科学への信仰

昨日と一昨日はあまり調子が良くなかった。

理由はおそらく悪天候にあるのだと思う。

私は昔から天候が悪いと調子が悪くなる傾向にあった。鬱になってからその傾向がより顕著になった気がする。外の見えない室内にいても悪天候かどうか判別できる程度には、天候による調子の差が存在するのだ。


この現象だが、どうやら科学的な説明が存在するらしい。気圧の差が毛細血管に影響を及ぼすというものだそうだ。私はその分野の専門家ではないし裏を取ったわけでもないので信用度はそこそこ程度というべきだが、科学とつくだけでどうも説得力を感じてしまい、私はこの説をけっこう信用してしまっている。

これを書いているいま気がついたのだが、私の中には科学の信奉者とも呼ぶべき、科学であれば信頼できるという一面があるような気がしてきた。科学は再現性を神とする宗教である以上、他の宗教よりは現実的だと私は考えているのだが、それでも記憶に新しい再現性の危機などを思い起こせば、私は少し科学に依拠しすぎているのではないかと感じる。
そもそも、この信仰がこの状態を招いたのではないか? 私の鬱の始まりは、2つの会社の内定をどちらか一方に決められないというところからであった。この時期の私を語るのに欠かせない本が存在する。『科学的な適職』という本だ。

この本はその名の通り職業選択を科学的なアプローチから行うというものだったが、結局この本だけを頼りに決断する勇気まではなかった。にもかかわらず、この本の内容に心が引っ張られ続けた結果、別の方法で答えを出すこともうまくできなかった。例えば、『科学的な適職』には給与はあるラインを超えると幸福度を大きく上げる力はなくなるとあったが、2社にはかなりの給与の違いがあって悩む、といったふうに、2社の様々な要素の比較検討が深く脳に絡みついた。その決断の苦しみから逃れることができず、負荷のかかった状態ですべてを先延ばしし続けた結果脳に大きなダメージを負い、今こうして鬱病になっている。

時々、あのときを振り返ってどう解決すればよかったのか、今度はどうすればよいのか? ということを考えてしまうことがある。もしかしたら、こうやって解決策をすぐ探そうとしてしまうこと自体も、科学的な考え方にとらわれてしまっていることの現れかもしれない。これはすぐには治らないけど、最近はそんな自分をとりあえず受容することは少しづつできるようになっていると感じる。受容の重要性を、youtubeの精神科医の動画などで少しづつ身につけてきた成果が出てきているのかもしれない。

だからもし再発予防策のようなものが存在するのなら、自分を受容しつつ、科学を少しづつ相対化していくことではないかと思う。今の思考の癖として、これは科学的だ・科学的ではないという二項対立で考えがちな自覚がある。そこに三項目を、四項目を入れていくことが、いまの自分の心にとってはいいんじゃないかなと思ったりするのだ。

(おわりです)

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