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岩内町郷土館令和5年第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」④Activist(行動する人)下田豊松伝説

1916(大正5)年に、岩内東小学校の男子生徒500名を集め「岩内少年団」を結成した豊松。陸軍中尉であったこともあり、やはり最初の活動は軍隊式であったと思われます。ラッパ隊を先頭にした行進訓練や集団行動、キャンプ生活の体験など。そして、1923(大正12)年には、岩内港に寄港した軍艦「春日」に乗船、見学会を実施しています。

1923(大正12)年7月、軍艦「春日」に乗船した下田豊松(中央)と岩内少年団

少年たちに囲まれた、豊松の笑顔が印象的な一枚です。大正13年には、旭川少年団も加わり、軍艦「日進」に乗船見学。この年、豊松はシースカウト(海洋少年団)の原型となった「海拓少年団」を岩内で創設します。

「日本健児団主催 北海道ジャンボリー」の様子
皇太子殿下(昭和天皇)ご親閲奉迎の様子
皇太子殿下が、少年団の宿泊施設となった陸軍第25連隊の官舎をご親閲された様子

1922(大正11)年7月、下田豊松は日本健児団主催として、北海道ジャンボリーを開催します。会場となったのは、札幌の陸軍第25連隊です。少年団の団員たちは、連隊の兵士たちと一緒に炊事をし、兵舎で宿泊をしました。この時、大会では皇太子殿下(のちの昭和天皇)を奉迎し、全道各地から少年団が集結、その活動の成果を披露しました。


海拓少年団発団式 岩内港のはしけの上で開催された。

ロンドンの国際会議に参加し、帰国してからの豊松は、日本の少年団組織を創設するための活動に奔走します。全国各地をめぐって講演し、少年団組織創設の必要性を広く知らしめます。同時に、当時の名士といわれる実業家、軍人、文化人らの署名を集め、協力者をつのります。少年団の設立要綱や徽章(シンボルマーク)を考案、制定し、国際事務局に登録。「日本健児団」としての事務所を設置、世界各国少年団からの通信の窓口となり、次の第二回世界ジャンボリー(1924年デンマーク開催)のinvitation(招待状)も、豊松の元へ届いていました。先の第一回大会の時豊松は、ベーデン・パウエル総長と、次の第二回は、日本から多くの参加者を連れてくるように約束をしていたのです。

豊松が集めた、各業界の名士の「少年団創設賛同」の署名


豊松考案の「日本健児団徽章」。日本の三種の神器「剣、勾玉、鏡」を模している。


1922(大正11)年、豊松の活動とほぼ時を同じくして、全国少年団大会が静岡において開催されます。そして新しく「少年団日本連盟」が、後藤新平伯爵を総裁にかかげ発足。豊松は「少年団日本連盟評議員」として名前を連ねることとなりました。

ここから、豊松にとっては思いもよらぬ流れとなり、次第に豊松は少年団の活動から離れて行きます。

第一回世界ジャンボリーに参加し、ベーデン・パウエルに「日本のチーフスカウト」と呼ばれ、「日本健児団」を創設した豊松のそれまでの歩みは、新しい組織の中で顧みられることはなかったのでした。
(つづく)

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