【連載】岩波文庫で読む 「感染症」第2回|パンデミック・シミュレーター カレル・チャペック『白い病』|山本貴光
過去に書かれた小説や戯曲に触れて、まったく他人事とは思えないことがある。カレル・チャペックの『白い病』(★1)は、つい最近、そうした物語になった例である。
★1――カレル・チャペック『白い病』(阿部賢一訳、岩波文庫赤774-3、2020)
カレル・チャペック(1890-1938)といえば、チェコの作家にしてジャーナリスト、あるいは批評家であり童話作家でもあった多彩な人。日本でも『ロボット(R. U. R.)』や『山椒魚戦争』(★2)をはじめ、多くの小説や戯曲やエッセイが翻訳されている。『園芸家の一年』や『ダーシェンカあるいは子犬の生活』で好きになったという人もあるだろう(★3)。
★2――『ロボット(R. U. R.)』(千野栄一訳、岩波文庫赤774-2)、『山椒魚戦争』(栗栖継訳、岩波文庫赤774-1)。
★3――翻訳は『園芸家の一年』(飯島周訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2015)、『ダーシェンカあるいは子犬の生活』(飯島周訳、『犬と猫』所収、恒文社、1996)他。その生涯については、チャペック作品を多く訳した飯島周による『カレル・チャペック――小さな国の大きな作家』(平凡社新書798、平凡社、2015)が便利。
『白い病』が発表されたのは1937年というから、かれこれ80年以上前の戯曲だ。黒死病ならぬ「白い病」のパンデミックに見舞われた世界が舞台だ(★4)。
★4――ちなみに黒死病はペストのことで、英語ではプラーグ(plague)という。そして「ホワイト・プラーグ」といえば結核のこと。ただし、チャペックの「白い病」は結核ではない。
その冒頭、ヨーロッパのとある大学病院に勤めるジーゲリウス教授という人物が登場する。彼は枢密顧問官という身分でもあるらしく、役名もそのように記される。この枢密顧問官は、取材にやってきた記者にどんな病気かを説明する。
かいつまんでおくとこんな具合。病原体は正体不明であり、とてつもないスピードで人から人へと広がっている。感染すると皮膚に白い小さな斑点ができる。これが「白い病」という由来。ただし患部には感覚がないので、気づかないまま暮らす人もいる。そして三カ月から五カ月後には、全身の敗血症で死に至る。この病は、中国のペイピンでチェン博士という人物がはじめて記録したことから「チェン氏病」と呼ばれる。
そしてこれが肝心なところなのだが、チェン氏病に感染するのは、45歳とか50歳以上の人間に限られるらしい。これを聞いた記者はこんなふうに感想を漏らす。
記者 それは、たいへん興味深い。
この何気ない言葉を、枢密顧問官は見逃さない。
枢密顧問官 そう思うかい? 君は何歳だね?
記者 三十です。
枢密顧問官 なるほど。もうすこし年齢が上なら「興味深い」とは思わないだろう。
(前掲書、17ページ)
これは『白い病』全体を通じて突きつけられる人間のあり方を、さりげなく、しかし後にして思えば予告するようなやりとりだ。
なるほど同じ病でも、人はそれぞれそのときの自分の状態に応じて異なる印象をもつものだ。加えて言えば、いまの自分と別の状態を想像するのは難しい。例えば、健康なときに熱を出して寝込んだ状態を想像したり、10代の人が60代の人の状態を、あるいは逆に60代の人が10代の人の状態を想像したりするのは簡単なことではない。
この記者にとって、45歳や50歳以上の人しかかからない病気は「たいへん興味深い」と言って済む。言ってしまえば他人事だからだ(いまのところは)。彼が40歳ならどうか。自分も感染して死ぬ可能性があるとしたら、そう呑気に構えてもいられなくなるだろう。その場合、「たいへん興味深い」と言う代わりに「予防するにはどうしたらよいのですか」「感染した場合、どうすればいいのですか」と問いたくなるかもしれない。あるいは、無自覚のまま感染していないかどうか、普段自分の目に入らない背中や膝の裏などが気になってくるかもしれない。
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パンデミックの絶望的な状況に光が見える。ガレーン博士という人物が、チェン氏病の薬の開発に成功したというのだ(★5)。だが、大学病院で臨床実験をしたいと申し出るガレーン博士に、枢密顧問官はにべもない。そもそも外国出身のガレーン博士を受け入れるわけにはいかない、と言ってのける。先ほどは年齢の違いについて記者をたしなめた枢密顧問官が、今度は出身地にこだわりを見せて、木で鼻をくくるような態度に出る。
この期に及んでなにを言っているのか、そんなことより治療できる可能性のほうがよほど大事ではないか、と憤りを感じるところ。こんな状況であっても、人によって優先したい価値や守りたいものは違う。というのは、他ならぬ私たちが現在進行形で経験している最中である。
★5――ガレーン博士は、ギリシアのペルガモン出身というので、名前も含めて2世紀に活動した医学者ガレノスに重なる。外国出身者は受け入れられないという枢密顧問官の発言は25ページ。
結局のところ、枢密顧問官は、ガレーン博士に臨床実験の許可を与える。果たしてたしかにガレーン博士の薬で治療できるらしいことが分かる。そこへ持ち込まれるのは、この病にかかったさる高名な人物を治療できないかとの話。
このあたりから、チャペックの本領発揮というべきか、かみ合わない歯車の組み合わせから、それぞれの人が思いもしない運命が転がり始める。ガレーン博士は日頃、貧しい人を診る町医者であり、隣国に対して侵略戦争を始めようとしているこの国に危機感を抱いている。自分の従軍経験からしても、戦争が繰り返されるのを望まない。
そこで彼は一計を案じる。世界の指導者たちに、二度と戦争をしないと約束した場合にだけ、その国に治療薬を提供する。さもなければ、貧しい人たちだけを治療するつもりである、と条件を提示するのだ。
単純化すれば、「病を治して生きるか、戦争で死ぬか」という選択である。パンデミックを放っておけば、死者は増え続ける。その上戦争をすれば、さらに多くの人が死ぬだろう。もし人間が、できれば平和で健康に暮らしたいと願い、将来について冷静に考えて行動を選べる生き物であるなら、この戯曲も早々にハッピーエンドに至るはず。
この先、話がどのように進むかは、未読の読者の楽しみのために触れずにおこう。ここで注目しておきたいのは、病の治療、平和な暮らしといった価値が、戦争や経済といった別の価値と対立している構図である。皮肉なことにガレーン博士が提示した「平和をめざすなら薬を提供する」という条件が、この対立を浮かび上がらせた。自分のメンツや利益を優先する人びとは、ガレーン博士の提案を一蹴するだろう。
厄介なのは、地位や資本をもち、他の人びとの運命に大きな影響をもちうる立場にあるのが、そのような人物だった場合だ。指導者がガレーン博士の条件を呑めば、少なくともこの国の人びとは「白い病」から立ち直れる。だが、彼らが別の価値を選ぶとしたらどうか。
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カレル・チャペックが巧みに描き出したこのような状況は、彼が置かれていた1930年代半ばのチェコスロヴァキア、ヒトラーが台頭していよいよ戦争へと至る前夜の状況を反映しているのだろう。
幸い戦争か治療かというジレンマこそないものの、パンデミックの押さえ込みと防疫にどうやら不熱心で、人の移動を促す施策を打ち、オリンピックの開催や他の事柄を優先する現在の日本政府や、トランプ大統領時代のアメリカ政府を見ていると、『白い病』を、想像力の欠けた愚かな政治家や経営者の話と笑って済ませるわけにもいかない。
「それは、たいへん興味深い」とコメントした記者がそうだったように、いまの自分とは別の状態や立場を想像するのは簡単ではない。だが、例えばこの『白い病』がそうであるように、私たちは小説や戯曲に触れて、いまの自分とは別の状態や立場の人間の考えや行動に触れることができる。
少し大袈裟に聞こえるかもしれないが、文芸とはそんなふうにして、他人の視点を疑似体験するシミュレーターでもあるのだ。想像のうえであれ視点を入れ替えてみると、ある立場から合理的に見えることも、別の立場から不合理に見えたりする。そこではじめて、互いにどう折り合いをつけられるかという検討もできるようになる。
では、もし『白い病』の結末を知った上で、その渦中に自分がいるとしたら、なにをできるだろうか。そんなふうに検討のきっかけを与えることもまた、よく設計されたシミュレーターに備わった働きだ。そのような意味で、カレル・チャペックは、実に優れたシミュレーターの設計者なのである。
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
コーエーでのゲーム開発を経て、文筆・翻訳、専門学校・大学での教育に携わる。立命館大学大学院講師を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。
著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)ほか。共著に『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満と共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川との共著、筑摩書房)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川との共著、太田出版)ほか。
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