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岩内町郷土館令和5年第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」③Activist(行動する人)下田豊松伝説


1902(明治35)年3月 岩内尋常高等小学校 第十回生卒業式


下田豊松。病気がちで休学する時期もあったが、担任であった久吉正輝訓導の支えと励ましにより無事に卒業し、函館商業学校に進学。「精神修養にこころがけ、確乎不抜の精神でやり通せば必ず成功する」と書かれた久吉訓導の手紙を、豊松は生涯大切に保管していた。

下田豊松は生まれつき身体が弱く、学業にも躓くような子供でしたが、担任であった立派な教育者の支えがあり、良い成績を残して学校を卒業しました。

また、豊松の下には喜久三との間に一人、16才の若さで病死した成吉という弟がいました。

明治40年3月25日発行の「岩内新報」という新聞に、その成吉の記事が載っています。この新聞記事は、下田豊松の資料がまとめられたファイルケースの、一番最初のページに収納されていました。


「岩内新報 明治40年3月25日」

〇感心なる少年(抜粋、読下し)
「当町高台町に居住する、下田成吉(16)という若者、優等生にして岩内の学校を卒業し、昨年函館中学校に入学したが、病魔の襲うところとなり岩内へ帰り、治療をしていたのだが、去る3月20日薬石の効果なく、左のような一言を遺言して亡くなった」

「成吉は絶命の間際に、両親に『私は岩内での在学中にひとかたならぬ諸先生方の厚意を受け、ゆえに中学まで進学できることとなったのは、師恩というものです。しかし不幸にも学半ばにして、病に倒れてしまった。もはや恢復の見込みもなければ、自分の死去の後は私の貯金二十円を当地の学校に寄付して欲しい』と遺言した。そこで両親はその遺言通りに、成吉の死後彼の貯金すべてを、岩内の学校へ寄付した」


「下田喜久三小伝」より、大正6年頃の下田四兄弟。この三年後に豊松はボーイスカウト国際大会のため渡英する。

岩内の下田家四兄弟は、四人とも、それぞれに大きな功績を残した方々ですが、豊松と喜久三の間にはもう一人の兄弟、それも大変優秀で、志の高い成吉という兄弟がいました。

明治40年、豊松20才、喜久三12才の頃。彼らは我が弟、そして兄の死を、どう受け止め、心に刻んだのでしょう。
後に豊松は少年団(ボーイスカウト)の活動に力を注ぎ、喜久三は国産アスパラガス事業の傍ら「北海道婦女実務学寮」を開設、女子教育に熱心に取り組みます。
若い世代、青少年の育成と教育が、故郷岩内や、ひいては日本のために、重要であるということ。下田兄弟は、強くそれを感じていたのではないか。そしてその理想の為に、一貫して行動したのではないか。

岩内の教育風土と、身近な人々によって培われた精神性によって、彼らの功績は歴史に残る、大きなものとなっていきました。(つづく)


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