LGBTパートナーシップ条例について
河北新報社 編集局報道部
県警取材班 山老美桜さま
私は明後日、LGBTパートナーシップ条例についてあなたの取材を受けると約束しました。あなたは事前に私に対し、主に質問したいことをメールで教えてくださいました。それらの質問は主としてLGBTが社会的に、あるいは法的に認知されていないことによって、ゲイで在る私が生涯においてどの様な不利益を被ったかという内容でした。それについて私は既にメールで一問一答式にお答えしました。LGBTが被っている社会的不利益に付いてなら、あなたは既に私に直接取材しなくてもあのメールのやりとりだけで記事が書けると思います。
しかしその後、私はこの問題について改めて当事者として考えてみました。LGBTが社会的、法的に容認されていないためにどんな不利益を被っているかという事だけを社会に訴えて、果たしてどれほどの人々の心に響くだろうかと。この問題は、もっともっと深く考察しなければならないのではないかと考えました。
杉田水脈という自民党国会議員が「LGBTは生産性がない」と言って大騒ぎになったことはあなたもご記憶と思います。彼女は、LGBTは子供を産まないのだから生産性がないのだ、だからLGBTに対して社会的権利を認める必要は無いと主張しました。それを聞いた時、多くの人々同様、私も激怒しました。「俺はゲイで、確かに子供は産まなかったが、その代わり漢方について英論文を40本以上書いた。日本の漢方臨床医でこんなに英論文を書いた人間はほとんどいない。その上俺は老年科医として長年高齢者医療に携わってきた。そういう俺を、パートナーは20年以上内助の功で支えてくれた。パートナーの助け無しに、俺はこれだけの仕事は出来なかった。充分社会的に生産性がある人生を送ってきたじゃないか!」と怒ったのです。私はその旨を杉田水脈の事務所や自民党に抗議文としてメールしました。予想通り何の返事もありませんでしたが。
しかしその後、私は考えたのです。待てよ、杉田水脈は人間の生産性という事を問題にしている。彼女は子供を産まないから生産性がないと主張していてそれはあまりに稚拙だが、それに対する私の怒りは「俺はゲイだがこんなに生産性がある生き方をしてきた」というものだ。しかし考えてみると、私がこれまで診療してきたのは、認知症や寝たきりの後期高齢者や、重度心身障害者だった。彼らはもちろん子供は産まないし、私が反証に挙げたような社会的生産性も持っていない。そういう人ばかりを一生診療してきたのなら、つまり「生産性のない」人々を診療し続けてきた私は、はたして生産性はあるのか。杉田水脈の言う「子供を産まないから生産性がない」はあまりに稚拙だとしても、それに対する反論が「私はゲイだがこれだけ社会的に生産性のある仕事をしてきた」であるとするなら、私が診療してきた人々がそういう意味での生産性を全く持っていない人々だったという事はどういうことになるのか。生産性で議論する限り、「生産性のない人間を診療し続けてきたお前の人生は生産性がない」という反論が成立しうるのでは無いのか。
こう考えた時、私ははたと行き詰まってしまいました。「子供を産まないから生産性がない」という主張に対し「いや社会的には極めて生産性がある人生を送ってきた」という反論をしたつもりが、「そもそも生産性がない連中を相手にして生きてきたお前に生産性はあるのか」と問われた時、言い返せないことに気がついたのです。人間を生産性という尺度で論じる限り、私は杉田水脈を論破出来ません。
山老さん、あなたはどうお考えですか?あなた一人の考えで無くても良いです。デスクでも同僚でも誰にでも訊いてみて下さい。私はあなたが記者二年目の駆け出しであり、デスクから「だいたいこう言う内容で、こうした筋書に沿った記事を書け」と言われている事を承知しています。しかし杉田水脈のような考えをもっている人は、世の中に少なくないのです。LGBTを生理的に嫌悪している人々、つまり「気持ち悪い」と感じている人は、社会の隅々までたくさんいます。そういう人々は、むしろ杉田水脈の主張を正論だと受け取るでしょう。その人々に、LGBTは社会的に、あるいは法的に認められないためこんなに困っていると幾ら説いても、おそらく何の説得力もありません。彼らはもともと、生理的に気持ちが悪いと感じているのです。それを正当化するために生産性云々を持ち出しているに過ぎません。そういう人々に、どうしたらこの問題の深刻さが分かってもらえるでしょうか。単にLGBTがこれだけ困っていると言っただけで彼らが理解してくれるとは、私には到底思えません。もっと深いところから考えてほしいのです。みんなで社会を構成している人間どうし、お互いにどう向き合ったら良いのか。色々なあり方で生きており、それぞれ問題を抱えている人間同士を、どう理解し、どう位置づけていくのが望ましいのか。生産性という言葉でぶった切って良いのか。そうでないなら色々な問題を抱えた人々に、社会は、あるいは人々はどう向き合うべきなのか。
若いあなたのご意見をお待ちしております。