が笑い飛ばしてくれたなら、きっと君はいい方向へ行くと思います。でももし、ないとは思うけど、怒りや恨みを抱いたとしたら――こんな「もしも」を考える僕が馬鹿なんですが、だけど他人からこんなことを言われて、そうならずにいられる音楽家が何人いると思いますか?
 それから、僕がどれだけ君の才能を愛し讃えているか言葉を尽くしたつもりですが、君は完璧じゃないと言っているようにも受け取れるかもしれません。大抵の音楽家ならそれで怒り出すでしょう。
 でも君はそうじゃない。君は僕の真心を知っているから。

 バッハのその一節については、たまたま楽譜が手元にないのですぐには確認できないけれど、誤植だとは思っていませんでした。確かにこの版には誤植が多いですが。君の版の方が間違っていませんか? たしか「Thou smotest them」の部分にはバッハっぽいラ♭があったはずです。

それではよろしく 君のF.M.

解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 前回まではわりとお茶目なユーモアたっぷりの手紙だったので、解説(という名のツッコミや茶化し)もチャカチャカ書けた。
 のだが、今回のこの手紙は、今までとは雰囲気がガラリと変わり、メンデルスゾーンが持っていた芸術論の片鱗が垣間見える真面目な手紙になっている。
 今回は解説は控え目……というかほぼ放棄して、筆者もたまには一緒になって芸術や才能というものについて思いを巡らせてみようと思う。

 これまで何度か手紙の中で取りざたされ、前回の手紙では演奏が延期になったヒラーの『序曲ニ短調』。とうとうその曲が、コンサートで演奏された。カレンダーを確認したところ、「先週の木曜」は1月19日だった。
 冒頭でメンデルスゾーンはまず、とてもうまく演奏できたことと、この曲のよいところ、聴きどころを列挙している。
「終結部はオーケストラで聴くと想像以上によかった」というのは、楽譜はまず手持ちの楽器(主にギターやピアノなど)で鳴らしてみるという当時の音楽の聴き方を物語る。最初はおそらくピアノでメロディなどを鳴らして聴いていたが、オーケストラで鳴らすと予想以上に素晴らしかったとのことだ。
 ヒラーのオーケストラ曲、序曲の録音は見つからないがピアノ協奏曲の録音がいくつかあるので、機会があれば聴いてみてほしい。なかなかカッコいいオーケストレーションだ。

 また、楽譜の一部を書き換えたことを事後報告している。おそらく君でもそうしただろうし、僕らの間には信頼関係があるから気を悪くしたりはしないよね、とのこと。
 ヒラーの序曲ニ短調は、IMSLPで楽譜を入手可能だ。
 筆者は作曲や楽典どころか楽譜が読めない人間なので、序曲ニ短調の楽譜は入手できてもメンデルスゾーンが指している部分がどの部分なのかはサッパリだが、楽譜が読める方は眺めてみたら面白いかもしれない。
 ただ、この楽譜が初めて出版されたのは1844年だそうなので、1837年のこの時に演奏されたものからは改訂されている可能性が高い。この後メンデルスゾーンからダメ出しも喰らうし。

「実はまだ言いたいことがあるのです」なんて、普段だったらまたなんかお茶目な事言い出すのかな? と思うところだが、今回の手紙はひとあじ違う。正直言って訳すのが大変だった(泣き言)。
 ヒラーの序曲ニ短調、メロディは音楽家たちも気に入ってくれたのだが、展開つまり構成がよくなかったとのことだ。
 音楽を聴いていて、サビはいいんだけどAメロがちょっと、とか、ここのメロディは好きなんだけど曲全体で見ると微妙、なんて思ったりすることがある。大雑把に言えばヒラーの序曲ニ短調は、音楽家たちにそう思われてしまったらしい。

 そしてここから、メンデルスゾーンの芸術論が展開される。
 メンデルスゾーンは同時代の音楽家であるリスト、シューマン、ベルリオーズ、そしてヒラー達のように、文筆業に力を入れることはあまりなかった。
 なので今回のこの手紙は、メンデルスゾーンの芸術観とか、才能についてどう考えていたのかなどに触れられる貴重な機会と言える。
 ここで書かれたことについて、とりあえず3つに主題を分けてみる。

・芸術への興味関心について
・天賦の才と、努力で培う技量について
・才能ある人がそれを生かすべき方向性について

 まず一つ目、「芸術への興味関心について」
 メンデルスゾーンはこれまでにも、「大衆受けのする音楽よりも、知識見識のある音楽家に好まれる音楽の方が、よい音楽」といった趣旨の文を書いていた。
 そして、この辺りはヒラーと以前議論したことがあるのだろう、「芸術家は四六時中いつでも自分の芸術に関心をよせているべき」。そこへさらに、「最終的には、他人にも自分の芸術に関心をよせてもらわなければいけない」と書いている。
 芸術家は孤高なもの、誰ひとり理解する者がなくともその芸術を貫くべき、という考えも世間にはあると思うのだが、メンデルスゾーンの考えはそっちではないようだ。

「芸術へ興味関心を寄せること」について、「環境も才能もどんなに偉大な人物であっても、彼にそれを強いることはできず、万人が自分一人で、ただ自身の意志だけによってそれを決める」とも書いている。
 例えば、有名音楽家の子供は音楽家にならなければいけないだろうか。スポーツの才能を持っている人はスポーツ選手にならなければいけないのか。世界的に有名な画家に「君は画家になるべきだ」と言われたら画家を目指さないといけないのか?
 メンデルスゾーンはこれらすべてに、NOと答える。
 ただ自分の意志だけが、自分の興味関心をどこへ向けるかを決められるのだと。
 18世紀以前、「職業は親からの世襲」が基本だったし、「結婚相手は家同士のつながりだから親が決めるもの」だったし、「音楽家は裏口から入る、召使いに準ずる職業」だった。
 メンデルスゾーン達が生きた19世紀は、膨大な人数の努力が積み重なって、少しずつ少しずつ、変わっていっているその最中だ。「自分のやりたいことは自分で決めていい、自分だけが決められる」という考えは、19世紀らしい新しさだ。そしてもちろん、わざわざ書簡に書くほどなのだから、当時の常識・一般的な考え方ではなかったのだと思う。
 メンデルスゾーンは裕福な銀行家の息子だった。だが、彼は銀行経営ではなく、子供の頃から英才教育を受けた他のどの学問・芸術でもなく、音楽を選んだ。その選択の基盤にはこんな考えがあったのかと、興味深い文章だ。

 2つ目、「天賦の才と、努力で培う技量について」
 天才vs努力の人、という図式は、少年漫画をはじめいろいろな場面で見かける。
 筆者はそういう対比を持つ物語の登場人物たちが大好物だ。残念ながら特段秀でた点もないので、一芸に秀でた天才や、ひとつのことを極めるまで努力を重ねた秀才には並々ならぬ憧れもある。
 次回公開予定のヒラーが書いた文章から考えるに、メンデルスゾーンとヒラーの間で「果てしなく議論を重ねてきた問題」は、どうやらこの点であるようだ。
 偉業を成し遂げた人がいたとする。その偉人が偉業を成し遂げられたのは、生まれ持った才能のおかげか、それとも積み重ねた努力によってなのか?
 ……おそらく太古の昔から議論されていて、現在も答えは出ず、未来においても決着がつかなそうなお題だ。

 メンデルスゾーンは、才能とか体格とかおそらく家柄や人種なども含めて、「生まれつきのもの」をあげつらうのが大嫌いだ、ときっぱり述べている。この部分、底本では「I dislike nothing more than~」(~より嫌いなものはない)というかなり強い表現を使っていた。
 こう思うようになったのはおそらく、「裕福な」「ユダヤ人の」「銀行家の」家に生まれ、子供の頃から差別や心ない言動を受けてきたことと無関係ではないと思う。
 また、この辺は創作作品の天才キャラにもよく見られるが、「自分がしてきた努力や苦労の数々を『天才』だの『才能』だのという言葉で全部片づけられるのは納得できない」という思いもあるかもしれない。
 そしてここで言うところの「あげつらう」は、他者をあげつらうだけでなく、自分をあげつらう、責めることも含まれている気がする。
『自分が生まれ持ったものに関して、自分を責めるのは無意味だ、そんなものは神のせいにしておけばいい』。こう思えるようになるまで、メンデルスゾーンはどれくらい「もし自分の出自が違ったら」と考えたんだろう。
 ……ちょっと感傷的になってきているな。閑話休題。

 ざっくり言えばメンデルスゾーンは、メロディを作ることは「生まれ持った才能」、展開・構成の技術は「努力で培った技術」にあたると考えているらしい。
 つまり、ヒラーには生まれ持った才能が十分にあり、ただそれを活かしきれるだけの技術がまだ未熟である、と。
 ヒラー側には、メンデルスゾーンのこの考えについて反論があるようだ。それに関しては次回更新分で。今回のメンデルスゾーンの持論と合わせて読み比べてもらえたら嬉しい。

 3つ目は、「才能ある人がそれを生かすべき方向性について」
 この件に関しては、上記の訳文からたった一文抜き出すだけで充分な気がする。
「素晴らしい能力を持った人には、偉大な人物になる義務がある」。
 その前に書いていた「才能など関係なくその人の意志だけが、その人の興味関心の方向を決める」と相反するようにも見えるが、ここで言う「素晴らしい能力」とは、生まれ持った才能と努力で培った技量、そして潜在能力までもひっくるめた「capacity」だ。「器量」「相応しさ」とも言える。
 メンデルスゾーンと同時代人のフランツ・リストのモットーは「Génie oblige」だった。「Noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)」の才能版だ。「才能ある者には義務がある」といったところか。今で言うとCSRみたいなものかなあ(語弊)。
 メンデルスゾーンとリストは親交があったし、もしかしたらリストのこの言葉をメンデルスゾーンも聞いたことがあったかもしれない。聞いていたらきっと、リストに同意していたと思う。
 もっとも、続けて「もし与えられたものに相応しい成長を遂げられなかった場合は、彼の失態と呼ばれても仕方ない」とも書いているあたりは、他人に厳しく自分にはもっと厳しいメンデルスゾーンらしいな、と思ってしまうが。

 差別や苦労はもちろんあったが、メンデルスゾーンは概ね恵まれていた。実家が裕福だったし、食うのに困ったことはないし、最高の教育を受け、一定以上の理解のある家族がいて、自分の才能を認めてくれる人間も切磋琢磨できる仲間も周囲にいた。
 酒浸りで家族を養うことができない父親の代わりに家計を担うこともなければ、勘当されて仕送りをとめられ粗末な部屋で少しのパンと干しイチジクだけで暮らすこともなかったし、見世物のようにヨーロッパ中連れまわされて貴族やブルジョワに売り込まれる子供時代も過ごしていない。
 そういった「自分の恵まれている部分」について、メンデルスゾーンは自覚していたと思う。だからこそ、不遇な演奏家たちの地位向上のために尽力したり、作風が自分の好みじゃなくても音楽家仲間を援助したり、ライプツィヒに音楽院を設立したりできたのだろう。「Noblesse oblige」も「Génie oblige」も、自分のすべきことだと考えていたのかもしれない。

 メンデルスゾーンの考え、いろいろ興味深かった。
 が、もし自分がヒラーの立場だったらと考えると、正直もらったこの手紙を冷静に読めるかどうか分からない。多分、読んでる途中から指先が冷えてきて、読み終わった頃にはズーンと落ち込みいったん内容を忘れておいて、数日経って落ち着いてからもう一度考えるくらいのステップが欲しくなる。
 メンデルスゾーンもなんとかキツくなりすぎないようにとか、うまく伝わるようにとか、ヒラーが拗ねちゃわないようにとか、心を砕いている様子が文面から伝わってくる。いつものあけすけな「手紙遅れたけど君は許してくれるよね☆」とか「返事早くちょうだいね!」とか「プファライゼンにいたかったアァァ」とかを封印しているし。
「あとほんの少しのひらめきで、とってもよくなると思うから、頑張ってみてほしい! 君は他の音楽家みたいにこの手紙のアドバイスに怒り出したりしないで謙虚に受け入れてくれるって信じてる!」という、結局はメンデルスゾーンからヒラーへの大きな期待と信頼に満ちた手紙なのだと思う。
「君は僕の真心を知っているから」なんて、とんだ殺し文句じゃありませんこと???

 最後にとってつけたように、ヒラーが手紙で聞いてきていたらしき件について答えている。
 単純に最後になって質問されていたことを思い出したからなのか、ちょっと真面目でクサいこと書いてしまった照れ隠しなのかは分からない(笑)。

次回予告のようなもの

 この、メンデルスゾーンが愛のこもったレクチャーをしてくれている手紙は、彼の書簡集の第二巻にも既に収録されているのだが、ここで省略することはできないと思った。そして私達がした、フェリックスの言う「果てしない議論」について、二、三、述べたい。この問題について私は今日までも自分が正しいと信じているが、だからと言ってこの機会にあの時の彼の批判に反対意見を述べてやろうというわけではない。

 これは次回の冒頭部分。ここだけで十分次回予告になるな~と思い、先行公開した。
 メンデルスゾーンの音楽論を受けて、ヒラーも持論を展開する。今回に引き続きちょっと小難しくもあるが、芸術にちょっとでも関わったことがある人なら一度は考えたことがあるだろうお題だ。
 よかったら皆さんも考えてみてほしい。あなたの考えはメンデルスゾーン寄りか、ヒラー寄りか、それとも全く違うものだろうか?

 第4章-15.天賦の才と、培った技量 の巻。

 次回で第4章は最終回! 次もまた読んでくれよな!

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いわし
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