日誌:願いの内容が大きく広くなる。
仏教。及び。高等な思想哲学に好奇心旺盛な気持ちで学ぶ。その経過で、私が、「佳かった」と実感している事。これは、私の願いが広い大きな意に育っています。
噓偽り無い。虚栄的考えが無い。私個人の無理しない思考の中で育ち、湧き起こっている願い。「己心」に、その時々の何かについて、一人の人間としての私の感想と希望が広い大きな志と願いを産み出しています。
いつからなのかを、私は解していませんが。私は、私が強く願っている希望を私の祈念に集中している時間以外、思考していません。言い換えると。私は、私が強く願っている希望の内容について、私以外の人間と交流できる時間使用の中で言葉に表したり明確に表現したりした経験が有りません。
なぜ、私の願いの中の広くて大きな部分を、私の心の中だけに隠すような経過を、私は生きてきたのか。その回答を、今の私が考えてみましたところ。きっと。人間としての私の思考が、私の大き過ぎる感じの希望が、私以外の人々に知られると、「恥ずかしい」「同時代を生きているほとんどの人々から驚かれるだろう。」「経済資産を多量に持っていない。どこかの立派な国の王でも無い。そういう人生を生きている私個人の願いを私は大き過ぎる。」というふうに考えるからでしょうか。 しかし。私個人は、この広い大きな意味の願いを、私個人の希望の中から捨てる気持ちは微塵も有りません。無論。私が私の強く願い続けている部分から、その希望の大きくて広い部分を省く予定的考えも思い浮かんだ時が有りません。
一般的に人間の知能では難解だと、私自身で考える事は可能だとしても。私は、この希望の中の大きく広い願いの部分を具体的に実現可能だと信じ続けています。その一つの理由は、理に適っているからです。
きっと。今から将来を生きる人間の誰かは、必ず、今迄の私が誰にも伝えていない、私の大きくて広い願いと同じ実質、中味を希望し、清らかな未来の人類史に貢献してくださると、私はかんたんに想像可能で在るし信頼できます。
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