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エヴァンゲリオン 〜大人と子供の統合〜



「なんなんよコレ。。」

当時エヴァンゲリオンを見た人たち
の感想はこんな感じだと思う。

アダムやらエヴァ(イヴ)やら
リリスやら出てきて
設定の流れが謎すぎ
理解できる可能性皆無のなか

物語は終わりを告げた。

そして映画によって、
2度伏線が回収されたに見えたが、
「はいー?!」みたいな部分も
多かったと思う

大人になったんやな、、
無事に、、
という部分はなんとなく
理解されてるけども。


旧約聖書(ユダヤ教)やら
新約聖書(キリスト教)やら
出てきてる感じだし、

死海文書(死海で発見された旧約聖書のやつ)
などをもとに大きなストーリーは
すすんでく

旧約聖書てなんやねん
ってとこがわからないと
意味不明なとこも多く

しかし、それを子どもたちに
伝えられるわけもなく、
色々混在したなにかがぶつけられた
感じだった。

個人的には、
もはや監督が前世、
ユダヤ教関係者のだったのだろうかと
疑うほど、

日本人に親しみのないワードの
オンパレードである

知らないエレクトリカルパレードに
投げ込まれたかのようだった


現実で言えば、
旧約聖書の最も深い理解は、
ユダヤの密教が深く理解している
とも言われる。

その深い理解は、
知識では理解不能と言われており、
真の理解には「神との直接接触」という
わけのわからない領域となる

知識で理解できる部分で言えば、

ヒトが
アダムとイヴ(エヴァ)という
人間と呼ばれる前に

楽園を追い出されており
そこでは肉体を纏っていなかった

さらに還元すれば、
アダムカドモン(光の巨人)という
宇宙を巨大なヒト(ガタ)にみたてたような
ものになり

その密教徒たちは、
アダムカドモンと一体化することを目指し、
修行を目指したらしい。


もし仮に、前世で
この密教(ユダヤ教のカバラ)に
参加していたとして

そこから物語の根幹を
見てみれば

ほぼ知られていないが、
まず、生命の木は四つあり
4体のアダムがいる

これは、どこかで見たり
聞いたかのような
ストーリーだ

4体のアダムは、
別のものというか、
アダムカドモンの別の層を
意味してると思ってもいいかもしれない。

物理的なアダム
魂的なアダム
霊的なアダム
神的なアダム

である。

それぞれの世界を
浄化的にかけあがることで、
アダムカドモン(光の巨人)との
合一を目指すということだ。

まさにゼーレが目指すような
方向性だ。

それは
人類補完計画という名前で呼ばれる
死海文書(旧約聖書)に則った
進化であり、その流れがある。

しかし、本作
エヴァンゲリオンでは

これに、

意を唱えるゼ!
なぜならナウシカの最後も
ここに挑んでたからなぁ!
みたいな心意気を感じる

つまり、既存の神話が
進んでるんだけども、
主人公が選ぶんだぜ!
ネオンジェネシス(新世紀)を!
と言った次第。


一方で、
子どもが葛藤を乗り越えて
大人に成長する
ストーリーであります

という大人側と
子供側の感じが
織り込まれてる気がする。

ここであり得ない見方だけれども、
逆に、ユダヤ教の密教(カバラ)的に見ると

大人と子どもは、
生命の木の上半分と下半分と
見えるかもしれない

左:OPの生命の木  右:元ネタの生命の木。


生命の木は、
10(11)の玉から出来ており、
というか見立てられており

1番上にエヴァで言えば
白の月(アダム生まれ、アダムが使徒産む)と
黒の月(リリスが生まれ、後のヒトになる)
が合体したかのような

半分黒と半分白が
統合された円があります。

エヴァでいえば、
知恵あるけど寿命あるヒト(リリン)と、
知恵ないけど寿命無限のアダムがいて

ヒトがアダムの領域に近づくことで
ヤバいから、一回還元して
ピュアピュアかつ進化したものにしよう!

ということかもしれません。


しかし ここで
あえて カバラ(ユダヤ教の密教)
から見てみます

さきに断っておきますが
エヴァの物語ではなく
あえて一方的にカバラ的な見方で
見た場合です。

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さっきの生命の木ですが、
大人を生命の木の上半分、
子どもを生命の木の下半分に
見たてます。

その真ん中は、
ちょうど真ん中にある球で
大人と子供の接合点と
見えるかもしれません。

大人と子供を受け入れた場所と
みてもいいのかもしれない。

ぼくらもいつしか、
大人と子供の部分を
過ぎ去って現在そうである
ジブンを生きてるかもしれません。

それは
ちょうどいい塩梅かもしれず

理性的さもあり、
無邪気さや大胆さもあるのかもしれない

私たちは、
何か成長しており
肉体だけでなく
精神もそうかもしれません

シンジくんは、
子供のまま、大人の世界になり
わけわからず

その後、最後は、大人の世界を
価値を見つけてイキイキと走り出します

誰もが通る
子どもの部分と、
大人の部分

(もしかしたら、
大人の部分を拒絶し、
子どもの部分のまま拒否的に
生きてる人もいるかもです)

子供の精神を通過し、
大人の精神を通過し、
死んでいきます。

実は、カバラでは、
探究に入るにおいて、
大人の成熟した精神が
必要であるとも言われており

2つを通りつつある人への
指南書としてあったという
見方もできます

子供と大人の部分を統合して、
安定した座を持つ者が
道を進むと見ることもできます

それは、次なる領域への
指南書としてはるか昔より
あったのだと思います

エヴァでも
たまたま

子どもの葛藤から
大人への成長、
現実への向かい合い

を助ける表現が
されてたと見るとどうですか??

エヴァでなくても
世界中で自然に起こります

子供から成長し、
大人になり受け入れて
安定した座を持つ。

それは、カバラで言えば
安定した座であり
神的な(カバラ的な)の探究に入る人たち
の始まり としても
見ることができます

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ここまでは、
エヴァではなく、
あくまでもカバラ的な見方から
一方的に見た場合です。


しかし、面白いのは
本作としてのエヴァは、
立場としては、絶対的に
こういうものを拒絶する

つまり、そういった
決まってるかのような
進化の流れではなく

それに頼らず
オリジナルの槍を持って
新しい世紀
新世紀、
ネオンジェネシスを作り出す

という人類の意志(will)を
象徴しているからです


しかし、逆に面白いのは、
世界中の仏教や、キリスト教、ユダヤ教密教
の中で、共通というか
似たニュアンスのテーマがあり

歴史上、宗教でもないのに
似たことを体験した神秘家がおり
彼らが微かな痕跡を残しており

それは、洗脳的教えというより
むしろ、、
人間を引で見た時に見える
人間の運動法則のようなもの
だったと考えてみます。

それは、強制的ではなく
ヒトは、肉体が全てだと思ってるけど
その肉体に入ってる、この意識は
どこから来たん??

ジブンだと思うこのジブンは
赤ちゃんのどの時に
固まってきたのだろう?

そして、それは
ジブンとして握りしめてきたけど

誰かが言ったことを
ジブンとしてきたけど

これ実は、最初は
フレキシブルやったんやない?

赤ちゃんに戻って
あなたを違う国の誰かの家に
預けたら

あなたはその家の個性として
生きてたんやない?

ということは、
このジブンって思ってるものに
ジブンは成ったんだけども

後天的に握りしめたものを
まさしく私だ!と思ってしまった
部分もあるんやなかろうか。

そして、
握りしめる前はなんやねん!

って部分を根元まで
思想ではなく、実体験的に
たどり着いのが
ブッダかもしれません。

それは、西洋的に言えば
神聖なもの と
ヒト を隔てていたものが
ふたたび融合する瞬間だったのかもしれない

実は、これに似たことを
最初の旧約聖書
あるいはカバラの洞察は
これを書き留めたのかもしれない


だから、硬くて、融通きかない
教えではなく

「えっ、ちょ、まじ、
こんな体験したんだけど!!!」

から学ばれた
人間メモとして
見れるかもしれない


おそらく、エヴァでは神話として
拒絶され、これまでの神話としての
神ゴロシがあり

真の神話を、
現代の人の手でつくる
という部分に
テーマが当たっていたけれど

確かに今日の宗教として
固まり、融通の聞かない神話に
なっている、あるいは曲解されてた
かもしれないけども

もともとから
ネオンジェネシスは、
起こったのかもしれない

そして、
西洋の体系においてそれは
おそらくカバラとしてまとめられ

子供から大人への成長を経た
仕事をもっている、つまり
精神的に安定している座を持つ
人間に教えられたわけです


面白いのは、
エヴァが絶対そうだ!
ということでなく

人類の基礎的な部分の
人間あるある において

肉体にたどってる
魂があるとして

これどうなん?を突き詰めたときに

超宗派的に
超宗教的に

「おれ、こんな体験したんやけど」

の総まとめ集が
ブッダの悟り としてあるのかもしれないし

だったら、
これが必要やない?っていう
構造から迫る西洋的見方があり、

エヴァのもたらした動きは、
このなんらかの目覚め?的な部分において
知ってか知らずか

この基礎的部分を
共有していた と見ることもできたり
するわけです

宗教的な神話を否定しながらも
歴代の宗教的神話を否定した
神秘家たちと同じように

暖かいなにかの
働きかけをしているようにも
見えるということです


実はこれは、
西洋の哲学を辿ると現れる
ヘーゲルが影響されたベーメにも
内包されており

東洋の哲学を辿ると現れる
ブッダのなかにも見て取れることで

ひょっとしたら
エヴァ抜きで
人類的に、なんらかの意識の
進化がこれまでもあり

野蛮さMAXのところから
だんだんと知性的になり
このさきへと進む
無限の旅の一部かもしれません。


なにが言いたいかといえば、
既存の神話を否定するなかで
人類の新しい世紀を描いた作品の中に

カバラ的な観点から
そして、かつ中立な立場でみたときに

人類史に影響を与えた力として
不思議な一致がみられんことも
ないということです

宗教や作品を超えて
引きで見ると、

実は、似ているような
「はたらきかけ」が

本人たちの認識を超えて
そこにあるようにも
見えるということです

(それは、聞きかじりの
西洋哲学ではなく

哲学の本流に現れた
謎の人物、ヤコブベーメ

日本哲学で言えば
西田幾多郎

さらに、ブッダ、
キリスト

などにみられる
人間あるある としての部分が

何か目指そうとした
これからの人類の暴走を防ぐような
指南書としての色合いを
健全に指摘しているようにも見える
・・・かもネ!笑)


■個人的に調べてまとめたやつ⬇️

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