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寒おこし日記|2日目(三浦)

 はじめまして。
 三浦雨林と申します。演出家です。
 1月8日から1月18日まで、新潟県の岩室温泉にて実施されている『岩室AIRプロジェクト2024』に参加させていただいています。 

 自分たちについてと、1日目の日記は宮本が美しく書いてくれているので、こちらの記事をご覧ください。
 noteは毎日書くつもりでしたが、これを書いている今、既に1月15日です。毎日毎時間が濃密すぎて書く時間がどこにもない!という言い訳だけさせてください。
 日記ってなんだ?


2日目

 年始、渋谷でとあるドキュメンタリー映画を見た。
 監督が20年間、自身の家族を撮り続けた作品だった。
 冒頭で「原因を解明する目的でも、説明するつもりでもない」という旨のテキストが提示されて、あぁ、この監督は自分のための作品をつくったんだ、と思った。
 映画を見ている最中、私は同時に自分の記憶が見えていた。自分自身で固く封印していた記憶がひとつひとつ紐解かれるような時間で、境遇も状況も全く違い、共通項もほとんどないのに何故かスクリーンの中の光景が自分の記憶にリンクする。共感というより、共鳴だった。
 どうしても自分事になってしまって、見終わった後も全く切り替えられず、くら寿司 渋谷駅前店で号泣しながらサーモンを食べまくった。不思議なことに、泣いているけれど嫌な気持ちではなくて、なんだか「辛かったよね」と遠くにいる過去の自分を見ているような気持ちだった。

 時折、過去の怒りや悲しみを思い出して、目の前のことを冷静に判断出来なくなる時がある。それらの出来事はもう全て過去になっていて、思い出すたびに記憶の輪郭はぼんやりしていくけれど、相反して気持ちの輪郭はハッキリしていく。沸き立つ気持ちは怒りや悲しみからだんだんと"許せなさ"に集約されていく。
 繰り返し思い出してしまうのは、解決していないからだと思う。でももう解決しようがない。起きてしまったことは仕方がなくて、消えない。だからそれら自身と、それらを思い出してしまう自分をどう引き受けるか。
 渦中にいるから感情が波立ってしまうわけで、客観視することによってそれら過去の出来事や、繰り返し狼狽えてしまう(しまった)自分を受容するための行為としての"許し"が可能になるんじゃないか。それはある地点で主体的に"許す"判断がされるというわけではなく、許せなさから地続きで"許した"状態になる。

 渋谷で見たドキュメンタリー作品の監督は、まず何かを許したい(あるいは受容したい)が為に作品にしたんじゃないかと思った。そしてそんな作品が鏡になって私は勝手に私自身を客観視していた。
 作品には、"自分"を他者化させる力がある。
 作品づくりは、時にアーティストの祈りの行為でもある。
 でもそれは、特別な行為ではなくて、アーティストにとっての作品のように、実はみんなそれぞれの方法を持っているんだと思う。
 この数日、岩室シェアハウスとも家の仲間たちの話をたくさん聞いて、おそらくここで営まれる行為のいくつかも、何かを客観視するために、あるいは何かの祈りのために行われていると思った。動機があって、理由があって、強い信念があって、きちんと選択されて行われている。

 新潟に(岩室温泉に)到着した翌日、家で飼っていた鶏を捌いてくれた。
 私たちも手伝って、たべた。
 死んだ後の暖かさとか、背中にある恐竜みたいな骨とか、内臓の美しさとか、忘れないように動画にしました。
 以下はその記録です。youtubeに飛びます。

https://youtu.be/eJeuUtP61rg?si=ZBDBCm4tpkdtv0hu

 今回、我々は「居るってなんだろう?」という大きな問いを抱えて新潟に来ました。これまで4年間活動してきて、結局立ち返ってきてしまった問いですが、上記の動画を編集している時、「これこそがヒントかもしれない」と思いました。つまり、"居た"ことを通して"居る"ことがわかるかもしれない。
 というわけで、今回の滞在では日々の記録動画を作ってみようと思います。うす!


三浦

「寿司」に「スシ」とルビが振ってある小説の一文。
「寿司」に「スシ」ルビが振ってある、最近読んだ小説の一部



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