気質こそ最大のガチャ要素なのではないか
人生におけるコントロール不能な要素のことを揶揄して「ガチャ」と呼ぶことがある。ガチャというのはソーシャルゲームの用語の一つで、要は福袋のようなものだ。お金を払ってガチャを行うことで、ランダムで有用なゲーム内装備やら人気のキャラクターやらが手に入る、かもしれないし、大したことのないハズレを掴まされるかもしれない、というものだ。ガチャという語を持ち出す際に注目されているのは、何を引くかは完全なる運次第であり、そこにプレイヤーの戦略や努力による介入は介在する余地がない、という側面だ。
言うまでもなく、ソーシャルゲームの世界のみならず、現実世界の人生においても努力の介在する余地のない事柄は数多く存在する。一般的にガチャと揶揄される代表的な事柄には、「親」と「才能」があるだろうか。親は少なくとも18歳程度になるまでの人生に対してほとんど支配者といってもいいくらいの絶大な影響力を持ち、それ以降の人生にも間接的あるいは直接的に大いに影響を及ぼしうる。また、この資本主義社会において貨幣と交換可能な才能を持つことは資本主義社会における高い地位と充足感が得られることを意味し、才能を持っていないことはちょうどこの逆を意味する。これらは人生に対する効きが大きいだけでなく、厄介なことに自分のコントロールが一切効かない。まさしく「ガチャ」であり、人生のガチャは購入したわけでもないのに引かされていることを加味すれば、ソーシャルゲームのガチャのほうが幾分マシとさえ言えるだろう。
ところで僕は最近まで、「親(+実家の太さ)」「才能」が二大ガチャ要素である、という見解に概ね賛成であった。いやまあ本当は国籍ガチャ(世界全体で見ると年収50万とかでもtop40%のお金持ちだったりする https://howrichami.givingwhatwecan.org/how-rich-am-i?income=500000&countryCode=JPN&household%5Badults%5D=1&household%5Bchildren%5D=0 )とか星ガチャとか宇宙ガチャとかも考えられるんだけどそういうのは除くとして、そうするとこの2つはかなりクリティカルなように思うし、実際クリティカルなの自体はおそらく間違いない。
しかしそれよりもっと効くのが「気質」ではないかなと、最近思い始めた。
きっかけはこのツイートである。
「にゃるら」というのは時折面白い記事を書くインターネットのオタクで、アニメあるいはゲームの作品に対して奥深くまで入り込む感情移入能力と製作者の意図を察する分析力、そして文字に起こす表現力をいずれも高い水準で持っている信頼できるオタクというのが個人的な印象である。もっとも僕は別段彼に詳しいわけではないのでこの見方がどの程度一般的かは知らない。にゃるらさん個人ブログやら何やらに記事はそれなりにあるので気になったら適当に読んでみると良いと思う( https://nyalra.hatenablog.com/entry/2019/02/11/215437 記事は適当に思いついたものをピックしただけです)
そしてツイートに関しても、僕はこのツイート者のことを全く知らないのでこの発言がどの程度の正当性を持っているかについては一般の見知らぬツイートと同程度に留保が必要だと考えているが、実際グッズに囲まれたヲタクの部屋に住んでいたり好きなこと(執筆やゲーム作りなどに携わっていたはず)で生活できているというのは自分の観測範囲とも矛盾しないし、病んだ日記という表現が正しいかはともかくにゃるらさんがtwitterで時折(最近はそれなりの頻度で)上げている日記の文章は確かにかなり陰のあるものだと感じる。一例はこれだろうか( https://twitter.com/nyalra/status/1428047886672023552/photo/1 )。にゃるらさんのメディア欄を遡ることでそれなりの数の日記を見つけることができるが、読んでいくとこれらの闇の部分がファッションではなくちゃんと本物であることがひしひしと感じられる。
この一つの事象についての正当性を詳しく検討することはしないが、一つの絶望的観測を導くきっかけにはなる。「いかに人生で充足し達成しても、あるいは何らかの幸福とみなされる外的事象を経験しても、現実を気質のフィルターを通して受容するのであればそのフィルターの質が最終的な幸福に最も大きな影響を及ぼす要因なのではないか?」と。
これは考えてみればそうである気がしてくる観念だ。「親に虐げられながらも、それを乗り越えて幸福な家庭を築いた人」あるいは「特にすごい才能があるわけではないが、堅実に働くことで庶民的な幸せを手にする人」というのは特に突飛な話でもないが、「幸福な鬱病人」なんてどこにいるのだろう?鬱は気質ではなく症状であるのでこれは詭弁であるにしろ、鬱を導く気質というのは確実に存在している。僕の知識量ですら才能ある鬱の小説家を数え上げるには片手で足りない。才能に恵まれた彼らは幸福だっただろうか?人の人生を勝手に不幸だと断ずるのはとんでもなく失礼であるにしろ、自殺で人生の幕を引いた彼らが幸福な人間であると言い張るのにはやはり無理があるように思う。
なによりこの観念を支持するのは自分の経験だ。自分の経験、特に直近のものを一般化しすぎるのは真実性が高いとはいえない思考だが、人間はそういうものだろう。いま僕は悩みが雪崩を打って全ての意欲を引き剥がされたような状態に陥っているのだが、やはりこれは気質が効いてるように思えてならない。気質に帰さずとも人間にはそういう時がある、という反論も想定されるが、やはり外的事象の効き方というのには大いなる個人差があるような気がしてならない。
あるいはそう見えるものは、実は内的な落とし穴の数や深さなのかもしれないと思う。僕が初めて自我の存在を自覚し、自分がいずれ死すべきことを受け入れられずに狂ったようになって精神科に連れていかれたのは小学2年生の頃だったが、今でもあのときの底まで落ち込むような冷え冷えとした心の感覚を肌で覚えている。普段はただうまく蓋をして生きているふりをしているだけで、この深い穴は今もずっとそこにあるし、似たような穴はそこかしこにある。なにかの外的な要因で蓋が取れてしまう。このときの反応性の違いを外的事象の効き方の違いであり気質と捉えがちだが、実際にはどこまで深い穴を自分で掘ってしまうかという深さの違いこそが気質なのではと思うのだ。小学2年生ながらにそこまで深い穴を掘れる人間はそう多くないだろう?僕の自慢にならない自慢というやつの一つだ。
父と話すことがよくあるが、父も似たようなことを言っているのでこれは遺伝なんだろうなと思う。先程は穴の深さで喩えたが、父いわく本質的には振れ幅の大きさではないかとのことだ。確かに上下は人間が勝手に定めた概念でしかないのでそれは自然だろう、自分は無感動よりは過剰感動の気が明らかにある。しかし父は70になっても振れ幅の大きさは特に変化した様子はないと言っていた。それでこそ気質、なればこそ気質といえるだろうか。
しかし、親や才能よりも気質のほうが強いのではないかという気付きは、同時に僕に一つの希望的観測をもたらすものだった。親や才能というのはより抽象化すると「恵まれた環境」であるといえると思うが、それで言うと僕は明らかに恵まれている部類に入る。親に大切に育てられており仲もよく、大学進学を視野に入れられる程度に文化的な環境を与えられ、受験勉強の才能もあった。「恵まれているからには幸福でないとおかしい」という固定観念があった。これは落とし穴に落ちていないときには機能したが、最近落とし穴に落ちたことをきっかけに認知的不協和をもたらした。
なんのことはない、そうではなかっただけだ。恵まれていようが気質がそこにある、それだけのこと。それだけのことに気づくのに随分時間がかかってしまったが、それでも気づけただけ一ついいことだと思おう。
父は気質の悪影響に関して、変わりはしないものの人生を歩むに連れうまく気質の影響と距離をとって軽減し制御することができるようになるとも言っていた。
きっとそうで、うまくやっていく余地がある、気づいたからにはうまくやっていけるものなのだと思う。『というか、そう思わないとやってられない。そう思わないとやってられないというのは悲しいことだけど、そう思わないとやってられないことに一つ気づけて明示できたのはいいことだと思う。』 というか、そう思わないとやってられない。……
このように『』内を繋げることで、そう思わないとやってられないとやってられないことを無限に明示できる。よってそう思わないとやってられない事象は無限に存在する。 ■
てな感じの証明でした、というのが今回のオチということでどうでしょうか。オチてるよね?いや、これはもう自分で言い切りますが、これは完全に綺麗にオチていますね。素晴らしい!
……そう思わないとやってられないですね。
(おわりです)