LGBTQパートナーシップ条例について
今日地元新聞社の取材があって、もし仙台にLGBTパートナーシップ条例が出来たら参加したいかと問われた。
LGBTパートナーシップ条例は何ら法的効力が無く、我々当事者が日常的に被っている不利益を解決する手段としてはほとんど期待出来ない。一方でそうした制度によって同性のパートナーとして名乗り出ることで、我々は否応なく世間に晒されるリスクがある。ほとんど具体的なメリットが無いのにリスクがあるものを敢えて利用しようとする人は少ない。この点が同性婚とは根本的に違う。
しかしそうした制度が出来て同性のパートナーとして公に名乗り出ることは、LGBTQにとって戦いの武器になり得る。59年になろうとする私の人生の中で、戦わずして得られたものは一切無い。私の古い友人達の中には、社会の無理解や差別に耐えきれず自殺した人が何人もいる。彼らも戦ったのだ。力の限り戦って倒れた戦士達だ。彼らの存在を無にしないためにも、戦いを止めてはならない。
マジョリティーは我々に向かって「のこのこ表に出てくるな。黙っていろ。影に引っ込んでいろ。そうしたら見ないフリをしてやるから」という。そう、この国では、自分がLGBTQであることを公にしたり、権利を主張したりしない限り、世間は一見素知らぬ顔をする。裏ではひそひそ言うものの、あからさまな差別は最近では控えられるようになった。しかしいったん我々が表に出て、我々が被っている不利益や不条理について語り、権利を要求し始めると、彼らの態度は一転する。「不愉快な奴らだ、そういうことは黙ってろ、そんなのはお前達の勝手な主観だ」と攻撃を始める。
だからこそ我々は、常に一歩前に出なければならない。戦わなければならない。我々はここにいる、存在している、社会的に不合理な立場にあって権利を侵害されている、我々に市民として当然の権利を与えろと要求し続けなければならないのだ。もしパートナーシップ条例が実現して、そこに名乗りを上げるなら、それは私にとって新たな戦いのリングに名乗りを上げることになる。今はそのリングすら無いのだ。リングを寄越せ、我々は戦うのだから。パートナーシップ条例に登録する意味がもしあるとするなら、それはそう言うことだと私は考えている。
もう一度言う。戦わないで得られるものは、この世に何一つないのだ。