アメリカ村の看板婆さん〜日系カナダ人って知ってますか?〜
こんにちは、和歌山県美浜町三尾に1年1ヶ月住んでいた大学生イワナギです。去年8月から今年9月末までいた三尾の生活中に地域の人と話して
そんな三尾生活の中で三尾にある小さな博物館「カナダミュージアム」で僕は企画展をすることになり、現在も絶賛開催させてもらっています。
なぜそんな企画展をすることになったのか。なぜそもそも和歌山県美浜町の集落に飛び込んだら日系カナダ人の企画展につながるのか。日系カナダ人とはなんなのかを書き残そうと思います。
和歌山県美浜町三尾、通称「アメリカ村」
和歌山県美浜町三尾、人口五百人ほどの小さな海辺の村ですが、この村には不思議なあだ名がつけられています。その名も「アメリカ村」
村の真ん中のバス停にも名付けられ、「和歌山のアメリカ村」というと和歌山県民は中学校で教わったような気がすると思いあたりがあるぐらいの知名度です。
一見、何の変哲も無い小さな寂れた漁村、そんな三尾が「アメリカ村」と呼ばれるようになったのはその歴史に理由があります。
きっかけは1888年、明治維新が起こってしばらく経った頃に三尾出身の1人の男が横浜から船に乗ろうとしていた。その名は工野儀兵衛、大工の息子として生まれた工野儀兵衛は宮大工になったり、村の発展に尽力していたが、紆余曲折あって横浜にいた従兄弟から聞いた話からカナダ行きを決意した。
その従兄弟は外国船籍の船員で、カナダ移民の可能性を儀兵衛に語っていたのだ。
カナダには大きな可能性がある。そう思ってカナダに渡った工野儀兵衛はバンクーバーについて刮目した。バンクーバーに流れる大河、フレーザー川に溢れん場からりの鮭が泳いでいるのだ。儀兵衛は祖国に送った手紙で三尾の親戚にこう書き記している、「フレザー川ではサーモンが溢れている。サーモンの上にサーモンが重なって泳いでおる…!」
それがきっかけで三尾からカナダのバンクーバーに多くの人が渡りました。
その数実に2000人以上と言われています。
三尾村で生まれた子供たちは、地元の中学校を出ると船に乗ってカナダへと向かいます。そこにいる父と母の元でサケ漁や、土方工事に従事しお金を稼ぎます(当時は為替が1ドル400円以上の時代なので肉体労働でも日本で働くよりはるかに稼げた)。
子供が産まれるとその子供を親戚伝いで三尾に返して教育を受けさせます。その子供がまた大人になって…を繰り返すことで三尾の人たちはカナダへと渡り出稼ぎで村を支えました。
帰国した折にはカナダからの食器やお菓子、洋服を着て帰ったので、大正年間で東京で洋服が流行り始めた頃にはアメリカ村の人たちは当たり前のように洋服を着こなしていたとも言われています。こうしていつしか「アメリカ村」と呼ばれる村になりました。
中津フデさんの誕生
さて、そんな三尾村で1890年にとある家で女児が生まれました。その名は中津フデ、10歳で小学校を卒業(当時は4年ぐらいで卒業する人が多かった)すると、大阪の料亭へ奉公に行かされました。12年ほど働いた22歳の時、地元三尾に戻り、当時としては遅めのお見合いをしました。
お見合いといっても席に相手の人はいません。なぜなら、カナダでサケ漁師として働いているからです。
顔も見たこともない、話したこともない旦那さんに嫁ぐためカナダに赴き、キャンプで働き、旦那を亡くし、女で1人で息子を育てた、まさにカナダ移民の良い面も悪い面も全部味わったのが中津フデさんの一生でした。
息子も1人はカナダに渡り、戦時中の強制収容を経験している。もう1人は日本に留まり、陸軍としてシベリアで抑留されていた。
カナダ移民は、初期はアジア人への排斥と差別が酷かった。そんな中でカナダで戦前まで女で一つで生き抜いた中津フデさんの一生、そしてその家族の記録は、まさにカナダ移民の歴史を体現しているのだ
企画展「中津フデ展」へ。
そんな中津フデさんの記憶、記録は令和の現在ほぼ痕跡なく消え去っていました。親族は全て三尾から去っていて、三尾に住まう人で中津フデさんは「昔用テレビに出てた人」以上の記憶は無くなっていました。
そんな中で、地元の人と聞き取りをするにつけて「カナダ移民で昔テレビに出てたどもなり(どうにもならんほど勝気な、の意)おばさん、中津フデ」の話を多くの人から聞きました。多くの人たちの記憶に僅かに残りながらも展示資料には残されていない中津フデさん。こうして、中津フデさんの人生をまとめて、企画展にするというアイデアは生まれました。
ありがたいことに、僕が三尾に滞在している間にお話しさせていただいていたおじさん、おばちゃんのツテで、中津フデさんと遠縁の親類のおばちゃんにあたる方にお話を伺うことができました。本当に人伝いで繋がっていく経過が、僕がここにいられたからこそのものだと思い、それだけでも涙腺が刺激されました。そしてその後、多くの中津フデさんに関わる人たちとお話しすることが叶いました。
多くの人の支えで成り立った展示
この企画展はひとえに、地元の方々のありがたいご助力のおかけです。聞き取りに協力していただいた地元のおっちゃん、おばちゃん、中津フデさんのお孫さんを紹介してくれるなど協力していただいたおばちゃん。企画展準備にあたって、粉骨砕身の勢いで僕を支えてくれたおびちゃん、そして、そんなこんなで本業をおざなりにしながらも叱責あれど支えてくれた居候先のゲストハウスのオーナー。多くの人の支え合って初めて成立した企画展でした。
制作にあたって、中津フデさんの一生を書き残し、自費出版という形で世に遺していただいた小山茂春先生、そしてその資料を後世に残した小山祐一さんにはお世話になりました。祐一さんが不在の中で資料庫を開けていただいた寺西先生、そのおかげで、小山茂春先生が遺された「アメリカ村の看板婆さん〜ある女性の数奇な人生を通じてみるカナダ移民」に辿り着くことができました。
小山茂春先生の「看板婆さん」の本をベースにしながら、聞き取り調査から明らかになったこと、お孫さんへの電話での取材にてお話しいただいたエピソードを含めることで、人生について網羅性があり、エピソード豊かな展示になりました。
直接の親類である、中津フデさんのお孫さんで日本在住でいらっしゃるのはお二人だった、1人は神奈川、もう1人は大阪にいらっしゃった。お電話でお話を伺い、小山茂春先生の本や、地元の方の聞き取りではわからなかった中津フデさんの家族への想いについて、お話を伺えました。
先述したように中津フデさんの一生はカナダ移民の歴史の多くの部分を代表しており、中津フデさんの一生を通じてしるカナダ移民の歴史は今のアイデンティティとしての日本人が当たり前になりつつある僕らに、かつての苦難や葛藤を自分の身に起こったことのように伝えてくれています。
最後に、日系カナダ人って知ってますか?
カナダに12万人いると言われている日系カナダ人。その歴史は多くの人の努力と、今までになかった挑戦で成り立ったものです。そして、日系人への差別、戦時中の強制収用、戦後にその補償が長らく無視されていたことなど、様々な苦難や出来事を乗り越えて成りだっているものです。
日本人が知らない裏で、日本人はカナダにてそれだけの歴史を積み重ねています。
しかし、現在の日本で日系人の歴史を学ぶことはありません。日本で本当に学ぶべき歴史は、日本の歴史、世界の歴史も当然ながら
「日本人が世界にはばたいた歴史」
ではないでしょうか?
ぜひ皆さんも、和歌山県美浜町三尾のカナダミュージアムにて、中津フデさんの人生、日系カナダ人の歴史を知ってほしいと切に願います。